悲涙、焔を滾らす
「父上。父上」
凌統の悲鳴にも似た声が戦場に響く。
「凌操」
凌統の後を追って来た太史慈と黄蓋の声がしても、凌操は青ざめたまま微動だにしない。馬上が、血溜まりになっている。
馬上で倒れている凌操の傷を近くで見た黄蓋の顔が、みるみる内に青ざめていく。太史慈自身も、思わず口を塞いでいた。
それ程に傷は深かった。かの一太刀は右肩の骨をも砕き、なんとか残った皮と肉だけで繋がっている状況だった。神経も、勿論切られている。首の根元にも深い傷があり、そこから流れ出る血の量も、医師でなくとも命の危機を感じさせる程だった。
「これは、まずい事になった。おい誰か、医師を呼べ。とにかく腕の良い医師だ。この近辺で最も腕の良い医師を連れてこい」
黄蓋の切羽詰まった様子の命令に只事では無いと悟ったか、兵が大慌てで走って行く。
「お前、あと凌統は凌操を本陣へ連れて行け。救護班への指示は忘れるな。早く行け。と、あ、あまり揺らすなよ。早く早く、丁寧に。あとそこで、そう、そこの抜けた顔をしてるお前だ。お前は孫権殿に連絡を。お前達は先鋒にはそのまま進軍する様に命令せい。直ぐに蔣欽を合流させる。あとは──」
流石は歴戦の将である。この状況でも、冷静に指示を出している。おかげで兵の混乱は抑えられ、この緊迫した空気でもまだ顔に冷静さを残していた。一部は未だ、焦りから右往左往しているが、放っておけば落ち着くだろう、と敢えて放置しておく。
「黄蓋殿、私は何をすれば」
太史慈の問に、黄蓋は即答した。
「本陣の方に戻れ。戦に心の乱れは毒である。お主、顔こそ平静だが内心はだいぶ焦っておろう。そんな奴を先鋒には出せんよ」
そう言った後、黄蓋は咳払いをし、僅かに馬を寄せた。そして小声で告げる。
「あの傷だ。腕一本吹っ飛んだ程度ならまだ戦場復帰は出来ると思うが、首元の傷が際どい。医師が来た所で、首を振られて終わりやもしれぬ。主等は友好関係を築いておったな。最期ぐらい看取ってやれ。それに、凌統も気になる。まだまだ若いからのう、心が乱れた時何をしでかすか分からぬ」
「貴方もそう思ったか」
二人は顔を見合わせた。同時に頷くと、太史慈は馬を駆る。背後から遠く、黄蓋が何やら怒鳴っているのが聞こえた。
まさか此処で、失う事になろうとは。前に感じた悪寒はこの事だったか、と今更になって思った。が、後悔してももう起きた事だ。何をしても、もう遅い。
地に、点々と血の跡がある。凌操のものだろうか。
「急いでくれ」
馬に、語りかける。太史慈の焦りを知ってか知らずか、馬は更に速度を上げて走った。
本陣には既に、凌操の部下が集まっていた。慌てて馬を下り、部下を掻き分けて駆け寄る。流石に部下も太史慈に対しては自ら道を開けた。
「太史慈殿。来て下さったんですか」
幕舎から顔を出したのは凌統だった。泣いていたのか、その顔は完全に青ざめ、目は僅かに赤みを帯びていた。その歪んだ顔で、無理矢理に笑みを作る姿は痛々しい事この上ない。
「お前の父上は」
凌統は答えなかった。
ただ、黙って手を奥へと向ける。
その姿から、何となくではあるが察することが出来た。凌統の横をすり抜け、幕を潜ると、右半身が赤く染まった凌操が搨の上に寝かせられていた。まだ顔に布はかかっていない。が、直ぐ側の医師らしき男が、手に白い布を持っていた。
死の、瞬間に立ち会ったか。
「やはり」
呟く太史慈に、凌統が泣き出しそうな声で告げる。
「手は尽くしてみましたが、限界でした。もう手の施しようも無いと」
「そうか」
横たわる凌操を見下ろす。呼吸が弱まっているのか、胸が上下していない。顔も白くなっており、死の色を漂わせていた。
太史慈は頭を垂れた。こうして一人、また一人と周りの者が消えてゆく。何れは、自身すらも。
赤い血は、確かな命の流れだ。負傷した凌操を見た時、流れ出す血は、あの世へと流れ出す命に見えた。戦に生きる者は、同じ様にしてあの世へと行く。
「勝手に、殺すな」
今にも消えそうな程、細々とした声が聞こえた。凌操の声であった。
「父上」
凌統が駆け寄る。その姿は、駄々をこねて父親に駆け寄る子供にすら、太史慈には見えた。
「情け、ない。此処で、死ぬ、とは」
消えそうな声を、無理矢理に絞り出して話す声は途切れ途切れで、聞き取りにくい。それでも、神経を集中させて凌操の言葉を聞き取る。
凌操は静かに、話し始めた。自身の人生の事、そして凌統の事を太史慈や黄蓋等に頼みたいという事を、その消え入りそうな声で告げる。
凌統は一つ一つ素直に頷いていた。時々、目を擦っている。
一通り話し終えた所で、凌統が涙声で一つ、質問する。
「父上を斬った相手は、一体誰なのですか」
その問に、凌操は顔を動かして答えた。
「甘寧。鈴の甘寧」
「甘寧。その者が、仇。俺が仇を討つべき、敵」
凌統は胸に手を当てた。その者が仇だ、決して忘れはしまい、と自身に言い聞かせているのだろう
「すまぬ」
その言葉を言い終わるや否や、凌操は目を閉じた。そして、閉じたまま、はっきりと言った。
「さらばだ、息子よ」
それが最後の言葉となった。
医師が近寄る。脈を確かめた後、医師は力無く首を振った。それが、死であった。
遂に、死の証である布が、医師の手によってかけられる。
たった今、遺体となった凌操にしがみついて慟哭する凌統の姿に耐え切れず、太史慈は外に出る。この事を察してか、空は曇天であった。
東の空は、僅かに白んでいる。このままなら、雨は振らずに晴れるだろう。
幕の外では、部下が泣いていた。その顔を冷静に、一人一人見て回る。
皆、凌統よりも歳を取っている。
死ぬのが、早すぎだ、凌操。
太史慈は改めてそう思った。
凌操亡き今、凌操の率いた軍は、凌統に継承される事になる。しかし、身体こそ引き締まっているとはいえ、まだ十六すら行かない、言わばまだ子供の段階だ。
軍人は、自身より若い者を軽蔑する傾向がある。もし凌統が、何度も戦場を駆け回った勇士であれば、まだ抑えは効くかもしれないが、現実はこれが初陣である。初陣でありながらも戦場から負傷した父親を連れ帰った活躍自体は只者ではない事を匂わせてはいるが、それでもそれまでの純白にも等しい経歴が邪魔をしている。
つまり、軽蔑されるに充分な条件を満たしているのだ。
黄蓋などがいれば抑えられるかも知れないが、四六時中付き添う、という訳には行かない。
暫く兵を替えようにも、凌統程若い兵は多くは無い。それに、若者は貴重な労働源であり、軍だけでなく民衆からも重宝されている以上、無闇に消費は出来なかった。
凌統の器量は、どれ程のものか。改めて考えると、器量について想像がつく程の関係を持っていない、という事に気がついた。
確かめてみるか。
しかし、あの様子では仇討ちに駆られて、凌統自身が持つ本来の器量を発揮出来そうに無い。
考え込んでいると、木の枝を踏む音がした。顔を上げると、諸葛瑾が目の前に立っていた。その顔は逆光になっており、あの自信のない表情に、あの孔明に似た狂気が浮かんでいる様に見えた。左袖からも三本の判官筆が見え隠れしている。思わず、身構えた。
「何をしに来た。悪いが、今は取り込み中だ、幕舎の中には入るなよ」
「凌操殿、お亡くなりになったのですね」
太史慈は黙って頷いた。味方ではあるのだが、言い知れぬ恐怖を、今の諸葛瑾は放っている。
「そうですか」
ただ、話しているだけだ。それ以外の何事でも無い。太史慈は自身にそう言い聞かせるが、逆光の諸葛瑾の恐怖は一塩で、孔明ですら超えるのでは無いか、と一瞬思ってしまう程の狂気を顔に滲ませていた。諸葛瑾は、言葉を続ける。
「首は、繋がっておいでですね」
「そうだな。何が言いたい」
諸葛瑾は答えず、一歩近付いた。無意識に、太史慈は一歩後退る。
「どうしましたか、太史慈殿」
太史慈の手は、柄を握っていた。その瞬間、諸葛瑾が僅かに笑った気がした。見え隠れしている判官筆が、異様な輝きを放っている。
諸葛瑾はその狂気を浮かべたまま、話し出した。
「とある者は、その頭蓋骨を器に勝利の盃を交わすと言われていますね。敵の怨念の籠もった頭蓋骨、その味は、どんな物なのでしょうか。私には、想像も付きません」
「何が言いたい、諸葛瑾。凌操の頭蓋骨を欲しておるのか。やっても良いが、その前に私がお前の首を斬る」
「死者の為に、生者を傷付けると申しますか、太史慈殿。死者は死ねば零、けれども生者は死者の分、その命を足せるのですよ」
「黙れ。それ以上死者を馬鹿にすると、味方のお前でも斬るぞ」
剣を少しずつ、抜いて行く。諸葛瑾は恐怖を微塵にも魅せず、ただその剣を黙って見つめていた。
「忘れて下さい」
突然、諸葛瑾は踵を返した。そのまま、静かに歩いて行く。一体何を言おうとしていたのか、太史慈には想像できなかった。だが、孔明と似た様な、寧ろ更に強烈かもしれない狂気が、諸葛瑾には確かにあった。
ふと、逆光が差していたという事実に気付く。空を見ると、青空があり、日が差し込んでいた。




