剣、虎に人を視る
男は、一人佇んでいた。
潰されなかった片目を遠くに投げかけ、一点を見つめている。
視界にあるのは、袁術の居城であった。だが、その目は、其処に密かに蠢く、微かな闇を見つめていた。
これから、何かが起こる。そして、その渦は曹操、孫策をも暗夜の激流が呑み、最悪の乱世を拓かせる。次代に、断ち切る者が現れるまで。
夏侯惇は、そう直感していた。そう、潰された左眼が訴えていた。
眼は、空間を見る。だがそれが機能しなくなった時、空間の代わりに時を視る。失った時こそ、夏侯惇はその事実に怯えたが、今となっては慣れきった事だった。
武人としての勘は、不満足を持って初めて、欠如を補うべく機能するのだと、夏侯惇は結論付けていた。
不意に、馬の蹄の音がした。
振り向くと、其処には焔の如き紅い鎧に身を包み、双斧を引っ提げた身の丈七尺余りの偉丈夫が、此方を馬上から見下ろしていた。
男は夏侯惇と目が合うや、慣れた動作で馬から下りる。そして直ぐに、
「夏侯惇殿とお身受けする。某は孫呉の将、太史慈、字を子義と申す」
と礼をとりながら名乗った。
「呉の奴か。お前もあの胡散臭い皇帝の首を狙ってか」
「今すぐに袁術の首を、という訳では無く、飽くまでも様子見として此処に来た次第」
太史慈の声は、凛としていた。それでいて、闘志を彷彿とさせるものがある。
「お前」
夏侯惇はそこで漸く、太史慈に身体ごと向き直った。睨めつけても、太史慈は目線を逸らさず、ただ夏侯惇だけを視界に捉えている。
「何であろうか」
「馬鹿真面目だろ」
「な、何を申されるかと思えば」
太史慈の目が揺らいだ。夏侯惇はそれに構わず、睨めつけたまま告げる。
「今の御時世、真面目な奴は戦場で死ぬぞ」
「それは、武人としての本懐では」
「死ぬべき戦場が見えるまで、這ってでも生き延びる。違うか。その辺で斬られても満足なのか」
「それは」
「何なら此処で首を置いていくか。三人集まれば忽ち軍、なら二人でも刃を交えれば其処は戦場」
柄を握った。静かに剣を引き抜く。太史慈も夏侯惇の放つ殺気に気付いたか、双斧を構えた。
剣を鞘から引き抜き、普段の構えをする。剣が陽の光を受け、冷酷な輝きを持って、血を欲する。
「行くぜ、その闘志、俺が斬ってやる」
太史慈の目が、動いた。それを合図に、一気に間合いを詰め、斬り込む。
鈍い音が辺りに響き渡った。夏侯惇の剣は、寸での所で双斧に止められていた。
「戦うと申されるなら、某も全力で参る。この太史慈、此処で倒れる訳には行かぬ」
太史慈が叫び、双斧が剣を弾いた。互いに飛び退くと、同時に雄叫びを上げながら間合いを詰める。両者ともに跳躍した。
剣と斧が空中で交錯し、火花を上げたのも束の間、再び離れた身体は地を欲する。
身体は地に吸い込まれ、脚が地を蹴っていた。
地上で、二人の闘志が武器を介して交錯する。夏侯惇は、太史慈の首だけを視界に捉えていた。太史慈もまた、夏侯惇の首を見ていたのは、首筋の寒気から充分に伝わって来た。
ふと、太史慈が動く。双斧の片方は、横に避けた夏侯惇の肩を掠め、虚しく宙を切った。
避けざまに太史慈の腕を狙うも、素早く体勢を整えた太史慈によって受け止められる。直ぐに二、三度刃が交錯し、鍔迫り合いになる。
「ふん、少しはやる様だな」
「夏侯惇、噂に違わぬ者よ」
言葉を交わしたあと、再び両者共に飛び退く。
口元が、緩んでいた。
この様な戦いをしたのは、久々であった。そうだ、これが己の望んだ戦だ、と夏侯惇は一人心で呟く。
全ての闘志をぶつけて来い。言葉には出さなかったが、言わずとも太史慈の表情を見れば伝わっている事が分かった。
奴も、笑っている。恐らく、同じ事を思っている筈だ。
雄叫びを上げた。勢いそのままに、間合いを詰める。
太史慈の双斧が迫るが、避けるという選択肢は、夏侯惇の中からは消え失せていた。無限に湧き出る闘志が、太史慈の首だけを狙っていた。
剣を振り被かぶる。手応えがあった。
全ては、一瞬の出来事であった。
気が付けば、青空が視界にあった。ああ、倒れたのか、と夏侯惇は思う。
首は。どうなった。
身体を起こそうにも、腕が動かなかった。顔を向けると、直ぐ側に太史慈が仰向けに倒れていた。首は、繋がっていた。
そうか。取り損ねたか。
だが、悔しさはそれ程無く、それよりも満足感と安堵が胸の内を支配していた。
「おい、太史慈。いや、子義」
「何であろうか、夏侯惇殿」
息が上がっていた。だが、太史慈の声は、最初の時と違い、和らいでいた。
「お前の首は、今回は諦めてやる。だが、次会ったときこそ、斬る」
「首を洗って待っておこう。その剣が某の首を討ち取る時までな」
「上等」
「馬鹿真面目なのでな」
「ふん、生意気な奴」
その会話が終わるや否や、倒れた二人を介抱すべく、両軍が集まって来る。
「兄上。しっかりなされよ」
真っ先に視界に現れたのは、夏侯淵であった。不安の色を顔に滲ませ、此方を見つめて来る。
「馬鹿者、こんな所で死ねるか。俺なら何とも無いぞ」
「それは、自分の右肩を見てから言って頂きたい」
夏侯惇に言われ、右肩を見る。鮮血が草を闘志の色に染めていた。双斧に斬られた痕であった。
次話更新遅くなったらすみませぬー。