策士、夜に日を齎す
決行は夜、という触れは、直ぐに回ってきた。
「許攸の言葉を信じるってのか。奴は先程まで袁紹軍の配下だっただろうが。それだけ信頼出来る何かがあるってのか。罠だったらどうするんだ」
早速不満気に言い出すのは許褚だった。
「まあ、少し黙って様子を見ようでは無いか。その上で判断すれば良かろう」
宥める様に答えるのは夏侯淵である。夏侯淵もどことなく不満を抱えているのか、許褚の言葉を真っ向から否定はせず、曖昧な言葉で意見を濁した。
その話には触れたくないのか、許褚からは目を反らし、夏侯淵は剣を佩いた男の方へと振り向いた。
「それよりも袁紹軍の事だ。がら空きになった本陣を攻めてくるやもしれん。良いな、曹洪。此処を命に代えても守るんだぞ」
「御意」
曹洪、と呼ばれた男は、夏侯淵に対し即座に最上の礼を施した。
本陣の奇襲に備え、曹洪を本陣に置いておく、というのは、荀攸の提案だった。それともう一人、いつの間にか増えていた名も知らぬ軍師もその意見に賛同したのだった。名も知らぬ軍師の事は後に夏侯惇、于禁等にも聞いたが、皆が皆首を傾げるだけで知らない様であった。やけに飄々とした態度に、切れそうな目つきをしたあの男は何者か、今考えても仕方の無い事だ。
相変わらず愚痴をこぼす許褚の背後にある幕から、突然曹操が顔を出した。姿を見るに、武装した様だ。
顔を出したまま、曹操が命令する。
「先頭は楽進。その後に夏侯淵、そして張遼。儂も行く」
「えっ、曹操殿も行かれるんですか」
泡を食ったような顔をして、問う許褚を見ることもなく、曹操は「当然だ」と頷いた。
「これは儂の賭けだ。儂が指示をせねばならぬ」
夏侯淵も驚いたのか、曹操が言い終わるや否や、目を見開いたまま宥める様に曹操に告げた。
「しかし、その御身に何かあっては」
「心配するな、夏侯淵よ。儂は許攸を信じようと思う。それに、何の為に楽進等を連れて行くと思うておる」
曹操の断固とした声に、止められない、と悟ったか、夏侯淵は溜息をつくと一歩下がった。その顔には諦めと、そして一つの決意が浮かんでいた。
やがて諦めが滲み出た微笑を曹操に向けると、夏侯淵は自身の弓を肩に担いだ。
「お前は言い出したら聞かないからな」
「わははは、まるで袁紹の兵であるな」
曹操は思わず吹き出した。今、目の前にいる軍が、余りにも愚かしく見えたからである。
「中身は俺達なんですけどねえ」
先頭にいた、袁紹軍の兵の鎧に身を固めた小柄な男、楽進が、自身の身体をあちこち眺めながら答えた。違和感が拭いきれないのか、全身を何度も叩いては足踏みを繰り返している。そして一言、呟いた。
「寸法が合ってないんだよなあ。こんな状況で本気で戦える訳無いじゃないか」
「敵から調達して来たのだ。我慢したまえ、楽進よ」
「調達と言うより、略奪でしょう」
楽進は口を尖らせ、尚も何かを言おうとしていたが、何を思ったかそのまま黙り込んだ。
その直ぐ後ろでは、馬に跨った二人の男が、夜風に靡く旗を見上げている。
「敵の旗を上げて進軍は早々体験出来ない事だし、これはこれで良い経験じゃ無いか」
「複雑な気分だ。お前がやるか」
「断る。俺は弓持ってるし」
「それで断るか。俺だってこんな邪魔臭いもの持ちたくない。旗より斧が振りたいぞ」
「どの道烏巣に行ったら兵に持たせてお前は戦うだろう。それまで我慢しておけ」
姿こそ袁紹の者であるが、中にいるのは張遼と夏侯淵であった。珍しく不快感を露わにしている張遼は、旗を鬱陶しげに振り回すと、旗を夏侯淵に押し付けようとする。その度、夏侯淵は笑いながら張遼の手を押し返していた。その為か、時々力づくの押し合いになっている。
その他の兵も、全て袁紹軍の格好をしていた。夜中なら顔は気付かれ無いと思うが、鎧は気づかれる恐れがあり、その為袁紹の兵の鎧を人数分略奪する必要があった。
何せ、突然の事である。その案を告げた時、武官も文官も焦りの色を顔に浮かべていたが、それを察していたのか、郭嘉が何処からか五千人分の鎧を引っ張り出してきていた。
「お前、いつの間に」
と曹操は驚いたが、郭嘉は無表情のまま、答えた。
「想像はついていましたからね。袁紹軍のいざこざ、許攸の家族、郭図の事、全て照合すれば、容易く思いつく事です」
「む、む。流石は郭嘉」
「褒めてないで早く決行なさい。急がねばそれすら手遅れになる」
「すまぬ」
一礼すると、曹操は鎧を手に飛び出した。時は待たず、常に流れ行く。その時を無駄にする訳にはゆかず、今をも利用しなくてはならない。
兵に急ぎ着替える様に指示をし、自身も慌てて着替えた。普段身につける鎧とは質感が違い、違和感が取れないが、致し方ない事だ。
そして、今に至る。
「声を掛けられたら、蒋奇と答えよ」
曹操は、楽進に対しそう命令した。これは、許攸の言葉である。
「承知、仕りました。でも大丈夫なんですか。声とか。俺の声が蒋奇ではない、とか言われたらどうするんです。俺、蒋奇の声知りませんよ。姿も見たこと無いし」
「似せろ」
「だから、俺は蒋奇を見た事ないんですって。そんな無茶苦茶な事命令されても、俺には無理ですよ」
「雰囲気で似せろ」
「だから、俺は姿すら見た事無いんですってば。曹操殿、俺の言葉、聞いてますか」
「念じておけ」
「俺は黄巾党の残党では無いんですけど。于吉道士の弟子でも無いです。ただの兵です」
平行線を辿り始めた二人の会話は無視し、夏侯淵は弓を上げた。
「いざ。烏巣へ、出陣せん」




