裏切り者は光と共に
汝南、曹仁敗北。
その知らせは、忽ち曹操軍に広まった。
「汝南で、曹仁殿が負けたんだってよ」
「相手は劉備だったって噂じゃないか。奴等、袁紹についていた筈だよな。俺達もそんなのと刃を交えないといけないのか」
「死にたくねえなあ。いっそ、袁紹につくのも良いのかねえ」
「それは俺も考えていた所だが。...しっ、曹操殿が来る」
会話をしていた兵士が、慌てて幕舎に入っていったのを、曹操は見た。会話内容も、聞こえていた。
「引きずりだしますか」
傍らにいた徐晃が問う。
「構うな。曹仁が敗北したのは事実だ」
「しかし、広まっては我が軍にも」
徐晃は士気を案じている。兵が逃げ出せば、その分兵が混乱する事を、徐晃は楊奉、そして郭多の件で痛感していた。
曹操としては、案ずるな、と言いたい所だが、生憎口に出せる程の自信を持ち合わせてはいなかった。現に今、兵糧が底を尽いており、そろそろ曹操自身も弱音を吐きたい所であった。
「事実は事実だ」
辛うじて、それだけは言えた。
このままでは、負ける。いたずらに兵を失うのは、避けたいところだった。
「何とかならないものか」
曹操は頭を抱えた。ここを一旦退き、兵力の補充をするのも悪くは無い。だが、再び攻め入った時、袁紹の地が、更に盤石なものになっていたとしたら、恐らく曹操では太刀打ちできない。そうとなると、今が期になる。
だが、今は兵糧が無い。許昌にはその旨を知らせる為に手紙を送ったが、いつになっても音沙汰が無い。
退くか、退かずに攻め入るか。何にせよ、良い結果は齎せそうに無い。考えれば考える程、頭痛が激しくなる。
「孟徳。孟徳」
頭を抱えている曹操の元へ、夏侯惇が慌ただしく入って来た。
「何だ、騒がしい」
「お前に会わせろと、しつこく言ってくる奴が外にいるんだ。どうすれば良いよ」
「何者だ」
「許攸、とか言う名前だったか」
夏侯惇の言葉に、曹操は面を上げた。許攸。その言葉に、一筋の光が差した気がした。
許攸は、同郷の友だ。確か袁紹軍についていた筈だが、わざわざ此処に来た理由は何なのか。降伏でも勧めに来たのか、そう頭では思っておくことにしたが、戦況が変わる、その予感と、しぼんでいた内の期待は膨らみつつあった。
「会おう。許攸には、何かある」
その直ぐ後、許攸が悠々とした態度で入って来た。手には見覚えのある書簡を持っている。
許攸の顔を見た途端、ああ、と曹操はかつての記憶を思い出していた。許攸の、平凡な顔でありながら、捻くれたようにも見えるその目は、当時の記憶と何一つ変わってなどいない。
「久々だなあ、曹操」
声まで変わらない。歳を重ねたにも関わらず、声は当時の記憶を封じ込めていたかの如く、何も変わらない。
「おお、許攸」
穏やかに接する曹操に安堵の念でも感じたのか、許攸は曹操の前に座る。
「俺は袁紹を見間違えていたのかもなあ。袁紹は奔走の友ではあったが、こうして曹操に降った以上、もう戻る事は無いだろう」
「袁紹が、どうかしたかね」
「少しな。だが、もう俺の家族は助からん。俺も袁紹の元にいれば、近い内に死ぬだろう。そう確信し、此処に来た。で、だ。お前の所は、兵糧が無いんだろう。あとどれ位なのだね」
その言葉に曹操は顔を僅かに青ざめさせたが、努めて平静を装い、「あと三月」と答えた。が、許攸は手を横に振る。
「嘘つけ。此処で嘘をつくかお前は」
「む、確かに嘘である。実の所、一月程度しか残ってはおらぬ」
が、それも嘘だと許攸には気付かれているらしく、許攸は目尻を僅かに上げた。
「冗談はよせ。俺は知っているぞ。明日の分もあるか無いかの瀬戸際に立っているくせに」
許攸の発言に、曹操は青ざめた。何故敵である許攸が知っているのか。まさか、袁紹軍に筒抜けだったのか。そんな不安が、曹操の心の内を過ぎる。その心を見透かしたかの様に、許攸は持っていた書簡を開き、曹操の眼前に突き出した。その字は間違いなく、曹操の直筆だった。
「何故これを、許攸が。許昌に送った筈なのに」
驚きを隠す事もせず、自身の筆を見ながら問う曹操を見ながら、許攸は胸を反らした。
「俺が捕まえたんだよ、お前の使者を。あんな所通るとか、どうかしてる」
全て筒抜けだ、その事実を知った曹操は、がくりと肩を落とした。そして絞り出すように、許攸に告げる。
「その書簡の通りだ。もう、兵糧が無い。どうしたら良いのか、検討もつかぬ」
「俺に一つ、案がある。それを用いるかどうかは、お前次第だが」
「聞こう」
曹操は即答した。この戦況をひっくり返す事が出来るなら、何でも良い。
許攸は一つ頷くと、指で地図を指しながら、きっぱりと言った。
「烏巣、そう、烏巣だ。そこを攻めろ」
「烏巣だと」
「そうだ。烏巣には兵糧がある。そこは淳于瓊という奴に守られているが、奴も奴だ、お前なら容易に落とせよう。後は、分かるな」
曹操は頷いた。その時には、曹操の頭に一つの案が出来上がっていた。




