陰湿と笑
緊張、とはこの事だ。今まで感じた事が無い程に、圧迫感があった。帰りたい、と魯粛は思った。
「それで」
酒杯を手に、質素な椅子に座った劉備が、顎を動かして続きを促す。
「はあ、それで、そちらの軍師の意見を伺いたいものと、我々は思いまして」
「聞いておったな、孔明」
孔明が、黙ったまま頷いた。その口元に浮かべた笑みは、何を意味するのかは不明だったが、笑みを見ていると磔の前に立たされている様な気分になる。
直ぐ側、直立した孔明が、魯粛と劉備の話を聞いている。その顔は微動だにしない。だが、その表情を見ずとも、魯粛という人柄を見定めているのは確実だった。
ここで気圧される訳にはいくまい、と魯粛も敢えて怯えを見せずに振る舞ってはいた。が、声は嘘をついていなかった。
「孔明先生。何か、策はおありでしょうか」
声がどうにも、哀願か何かをしている様な調子だった。
「貴方がたには、策は無いのでしょうか。周瑜がいるのでしょう。それとも、周瑜は唯の阿呆でしたか」
「それは、私はまだ何も聞いておりません。聞けばあるのかもしれませんが」
周瑜には大分、会っていなかった。もしかしたら何処かですれ違ってはいるかもしれないが、魯粛自身は気付いていなかった。周瑜ならば、策は思いついているかもしれないが、現状がこれであり、周瑜の意見がどうのと言える立場に無かった。
孔明は微動だにしない。最初から、この答えを想定して聞いたのかもしれなかった。
「して、貴方はどちらを支持しますか。犬になって無様な生き様を晒すのか、大人しく血に沈むか」
話しながら、孔明の口元が歪んでいくのが、見えた。試しているのか、馬鹿にしているのか、面白がっているのか。そのどれもを含んだ様な物言いに魯粛は内心怒りを感じたが、ここは使者として、と平静を貫く。
「私は、抗戦を主張しようと思います。確かに、曹操は万の兵で我々を潰そうとしてきています、ですが、我等は誇り高き孫呉、そんなものに屈する訳にはいきませぬ。」
孔明は黙って聞いていた。が、ややあって、口を開いた。
「誇りで戦いますか。格好がつけやすいだけの、安い動機で」
「ですが、その安い動機こそが、最も兵に浸透しやすく、最も士気を高める。安易な動機こそが、人の意志を操作できるのです」
「全てが全て、それで靡くものでは無いですがね。が、檄文、号令などという下らない物で、人間は簡単に洗脳される。そうして人間は殺された。はて、最期に思う事は何事か」
孔明が笑っている。死んでいった人間を、嘲笑っている様にも見え、不思議と気分が悪くなった。
自身もその例から外れていないと、内心ではよく理解していても、気分が悪くなるものは悪くなる。
真理への嫌悪か、はたまた違うと自分は言い切れるのか、魯粛はそこまで考えようとは思えなかった。
「もうよい、下らぬ言い争いは飽きた」
その発言は、劉備であった。発言とは裏腹に、その顔は、魯粛と孔明の話を楽しんでいるように見える。それ以上声を出す事は無かったが、何を言わんとしているかは想像がついていた。だが、良いのか悪いのか魯粛には判断がつけられず、声も出ない。雰囲気に押され、自身の思考が凍りかけている事に、内心怒りを感じずにはいられず、どこかの木にでも頭を打ち付けたい衝動に駆られた。
「さて、かくなる上は、私めが呉へ赴き、孫権を説得し、周瑜と共に曹操兵を殲滅しようと思いますが、劉備殿、お許し頂けますか」
殲滅。その言葉に、寒気を感じた。
「孔明先生」
孔明が、呉へと。魯粛の脳内で、警鐘が確かに鳴った。曹操より恐ろしい、何かが起きるやもしれぬ。誰かが、魯粛の背で囁いている。
「呉へ、貴方が連れて行くのですよ」
そういう孔明には、何かが含まれている様に感じた。得体の知れぬ、恐ろしい何かが。
だが、断る事はできなかった。孔明の視線は魯粛ではなく、魯粛の内に秘める恐怖へと向けられていたからだった。
「良いですね。では、行きましょう。貴方の、死地にね」
孔明はそう言い残し、一足先に出ていった。
廻りだした縁は止まらぬ。
魯粛は諦め、孔明の後を追った。




