栄華と死香
曹操軍の成果は大きなものだった。
袁紹に勝つのみならず、思わぬ人材、張郃と高覧が曹操軍に入った事は、曹操にとって大きな意味を成していた。まだ二人は自暴自棄になっている所が見受けられるが、時の流れで何れ、この軍の者として戦うことが出来るだろう。
兵糧を失い、張郃と高覧にも寝返られた袁紹は、河北へと退いていった、という報告を受けた曹操は急ぎ、袁紹軍の本陣まで馬を走らせた。
実際側まで来ると、本陣は静まり返っていた。兵一人おらず、支えを無くした旗だけが、侘しく揺れていた。曹操は抵抗一つない門をくぐる。改めて見ると、本陣はもぬけの殻になっていた。
「逃げ足は早いな」
かがみ込みながら土をいじる夏侯惇の言葉に、曹操は黙って頷く。此処まで綺麗に撤退できるとは、と曹操は内心舌を巻いた。金目のものすら、無くなっている。
気配すら、何も無い。下手をすれば、この羽目になるのは曹操自身であった。
実際には勝った。が、その損害は大きい。改めて無茶をした、と悔やむ他無かった。
「何も無いか、少し調べてみるか。夏侯惇、お前は楽進と武器庫を調べよ。何かあるかも知れぬ」
「承知」
曹操の命令に夏侯惇は一言答え、退室する。
足音と、鎧の擦れる音だけが、周囲に響いている。僅かに聞こえる他の足音は、曹操の兵のものだ。
松明一つなく、人の気配を一切感じない廊下は、日の光を受けているにも関わらず、恐ろしく暗く、冷たかった。人がいないだけで、此処までも空気の圧が違う事を今更夏侯惇は思い知る。
足が妙に重い。怪我をした時の様な感覚があった。足先が、嫌に冷えている。
廊下の突き当りに、半開きになっている扉があった。顔だけ覗かせてみると、中心に剣の刺さった、巨大な机があった。椅子もあったが、全て横倒しになっており、一部真っ二つになった椅子もあった。恐らく、軍議室だ。しかし、何故此処まで荒れているのか、何となく夏侯惇は気になり、足を踏み入れる。側にあった扉を押し開けると、日の光が入り、もぬけの殻になっている軍議室を冷たく照らした。
改めて見回すと、壁に何かが破られた跡がある。床に落ちている紙切れを拾うと、地図であった。その側にはほぼ原型を留めていない椅子が転がっており、竹簡らしき欠片が辺りに散らばっている。
「何が起きたんだ、此処は」
言い知れぬ恐怖を覚え、目を反らすべく立ち上がる。ふと、中心に突き刺さった剣が視界に入った。改めて見ると、豪華な装飾が施されている剣だった。刃には血糊の跡があり、血痕のついた木箱を貫いている。
開けてはいけない、そんな気がせずにはいられなかった。だが、武器庫ではあれど、調べろと言われたのは事実だ。
辺りを見回す。気配一つ無い。思い切って剣を引き抜いてみる。刺さり方が甘かったのか、剣は簡単に抜けた。剣を片手に、木箱を引き寄せる。蓋を開けようと、手をかけたその時だった。風が、背を押した。
背筋に、悪寒が走った。目眩のする勢いで振り向くと、眼前に兜の男がいた。男の手に持った短刀が、夏侯惇の視界一面に映った。
ほぼ無意識だ。右手は素早く短刀を受け止め、間一髪、短刀に刺されずに済んだ。刃の弾く音が響き渡る。
失敗と悟ったか、男は身軽な動きで一つ跳んだ。その跳躍は見事で、並の身体能力では無い事が察せられた。男の、新緑の如き緑に染められた外套が、誘うように靡く。
あの外套は、何処かで見た事がある。ふと、夏侯惇はそう思った。何処で見たか──。
脳裏に一つの光景が蘇る。
燃える寿春。偃月刀を持った、身の丈九尺の偉丈夫が、こちらを振り向いた。
「あっ」
夏侯惇は無意識に叫んだ。男の猛攻を剣で受け止めながら、男の姿を見る。そうだ、思い出した。
「お前、趙雲」
そう叫ぶ間も、男、趙雲は容赦無い猛攻を加えて来る。趙雲の攻撃は全く隙が無く、手が出せない。防戦一方に追い込まれるより他、無かった。
反撃しようとしても、その前に距離を取られ、再び怒涛の勢いで短刀を振り回してくる。その速度は恐ろしく速く、一秒たりとも気が抜けない。
「くそっ、何故此処にいやがる」
夏侯惇は剣を横薙ぎに払った。途端、趙雲が目の前から消え失せた。
しかし、本当に消えたのでは無かった。いつの間にか、すぐ背後に迫っていた趙雲が今まさに、剣を振り下ろす、その瞬間に漸く夏侯惇はその存在に気付いた。
それが遅いかどうか、その時の夏侯惇には判断のつかぬ事であった。
何か無いか、夏侯淵は廊下を調べていた。
が、今の所見つかるものは何一つなく、夏侯淵自身、いい加減諦めようと、道を引き返そうとしたその時だった。




