仁義の魔王、其の姿を表す
「怯むな。攻めろ、攻めろ」
その声を合図に、兵が次々に乗り込んでくる。
許昌から直ぐ側、汝南。そこでは、劉辟が中心となり、曹操軍に反乱を起こしていた。
「くそっ」
曹仁が片膝をつく。直ぐ側に、首の無い馬が倒れていた。想像以上に、劉辟の軍はしぶとい。最初は大した事ではないと、高をくくっていたのだが、実際は驚愕では済まない程に敵は強かった。
それもその筈か、と曹仁は額に浮かんだ冷や汗を拭う。肩で息をしながらも、眼前に立っている人物を、睨めつけた。
相手は、劉辟と言うよりは──。
「なんでえ、曹仁なんてこんなもんかい」
目の前の人物は、退屈そうに蛇矛を振り回している。睨めつける曹仁よりも、更に恐ろしい形相で、逆立った虎髭が余計にその顔を際立たせる。
「強えと聞いたから、楽しみにしてたってのに。外れか」
曹仁は何も言い返せなかった。周りの兵が、血飛沫を上げて次々に倒れてゆく。血溜まりが、男の通った道となっていた。
劉備軍。今、曹仁の眼の前に立っている男は、劉備軍の中でも関羽に次いで恐ろしいとされる、関羽の義弟、張飛だった。
「何故、此処に劉備軍が」
「袁紹の野郎に、劉辟の救援を依頼されてな。面倒だったが、此処に来たって訳よ」
あまり望んでいなかったのか、張飛は明らかに不機嫌だ。蛇矛を曹仁の首に向けるが、それでも首は斬らず、退屈そうに柄で首を叩いてくる。
首は斬るな、とでも命令されたのだろうか。ふと、曹仁はそんな事を考えていた。
「張飛殿、その辺で良いでしょう。此方は面白いものが捕れましたよ」
「俺に指図すんな」
張飛が蛇矛を肩に担ぎ、声の主の方を向く。同時にまた一人、兵が倒れた。
最悪だ、と曹仁は内心、舌打ちした。元々、死ぬ覚悟は出来ている。だが、劉備に殺されたくは無い。
「おや、曹仁殿、屈辱で顔でも歪んだのですか」
孔明が大鎌を片手に、立っていた。片手には、気を失い、青ざめたままの蔡陽がぶら下げられていた。
孔明にだけは、殺されたくなど、無い。曹仁は黙ったまま、眉を動かした。張飛は目を動かすと、ややあって「ああ」と蔡陽を指差す。
「ああ、それって、蔡陽か」
「そうです。雑兵に混じっていたので、次いでに、と。さて、良い物も捕れたことですし、そろそろ良いですよ。麋竺」
麋竺、と呼ばれるや、血溜まりの中から一人の男が起き上がった。全身血だらけなのだが、それを拭う様な真似はせず、何でも無い事の様に近寄ってくる。曹操軍と同じ鎧をしており、曹仁は今の今まで気付かなかった。
「良くやりました。他の方々も、もう良いでしょう」
「他の、だと」
曹仁が声を上げる。振り向くと、先程まで曹操軍だった兵士が皆、旗を捨て、代わりに劉備軍の旗を掲げた。
「これは一体」
曹仁は驚きの余り、自身が疲れていることも忘れ、蹌踉めく足で立ち上がった。それを見ていた孔明が、口元に笑みを浮かべながら事実を語り出す。
「貴方が率いていた者、皆、私が差し向けた兵にすり替えておきました。糜竺を中心に、ね。最初にいた本当の曹操兵は、今頃井戸の底にでも沈んでいる事でしょう。面白いでしょう。貴方がつい先程まで味方と思っていた者達が、皆、敵だったと言う事です」
「いつの間に」
「さあ。いつでしょうね」
孔明がそこまで言い終わった時だった。曹仁の身体を、震えが襲う。見ると、側にいた張飛も、背筋を伸ばして遙か先を見つめている。
一つの影が、此方に近付いてくる。
全身白銀の鎧に、深緑の如き深い緑の衣を纏い、兜は天に昇る如く生き生きとした龍が描かれている。目は鋭く、矢では済まない程の鋭い眼光を備えていた。
耳朶が肩に付く勢いで伸びており、それがただその人だと言うことを物語っていた。
劉備、玄徳。
曹仁は無言で、眼の前にいる者を見つめた。劉備もまた、鋭い目付きで曹仁を見返す。
「孔明よ」
劉備の声は、尖っていた。鼓膜に剣を突き立てられる様な、抗えぬ者を思わせる様な、何にせよ曹仁には逆らえそうも無い声だった。
「は。何なりと、お申し付けを」
「殲滅は済んだのか」
「勿論、この通りでございます。曹仁、蔡陽を除いて、ですが」
劉備は何も言わず、馬上から孔明を見下ろしていた。孔明もまた、頭を垂れながらも上目遣いに劉備を見る。
突然、劉備が剣を抜いた。同時に孔明も、鎌に蔡陽を引っ掛け、持ち上げる。
何をする気だ、と曹仁は声にならない声で言った。だが、心の内では、既に分かりきっていた事だった。
その後は、一瞬だった。
蔡陽の首が、地に落ちる。
鎌に引っ掛けられた首の無い身体も、地に落ちた。地に落ちた身体を一瞥した劉備は、曹仁を見ることもなく背を向ける。
「行くぞ、孔明、張飛」
「兄者。曹仁はどうするんだ」
張飛の問には、孔明が答えた。
「首は、そのままにしておきましょう。まだ、生きて貰わねば」
三人の背後を、糜竺、そして兵が追う。
曹仁は、そのまま力無く倒れ込んだ。




