紅き水
「名目上は負けた、という事で良いんだよな」
「名目上も何も、完全敗北だろ。民は虐殺され、血の道が出来た。張飛が食い止めたから数としてはまだいいものの、食い止めなかったらどうなっていた事やら」
長坂橋の件は、直ぐに呉へと伝わった。その後、上手く逃げ切った劉備は陶謙と結び、曹操軍を散々に追い散らした事も、伝わっている。
「この後どうなると思う、太史慈」
「知らん。だが、今は江夏にいるんだろう。曹操軍も戦の準備をしている。恐らくまた戦だろう」
孫権は日和見を決め込むのだろうか、と太史慈は思った。それか、この機に乗じてどちらかに付くか。曹操か、劉備か、どちらの色に染まるのか。何にせよ、そうなれば、ここで孫権の目が試される。生と死、どちらかに呉を導く事になる。
戦なあ、と呟いた蒋欽は、そのまま仰向けに寝転がった。雨上がりの大地は、土臭い匂いを放っている。
天は晴れている。生温い風が、服の隙間から入り込んで来た。
戦。
生きる意味。
暇になると、そんな事を考える日が増えて来た。雑念ではあるのだが、この雑念だけは、斬り捨てようとは思わない。寧ろ、自身の存在の証として、死ぬまで保存しておこうとすら、思える。それが数少ない存在価値なら、それで良い。
青い空は、全てを見透かす。だが、その存在に感情というものは無い。存在は存在するだけなのだ。
「全く、ぼんやりしちまうよな。何やってるんだろう俺、なんて思ったり」
蒋欽の呟きは、はっきりと聞こえていた。自負の念に駆られているようにも、現実を嘆いている様にも見えていた。
仕方のない事だ、とは思ったものの、口には出さずに目を閉じる。今、先は不透明だ。孫呉の危機、にもなり得る。
ふと見ると、見慣れぬ姿をした男が道を走っていた。この近辺は、宮殿への道ではあるが警戒態勢は緩い。だからこそ、怪しい人物でも軽く通り抜ける事が出来る。
その代わり宮殿は厳重な警戒態勢に置かれている。不審者は早々通さない厳しさで、下手をすれば殺される可能性さえある。
まあ、そこで尋問なり何なりされるだろう、と太史慈は見て見ぬ振りをした。関わるのは自分達ではない、宮殿の兵だ。
「ふう」
息を小さく吐く。あの男が少し気になっていた。時期も時期だ、同盟の使者だったりなんて事は無いのだろうか。だとしたらそれがこそこそ来るのには違和感があるが。調べようにも、下手に目をつけられては何を言われるか分かったものではない。
「どうしたんだ太史慈、ぼけっと林の方なんか見てさ」
蒋欽には、太史慈が林を眺めていると思えたようだ。横目で問いかけてくる。
「いや、先程の男が気になってな」
「そんな奴いたか」
蒋欽の声は嘘を付いているとは思えなかった。本気で驚いた様子で、周りを見回している。
「お前は見てなかったのだな。それで良いだろう」
「とは言われても、状況も状況じゃないか。普段よりやけに気になるよ。俺だってさ」
曹操と劉備、その二者の存在が気にかかるのは何も、太史慈だけでは無い。蒋欽、凌統、陸遜、呂蒙。その誰もが、出会う度に口にする。最近では、かつて黄祖の配下として剣を交えた甘寧も、今は部下ごと孫権の元に下り、水軍を率いる立場になっている。
父親を甘寧に殺された事から凌統とは一悶着あったのだが、何とか孫権が宥めたらしく、大事にはならなかった様ではある。だが、明らかに二者は対立していた。
というより、主に凌統が嫌悪感を露わにする。甘寧の方は割とあっさりしており、凌統相手でも普段通りの振る舞いだった。凌統を除く他の者とも上手くやっている。
言動は相変わらず首を傾げたくなるのだが。
「嫌だなあ」
ふと、蒋欽が不満気に呟いた。
「嫌か」
「ああ。俺は嫌だ。こういう緊迫感というか、なんというか、目の前に拷問具がある道を進まなければいけない、この状況が嫌だ」
「馬鹿を言うな。国が巨大化すれば、嫌でも針の上を渡らなければならない」
「針の上ならまだ良いよ」
蒋欽は不満気に呟いた。




