第4話「canis(犬)」
どうしよう。
私は一人、キョロキョロしながら県警本部の廊下を歩いていた。迷った。完全に迷った。
武石さんからの電話を聞いて、すぐに現場へ急行しようとした私に、灰川さんは言った。
「俺は先に行くから、君は県警の鑑識課に行ってくれ」
何だと。
「相棒を見捨てる気ですか!?」
「相棒じゃないし、見捨てるわけでもない。課長からの指示を無視して、二人で勝手に別の現場に行くわけにはいかない」
「それはわかりますけど、一緒に来てくださいよ。迷ったらどうするんですか」
「行けばわかる。着いたら、佐野さんの件の分析担当見つけて寺町まで連れてきてくれ。現地で比較してもらいたい」
「そんな勝手なことして、あの怖い課長に怒られても知りませんよ」
「心配しなくていい。ちゃんと報告してから行く」
そう言って、灰川さんは一人で足早に出て行った。上司に報告してから?ワイルドじゃないなあ。
「ねえ」
「うひゃおうっ!」
薄暗い廊下に迷い込んで泣きそうになった時、突然背後から声をかけられた。思わず変な声が出る。心臓が止まるかと思った!
「わっ!びっくりした!変な声出さないでよ!」
振り返ると、そこには青い制服を来た女性が目を丸くして立っていた。彼女も全身で驚いている。この制服は、確か。
「ご、ごめんなさい。びっくりして」
「ううん、いきなり声かけて悪かったよ。保管室に用事?」
「え、保管室?」
私は慌てて周りを見渡す。突き当りのドアの上に、「証拠保管室」のプレートが見える。
「あはははは……私、鑑識課に行きたかったんですけど、迷っちゃって」
「何だ、うちに用事なの?」
彼女は少し笑った。そうだ、青い制服は鑑識だった。
「は、はい。九十九署刑事課の闇無乃衣です。闇が無いと書いてくらなしです」
「ああ、あのFBI帰りの!あなただったんだー。へー」
行って、私を上から下まで見回した。おじさんに見られるのは慣れてるけど、同性の視線は何だかむずがゆい。
「えっと、鑑識課の方ですよね?」
「うん、そうだよ。あ、ごめんね、そっちにだけ紹介させて。私、安藤知可、A県警刑事部鑑識課所属。ちなみに28歳独身。よろしくー」
「はい、よろしくお願いします」
私も負けずに安藤さんを見回してみた。背は私と同じくらい。28には見えない童顔で、ポニーテールが可愛い。でも全体に骨太でたくましそうな感じもする。一度乱取りしてみたいな。
「じゃ、ついてきて。話は歩きながらね」
「はい」
安藤さんが振り返って歩き出す。同時に制服の下の胸がたゆんと揺れる。大きい!くっそ、負けてる!
「それで、何の事件?」
「……へ?あ、ああ、すみません。佐野さんの事件です。落書きに使われた赤いスプレーの分析結果聞いて、新しい現場に連れてきてくれって」
「昨日担当した人は今日非番だから、私が引き継いでる。現場どこ?」
「寺町です」
「寺町?……って、犬の変死事件があったところじゃないの?今別の人が行ってるけど」
安藤さんの歩くスピードは速い。追いつくのが大変だ。
「それが、はあ、また赤いスプレーで落書きがあって、はあ、現地で比較してほしいって灰川さんが」
「へー、灰川さんがね。珍しくやる気になってるんだ」
「どどど、どういう意味ですか?」
「私も去年からここに来たから詳しくは知らないんだけどね。前はやる気に満ちた期待の若手だったのに、何年か前から抜け殻みたいになった人ってみんな言ってて」
昨日帰りの車内で聞いた、辞めた先輩の話が脳裏をよぎる。
「その、尊敬してた先輩が辞めちゃったのが原因って」
「みたいね。私も周りに聞いてみたんだけど、なぜかみんな話すの嫌がるんだよ、その人のこと」
「何て名前ですか?」
「何だったかなー。忘れちゃった。私、人の名前覚えるの苦手なの」
「思い出してくださいよー」
鑑識課のプレートが見えてきた。
「ちょっと待ってて」
と言い残し、安藤さんは鑑識課の部屋に入って行った。私は両手をひざについて大きく深呼吸した。今度ジムに行って会員になろう。
私が乗ってきた捜査車両はとりあえず置いておき、鑑識課のバンで寺町に向かうことになった。
助手席に乗り込むと、運転席の安藤さんは早速パトランプを屋根につける。
「パトランプいります?」
「つけた方が速いじゃない。信号無視できるし」
ひどいこと平気で言うな、この人。
シートベルトを締めた瞬間、けたたましいサイレンとともに車両が急発進した。
「緊急車両です、緊急車両です。道を開けてくださーい!」
マイクで呼びかけながら、かなりのスピードでスイスイと道路を駆けてゆく。すごい!何て無茶な人。でも灰川さんよりよっぽどワイルドだ。
「ところでさ」
しばらく走ったところで安藤さんが言った。寺町は少し田舎だと灰川さんは言っていた。その通り、道からだんだん車が少なくなって、通り過ぎる風景に青い田んぼが増えてきた。
「赤いスプレーは、市内のほとんどのホームセンター、ショッピングモールにあるメジャーなメーカーのものだったよ」
「そうですか……それは残念です」
「プラモ屋とか、車屋にしかないマイナーなものならまだ絞れたんだけどねえ」
「出所から探るのは無理そうですね」
「でもいいニュースもある。使われた赤いカラースプレーは、科捜研の成分分析の結果、商品として製造されてから三か月以内だった」
「それがいいニュースなんですか?」
「過去三か月分、市内のホームセンターの防犯カメラ全部チェックすれば、犯人映ってるんじゃない?」
「本気で言ってます?」
安藤さんはカラッと笑った。
「無理でしょ。何日かかるかわかんないし、赤いスプレー手に取った客、全部顔分析して当たる?」
「厳しいですね」
「そういうこと。あ、あれじゃない?」
しばらく走ったところで、遠くに警察車両が見えてきた。張り巡らされた黄色いテープも見える。
「そういえばさ」
「はい」
「佐野さんの時は『今までありがとう さようなら』って壁に書いてあったんだよね」
「そうです」
「今回は?」
「『お礼はいいよ がんばれ』だそうです」
「はー?」
眉間にしわを寄せ安藤さんはうなった。
「何それ。犬を殺したのは、誰かに頼まれたって言いたいのかな」
「どうでしょう」
「FBIプロファイラーとしての意見は?」
「まだ現場を見てないので、何とも。ただ言えるのは」
「何?」
駐車スペースをやっと見つけて、安藤さんがシフトレバーをバックに入れる。耳障りな電子音が等間隔で鳴りだした。
「犬に向けたメッセージじゃないことは確かです」
安藤さんはおかしそうに笑った。
何で笑うんだよ!
「何だ、安藤が来たのか」
合流した私たちを見て、灰川さんが言った。
目の前には中型の茶色い雑種犬の死体。舌を出して横たわっている。私は特別犬が好きというわけではないけど、それでも心が痛む。佐野さんを殺した人がやったんだろうか。
背後にある大きな蔵の白壁に、赤いスプレーでメッセージが書いてある。
『お礼はいいよ がんばれ』
灰川さんは犬を見ようともせず、腕組みをしたままじっと壁を見つめている。
「お久しぶりです、私じゃご不満ですか?」
安藤さんが灰川さんに笑いながら言った。
灰川さんは首をぶんぶん振った。
「そういう意味じゃない。昨日佐野さんの現場に君はいなかったから、てっきり別の人が来るのかと」
「わかってます、冗談ですよ」
安藤さんが言うと、灰川さんは不機嫌そうに息をついた。
「こんな時に冗談なんて言わないでくれ。君の腕は信用してるから、むしろ来てくれて良かった」
「おだてても何も出ませんよ」
「鑑識が何も出ないなんて言うなよ」
いかにも馴染みの間柄、といった会話が続く。
いやだな。何かモヤモヤする。
安藤さんが青い帽子を逆向きにかぶり直し、テープの向こう側に入っていく。灰川さんは私に顔を向けた。
「闇無」
「はいっ!闇無です!」
「知ってる。君はこの落書き、どう思う?」
私たちは並んで蔵の壁を見上げた。
スプレーで書いた、と言われなければわからないほど綺麗な赤い文字。
「灰川さんから言ってくださいよ」
「えー、俺から?そうだなー」
考え込む灰川さんを、私は横目でとらえる。
背はそんなに高くなく、どちらかと言えばやせ型。顔立ちは特に悪くないけど、彼をかっこいいと言って好く人は失礼ながらそれほどいないと思う。何より、地味だ。
「もし同一犯だとしたら、二つのメッセージの向けた先は異なる」
「というと?」
「佐野さんの時の『今までありがとう さようなら』はそのまま佐野さんに向けた言葉だと思う。殺した後か前かはわからないけど」
「私もそう思います」
「でも今回は、相手が犬だ。だから犬を殺すことで誰かが喜ぶと思って殺した。その誰かに対するアピールだな」
「誰かって?」
「それを今から考えるんだよ。俺にばっかり言わせないで、君も考えを言えよ」
「灰川さんとほぼ同じです」
「何だよ、それ」
灰川さんがじろりとにらむ。私は気づかないフリをして続ける。
「でもすごく気になることがあるんです」
「何」
「犯人が、命まで奪う理由です」
「……」
「犯人と佐野さんの間に何があったのか。犬たちが誰に何をしたのか、それはまだわかりません。でも、命を奪うっていうのはよっぽどのことですよ。怒り、恨み、嫉妬。でもこの犯人からは、それらの何も感じません」
「動機が無いっていうのか?」
「いえ、そうではなく。何か、二つの事件は一つの大きな共通項でつながっていて、その先に本当の動機があるような、得体の知れない不気味さがあります」
「殺すのは目的じゃなくて、手段ってことか」
私たちは黙った。たぶん同じことを考えてる。
この事件の犯人は。
「やばいな」
灰川さんは言った。
「この事件の犯人は、目的のためなら人間の命も犬の命も大して変わらんと思ってやがる」
安藤さんが戻ってきた。
「詳しく調べないとわかりませんけど、この落書きは佐野さんの現場で使われたものと同じ種類のスプレーと見てまず間違いありません」
「筆跡は?いや、スプレーなのは分かってるけどさ」
灰川さんが聞いた。
「特にクセはありませんね。ものすごく綺麗にきっちり書いてます。普通スプレーって、慣れないと余計な線引いちゃったり、線の太さにムラが出たりするものなんですけど」
「……」
私たちの視線が安藤さんに集中する。
「何ですか?二人してじっと見て……あっ、もしかして私が元レディースとか思ってますか?違いますよ!」
「その割にはくわしい」
灰川さんが切り返す。私もうなずく。
安藤さんは足元を見て、小さな声で言った。
「……高校の時の彼氏が、ちょっとヤンチャしてて」
「なるほど。どうりで」
私たちは深くうなずいた。
「私のことはどうでもいいんです!闇無さん、プロファイラーの見解は?」
「急に振らないでくださいよ!」
「……練習、してる?」
灰川さんがポツリとつぶやく。私は安藤さんと顔を見合わせた。
「何がですか?」
「スプレーの文字だよ。犯人になったつもりで考えた。もしも路上アーティストとかスプレーを扱う専門家なら、見ただけですぐに足がつくからこんなところで技術を披露するようなマネはしない。だけどこれだけ綺麗に書けているってことは」
「どこかでひそかに練習した、と?」
「それしか考えられない」
どうしてだろう。灰川さんの顔がどこか苦しそうに見える。
私は言った。
「灰川さん」
「ん?」
「いつもそうやって、犯人の立場になって考えながら捜査してるんですか?」
「そうだけど」
「危険です、それは。おすすめしません」
「何で」
「プロファイリングは、あくまでも事実を統計的に分析して傾向を探って犯人像を絞り込む道具です。判断材料を増やすために殺人犯の心理を理解しようとは努めますが、心理的に同化するようなことはしません」
「……師匠が」
「え?」
「俺がこの仕事についてから、師匠に教わったんだ。そうやって考えろって」
「……そうだったんですか」
それっきり、灰川さんは口を開いてくれなくなった。
「おう、知可ちゃんじゃねえか。今日もいいおっぱいしてんねー」
ちょうどその時、ストレートなセクハラを口にしながら、武石さんが汗だくで戻ってきた。若手の制服警官と二人で、犬の殺害にあったお宅とその近辺に聞き込みに行っていたらしい。
「武石さん、そのうちマジで訴状送りますよ」
安藤さんは笑顔だけど、目は笑っていない。
「何か聞けました?」
とりなすように、灰川さんが聞く。こういうところは気が利く人なんだよね。
「聞けたっちゃ聞けたけどよー。ああ、もう、思い出しただけで腹立つ!」
武石さんは大変なご立腹だった。
「どうかしたんですか?」
「聞いてくれよ、乃衣ちゃん。殺害された家の近所で話聞いてたんだけど、その家に高三の息子がいてよお」
「はい」
「夜中にワンワンうるさかったから、死んでくれてラッキーとかヘラヘラしながら言ったんだぞ!信じられるか!?」
「ひどい話ですね」
それは犬がいる地域の住人たちの本音だ。でも人前では言っちゃいけない本音。
「バカなガキがいるもんですねえ。そんなこと警察に言ったら自分が疑われるとか考えないのかなあ」
安藤さんも顔をしかめている。
「武石さん、他には?不審人物とか」
「ちょ、ちょっと待て。そんなせかすなよ」
武石さんが手帳をパラパラとめくる。
「えー、あ、一応言っとくけど、ワンちゃんたちの死因はどうも中毒死みたいだ。農薬とか、ネズミ殺しみたいな。で、不審人物だけど、この辺は土地主が多いから、不動産業者やら何やらの営業がしょっちゅう回ってて、もし知らない人間がスーツ姿でうろうろしてても、誰も気にしないってさ」
「じゃあ犯人は男性の可能性が高いですね」
私は言った。もし犯人が女性だとしたら、営業のフリをして田舎町をうろついたら目立ってしまう。時代が変わっても、飛び込みの営業職は圧倒的に男性が多いから。
「あ」
安藤さんが私の背後を指さした。振り返ると、二台の車がこちらにやってきている。
「あれ……捜査一課の人じゃない?」
しばらくして、停まった車から捜査一課の刑事が数人降りてきた。その中で、ひときわ体が大きくて偉そうな男が私たちを見つけて言った。
「おい、九十九の二人は署に戻れ。ここは俺たちが引き継ぐ」
「はあ?」
思わず声が出る。しまった。ジロリとひとにらみして、私の方へ歩いてきた。
「俺は捜査一課の木野だ。ここに来たのは板東課長の意向を伝えるためだが、何か文句があるのか?お嬢ちゃん」
「……あります。何なんですか、あなたたちは」
木野は一瞬面食らったような顔になった。本当に文句を言われるとは想定外だったみたいだ。
「佐野さんの奥さんが浮気していたかもっていう話は、私と灰川さんが持ってきたのに、そっちで横取りして!今度はここで新しい落書きが見つかったら、また途中から取り上げる気ですか?あなたたち、捜査一課のくせに何もしてないじゃないですか!」
……言った。言ってやった。ちらっと灰川さんを見る。口が小さく「バカ」と動いたような気がする。
「言いたいことはそれだけか?お嬢ちゃん」
「ま、まだまだ一杯ありますけど、今日はこれくらいにしといてあげます」
木野は大きく息をついて、口を開いた。
「ここまで大っぴらに嫌われたのは久しぶりだな。あのな、嬢ちゃん」
「闇無です。闇が無いと書いてくらなしです」
「じゃ、闇無の嬢ちゃん。課長の意向はこうだ。佐野の事件とここの犬の事件は、同一犯である可能性が高くなった。理由は落書きだ。佐野の事件現場に落書きがあったことは公表してないからな」
「……それで?」
「佐野の現場は目撃証言が期待できない場所だったが、ここは人数を割いて聞き込めば手がかりがつかめるかもしれない。だから俺たちが応援に来た」
「じゃあ、私たちが帰されるのはなぜですか?」
聞くと、木野は露骨に顔をしかめた。
「佐野の女房だよ。あの女が、お前たち二人にしか話さねえってゴネやがって」
「何もしゃべらないんですか?」
灰川さんが口をはさむ。
「いや、とりあえず浮気は認めたし、相手の男のこともすぐに話した。任意同行に応じて、県警まで来た」
「アリバイは?」
「昨日は二人でデートしてたとよ。裏も取れてる。ホテルの従業員だが」
「なるほど。じゃあ、何を話さないんですか?」
「知るか。それを聞くためにお前らに戻れって言ってるんだよ!わかったらさっさと行けよ」
木野さんは不機嫌そうに、武石さんのところへ行ってしまった。武石さんは顔面蒼白だ。
「じゃ、とにかく戻ろう。安藤、あと頼む」
灰川さんが車へ向かう。私もあわてて後を追う。もう置いて行かれてたまるか!
「闇無さん」
安藤さんが呼び止める。
「はい?」
「これ」
振り返ると、小さく折りたたんだ紙を差し出してきた。
「何ですか?」
安藤さんは小声で言った。
「携帯の番号。せっかくこうやって知り合ったんだから、連絡取り合おうよ。LINEやメールは証拠が残るから、通話のみで」
「……あ、ありがとうございます。すぐに登録します」
「登録したらワン切りして。行ってらっしゃい」
安藤さんは笑顔で手を振ってくれた。
「おーい、置いてくぞー」
「わっ、待ってください!」
そそくさと助手席に乗り込む。どうしよう、顔がにやける。
九十九署の捜査本部に戻ると、板東課長が相変わらずの仏頂面で待っていた。
「遅い」
「すみません」
灰川さんが頭を下げる。別に謝らなくていいのに。
「佐野夫人は会議室にいる」
「取調室じゃないんですか?」
「もう容疑者ではないからな。ただの関係者だ」
「あの」
私が口をはさむと、鋭い視線がこちらに向いた。
「何だ」
「浮気相手って、どんな人だったんですか?」
「聞いてどうする」
「さ、参考までに。話のとっかかりになればと」
「ネットで知り合った、同い年の男だ。証券会社に勤めている。ほとぼりが冷めたら結婚する予定だそうだ」
「そう……ですか。ありがとうございます」
「わかったら早く行ってくれ。もう40分は待たせている」
第二会議室には、佐野さんの奥さん、静香さんが一人で端っこに座っていた。両手を机の上に置いて、視線は宙を見ている。
「奥さん」
灰川さんが声をかけると、静香さんは一瞬驚いてから、ほっとしたような顔になった。机とイスを移動し、静香さんに対面して座る。
「すみません、遅くなりました」
「いえ、こちらこそ。わがまま言ってお呼びだてして」
「その……取り調べは、きつかったですか?」
灰川さんが聞くと、静香さんは弱々しく笑った。
「きついというか……担当の刑事さんが、最初から私と彼の共犯っていうストーリーに乗せようとしているみたいで。それがすごく怖かったです。何を答えても、こじつけられたり曲解されたりするんじゃないかと思って」
「そういうところは、確かに警察にはあります。でも最終的には、物的証拠が大事ですから。それより」
「はい」
「探偵に会ったのは本当に偶然で、会ってしまったからには報告しなきゃいけない立場なので。何というか、私たちのせいで恋人の存在がバレてまずい立場になってなければと」
「ああ、そのこと」
静香さんは言った。
「それはむしろ先に知ってもらっていて良かったと思ってます。隠して調べられてからバレたら、もっと心証を悪くしていたかもしれませんし」
「そう言ってもらえると助かります」
灰川さんは小さく頭を下げた。私は……素直に頭を下げられない。この女性を見ていると、なんだかモヤモヤしてしまう。
「それで、その、私どもにだけに話したいというのは……」
「はい、これです」
静香さんは一冊の手帳を差し出した。黒い小さな手帳。多少の使用感はあるけれど、ボロボロでもない。
「これは……佐野さんの手帳ですか?」
「はい」
「中を見ても?」
「どうぞ」
灰川さんが手帳をパラパラとめくりだし、私は横からのぞき込む。
中には、今年一月からの様々な予定が書いてある。でもその内容は、マンガの発売日とか雑誌の発売日とか、はっきり言ってしまえば取るに足りない用事ばかりだ。
「ん?」
灰川さんが手を止めて、めくる方向を逆に戻していく。何か見つけた?
「奥さん、この毎月15日の欄に書いてある、"T"って何ですか?」
手元をのぞき込む。確かに"T"とはっきり書いてある。メモは事件があった日付で止まっている。そこにも"T"と書いてあった。少し急いだような走り書きで。15日じゃないのに。
静香さんは身を乗り出して、声をひそめた。
「さっきの刑事さんたちには、月に一度タバコをまとめ買いに行く日だって説明をしました」
タバコ。英語で"tobacco"。合ってる。
「本当は違うんですか?」
「いいえ。タバコは本当に買って帰ってきていたので、嘘ではありません。でも、後からおかしいって思いなおしたんです」
「なぜですか?」
私も身を乗り出して顔を寄せる。
「だって、給料日は21日ですよ。給料前の一番厳しい時期にわざわざまとめ買いしに行くなんて、変じゃないですか。銘柄だって、どこでも買えるものなのに。それに、タバコを買ってこない日もありましたし、そもそも昨日は15日じゃありません。だからその"T"って、タバコじゃないのかなって」
「行き先は聞かなかったんですか?」
灰川さんが聞くと、静香さんは口ごもって下を向いた。
「あの……私も、その、言えない用事でよく外出していたので、あんまり聞くとヤブヘビになりそうで、聞けなかったというか」
「……よくわかりました」
手帳を見つめ、灰川さんが考え込む。この奥さんを見てモヤモヤした理由が分かった。私、この人嫌いだ。
「静香さん。どうして私たちにだけ話そうと思ったんですか?最終的には課長に報告することになりますし、結果的にあまり変わらないと思いますけど」
少々キツめの言い方で私は言った。灰川さんの咎めるような視線が痛い。
少しびっくりしたような顔になり、静香さんは言った。
「そう……ですね。結果は同じだと思います。でも、昨日来てくれたあなたたちなら、何も決めつけずに話を聞いてくれそうな気がして……」
とりあえず手帳は灰川さんが預かることになり、静香さんは席を立った。
「あの」
灰川さんが静香さんの背中に呼びかける。
振り返る静香さんに、彼は言った。
「佐野さんは僕の相棒でした。そりゃ、下品な冗談ばっかり言ったり、何かお菓子ないかって人の机の引き出し勝手にあさったり、武石さんと二人で女性職員にセクハラして問題になりかけたり、本当にどうしようもない相棒でしたけど。それでも、僕には大事な相棒でした」
静香さんは黙って聞いている。
「だからその佐野さんを裏切って傷つけていたあなたに、お幸せになんて言えません。でも、亡くなった人間を気にして生き残っている人間がしたいことをあきらめるのは、バカげているとも思います」
「……」
「だからその、これから色々大変かもしれませんが、がんばってください」
「……ありがとう。あなたも、がんばって主人の仇を討ってください」
静香さんは深々と頭を下げて、会議室を出て行った。
数秒待って、私は口を開いた。
「灰川さんは、人が良すぎます。私はあの奥さん嫌いです」
「そういうこと言わないの」
言って、灰川さんは手帳をもう一度めくり始めた。
「"T"……」
その時、私のスマホが音を立てた。
「ごめんなさい、ちょっと出てきます」
「んー」
廊下に出て画面を確認する。さっき登録したばっかりの安藤さんだ。
「はい、もしもし」
「あ、どーも。安藤です。今いい?」
「はい、大丈夫です。何か進展はありました?」
「んー、特にないねー。蔵の前は草が多くて足跡も取れそうにないし、他の三つの現場も空振り。目撃証言も、お年寄りが多くてあやふやでね。でも、電話したのは別の用事」
「何ですか?」
「ほら、話したでしょ?灰川さんの師匠にあたる、辞めた先輩」
「は、はい!」
「名前、思い出したの」
「な、な、何て人ですか?」
どうしよう。バレたらコソコソ探ったみたいで嫌われちゃうかな?でも知りたい!
「時田さん。時田春哉って人だったよ、確か」