勝機と世の常
曹操が烏巣を襲撃している一方、本陣に駐屯する曹洪は防戦一方の立場に立っていた。相手は、張郃と高覧である。
が、此方にはあの許褚も、夏侯惇もいた。特に許褚は鬱憤でも溜まっていたのか、戦い方が凄まじい。
「厄介な二人が来たな」
夏侯惇が忌々しげに呟くと、許攸は首を振った。
「寧ろ幸運。あの二人をまともに相手する必要は無い。防戦一方で行け。再度言う、あの二人を相手にするな」
「本気かよ」
「まあ、見ておけ」
許攸は得意気に笑った。その笑いがどうにも夏侯惇は気に食わなかったが、此処は大人しく従っておく事にし、本陣の兵に無闇に動くな、と触れて回った。
どうせ命令など聞く耳も持たないであろう許褚だけは放置しておいた。どうにも許褚は、許攸が気に食わないらしく、目すら合わせようともしない。そんな許褚に命令しようものなら、余計無謀な事を始めそうなものだった。
夏侯惇は高所に登り、其処から敵陣を見渡してみる。陣は綺麗で、目立った乱れも見られない。その中を、突進している者が二人いた。
恐らく、張郃、高覧だ。しかし、彼等二人は先陣にいても良い筈なのだが、中々出る動きを見せない。出たとしても、ほんの一瞬で、攻撃的な姿勢を見せては来なかった。何か策でもあるのだろうか、と夏侯惇は首を傾げつつも、二人の動きから目を反らした。
「出るな」の命令通り、許褚以外の殆どの曹操兵は、本陣に籠もって防戦を繰り広げていた。今の所、門が崩れる気配は無く、まだ耐えられる自信はあった。
何時まで保つかは不明だが、万一にでも一斉攻撃を仕掛けられたら、今が今なだけにどうなるかは分からない。
「しかし、攻撃の手が緩いな」
何時の間にか、側には曹洪が立っていた。夏侯惇と同じく、不審そうな顔で袁紹軍に視線を向けている。
「そうだな。普通なら猛攻撃しても良い筈だが、その気配すら無い。此処は本陣だと言う事ぐらい、奴等も知っている筈なのだが」
夏侯惇が相槌を打つと、尚更不審そうな顔を歪めて袁紹軍を見た。
「曹操が戻る前に、打つのが当たり前では無いのか。一体どうなっている」
袁紹軍は相変わらず、本陣へと突撃を繰り返している。そしてその度、兵を死なせていた。
暫く経ち、袁紹兵は退き始めた。増援でも来たのか、と夏侯惇は目を凝らして周囲を見たが、その様な姿は一つも見えない。何か策でもあるのか、と不安になったが、その様子も今のところ見えない。
何時の間にか、張郃、高覧の姿は消え失せていた。探しても、何処にもいない。
戦意喪失か。そう夏侯惇は思ったが、直ぐにその甘い考えを消した。相手は歴戦の将だ。簡単に喪失するなど、有り得ないことだ。
「何を考えていやがる」
夏侯惇の呟きは、勿論、聞こえない。だが、その時だった。兵が一人、下で夏侯惇を呼び始めた。
「どうした」
「夏侯惇殿、お戻り下さい。張郃と高覧が、降伏してきたのです」
「なんだと」
我が耳を疑わずには、いられなかった。歴戦の将が、ほぼ被害も出さずに降伏。それは幸運とも捉えられるかもしれない。だが、同時に疑問も膨れ上がる。
急ぎ飛び降り、兵に案内されるがままに、張郃と高覧のいる場所へと急ぐ。
幕を上げると、そこには曹洪がいた。
その目の前で膝をついている人物が二名。二人は、夏侯惇の足音に顔を上げた。そのうちの一人は直ぐに顔を反らし、一人は俯いた。
「張郃、高覧。彼は夏侯惇、と言う。お主らも知っているのでは無いかな」
俯いた方の男は、目を伏せたまま「勿論」と答えた。
「そう俯くでない。顔を上げい。名乗るのもまた、将の役目であろう」
曹洪が諭すように二人に告げる。すると、俯いていた方が漸く顔を上げ、呟く様に話しだした。
「俺は張郃だ。字は儁乂。こいつは高覧。袁紹軍の将であったが、もう生きる意味を失っちまった」
「失った、だと。そなた等の様な猛将が何を言うか」
「本当に、もう無いさ。袁紹はあんな奴だ、何の能も無い。側についてる郭図とか言う奴も、俺達を嫌って、ここぞとばかりに俺達を処刑しようとしているそうじゃ無いか。もう全て、馬鹿馬鹿しくなっちまった。何の為に尽くして来たのか、何の為に戦場に立っていたのか、何も、もう分からん」
張郃の声は淡々としていた。語るその目は、何処までも暗く、何一つの希望も持っていない様に見えた。
張郃の視線を受け、高覧、であろうもう一人の男も、漸く顔を上げた。高覧もまた、失望の色に染まっており、小さく見えた。
「望む事は一つだ。俺と高覧を斬れ。俺達は来世に賭ける事にすると、そう話し合った」
張郃の言葉の一つ一つが、部屋に響いた。斬れ、と張郃は再び言ったが、曹操の者は、誰一人とて、身動きもしなかった。あの許褚ですら、石像の様になっている。
「生きる、という選択肢は無いのか」
「無い。斬れ」
「それ程までに斬られたいか」
「勿論」
「なら、その首は預けておこう。その恥、死ぬまで背負って生きる事だな」
張郃が夏侯惇を見た。殺さずに生かす、という夏侯惇の言葉に怒りを覚えたのか、先程よりも鋭い目がそこにはあった。同時に、僅かに生気が滲み出ていた。
夏侯惇は無言のまま、その場を去った。




