陽炎の痕
何か無いか、夏侯淵は廊下を調べていた。
が、綺麗に取っ払われた廊下に見つかるものは塵程度しか無く、夏侯淵自身、いい加減諦めようと、道を引き返そうとしたその時だった。
遠くの方から、何かが激突する音がした。
「誰かいるのか」
驚いた夏侯淵は声を上げる。だが、返事は無く、視線の先には薄暗い廊下が続いているのみだった。
剣戟ではあるまい、と夏侯淵は考える。剣の音は全くせず、やけに静まっていた。建物の一部が崩れたか何かあったか、と予想したが、それにしてはやけに派手な音だった事だけが気にかかる。
周りには、誰もいない。
自然と足は、音のした方へと向いていた。無用な好奇心が、身体を動かしているのは自覚できた。
そういえば、夏侯惇も此方に向かったか。ふと、そんな考えが頭をよぎる。あの者の事だ、死ぬ事は無いと思うが、と自身に言い聞かせるが、言いようの無い不安が胃に積もっていく。
再び、音がした。今度は、先程よりも随分派手な音だった。扉か何かが、床に倒される音がする。またか、と思ったが、今度は言葉が耳に入ってきた。
「何故此処にいる。お前にはもう、関係の無い場所では無いのか」
夏侯惇の声だった。声は鋭く、尖っていると同時に、妙な肌寒さを感じさせるに、何かしらの異常が起こっている事は察せられた。
「兄上」
夏侯淵の叫びは、夏侯惇には届いたらしい。「来てくれ」と鋭い声が返ってきた。夏侯淵は急ぎ、声のする方へと走る。
角を曲がった先か。漸く、夏候惇の姿が見えた。力無く膝をついたまま、壁に寄りかかっている。それでも、眼の前を睨み付けていた。周囲には、扉か何かが強い力で破壊されたか、木屑が無残に転がっており、通行の邪魔をする。
「兄上。一体何を」
その疑問は、すぐに解決した。夏侯惇の睨めつけるその先、趙雲がゆらりと現れたからだ。その目は相変わらず髪で隠されており、何処を見ているのか正直不明だった。その手には、短剣が握られている。血糊が僅かについており、その赤が夏侯淵の恐怖を掻き立てた。
趙雲、待て、と夏侯淵は叫びかけたが、そう叫んだ所であの趙雲が止まる筈は無い。現に、再び手の短刀を構え直していた。
無意識であった。夏侯淵は走りながら矢を放っていた。矢は二人の間をすり抜け、壁に突き刺さる。しかしそれでも効果はあったか、趙雲は短刀を手に、夏侯淵を見た。だが、夏侯淵に興味は無いとばかりに、直ぐに夏侯惇の方へと向き直り、刀を振り上げた。
その時には夏侯淵の剣は、趙雲にまで届く程になっていた。体勢を崩したままの夏侯惇に代わり、刀を受け止める。
火花は散らない。だが、甲高い音は、廊下に木霊していた。
相手は全く容赦しない。気を置く間もなく、再び斬りかかってきた。交錯しては離れ、そして再び離れ、を繰り返す。力押しでは不利、と気付いているのか、鍔迫り合いは一度も無い。
絶え間無く伝わる刀を弾く振動に、手が段々と麻痺してきていた。持つ手に疲労を感じ始める。このままではまずいか、と剣を横薙ぎに振るう。
だが勿論趙雲が、それで斬られる筈も無い。軽々と身を屈めて避けられ、避けざまに腹部に蹴りを食らった。
衝撃で、剣が手を離れる。が、もう片手は反対側の柄を握っており、剣が鞘から抜き出されて行く。
「くそ、何だって俺達が襲われなければならん。剣を抜いただけだろうが」
剣を杖に、ふらつきながら立ち上がった夏侯惇が吐き捨てるように言った。
「剣を抜いた、とはどういう」
そこまで言い、振り向き様、夏侯惇の持っていた剣を見て全てを察した。
それが、趙雲に狙われている原因である事も、瞬時に見抜くことが出来た。
「兄上、それだ。その剣だ。趙雲はそいつを狙っている。早く手放せ」
「えっ」
「早く。投げろ」
怒鳴る勢いで告げる夏侯淵に二の句も出なかったのか、夏侯惇は眉を顰めながら剣を趙雲めがけて投げた。
趙雲は軽々と避けたが、その身体は剣へと向いていた。地を蹴ったと思いきや、投げた剣を受け止め、そのまま影の様に消え失せた。
後には、唖然とした表情で前を見る夏侯惇と、目の前を睨めつける夏侯淵が残された。
「何だ、あの剣」
唖然としたまま夏侯惇が疑問をぶつける。
夏侯淵の脳裏には、まだ、あの剣の姿があった。豪華絢爛たる装飾の中心には、二対の龍が絡みつき、互いに珠を巡って噛み合っている、という彫刻が施されていた。あれは一度、見た事がある。
「あれは、劉備の剣だよ」
「何だと」
「少し前、見た事がある。一瞬だったが、記憶には残っていた。まさか此処で役に立つとはな」
「ならば何故、こんな所に放ってあった。おかげでろくでもない目にあった。正直死ぬかと思ったぞ」
「俺に聞くな。それより、刺さっていた、とはどう言う事だ」
夏侯淵の疑問に、夏侯惇は黙って前を指差した。指の先を追うと、木箱が一つ、机の上に置いてあったのが目に入った。
一歩ずつ近づいて行く。今度は、何も起きない。
箱を、恐る恐る開けてみる。見れば、数十枚の手紙が入っていた。何気なく開くと、聞き覚えのある名前が目に入った。
「まさか」
次々にめくる。そこにあったのは、内通していた者達の手紙であった。




