第3話「rufus(赤)」
むせながら喉を押さえる加東を見て、俺は何となく頭に浮かんだことを口にした。
「お前……佐野さんに雇われてたのか?」
「ぴょっ!」
おかしな音を立てて加東がせき込む。闇無が俺を見て、佐野さんのマンションの方を振り返り、加東を見た。
「バ、バッキャロウ。探偵が依頼人を明かせるかよ」
加東がそっぽを向く。しかしもう遅い。
「これはお前のために言っている。今は詳しく言えないけど、明日ある事件が報道される。重大事件だ。今ここで俺に話しておかないと、後から立場がマズくなるかもしれないぞ」
「何だよ、それ。そのくらいの脅しでびびってたら、探偵なんてやっていけねえぜ」
「うちの県警の捜査一課は、この子の十倍は荒っぽいぞ。それに一度容疑をかけられたら、なかなか帰してもらえない。あいつらは間違えた時の謝り方を知らないからな」
闇無が何か言いたげな顔をしたが、気づかないフリをしておこう。
「奥さんの浮気調査ですか?」
闇無が何の前置きも無く口をはさんだ。加東は目と口を一瞬大きく見開き、大きく息をついた。
「わかった、わかったよ。何だあんたら。大体調べがついてんじゃねえか。だから刑事は嫌いだ。意地が悪い」
言って、尻を払いながら立ち上がる。
「とりあずそこの公園のベンチに行こうぜ。これ以上路上で問い詰められるなんてごめんだ」
夜の公園で、三人でベンチに座る。
加東が今日わざわざこのマンションまで来たのは、佐野さんが待ち合わせた喫茶店に来なかったせいだった。携帯に連絡してもつながらないので、帰ってくるところを押さえて料金を請求しようと張り込んでいたらしい。そこでたまたま、奥さんに訃報を伝えに来た俺たちを見て、何者なのかと尾行したという話だ。余計な事しなきゃ投げ飛ばされることもなかったのに。
加東は缶コーヒーを一口飲んで、口を開いた。
「佐野が俺の事務所に来たのは、三か月くらい前だな。嫁の様子が最近変だから、浮気してないか調べてほしいって。公務員としか言わなかったし、刑事になんて見えなかったなあ」
そう言って、夜空を見つめた。
「様子が変っていうのは、具体的には?」
俺が聞くと、加東は笑った。
「そりゃお前、服やメイクが派手になったとか、一人で出かけることが増えたとか、旦那の言うことは大体決まってる」
「その旦那の疑惑が当たってる確率は、どれくらい?」
闇無が聞いた。加東はチラッと彼女を見て、目をそらす。さっき投げ飛ばされたことをまだ引きずっているのかな。
「きっちり統計取ったわけじゃねえが、俺の印象では七割くらいはクロだな」
「今回は?」
今度は俺が聞く。加東は顔をしかめた。
「そんなはっきり聞くなよ。依頼人にもまだ報告してねえっつうのに」
「それは……もう気にしなくていい」
闇無と何となく目が合う。その様子を見て、加東が口をぽかんと開けた。
「おい……ウソだろ。マジかよ。ひょっとしてあの佐野って男、死んだのか?」
「そんなはっきり聞くなよ」
加東は口をへの字にして黙った。そして缶コーヒーを一気にあおる。
「その、あれだ。あの佐野って男は、刑事だけあっていい勘してたってことだけ言っとく」
「……そうか」
ちらっと闇無を見る。さすがにこの状況で「言った通りでしょ?」と言うような人間ではないようだ。少し安心する。
「もう帰っていいか?報告する相手がもういねえんなら、ひどいタダ働きだ。飲まなきゃやってられねえ」
言って、加東は立ち上がった。
「最後にもう一つ」
「何だよ」
「佐野さんがお前の事務所に来た時、何か変わった様子は無かったか?」
「探偵事務所に来る人間なんて、みんな挙動不審だ」
「それでも。何か思い出してくれよ」
「うーん」
加東はあごをさすりながらうなった。
「あ、そういや」
「何だ?」
「本当に、何でもないことだから怒るなよ?佐野に調査料金のこと話した時、『せっかくタバコが好きなだけ吸えるようになったのに。値上げするか』ってポソッと言ってたな。全然意味わからんかったが」
とりあえず加東の住所と電話番号を控え、町を出るなと釘を刺しておいた。明日連絡が取れなかったら指名手配になるぞ、とおどしておいたが、どこまで効果があるやら。
俺たちは無言で車に戻る。
闇無は助手席に座るなり、
「ほら、言った通りでしょ?」
と得意満面の顔で言ってきた。車の中までよく我慢した、と評価するべきか。
「確かに君の言った通りだった。鋭いな」
闇無が小さくガッツポーズする。
「でも灰川さんも、なかなか鋭かったですよ。何であの人が佐野さんに雇われてたって一発で分かったんですか?」
なかなか鋭かったか。
「俺がバッジ見せた途端に、あの野郎公務員なんて言いやがってとか何とか言ってたろ?」
「はい」
「前に佐野さんが、職業聞かれたら公務員て答えるようにしてるって言ってたの思い出してさ」
「……そうなんですか」
「しかし、あの探偵もかなりおっちょこちょいだな。俺たちが警察だっていっても、別に佐野さんが刑事だと決まったわけでもないのに。わざわざしゃべってくれて」
「内心ただの公務員じゃないって、少し疑ってたんじゃないですか?それですぐにピンときたとか」
「じゃあ、見た目より優秀なんだな、あいつ」
「それはどうですかね」
「何にせよ、そのおかげで話が早く済んだよ。さて、戻って報告して、帰ろう。今日は色々あって疲れた」
「はい。お願いします」
車を発進させてしばらくしてから、闇無が口を開いた。
「灰川さん」
「ん?」
「佐野さんて、どんな方だったんですか?」
「初日の勉強会で会ったろ」
「そうじゃなくて。その……相棒だったんでしょう?」
「ああ」
そう言われて思い出す。
「そうだな……お世辞にも、やる気にあふれるタイプじゃなかったな」
「わかります。勉強会の時も、彼氏はいるのかとか、どんな男がタイプかとか。そんなことばっかり聞いてきて」
「だろうね。刑事としても、特に有能でもなかった。全く無能でもないけど」
「そうなんですか」
「でも」
俺は言った。
「五年前さ、刑事になって最初の相棒が急に辞めちゃって。相棒って言っても、俺に捜査の基本を教えてくれた師匠みたいな人なんだけどね。で、俺はやる気無くなって一人でルーチンワークみたいな仕事をだらだら続けてて」
闇無が黙ってうなずく。
「その時、俺と組まないかって最初に声をかけてくれたのが佐野さんだったんだ。あれはちょっと嬉しかったな」
「いいところもあったんですね」
「少しはね。先輩だけど、俺の好きなようにさせてくれたし」
「つまり、距離感が丁度いいということですね」
「そういうことかな。当時は救われたよ。だから」
俺は思わず言葉に詰まった。やばい。
しゃべってるうちに、佐野さんに会いたくなってきた。
「だから、あんなひどい殺し方をした犯人は、絶対に捕まえたいんだ」
奥さんに浮気されて、顔面をむちゃくにされて、髪までなぜか刈られてゴミのように捨てられていた。人は死に方を選べないけど、あんまりだ。
「あの、最初の相棒さんは、何で辞めちゃったんですか?」
闇無が聞いた。
「それは……そのうち話すよ」
交差点。ここを曲がれば署だ。俺はハンドルを切った。
翌日。
出勤した時から、九十九署にはピリピリとした雰囲気が漂っていた。普段はガランとした会議室にマイクやらプロジェクターやら、色んな機材が運び込まれている。
現職警察官の殺害事件だ。メンツを重んじる警察としては早期解決をはかりたいところだろう。本来なら特別捜査本部は捜査が長引いたときに設置されるものだけど、今回は異例の速さで『A駅北町殺人事件特別捜査本部』の戒名が入り口の横に貼られている。
昨日、板東課長に探偵の加東との話を伝えたところ、「明日の最初の会議に出席して、改めて報告しろ」と言われてしまった。県警本部の刑事たちの前で発言か。気が重い。闇無に代わってもらおうかな。
「よう」
「あ、おはようございます」
武石さんが手を上げ、声をかけてきた。まだ夏前なのにすでに汗をかいている。
「その……大変だったな、昨日は」
珍しく神妙な顔だ。いつも人事の話を嬉しそうにしているところしか知らないので、新鮮だ。
「いえ。何か、今でも信じられないです。現実感が無いというか」
「わかる、俺もだ。お前も会議に出るのか?」
「はい、末席ですけど。武石さんは?」
「俺は別件だ。大量変死事件の捜査に行く」
何だって。
「さらっと言わないでくださいよ!本当ですか?そんなすごい事件なのに全然報道されてませんけど」
武石さんは心底悲しそうな顔で首を振った。
「しょせん人間なんてそんなもんだ。普段は家族同然だの言いながら、いざという時は手のひらを返す。同じ命なのに」
「……ひょっとして、動物の事件ですか?」
「寺町でな。今朝、複数の家で飼ってる犬が倒れてたらしいんだ。しかも近隣の家で四匹同時に。それで通報があった」
「それは……確かに自然死とは思えませんね」
武石さんは無類の動物好き、特に犬が大好きだ。普段組織や人間関係のゴシップばかり気にしているから、犬しか信じられなくなったのだろうと俺は分析している。
「署長に誰か貸せって言ったら、犬は物損だから一人で片づけて来いってさ。ひどい話だと思わないか?」
「そうですね」
ごめんなさい、武石さん。俺も署長に賛成です。佐野さんの事件の方が大事です。
それでも、武石さんの顔があまりに切なそうなので、俺は思わず言った。
「どうせ俺らは本筋の捜査には触らせてもらえないと思うんで、人手が足りなかったら電話して下さいよ」
「おお、そうか。そうさせてもらう!」
あ、まずいこと言ったかな。面倒なことにならなきゃいいけど。
捜査会議が始まった。そろそろテレビに報道される頃かな。朝刊はまだ身元不明の遺体という表記に留まっていたけど、夕刊には出そうだ。
俺は一番後ろのはしっこに一人で座る。前を見ると、なぜか闇無が役職者たちと同じ列で座ってこちらを向いている。どういう立場なんだ、あいつは。
県警一課の捜査員の一人が立ち上がり、遺体の状況を説明する。
「被害者は佐野勝、四十五歳。九十九署勤務の現職警官。司法解剖の結果、死因は後頭部への鈍的外傷と、頸部の骨折。死亡推定時刻は昨日の15時から17時の間」
大きなスクリーンに遺体が映し出された。悲惨な状態になった顔を見て、会議室がざわつく。
映像はすぐに切り替わり、刈られた髪が入ったレジ袋が映る。
「被害者は顔面を幾度も殴打されており、髪は刈られて遺体のそばにレジ袋に入れられて放置されていました」
次の画面。赤いスプレーで壁に描かれた文字。
『今までありがとう さようなら』
「現場付近に残されていた落書きです。本件との関連は現時点では不明です」
捜査員が座る。
「次、九十九署の灰川」
板東課長に呼ばれた。予想より早いタイミングだ。落ち着け、落ち着け俺。
何となく前方の闇無と目が合った。
「……」
彼女は俺を見ながら両手で小さく拳を握りしめ、口をキュッと結んだ。
闇無のポーズに効果があったかはわからないが、途中たどたどしくなりながらも、昨夜の探偵との一件を無事報告する。気が進まなかったが、一応浮気の可能性もにおわせて。
話終わって座ると、近くの席にいた一人の中年捜査員が振り向いた。眉毛の薄い、反社会的組織の人みたいな風貌だ。能力は知らないが、ルックスでなめられることはなさそう。
「お前さ、そこまで聞いたんなら、口実作ってその探偵引っ張って来いよな。これだから所轄はぬるいんだよ」
「彼は仕事をしてただけで、違法行為は無かったので」
「そんなもん、後からどうとでもなるんだよ。任意同行が本当に任意のわけないだろうが。新人か、お前は」
周りの捜査員たちがドッと笑う。今のどこに笑うポイントがあったのか俺にはわからない。こっちがズレてるのかな。
それから俺はいつのまにか蚊帳の外になり、いつも通り県警本部の刑事だけで捜査方針がまとまっていく。
結果、捜査は妻の佐野静香を本線に、浮気相手と探偵の加東を参考人として押さえつつ、怨恨と痴情のもつれで筋をまとめていく方針になった。もちろん実際の捜査は一課が担当する。
そして会議も終わりかけた時、
「あのっ!」
と、闇無が手を上げて立ち上がった。
「何だ?」
板東課長がジロリと闇無をにらむ。
一瞬ひるみかけた彼女は、ほっぺたを大きくふくらませて息を吐いた。
「プ、プロイファイリング担当の意見を、まだ述べていません!」
会議室中が、さきほど俺に向けられたものの三倍くらいの笑いで包まれる。
「いいぞ、嬢ちゃん!元気がいい!」
「元気があれば何でもできる!」
「え、何でもさせてもらえるの?」
野次とセクハラがごちゃまぜになって闇無にぶつけられる。ああ、いやだな、こういうの。見てられない。あいつも余計なこと言わなきゃいいのに。
「すぐに終わるのか?」
一人だけ笑わなかった板東課長が、無表情のまま言った。
「ええ、すぐに」
「言ってみろ」
会議室が静まるのを待って、闇無は口を開いた。
「遺体は顔がめちゃくちゃにつぶされていて、髪も刈られていました。でもこれは、怨恨ではないと思います」
「なぜだ?」
板東課長の冷たいあいづちがはさまる。
「人に感情がある以上、怨恨や痴情のもつれなら、まず顔に殴った跡が残るはずです。でもこの犯人は極めて効率的に被害者を殺し、その後顔と髪を奪っています」
「身元を隠すためだろ?嬢ちゃん。基本だぞ」
ベテラン捜査官が野次る。闇無はそちらを見もせず続ける。
「本気で身元を隠して時間稼ぎするつもりなら、服まで奪うか、あのゴミの山の中に埋めて見つからないようにすればいいんです。刈った髪だって、遠くで捨てればいい。でもこの犯人はそうしなかった」
「理由は?」
板東課長に聞かれて、闇無はうつむいた。
「……それはまだ、わかりません」
一瞬の間が空いて、再び会議室が大きな笑い声に包まれる。
闇無は立ちつくしたままだ。
「あのー」
俺は右手を上げて立ち上がった。板東課長がジロリと俺を見る。
「何だ」
「その、身元をきっちり隠そうとしなかったのって、意図的じゃないですかね」
笑い声がゆっくりと収まってくる。闇無も顔を上げて俺を見つめている。
「どういう意味だ」
「俺はたまたまその場で気づきましたけど、普通はあれだけ損壊してたらすぐには佐野さんだって分からなかったと思うんです。でも、ちょっと調べればわかる。本気で隠してないんです」
「だからどういう意味だ」
「それに加えて、さきほどの闇無刑事の見解を合わせると、怨恨でも捜査のかく乱でもなく、作業そのものに何か意味があるんじゃないかと思うんです。それが何かは、まだわかりませんが」
「つまり」
課長は言った。眼鏡の奥が光った気がする。
「常識的な動機ではなく、異常性格者の儀式的行動の可能性と言いたいのか?」
「はい。一応、わずかでもその線を残しておくべきかと」
「君の言いたいことはわかった」
「じゃあ」
「だがその手の事件は連続性が必須条件だ。この一件だけで判断して、少ない可能性に人員を割くわけにはいかない」
「……確かに、おっしゃる通りです」
何となく尻すぼみになって、俺は座った。会議はそこで終了。
ドヤドヤと捜査員が出ていく中、俺は一人落ち込んでいた。何であんな余計なこと言ったんだろう。おせっかいだな、我ながら。
「灰川」
「わっ……は、はい。何でしょうか」
廊下に出ると、板東課長がドアのそばに立っていた。やばい。所轄のくせに出過ぎたマネするなとか言われるのかな。
「少し気になることがある」
「え?はあ、何ですか?」
何だ、いきなり。どうして今の会議で聞かないんだよ。
「佐野が禁煙していたのに、タバコをカートンで買い始めた話だ。それと、探偵が証言した『せっかくタバコが好きなだけ吸えるようになったのに。値上げするか』と言っていたという話」
「それが何か?」
「佐野に秘密の副収入があったとは思わないか?」
俺はまじまじと板東課長の顔を見つめた。
「つまり……誰かに仕事上の情報を売ってたとか、そういう話ですか?」
「君と同じ、可能性の話だ。だが論拠としては十分だろう」
そう言われてみるとしっくり来る。高くなったのが原因で禁煙したのにカートンで買い始めたってことは、意志の弱さだけではなくカートンで買えるだけのお金のアテができたから。値上げするかっていう言葉は、探偵の調査料を払ったらせっかくのタバコ代が減ってしまうから。
「元相棒の君がそちらを調べろ。だが秘密裡にだ」
「秘密、ですか」
「もし明るみに出れば、警察の不祥事だ。慎重にいきたい。それに君なら単独で動いても別件のフリができる」
「なるほど」
切れ者、というか単にずる賢いだけの気もするが、綺麗ごと言うだけの上司ではなさそうだ。怖いけど。
「今日はとりあえず、県警本部の鑑識に行って赤いスプレーの分析結果を聞いてこい。今の件はその後でいい」
「わかりました」
「それと、あの闇無という女も引き続き任せる」
「なぜ!?」
「会議でしっかり助け舟出したくせに、今更何を言っている。新しい相棒なのだろう?しっかり頼むぞ」
「……」
課長の手がポムと俺の肩に乗る。チクショウ、似合わないことしやがって。
「あ」
少し離れたところで、妙に目をキラキラさせた闇無がチラチラこちらを伺っている。どうしよう、絶対ついてくる気だ。
「課長」
立ち去りかけた課長に俺は声をかける。
「何だ」
「課長は、本当に奥さんか愛人がやったと思ってますか?」
「私が思うかどうかは問題じゃない。目の前の状況で、最も可能性が高い線を常に探る。それが今は妻とその愛人というだけだ」
「わかりました。すみません、呼び止めて」
課長が去っていく。
入れ替わるように、闇無が速足でやってきた。
「灰川さん!私、闇無刑事って呼ばれたの初めてです!感動しちゃいました!」
「そこかよ!」
電話が鳴った。表示された名前は武石さん。さっそく泣きついてきたか。手のかかる先輩だな。
「ごめん、ちょっと待って。はい、もしもし灰川です」
「お、おう。灰川。よかった、出てくれて。会議は終わったのか?」
「はい、たった今。どうかしたんですか?」
武石さんの声が弱々しい。犬の死骸を見てへこんでるのかな。
「あのな……今すぐ来てくれ。俺、俺、どうすりゃいいかわかんねんだよ」
闇無を見る。彼女も何かを察したようで、顔つきが変わった。俺は通話をスピーカーホンにする。
「もしもし、武石さん?何があったんですか?」
「寺町を聞き込みしてたらさ、途中で飼い犬だけじゃなくて、野良犬も一匹死んでたのを見つけたんだ。その近くに、地主の大きな蔵があるんだけど」
「武石さん!結論から言ってください!」
「結論から言うと……その蔵の壁に、赤いスプレーで落書きがあった」
彼女と目を見合わせる。
「武石さん……何て、書いてあったんですか?」
武石さんは言った。その声は、得体の知れないものに直面した常識人の、恐怖と戸惑いが混ざったものだった。
「『お礼はいいよ がんばれ』って。なあ、灰川、何だよこれ」
つづく