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第5話「manus(手)」

駅から少し離れたところに立つ雑居ビルの三階。外に看板は無く、階段の入り口に付いている集合ポストに手書きのプレートが貼ってある。

字は汚いけどプレート自体は古くない。私は書かれた文字を確認して汚い階段に踏み出した。エレベーターの無いビルを、三階まで昇る。息が切れる。我ながら本当に体力が無い。

三つ並ぶテナントの真ん中のドアに、ポストのプレートと同じ筆跡で大きめのプレートが貼ってある。


『加東探偵事務所』


私は三回ノックした。

「すいませーん、いますかー?」

反応は無い。再び三回ノック。すると今度は、ゴソゴソと人が動く気配がした。

「あー、誰だー、こんな朝から」

もう10時なのに、いかにも叩き起こされたと言いたげな声だ。

ガチャン、と大きな金属音がして、重たいドアが少し開く。

目があった。

「加東さん、お久しぶりです。九十九署の闇無です。闇が無いと書いて」

無言でドアが閉まっていく。

「ちょっと!」

私はとっさに足をドアにはさんだ。加東はあろうことか、はさんだ私の足をガンガンと蹴り始めた。

「何だよ、お前!何しに来やがった!この、この!足引っこめろ!」

「あ、その靴、作業服!ってでっかく看板に書いてある店で買った安全靴ですから、痛くもかゆくもありませんよ。でも警官への暴行は暴行ですから、早めにやめた方がいいかと思います」

「ぐう……」

小さなうなり声を上げて、私の足へのキックは止まった。しばらくしてドアが開く。

「どうも。改めまして、九十九署の闇無です。闇が無いと書いてくらなしと読みます」

「どうでもいいよ、そんなこと」

加東はランニングにボクサーパンツという格好で出っ張ったお腹をボリボリかいている。ボサボサ頭のまま大あくびして。

「あの、一応女性の客が来たわけですから、服くらい来てもらえませんか?」

「客じゃねえし」

「客ですよ。今日は午前半休取って来ました。だからプライベートです」

「はあ?」

眠そうな目を片方だけ開き、加東は私をにらんだ。

「仕事の話か?」

「そうですよ。だから服を着てくださいってば」

まったく、仕事のためとはいえ何で朝からおじさんの体毛を見なければいけないのか。この世は理不尽だ。


しばらくして、加東が黒のジャージを着て現れた。ご丁寧にコーヒーまで出して。

「このマグカップ、清潔ですか?」

「イヤなら飲むな」

彼は正面のソファにどっかりと座り、そっぽを向いた。やれやれ。まだ私に投げ飛ばされたことを根に持ってるのかな?

私は私はコーヒーを一口飲みながら、それとなく事務所内を見回した。

加東探偵事務所は、お世辞にも近代的とも洗練されているとも言えないけど、意外にもこざっぱりと片付いた事務所だった。本棚には心理学の本が並び、窓際には観葉植物。部屋の真ん中に小さなテーブルがあって、それをはさむように置かれているソファはふかふかの座り心地だ。

「意外と綺麗な事務所ですね。もっと、名前のわからない虫が飛んでるところを想像してました」

「失礼すぎるだろ」

「ビルが古かったので」

「家賃が安かったんだよ。その分いいソファを買った。リサイクルショップだけどな」

加東は一つ大あくびをした。

「だいたい、うちは12時開店なんだぞ。二時間も前に叩き起こしやがって。こんな早く起きたのは久しぶりだ、まったく」

「良かったじゃないですか。健康にいいですよ」

「で、何の用だ。俺は昨日、お前らのせいで一日中取り調べ受けて警察にはうんざりしてんだ。しばらく関わりたくないね」

「人を、探してほしいんです」

「……ほお」

加東がこちらに向き直り、タバコに火をつける。

「タバコ、やめてもらっていいですか?」

「やなこった。俺の事務所だ」

「私が嫌いですか?」

「ああ、嫌いだね。出会い頭に投げ飛ばされて、横暴な取り調べで一日つぶされて、楽しい朝寝を邪魔されたんだ。好きになれるわけないだろ」

言って、鼻と口の両方から煙を吐いた。

私は顔をしかめて手をパタパタを振った。

「こっちに吐かないでください!髪ににおいがつくんですよ、もう」

「フン」

「そういえば、佐野さんからの依頼料、結局取り損ねたんですよね。家賃払えるんですか?」

ピクッ、と加東の手が止まる。

「何が言いたい」

「無料で警察に協力しろなんて言いません。仕事として、人探しをしてほしいんです。きちんと正規料金は払います」

加東はタバコを灰皿で押しつぶし、言った。

「……お前さんと一緒にいたあの兄ちゃんは、この事知ってるのか?」


昨日。

安藤さんからの電話で時田さんという名を聞いた私は、しばらく考え込んでしまった。佐野さんの手帳にあった"T"は確かに時田の頭文字だ。だけど"T"が人名だと決まったわけではないし、Tで始まる苗字なんて山ほどある。そんな段階で、私から灰川さんに何が聞ける?

会議室に戻り、手帳を調べる灰川さんの横顔を見つめる。

どんな職場でも、尊敬できる先輩はいる。だけど辞めただけで抜け殻になってしまうような慕い方はちょっと特別だ。灰川さんは師匠みたいな人、と言っていたけど、本当に師匠と弟子のような関係だったのかもしれない。灰川さんは、佐野さんの手帳の"T"の文字が、尊敬する師匠かもしれないという可能性を、少しでも考えているのかな?

だけど、もしも、もしも佐野さんが最後に会った人間が"T"なら、犯人は必然的に。

「電話、すんだの?」

灰川さんがこちらを向いて言った。

「ええ、はい。すみました。すみません」

「どっちなんだよ」

灰川さんが笑った。

もしも……私が時田さんという名前を出して、その"T"は時田の頭文字じゃないかって言ったら。

彼はもう、笑ってくれなくなるのかな。


「灰川さんは知りません。私の独断です」

「ふうん、ま、そりゃいいや。で、誰だよその探す人って」

「引き受けるって言ってくれなきゃ、言えません」

「どういう案件か聞かねえと引き受けられねえだろうが」

しばらく二人でにらみ合う。私は小さく息をついた。

「わかりました。探してもらいたいのは、五年前に九十九署を辞めた刑事です」

「刑事だあ?そんなもん、そっちで探せばいいだろう。言っとくけど、探偵の調査能力なんて警察に比べたらゴミみたいなもんだぞ」

「それは知ってます」

「否定しろよ」

「警察のデータベースで調べようとしても、今は管理が厳しくて、理由を紙に書いて上司に印鑑もらわないといけないんです」

「そいつは面倒くせえな。記録も残る」

「でしょう?」

初めて意見が合った。

「要するにお前さんは、職場の誰にも内緒で、その元刑事の居所を探したいわけだ」

「そういうことです」

加東はソファにもたせかけていた体を起こし、前のめりになった。そして下から私をにらみ上げた。

私は後ろにのけぞりたい気持ちをこらえ、唇を引き締めた。ここで引いちゃダメだ。

「あんた……そいつが佐野をやったとにらんでるのか?」

「捜査状況に関わることは言えません」

「今は半休取ってプライベートなんだろ?」

「職業倫理です。あなただって、佐野さんの依頼内容なかなか言わなかったじゃないですか」

「フン。ま、理由は何でもいいや」

面白くなさそうに鼻を鳴らし、ソファから立ち上がる。そして一枚の紙をデスクから持ってきて、再び座った。

「何ですか?」

差し出された紙を受け取って、私は聞いた。

「料金表だ」

「料金……うわっ!高っ!何ですか、これ。法外ですよ!」

「イヤなら他に行ってくれ。別にぼったくってねえよ。相場だ」

「くっ……」

この依頼料で買えた服や靴が、脳内を走馬灯のようにぐるぐる回る。

「わかりました。まず半分払います。残りは成功報酬で」

「おいおい、そりゃねえぜ」

「払い方について詳しく書いてないってことは、応相談ってことですよね」

「ちっ、わかったよ。それでいい」

「あ、あと」

「まだ何かあんのか?」

面倒くさそうな顔をする加東に、私は言った。

「今いる所と、今何をしているのか。それと大体の行動範囲。それだけ分かれば十分です。だから絶対、直接接触しようとしないでください」

「何だよ、心配してくれるのか?俺に惚れた?」

「私は真面目に言っています」

「わかった、わかったよ。怖い顔すんな。俺だって商売でやってんだ。命まではかけねえ。やばくなったら逃げるさ」

加東はもう一本、タバコに火を点けた。

「で、何て名前なんだ?」


「安藤」

お昼の十二時。鑑識課の入り口に、灰川さんがやってきた。

「あ、はい。今行きます」

私は荷物をまとめて席を立つ。後ろの席の先輩が声をかけてくる。

「お、知可ちゃん、彼氏とランチ?」

「違います!九十九の灰川さんです。知ってるでしょう?」

「ああ、そうだっけ。まだ彼氏じゃないのか。がんばれよ」

「だから違いますって!仕事です」

キツく釘を刺しながら、入り口を伺う。今の会話、灰川さんに聞かれたかな。

私は仕事用のバッグを抱えて鑑識課を出た。

「お待たせしました」

「おう、行けるか?」

「はい」

灰川さんと並んで廊下を歩きだす。

「捜査本部の方はどうですか?」

「今は一課が犬の毒殺事件の方を重点的に洗ってる」

「それで?」

「寺町付近に営業を派遣してる会社と近所への聞き込みを照合したら、一人だけ、どの会社もうちの者じゃないっていう男が浮かび上がった」

「やったじゃないですか!」

「でもそこまでだ。分かったのは、年は大体三十代で、中肉中背のこれと言って特徴のない男だってことだけ。ああ、でも愛想は良かったって」

「それ、全国の営業マンにほぼ当てはまりますよね」

「そう。そこで俺たちの出番だ」

私たちはあるドアの前で立ち止まる。


『情報分析捜査課』


「ここって、確か闇無が元々所属してたところだったな」

「へえ、そうなんですか」

「そういえば、あいつ今日午前半休取ったんだよね。体調悪いから病院行ってから出勤するって」

「もしかして怒ったんですか?この忙しい時にって」

「いや。どうせなら一日休んで明日万全で出てこればいいのにって言った」

私は笑いをこらえて唇を引き締めた。うん、灰川さんらしい。

情報分析捜査課、略して情報課は、実は私たち鑑識課とはあまり仲が良くない。鑑識は情報課を「頭でっかちで現場に行かないヤツら」と

軽んじているし、情報課は情報課で「鑑識は這いつくばるだけで想像力に欠ける連中」と公言している。

私はそういう不毛な争いには参加しないようにしてるけど、お役所仕事で反応の遅い科捜研よりは、情報課の方が仕事が速くてマシだと思う。

今回、私と灰川さんが情報課の一角を使わせてもらえるのも、私が普段から気を使ってお菓子を差し入れたりしてきた積み重ねのおかげだと自負している。誰も誉めてくれないから自分で言う。

「失礼しまーす」

情報課の職員から注目を浴びないよう、そそくさと奥のスペースに移動する。奥と言っても大して広い部屋ではないのでたかが知れているけど。

私は一台のマシンの前に三十枚以上のDVDをドサッと置いた。これ全部、市内のホームセンター、カーショップ、ショッピングモールのスプレー売り場の防犯ビデオデータだ。とりあえず過去一か月分。

この映像に、犯人が映っていないかを検証する超地道な仕事。しかも過去一か月分でダメなら三か月までさかのぼる予定。

「いかにもサポート業務って感じですよね」

私がため息交じりに言うと、

「そうか?この中に犯人が映ってるかもしれないんだから、むしろ直接的な仕事だと思うよ」

と灰川さんは言った。ポジティブなのか変わり者なのか。

でも。

私は隣に座って何やら書類の束を取り出した灰川さんを盗み見る。

情報課の奥の目立たないスペースで、灰川さんと並んでほぼ二人きりの作業。データの量を考えたら夜中までかかるかも。

……やばい、嬉しすぎて鼻血が出そう。役得ってこういう時に使う言葉だよね?これはもう、日ごろ真面目に頑張ってる私への、神様からのギフト。

彼が気になりだしたのは、いつからだったか。もう覚えてない。会えば親しく話すし、仲は良い方だと思うけど、ただそれだけ。今は闇無さんのことをよく構ってるけど、やっぱりああいう若くて可愛い子が好きなのかな。スタイルも細くて綺麗だし。

「安藤」

「ふおっ!?な、何ですか?」

情報課の職員が一斉にこちらを見る。

「急に変な声出すなよ」

「すみません……」

「それより、このソフト使ってくれ」

灰川さんは一枚のディスクを差し出した。

「何ですか、これは」

「組織犯罪課に同期がいてさ、借りてきたんだ。複数の映像に同じ人間が映ってないか判定して抽出するソフト。顔だけじゃなくて、身長、姿勢、歩き方まで細かく判定する。ついでに前科者のデーターベースと自動で突き合わせて知らせてくれる超便利ソフトだ」

「何で組織犯罪課がそんないいもの持ってるんですか?」

「今、コンビニとかドラッグストアで高級品だけ狙って万引きする窃盗団がいるらしくて。そいつら、盗んだものを中国人の金持ちに三倍の値段で売ってるんだと。そしてその金が反社会的組織の資金源になってると」

「なるほど。それで複数の防犯カメラに映ってる人間を抽出して、関わってる組織とのつながりを探ろうと。そのためのソフトですか」

「さすが安藤だ。回転が速い。誉めてやろう」

言って、灰川さんは私の頭をポンポンと撫でた。

「……」

「どうした?あ、これセクハラになる?」

「いえ、なりません!ちょっとその、ええと、はい、何でもありません。あ、その資料は何ですか?」

不意打ちだ!あやうく気絶しかけた。

「これは……佐野さんが過去に関わった事件のファイル。何か手がかりが無いか、今朝からずっと調べてたけど、終わらなくて。持ち込んじゃった」

「……そうなんですか」

「というわけで、俺がファイルに目を通してる間、安藤はビデオデータをソフトで解析してくれ」

「わかりました。丸投げされます」

「意地悪言うなよ。途中からちゃんと俺も見るし。それにそのソフト、コバテックっていうソフト会社が委託で作った高性能らしいから、大体一店舗につき15分くらいで終わるってさ」

「そうなんですか……」

思ったより早く終わりそう。神様は意外とケチだった。


防犯ビデオをソフトにかけて二時間ほどが経った。俺も資料を見終わり、高速早送りのビデオを凝視している。

早送りは大事なシーンを見逃すと思うかもしれないが、実際は逆で、先に見たものが記憶に残っているうちに同じものに気づけるという利点がある。もちろん時間短縮も大きな利点だけど。

二時間も一緒にいるとさすがに話すこともなくなり、安藤も黙って画面を見つめている。他に仕事もあるだろうに、上司の許可を取ってわざわざこうして付き合ってくれている。お人好しで、頼りになる同僚だ。

俺がこのソフトを借りた理由は、一つのバカバカしい思い付きだ。これだけ証拠を残さない慎重で用意周到な犯人なら、複数のスプレー売り場に商品のラインナップを確認しに行って、全ての店舗にあるメーカーをあえて選んだかもしれない。そんな偏屈で異常な人間はめったにいないとは思う。しかし板東課長は「悪くない思い付きだ。やれ」とあっさりGOサインを出してくれた。

課長の顔もかなり憔悴して見えたし、もう突破口が開けるなら一課だろうと九十九署だろうと誰でもいいようだ。進展しない捜査を管理官から糾弾されているのかもしれない。立場がちがうから共感はできないけど、同情はする。

「……?」

自分でなぜ気になったのかはわからない。ビデオの映っていたある一人の男に俺は注目した。

「安藤。ちょっと戻して」

「え?ああ、はい」

安藤がマウスを操作してビデオを数分戻す。

「何か見つけたんですか?」

「いや……そのキャップかぶった男。手のしぐさが気になって」

中肉中背としかわからない。顔はよく見えないし、年齢もわからない。同じ歩き方をする男も他の店舗のビデオには映っていなかった。

でも。

「ほら、ここ」

俺は画面を指さした。カメラは斜め上方から売り場を映し、男の右半身をとらえている。

「左手を太ももにくっつけてるけど、小指がチラチラ映ったり、消えたりしてるのわかる?」

安藤が目を細める。

「そう言われれば……よく気づきましたね、そんな細かいところ」

「これはたぶん、無意識に左手を握ったり開いたりしてるんだと思う」

「手汗をかきやすい人とか?」

「理由はわからん。でも確か、さっき見た店舗の分にも同じ映像を見た気がする」

俺は別のDVDをセットして、もう一度確認する。

「いた!こいつだ!」

さっき見た男とは、身長も体型も歩き方も全然違う。だけど体の反対側に見えるクセは同じだ。左手を握ったり開いたりしてる。

「よし、もう一度他の店舗も見直そう」

「あの……灰川さん?」

ふと安藤が、ポツリとつぶやいた。

「ん?」

彼女はなぜか急に不安そうな顔になっていた。

「ど、どうした」

「いえ、ちょっと……自分の想像したことが怖くなって」

「何を?」

「手を開いたり閉じたりするクセだけが無意識に出たとして、何で他の項目はソフトにヒットしなかったんですか?高性能なんですよね?」

「それは……そうだけど」

「もしも、もしもですよ?この男が、私たちがこうやってカメラを確認するところまで読んで、行く店ごとに靴で身長を変えたり、わざと歩き方や姿勢を変えたりしてたとしたら」

「安藤」

彼女の手は震えていた。

「私たち、とんでもないモンスターに戦いを挑んでるんじゃないかって、そう思ったら、何か怖くなって」

俺は無言で、彼女の手を握った。カタカタと震えている。

「わっ、ちょ、ちょっと、灰川さん」

「いや、これはセクハラじゃない。ほら、飛行機が怖い人にこうするのを見たことがあるから」

「セ、セクハラかどうかなんて、いちいち気にしなくていいですってば、もう」

「そ、そうか」

その時、静かな情報課のドアが勢いよく開かれた。

「すいませーん!灰川さんいますかー?」

「……」

闇無が情報課に入ってきた。あっさり俺を見つけてズカズカと歩いてくる。バッチリ目が合い、そして彼女の目が俺と安藤の手元に移動する。

「あのー……仕事中にそういうことするのはいけないと思いますよ」

俺たちは慌てて手を離した。闇無は一人ニヤニヤしている。根性の悪い女だ。

「何だよ、もう。病院はもういいのか?」

恥ずかしさを隠すように、俺は闇無に言った。

「ええ、おかげさまで。だいぶ高つきましたけど、効果はありそうです」

「ふーん。で、何でここだと?」

「板東課長に聞きました。ここで防犯カメラ映像から犯人を割り出そうとしてるって」

「そうだよ」

闇無は安藤に向き直る。

「それで、安藤さんは何で今灰川さんにセクハラされてたんですか?相談に乗りますよ」

「ちがうから!これはその、精神安定剤的なものというか」

俺はその場をごまかすように、闇無に問題の男を教える。闇無は空いているイスを引っ張ってきて、安藤の隣に座った。

「なるほど、興味深いですね。心理学的に、手のひらを握ったり開いたりするのは、不安や緊張、ストレスや葛藤をまぎらわせるための行為と言われています」

「……葛藤か」

「もしもこの男が犯人なら、普段から心に問題を抱えている可能性が高いです。もしかしたら市内の心療内科やカウンセラーにかかっているかもしれませんが、よっぽどの根拠がない限り、クライアントの情報は教えてくれません」

「そうか……」

俺は背もたれに寄りかかった。防犯カメラを意識して、あえて体型や歩き方を偽装してくる犯人。自分を客観視する知性があって、したたかだ。

でも、何でそんな手間のかかるマネをする?過程にこだわる異常性格者か?だけど、そもそもこうやって防犯ビデオを判別ソフトでチェックするなんて予想できるものか?

「あ」

二人が同時に俺を見る。

「何ですか?」

あ、まずい。佐野さんが誰かに情報を売ってたって疑惑は、課長から内緒で調べろって言われてたんだっけ。

「二人とも……秘密は守れるか?」

闇無と安藤が顔を見合わせる。

「もちろん」

そして俺に向き直り、二人とも力強くうなずいた。よし、信じよう。俺は二人を近くに手招き、声を限界まで落として言った。

「佐野さんが、もしかしたら捜査情報を売ってタバコ銭を稼いでいたかもしれない疑惑があってさ。それを課長に言われて調べてたんだ」

「ああ!だから佐野さん関連の資料見てたんですね」

安藤がうんうんとうなずく。闇無はほっぺをふくらませた。

「相棒に秘密を持つのはよくないと思います」

「相棒じゃないからいいんだ。それで思ったんだけど、売ってた情報って、具体的な事件のじゃなくて、今の県警の状況そのものじゃないかって」

「というと?」

闇無が聞いた。

「つまり、今県警はどんな組織で、どんな捜査方法があって、どんな設備があるかとか」

「理由は?」

安藤がまた不安げな顔になる。

「理由は……今回の事件のため」

俺は言った。

「佐野さんの手帳にあった"T"は、その情報を売ってた相手の名前だと思う」

「灰川さん」

闇無が言った。

「ん?」

何だか闇無の様子がおかしい。

「どうした?」

「その"T"は……元警察関係者とは考えられませんか?」

「はあ?そりゃ可能性はあるけど、ちょっと飛躍しすぎじゃないか?根拠は?」

「佐野さんの生活範囲です。みなさんの話では、佐野さんはあまり社交的なタイプじゃなかったみたいじゃないですか。そんな人が、ある日突然県警の情報を売るツテを新しく得られるとは思えません」

「そりゃまあ……」

何だ、何が言いたい?

「灰川さんは、心当たりはありませんか?佐野さんの知り合いで、警察を辞めた人。ものすごく頭が良くて、人間の心理をよく理解している人」

「闇無……さっきから何言って」

ドクン、と心臓が止まるような感触。死体が佐野さんだと気づいたあの時と同じ。

思い出した。

手を握ったり開いたりするクセ。

いつも優しくて、俺の心を超能力で読んでいるかのように分かってくれた人。

犯人の心理もすべて見透かして、常に先回りしていた頭のいい人。

俺に捜査のすべてを教えてくれて、そして、去って行った人。

「"T"は……時田さんだって言いたいのか?」

安藤が目を大きく見開く。闇無はうなずいた。

「少なくとも、調べるべき人物だと思います」

「ふざけるな!」

自分でもびっくりうるほどの大声が出た。闇無と安藤がイスの上で跳ね上がった。

「君は……君は……あの人を知らないんだ」

「灰川さん」

「大体何で君が時田さんのこと知って……安藤!お前か!」

にらみつけると、安藤は泣きそうな顔になった。

「ご、ごめんなさい。聞かれたから、名前だけ」

「もういい!」

俺は大股で情報課を出た。

嘘だ、嘘だ、嘘だ。

あの人に限って、そんな。

だけど俺が腹を立ててるのはそんな理由じゃない。闇無に言われてわかったんだ。

時田さんなら、いや、時田さんぐらいの人じゃなきゃ、こんな事件は起こせないって。

俺はトイレに駆け込み、ありったけのものを吐いた。


つづく

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