渇望
「あれ、やり合うんですか。そのつもりで来た訳じゃ無かったんですけども」
孫乾がわざとらしく手を前に出した。大体戦とかどうとか、そういうのは不得意なんですけど、と敢えて聞こえるように独り言を漏らす。
「なら、隣の奴は何の目的で連れてきたんだよ」
隣の奴、とは勿論関平の事である。やり合うつもりは無いなどと孫乾は言うが、隣の関平は既に剣を構えており、その表情や姿勢は、明らかにやる気だった。
冗談は考えて言え、交える気が無いなら剣を下ろせ、と言いかけたが、関平のやる気を削ぐ事へは、何となくではあるが罪悪感があった。何と言うか、夏侯惇等が滑稽だと思えて来る程こうも清々しい青年に、剣を下ろせ、やる気はない、などと言うのは如何にも意地悪で、突き放した態度の様に思えてくるのである。
とにかく、澄んだ目でこっちを見るな。罪悪感が表面化してくるだろうが。敵に対して、何故こうも罪悪感を感じねばならんのだ。
と喉元まで出かかったが、すんでの所で飲み込んだ。それを直接言うほど、夏侯惇の思考は澄んでいない。
「ああ、関平はいや、あの、お披露目みたいな事で連れてきたんですが。いやほら、実戦経験は少ないですし、貴方の様な名将も間近に見た事が無いので」
「そんな理由で敵陣の真ん中まで連れてきたってのか。酷だな、周りは全員曹操の手の者だぞ。生きて帰れる確率は低いと思うがね」
「貴方達こそ、それが言えますよ。何せあの石像を見逃しているのですから。ただで逃げる弱者では無いのですしね、あの方は」
改めて周囲を見る。ざわめきが、増していた。どうやら趙雲はただで退くつもりは無い様だ。せめて痛手を与えてから、と言った所だろう。
勿論曹操軍にも指揮する者はいる。こういう非常事態にこそ、その真価を発揮するのだが、まさかその指揮者が混乱して統率が乱れているなんて事は無いと思いたい。
「で、殺るのか殺らないのかどっちだ」
痺れを切らした夏侯淵が低い声で問う。落ち着け、と手で制すが、殺気が溢れ出ていた。
「拙者がお相手致す」
待ってましたとばかりに出てきたのは関平だった。相変わらず目が澄んでいる。しかし、濁りの無い武人など、あり得ないと思っていたのだが、こうも目の前に現実を突き付けられると自身の視野の狭さを改めて思い知らされるものだった。それとも、これから濁りに濁っていくのだろうか。
「もう、武人は相変わらず、対峙すれば睨み合いになるんだから」
孫乾が呆れ顔で言った。もう止める気は無い様だった。
「誰だ、あの男は」
丘の上、曹操が呟く。ここでは曹操の兵が見渡せる。普段ならば、いつも通りの光景に曹操の心はただ、満足だけを覚える。
が、今は状況が違っていた。曹操の陣の中、一人の男が閃光の軌道を持って秩序を乱している。悲鳴が聞こえ、怒声が響く。曹操がその男を見ているうち、郭嘉や徐晃、張遼を配下として迎えようとした時に似た様な、自身では表現の仕切れない煮えたぎるものが胸の奥から迫り上がって来ているのを感じた。
しかし、口から出た言葉は、冷え切った、乾いた声だった。
「あの男は」
調子が悪いままなのか、青ざめた顔の郭嘉が、額に手を翳して眺めている。やがて、一つ頷いた。
「恐らく、劉備の配下、趙雲でしょう。張飛に目が行くと踏んで、趙雲を背後に隠していたのか、それか独断で突っ込んで来たのか、はたまた」
「何にせよ敵陣に一人で突っ込むとは、思い切りが良いものだ」
曹操はその動きを注視する。敵に囲まれているにも関わらず、軽やかな動きで、障害物を切り捨てて行くかの様に敵を蹂躙していく。
見ているだけで、沸々と何かが煮えてゆく。怒りなどの負の感情のものでは無い。視界に映らない奥底、ふと、朱が舞った。
郭嘉がその変化に気が付いたか、一瞬だが曹操を見た。
曹操は元々、人に惚れやすいという質がある。これが良い方向に転べば良いのだが、悪い方向に転ぶ事も勿論、ある。
その性質が、ここで発動した。
「あの者を生け捕る事は出来るか」
「えっ」
隣にいた郭嘉が、驚いて曹操を見た。止めなさい、と目で訴える郭嘉に関わらず、曹操は声を上げた。
「誰か、あの男を生け捕って参れ。決して殺してはならぬ。配下に欲しい」
「止めなさい。あれは趙雲、虎程度を生け捕るのでは無いのです。それに、仮に捕まえたとて、我々の説得など聞く筈が無いでしょう。とにかく、無謀です」
郭嘉が慌てて説得に走る。だが、惚れ込み質の曹操は、その程度で聞く様な人間では無かった。
一度欲しいと思ったものは、極力貫こうとするのが曹操の癖の一つであった。だからこそ今の地位を掴めたのではあるが、こうして悪い方向に働くと無用な犠牲者を増やしたり、最悪自身の首を絞める事すらある。
ああ、と郭嘉は悲痛な声を上げた。やってしまった、の意だった。
趙雲の性格上、配下に加えるのは無理だという事は、大体お察しなのだが、今の曹操は欲故に盲目になっている。こうなると、郭嘉でも止められない。
あの趙雲が万一にも捕まろうものなら、その場で自害する様な気さえする。その程度なら、分かる筈だ。
「あいつを生け捕れとの命令だ。殺すな、とも」
「生け捕りだ」
「生け捕りだ」
たちまちの内に命令は広まってゆく。
それが、新しい合図だった。




