幻霧の才、其の道を占う
寿春には、袁術がいる。
孫策から玉璽を奪った袁術は、国号を「仲」とし、自らを皇帝と称した。しかし、不満を抱く者達の反乱により度重なる敗戦を期し、敗戦を切っ掛けに悪政が浮き彫りになり、更には追い打ちの形で飢饉が発生し、今や衰え、滅亡を待つのみとなっていた。
太史慈は、途中、小さな村に立ち寄った。
「これは酷いな」
太史慈は眉をしかめる。目の前に広がっていたのは、何処までも続く荒れ果てた地であった。家は殆どが崩壊しており、辛うじて原型を留めているものも、人の住める様な建物とは思えない程、粗末なものであった。田畑はほぼ手入れされておらず、無造作に伸びる雑草が、必死に生きる人々を嘲笑っていた。
地には、無数の死体が地の上を無造作に転がり、腐臭を放っていた。死体の肉付きを見るに、餓死したと思われる。
生き残っていた住民は、将軍の姿を見るや、慌てたようにその場に平伏し、又あるものは足を蹌踉めかせながらも逃げていこうとした。
「待て。我々は袁術の者では無い」
そう声をかけるや、一部の者は振り向き、頭を上げた。
「なら、貴方様は一体」
「呉の者だ。とある者の動きを追っている。安心せよ、我々は略奪を行わぬ」
略奪、という言葉を聞くや、民は目を見開いた。しかし、行わない事に安堵したのか、漸く微笑を見せた。
死の淵に怯え、尚も生に縋る哀れな者の、細やかな幸福を知った微笑であった。その微笑に底知れぬ哀れみを感じ、太史慈はわざとらしく目を逸らした。
「良いな、略奪は一切許さん。民に手を触れてみろ。某が厳罰に処す」
背後にいる兵に対し、大声で命令する。念の為、同行していた凌操が兵達に再び告げた。
「これで安心であろう。我々を気にせず、先程の続きに戻るが良い」
手で払う仕草をすると、民は感謝の意を告げ、駆け足に戻って行った。
「此処より数里先、曹操軍がいるそうだ。先程戻ってきた斥候から聞いた。間違いない」
背後に戻って来た凌操が、兵達に聞かれまいとばかりに声を潜めて報告する。
「曹操軍は、何をしていた」
「何をするでも無く、村で軍馬を休ませていた。一部の者は丘の上に陣取って袁術の軍を眺めていたそうだ」
眺めているとは、一体どういう風の吹き回しか。挑発とも取れない。
「攻めるのでは無いか」
太史慈が聞くと、凌操は即座に首を振り、「可能性は低い」と答えた。
「兵が少な過ぎる。二百騎程だったそうだ。丘の上に至っては、三十騎程度に過ぎん。幾ら衰えたとは言え、袁術はまだ大量の兵を有している。それに袁術の城は堅固と聞いているし、そこに二百騎で挑もうなどいたずらに兵を死なせるだけだ。曹操もそこまで馬鹿では無いだろう。呂布ではあるまいし」
「それもそうだな。曹操は呂布の様な阿呆では無い筈だ」
これが呂布であれば、陳宮の忠告も聞かず、即座に飛び出していたであろうと思うと、笑いが込み上げてくる。項羽とはまた違う煩悩の塊が起こす事は想像しやすい。
武勇に過信しすぎた獣の、哀れな末路だと、太史慈には思えていた。
そして、袁術もまた、名誉に自惚れている。名誉に自惚れるが余り、辺りを闇に閉ざし、知らないままに呂布と同じ道を辿っている。
その末路は、即ち死になる。それに誰が鉄槌を下すのか、正直傍観していたい気持ちであった。
しかし、傍観は許されない。一国の将に、傍観は許されていなかった。
「行くぞ、凌操」
「応」
声を掛ければ響く、清流の如く澄んだ答であった。己の内にあった闇炎を消し飛ばし、太史慈は駆ける。
暫く掛けていると、一人の男が突然、道に飛び出し、通路を塞いだ。男の身なりから、文官であることが分かる。
「誰だ」
柄に手をかけつつ声を掛けると、「おや、貴方は太史慈殿では」という声が返ってきた。
「如何にも。お前は、袁術の配下か」
太史慈の突き刺す様な声にも、男は怯える気配すら見せず、堂々と「元はそうであったが、今は曹操殿の下におる」と答えた。
「曹操の、だと」
「如何にも。儂は袁渙、呉の者が此処に来ると聞き、此処で待っておった」
「袁渙、だと」
聞き覚えのない名前であったが、側にいた凌操があっ、と声を上げる。
「袁渙。袁術に仕官していた者だ。呂布に敗れた際、死んだと思っていたが、生きていたのか」
凌操の叫びに、兵も「あっ、袁渙だ」と口々に声を上げ始める。そこで漸く、太史慈も一つの噂を思い出す。
建安二年、袁術が呂布に敗れた。その際、一人の文官が猛る呂布を諌めたという。
戦に燃えていた呂布は、その者を斬り伏せたと訊いたが、その文官が呂布の元で仕えている、という噂も微かに広がっていた。
その文官は、袁渙、という名であった。
「袁渙。あの、噂の男か」
「儂は賢者では無いのでな。儂は愚者だ、故に己の才能を潰そうなどとは思わなかっただけの事よ。司馬遷には笑われそうだがね」
袁渙は乾いた笑みを浮かべると、「貴方もまた、袁術に用でもあるのかね」と訊いて来る。
「袁術にもあるが、お前達にもある」
「ほう、儂等に」
「此処で何をしている。袁術を討つ気か」
「ふ、それは夏侯惇殿に訊かれよ。この先の丘に一人、佇んでおられる」
そう言うや、袁渙が動いた。どうやら、通れと言う意味らしい。
「夏侯惇か」
道の外れに佇む袁渙を一瞥すると、太史慈は馬を走らせた。凌操も何も言わず背後に付いてくる。
袁渙は道の外れに佇み、何処か遠い視線を太史慈の背に向けながら、小さく呟いた。
「若き虎、太史慈であるか。奴なら、劉備を」
「やれ、お主も悪よの」
ふと、声がした。振り向くと、袁渙と似た服装をした男が、目尻を緩ませ近付いて来ていた。
「張範」
袁渙の声には答えず、張範は霞と化した太史慈の背を見つめながら、さも愉快げに笑った。
「あの虎、吉にも凶にもなり得るな。全く、面白き漢よ。ふふふ」
創作キャラは登場しません。
史実、演義両方混ぜて登場させます。作者の気分で。