戦場の妖しき華
ただ目の前の敵を斬り伏せ、駆ける。それが凌操の全てであった。背後の味方が、何をしているのかは、考えていない。ただ目の前の者を斬る。
これが味方か、敵かすら、考えてはいない。
また、兵を斬り伏せていた。
黄祖軍は最初から、引き気味だった。戦意を感じられず、寧ろ隙あらば逃げ出そうという気配まで漂わせている。凌操が多少無謀な事をした所で、襲いかかる兵はいない様に思えた。
兵が悲鳴を上げて、一目散に逃げて行く。
「待て、戦わずに逃げるのか」
大喝し、馬を駆り、後を追う。意外にも、兵士の逃げ足は速く、その素早さには内心舌を巻く程であった。
どれ程追いかけていたのか。ほんの数秒だった気もすれば、数分だった気さえする。背後には、慌ててついてきたのか、凌操の兵がいた。
「凌操殿、深追いは禁物です。何が潜んでいるか」
背後で誰かが凌操に忠告する。そこで漸く、凌操は我に返った。
辺りを見回す限り、木々である。ただ、その数は疎らで、火計にはあまり適していないように思えた。伏兵ならば出来そうなものだが、その気配が無い。
「そうだな、深追いし過ぎた。戻るぞ」
凌操が踵を返そうとした時だった。背後から、馬の嘶きが聞こえた。
「随分と安そうな格好した兵士達だけど、貴方、面倒見ているのかしら」
突然の声に、敵か、と慌てて振り向く。視線の先、その崖の上に一頭の馬がおり、馬上の男は横乗りの体勢で足を組み、退屈そうに足を揺らしていた。
「悪者は高い所がお好きってね。あ、でも此方からしたら貴方達は低所にいる訳だし、そんな事も無さげ」
馬上の男が、足を揺らしながら面白げに告げる。語尾は怪しいが、声は完全に男だった。それも、荒荒しさの混じった大分男らしい声である。
その矛盾が、凌操を混乱させる。が、敵は敵だと、気を取り直した。
「誰だお前は」
「さあ」
凌操の鋭い声にも、男に動じる気配は無い。何を考えているのか、口元に笑みを浮かべたまま、わざとらしく肩をすくめた。その動作は何処と無く、凌操をからかっている様に見える。
凌操は数歩、近付いた。何となく、男に馬鹿にされている気がしたのである。自身、気が付かなかったが、右口角が、上がっていた。
男の覇気には、気づかなかった。その余裕げな表情に、怒りにも似た感情を感じていた凌操には、覇気を感じる程の集中力など既に無い。
ふと、男の馬が動いた。何をするのかと思いきや、崖を一気に飛び降りたのだ。それ程高くなかったとはいえ、騎乗者、馬への衝撃は軽いものではない。
が、馬も男も、平地でも進んできたかの様に、余裕綽々としている。
ふと、鈴の音がした事に、凌操は気付いた。
その音は間違いなく、目の前の男のものだった。近付いてみると、派手な羽飾りに、鈴を着けている。動く度に、鈴が音を立てていた。
ふと、蔣欽の言葉が思い出された。
派手な羽飾り、鈴。そして男だが女。
「貴様まさか、噂のあの軍か。その姿は、頭領」
「そこは想像にお任せ。どの道あの軍と言われても、伝わらないけど。もう少し頭捻りなさんな」
男は人差し指を頭に当てた。やはり、何処か馬鹿にされている気がする。元々短気な凌操の手は、既に剣の柄を握っていた。
殺気が出ているのは凌操自身でも気付いていたが、男は殺気すら楽しむものかの様に、常に笑っている。そこに恐れは、一片の欠片も無い。その様子が、凌操の怒りを余計に刺激していた。
怒りは、何をし始めるか、分からないものである。
「名乗れっ」
凌操は、抜いた剣を真っ直ぐ男へと向け、怒鳴るように聞いていた。その姿を見て、男は笑いを堪えきれなくなったのか、遂に吹き出した。
「単純、単純。こんな事でそんな顔赤くして怒らない。そんな事していたら、女が逃げて行くんだから」
「最後は余計だ。お前に言われたくない。第一、俺には妻子がいる。それだけで充分だ。遊女なんざいるかっ」
噛み付くような凌操の言い方に、男はわざとらしく驚いてみせた。が、直ぐに元の表情に戻る。
「それは意外、とても良い事じゃない。ただ、余計な事に怒り過ぎて」
男はそこで言葉を切った。途端、目に見えない程の速さで、鎖が凌操の鎧を掠めた。
背後を向くと、部下の一人が鎌の餌食になっていた。首を無くした身体は血を吹き出し、その場に力無く倒れる。その素早さには、周りの兵も唖然とする他無かった。
鎌は、男の放ったものだった。手元に戻った血糊のついた鎌を吹くことも無く、懐へとしまい込む。
「自分の首を落とされたら駄目よ」
その言葉は、子供に言い聞かせるかの様な、嫌な柔らかさがあった。途端、男が剣を抜く。馬が駆け出した。次の瞬間には、剣が、振り下ろされていた。
右肩に、激痛が走る。剣が手から離れた事に気付くのは、一瞬遅れた。
更に斬り返しで、もう一閃が飛ぶ。首に大分近い所を、斬られた。
馬から、転げ落ちた。落馬は敗北を意味するのだが、たった二度斬られた程度で落馬とは、男として情けない、と凌操は唇を噛んだ。
動かそうとして、漸く気付いた。右上半身が、痺れた様に動かない。痛みは無い。痛みが無くなる程、深く切られたのだろうか。
呆然とその様子を見ていた兵士が、我に返ったように慌てて凌操へと駆け寄る。一部は、男へと斬り掛かっていた。が、叶うはずも無く、軽々とあしらわれる。
「凌操殿、お気を確かに。ここは一旦引きましょう」
兵が馬上へと凌操を引き上げる。男はそれを妨害しようともせず、面白いものでも見るかの様な視線を向けていた。
出血多量で意識が遠のく中、凌操は男を睨めつける。
「貴様、覚えておく。我が命尽きようとも、息子が必ずや、お前の首を奪いに来るぞ」
「是非とも来て頂戴」
「その鈴音、決して忘れはせぬ。名乗れ、その名を伝えておこう」
「甘寧、字は興覇。通称、鈴の甘寧。忘れずに伝えておきなさいよ」
その言葉を最後に、凌操を乗せた馬は走り出した。意識が、遠のく。周りの音が遠ざかっていくとはこの事か、と朦朧とした意識の中、凌操は思っていた。
「父上」
息子の悲鳴にも似た声が聞こえたのは、その時だった。




