怒りと力
「挟撃だの何だのって、お前等本当に選ばないよな」
剣を弾く。甲高い音と共に、風が髪を切った。ただの風では無い。実際に、髪が地に舞った。
目の前には武人がいる。剣を振り上げようと、力でねじ伏せようとも、声一つ上げずに無表情のまま、此方の目を軽やかに欺く武人が。その身のこなしも、死人のような固まった表情も、人というより物を思わせ、幻覚と戦っているのでは無かろうか、そんな疑念を抱かせるものがあった。
こいつ、本当に生きているのか。
勿論、目の前で動き、剣を交錯させ、剣を眼前に染める、その事が間違いなく生きているという事を証明している。それでも拭えぬ違和感があるとは言え、生きているのだ。
ふと、一人がその男に気付いたらしく、叫んだ。
「趙雲だ」
その声で漸く周りの者も思い出したか、あっと声を上げる。
「趙雲だ」
「趙雲が出たぞ」
声には畏怖があった。趙雲なら知っている者は知っている。勿論、自身も知っている。実物は今ここで、初めて見た。
こんな寡黙で生きているのか死んでいるのか分からん奴が趙雲か。改めて顔を見る。やはり死んだ様な顔だった。目は隠れて見えないが、恐らく死んだ様な瞳をしている事ぐらいは、容易に想像がついた。
「趙雲。てめえかっ」
ふと、遠くから声がした。ほぼ死体と化した人の山を跨ぎ、馬が全速力で駆け寄ってくる。乗っていたのは、夏侯惇だった。
「夏侯惇」
「お前は引っ込んでろ。こいつはただの武人と思って対峙すると痛い目見るぜ」
夏侯惇が目の前で飛び降りた。石像か何かの物体を思わせる趙雲の前で、剣を抜く。
「引け、徐晃。お前もまあ腕は立つが、こいつ相手じゃ多分御陀仏だぞ」
何を言うんだ、と徐晃は言いかけたが、周りの者が身体を抑える。今は引こう、と口々に言っているのが聞こえた。
武人一人の目の前で逃げるのは、醜態を晒す事と同じだ。どうせならこのまま、と思ったが周りの者は夏侯惇の部下なのか、言うことを聞かない。
「く、分かった分かった。だから離してくれ」
ここは大人しく引いたほうが良いか、と脳内では判断できた。心が拒んでいるとはいえ、その程度の抑制なら慣れている。大人しく後退りし、そのまま走った。
「人の事言えないくせに」
対峙する夏侯惇の上から、別の声がした。同時に人が降ってくる。夏侯淵だった。趙雲を一瞥すると、夏侯惇へと目を向けた。
「袁紹の本陣で見事に討ち取られそうになった人間は誰だ」
「討ち取られそうになどなっていない」
「嘘つけ。吹き飛ばされて手足ばたつかせてたくせに」
手を腰に当て、突っかかるように言う。そんな夏侯淵など、あまり見た事がない。素直に答えようにも、裏があるようにしか思えなかった。
ふと、視界の端、趙雲が手に持っている、大刀を静かに構えた。夏侯惇も剣を構える。袁紹の一件、忘れてはいない。あの時剣を交えたが、異様な身のこなしに翻弄され、手が出なかったのは覚えている。
一騎当千。
それを為せるという噂が、何時しか広まっていた。それ程、厄介なのだろう。
ふと、視界が揺らめいた。次の瞬間には、大刀が眼前に迫っていた。慌てて背を反らし、何とか直撃を避ける。相変わらず素早く、避けるので精一杯だった。大刀の風を切る音が、音と化して髪を掠める。掠める音は甲高く、唸っていた。素早く大勢を立て直し、剣で横に薙ぐ。だが、軽やかに避けられ、筋は消えていった。
相手が着地する。次の手は、と思ったが、夏侯惇の警戒に反し、趙雲は大刀を構えることもせず動かない。
何か見定めているのか。柄を握る手に力が籠る。隙を伺っているのか、とも思ったが、即座に自分で自分の考えを打ち消した。そういうものは剣を交えながらやる事である。今この状況で伺っているとは思えなかった。
「野朗、何考えてるのか想像もつかん」
傍の夏侯淵が苛立った声で呟いた。まあ落ち着け、と夏侯惇は宥める。
「案外、何も考えてないかもしれん。雑念より無心の方が強いだろう。こういう状況」
こういう状況、とはただ突っ立っている、その事では無い。趙雲は今まさに、敵陣に単騎で突っ込み、取り囲まれた状態なのである。周りは敵しかおらず、頼れるのは己の腕しかない。そこまで徹底的に追い詰められれば、無心の方が強いと言うものだ。趙雲の場合、追い詰められている、ではなさそうだが。
「俺だったら逃げ出す事を考えるね。武人とはいえど、こんな中途半端な状況で命投げ出すなんて御免」
「正直、俺もだ。生きる事を優先したい所だな。無心で突っ込んでも死んだら意味無い」
二度、風が吹いた。故郷を思わせる、懐かしい風だった。




