第1話「initium(はじまり)」
扉を開く。
西日が差し込む会議室に、彼女は一人座っていた。
弾かれたように俺を見た彼女のほほに、一筋の涙が流れていた。
ああ、この扉さえ開かなければ、俺は平和な生活を続けることができたのに。
五月。
俺の勤める九十九署が、朝からこんなに騒がしいのは珍しいことだ。デスクにおとなしく座っているのは俺くらい。
ここA県九十九市は、関東近郊とはいえ都会からはほど遠い小さな町。大きな事件なんてめったに起こらない。仮に殺人事件でも起きようものなら、すぐに県警本部が持っていってしまう。
その割に県警からの距離が県内で一番近いという理由で、俺たちはサポート業務という名の雑用に回されるのだ。そのサポートだって、エリート意識丸出しの本部の人間からは特にアテにされてもいない。
最近起きた事件は何だったか。空き巣、ひったくり、コンビニ強盗、振り込め詐欺。ブレーキとアクセルを間違えたという車の事故も多いかな。
今や事件の被害者と事故の加害者の両方が老人という、どうしようもない時代だ。誰のために、何のために俺はこの仕事を続けているのだろう。
俺はさりげなく周りを見回し、イスを少し引いて小さいほうの引き出しを開けた。書類のはさまったクリアファイルを持ち上げる。下から現れた白い封筒に、漢字三文字。
『退職願』
公務員だから辞表かな?とも思ったけど、退職を願い出るんだから意味は同じだろう。
今年で三十四歳。何かの本で読んだ。男は三十四で最後の転職を考えると。別に転職のアテがあるわけじゃない。だけど、こう、何ていうか。
このまま同じことを繰り返して、一人で年取って死んでいくのかなって、最近よく考えるようになったんだ。
「灰川」
俺を呼ぶ声に、慌てて引き出しを閉める。
「お、おはようございます」
振り返ると、佐野さんが立っていた。俺よりゆうに十年以上は先輩。背は170センチくらいで俺とほとんど変わらない。体型は標準よりちょっとやせ型の俺より、さらにやせている。健康状態が心配になるくらい。
モジャモジャ頭で顔色が悪く、目の下にはいつもクマ。これで家に帰れば結構綺麗な奥さんがいるのが信じられない。
刑事としては……有能でも無能でもない。そしてついでに言えば、今俺がコンビを組んでいる相手でもある。警察官になってから二人目の相棒だ。
「おいーす」
おざなりなあいさつを返す佐野さんから、ふわりといい匂いがする。俺は言った。
「佐野さん、トイレの消臭スプレー使いすぎです。あれは匂いの元に少量でいいんですよ」
「これはコロンだ!バカにするな!」
何だと。
「コロンと言うと……香水?」
「そうだ」
「加齢臭を隠すためですか?」
「ちがう!お前聞いてないのか?今日うちに若い女の子が来るんだぞ」
「へー」
だからみんな、朝からざわざわしてるのか。
「でもだからって、佐野さんが香水つける必要ないじゃないですか」
「バカ野郎、気持ちだよ、気持ち。お前だって若い女の子は好きだろうが」
「そりゃ否定はしませんけど。奥さんにチクりますよ」
この職場は男性の喫煙率が異常に高く、喫煙コーナーはいつも男たちで一杯だ。十人以上が一斉にせまいスペースに集まり、一言も話さずに煙を吐いている光景には狂気すら漂っている。おかげで少数派の非喫煙者である俺は、喫煙所での噂話に自然とうとくなり、いつも情報格差が出てしまっているのだ。
「事務ですか?それとも交通課?」
「それが」
言うと、佐野さんはニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた。
「FBIの研修から帰ってきた、プロファイラーだとよ」
「初めまして。五月一日付でこの九十九署に配属になりました、闇無乃衣です。闇が無い、と書いてくらなしと読みます。今年の三月まで一年間、アメリカはバージニア州のクワンティコというところへFBIのプロファイリングチームに勉強に行っていました。書類上は県警刑事部情報分析捜査課からの出向という形ですが、今日からこちらの一員としてみなさんとがんばります。よろしくお願いします」
彼女はそう言って、ペコリと頭を下げた。集まった全職員が拍手を送る。特に男の拍手が強めだ。俺は後ろの方であくびを噛み殺しながら闇無という女の子を眺めた。
やや茶色がかった髪で、首筋が見えるほどのショートカット。グレーのスーツに身を包んでまっすぐに立っている。隣の署長より頭一つ小さい。160センチ弱かな。最近の女性警官にしては小柄な方だ。
見た目は可愛い、と言っても言い過ぎではないと思う。全体に顔立ちが整っていて、何より目の光が強い。角度によっては幼く見えるが、二十代後半かな。
でもFBIに研修に行くってことは警視庁から直々に選ばれたわけで、すごく頭が良くて英語ペラペラで優秀なんだ、きっと。
しかしそれ以上に特筆すべきは、そのスタイルの良さだ。ここからでも腰の位置の高さと細さが分かる。さすがFBI帰り。関係ないか。
課長がニコニコしながら何かしゃべっている。そういやあの課長、何て名前だっけ。去年からいるけど思い出せない。
紹介が終わった後、闇無乃衣は一つだけポツンと離れた、何も乗っていないまっさらな席に座った。早速ノートパソコンを取り出し、ごそごそと何か準備している。
……あれ?誰かとコンビ組むとか、どんな仕事やるとかそんな話が一つも無かったぞ。あの子ここで何する気だ?
「おいおい、灰川君。さっそく狙ってんの?」
イヤらしい言い方でささやいてきたのは、先輩の武石さん。主に窃盗事件を担当している。小太りで眼鏡をかけていて、季節を問わず汗をかいている。俺と佐野さんのちょうど間くらいの年齢で、人事の話が大好きというちょっとめんどくさい人だ。
「狙うって何がですか?」
「またまたあ。いや、わかるよ。お前もいい年して独身なんだから、二十六才の可愛い女の子に興味を持つのは当然だな、うんうん」
一人で勝手にうなずいている。もう年齢まで知ってるのか。恐ろしい人だ。
「武石さん」
「ん?」
「あの子、誰と組むんですか?」
聞くと、武石さんは人の悪い笑みを浮かべて声を押さえた。
「あんまり露骨に言うなよ、嫌われるから」
「はあ」
「もともとあの子は本庁のお偉いさんのお気に入りで、警視庁で新しいプロファイリング専門チームを立ち上げる際の中心メンバーになる予定だったらしい」
「ほー」
警視庁のお偉いさん。警察で働いていながら俺は組織図には詳しくない。だからどの役職かはわからないが、警視庁内の編成を変えられる権力者なんだから、相当なポジションなんだろう。
しかしここで、当たり前の疑問にぶち当たる。
「そんなすごい女の子が、何でうちなんかに来たんですか?」
「それが」
武石さんはちらっと闇無を見て言った。
「帰国したら、そのお偉いさんが社内政治に負けて退任しててな。新任がプロファイリング懐疑派で、チーム立ち上げの話自体が宙に浮いちまったんだ」
「あー」
戦国時代の支倉常長とか、天正遣欧使節みたいなものか。期待されて送り出されたのに、帰ってきたら情勢が変わっていたという。とても運が悪い。
「うちの署長はその新任の派閥だから、本庁での処遇が決まるまで、うちで預かるってことになったらしい」
「体のいい厄介払いじゃないですか。本人は知ってるんですか?」
「さあ。自分で聞いてみたら?」
俺はもう一度闇無乃衣を盗み見た。いそいそと自分のデスクを整えてる彼女の横顔からは、そんな悲壮感は全く見えなかった。
昼の立ち上がり。
闇無が備品の拡声器を手にして課長机の前に立った。みんな何事かと注目する。若干のハウリングを起こしつつ、彼女は言った。
「みなさん、お疲れ様です。業務連絡です。今日の終業後五時半から、会議室でプロファイリングの勉強会を行いたいと思います。興味のある方、ぜひ来てください!今日から毎日行う予定です。以上、闇無でした」
ペコリと頭を下げる。再び男性陣から拍手と歓声。向かいの席の佐野さんもなぜか髪型を気にし始めている。
「佐野さん、行くんですか?勉強会」
「当たり前だ。刑事たるもの、悪と戦うために常に向上心を持たねば」
よくそれだけしらじらしい言葉が出るものだ。
「お前は行かないのか?」
佐野さんが聞いてきた。
「俺は……やめときます」
「そっか。ま、無理は良くないわな」
深く追求せず、佐野さんは書類仕事に戻った。こういうところは楽でいい人だ。
席に戻った闇無は、何だか楽しそうにパソコンに向かい始めた。
プロファイリングか。
今日も何事もなく定時で業務が終了する。さっさと帰ろうと廊下に出ると、会議室からひょっこりと闇無が顔をのぞかせた。
「灰川さん……でしたよね。お疲れ様です」
そして俺にニッと笑いかけた。媚びるわけでもなく、小馬鹿にするでもない、強気な愛想笑いだ。でもいつのまに名前をチェックしてたんだ。油断ならない女だ。
「お疲れ様。初日はどうだった?」
「特に問題ありません。みなさんすごく親切にして下さって」
「そうか。なら良かった。じゃあお先に」
「勉強会、参加しませんか?」
闇無の目が俺をじっと見つめる。その光の強さに俺はスッと目をそらした。
「やめとく」
「プロファイリング、興味ありませんか?」
「無いよ、ごめんね」
「そうですか」
少し口をとがらせながらも、意外とあっさり引き下がる。
「でも、気が変わったらいつでも来てくださいね!毎日やってますから。扉はいつでも開いてます」
「気が向いたらね」
俺はカバンをかついで歩き出す。
後ろから勉強会参加者たちの声が聞こえてきた。
翌朝。
署のトイレのゴミ箱に、白い紙が大量に捨てられている。拾ってみると、五枚一組にでホッチキスでまとめて冊子になっていた。
表紙には、
『第一回 九十九署プロファイリング勉強会資料』
と書いてある。昨日の勉強会の資料か。誰か知らないが、職場のトイレに捨てるなんてひどい男がいたもんだ。男子トイレに捨てれば相手が女だからバレないとでも思ったのか。
パラパラとめくってみる。白黒ではあるが、折れ線グラフや現場写真等、わかりやすい資料を乗せてプロファイリングの有効性について丁寧に説明されている。昨日一日でこれ作ったのか?あの子。いや、準備してあったんだな、きっと。
俺は資料をゴミ箱に戻し、トイレを後にした。
「勉強会、どうでした?」
お昼頃、コンビニのおにぎりを食べながら佐野さんにこっそり聞いてみた。ちなみに佐野さんは愛妻弁当だ。
「ん?うーん……それがなあ」
ただでさえ顔色が悪いのに、さらに顔をしかめてしかも歯切れが悪い。
「何かあったんですか?」
「いやいや、そうじゃない。むしろ何も無かった」
「話が見えませんが」
「いやほらさあ」
一人離れた席に座っている闇無をチラリと見つつ、佐野さんは声をひそめた。
「勉強会って言ってもさあ、結局親睦会みたいな感じ?で、最終的にLINEのIDとか交換できるかなって思うじゃん?普通」
「それが普通かは知りませんけど、ちがったんですか?」
「全然。あの子マジで俺たちにプロファイリングの考えをレクチャーしようとしてさ。連絡先も何にも教えてくんないの。ケチだよなー」
初対面のおじさんたちにホイホイ連絡先教える女はあまりいないと思うけど。
「それで、どうなったんですか?」
「最初は、彼氏は?とか好みのタイプは?とか聞いてわいわいやってたんだけどな。途中で関係ない話はやめてくださいってピシャリと言われてさ。みんな一気にテンション下がっちまって」
「わかりやすいですね」
プロファイリングいらないレベルだ。
「じゃあ、もう行かないんですか。勉強会」
「俺はな。ま、放っといても誰か行くだろ」
「そんなもんですかね」
それから二日が経った。相変わらず闇無には仕事も割り振られないし、誰と組むとかそんな話も出てこない。一人で席に座ってパソコンをいじっている。
配属初日はあれだけ盛り上がっていた男性職員たちも、すっかり冷静さを取り戻している。どうせそのうち本庁に戻るエリート女とは、変に関わりたくないという冷静な判断。俺もその考えに賛成だ。恩を売ったところで何か見返りがあるわけでもない。可愛いからってしつこく口説こうとすれば、後々しっぺ返しがくるだろう。ハイリスク・ノーリターンだ。
今日は佐野さんは非番なのでその辺のことは聞けないが、実際どうなんてるんだろう。勉強会の参加者は何人に減ったんだろう。
武石さんや後輩に聞いてもいいけど、「あれあれ~?」とか冷やかされるのが目に見えているのでやめとこう。
今日もやはり何事もなく時が過ぎて、終業時間。何事もなく、というのは決まり文句ではなく本当に何も無かった。ふと引き出しの中の退職願を思い出す。明日あたり出して、引継ぎして、有給消化すれば今月いっぱいには辞められるかな。
会議室のそばを通りかかる。職場に闇無の姿は無かった。すでに勉強会のために会議室に入っているんだろうか。
どうして開けたのかは覚えてない。好奇心、野次馬根性、単なる冷やかし。その全部かもしれない。それでも俺は、そこに悪意は無かったと思いたい。
俺は会議室の扉を開けていた。
窓際に座っていた闇無が、弾かれたようにこちらを振り向く。
……泣いてる?
反射的に横を向いて、他に誰かいないか探すフリをした。しらじらしいけど、泣いてる女を凝視するよりはマシだ。
「あー、えーと、すまん。ノックするべきだった」
「灰川さん!来てくれたんですね」
闇無がイスから立ち上がる。西日を浴びたその笑顔は、ついさっきまで泣いてた女とは思えないほど明るく嬉しそうで、俺はつい目をそらした。
そんな笑顔を向けられる人間じゃないんだ、俺は。
「あ、ああ。その、気が向いたらいつでも来ていいって言ってたから」
答えて、俺はもう一度周りを見回した。どう見ても、今会議室には俺と闇無の二人しかいない。
「もちろん大歓迎です!他の方は……その、今日はちょっと出足が遅いみたいで」
プロファイラーのくせに嘘が下手だ。俺はカバンを近くのイスに置き、彼女から少し離れた席に座った。
闇無は鼻歌を歌いながら、資料をパラパラとめくっている。この勉強会、二日目から誰も来てないんだろ?とはとても聞けない。
「何から話しましょうか?プロファイリングの歴史から?有名なシリアルキラーの分析でもいいですよ」
連続殺人犯の話をウキウキしながら話すのもどうかと思う。
「うーん……それよりさ、もっとこう、実践的な話をしたい」
「例えば?」
「どうして日本の警察には、プロファイリングが根付かないのか」
闇無が資料をめくる手を止める。そしてじっと俺の顔を見つめた。さっきより強い視線だったが、今度は目をそらさなかった。
「灰川さんは、なぜだと思ってるんですか?」
「俺から?」
「はい。言い出しっぺですから」
「そうだな……俺の考えは、警察の捜査がいまだに情緒に頼ってるところが原因だと思う。さすがに自白至上主義はいまどきいないだろうけどさ、何かこう、聞けば本当のことを言うはずだっていうバカな幻想を警察全体で引きずってるような、そんな気がする。あくまでも現場での印象だけどね」
闇無が黙ってうなずく。俺は続けた。
「あと、一応建前上は証拠最優先になったはずなんだけどさ、事実を積み重ねて推論を導き出すっていうよりは、先入観とストーリーありきで、後からそれに合う証拠を探しにいくような捜査も多い。そういうのって、冤罪の温床だと思う」
「なるほど」
「でもその割に。プロファイリングにはアレルギー反応示す老人たちも多くてさ。この手の事件はこういうケースが多いっていう経験の積み重ねで言ってるなら、プロファイリングもそんなにやってること変わらないはずなのに」
闇無は黙って聞いていた。
「あー……悪い、一人でしゃべってた」
「いえ、いいんです。とても率直で、いいと思います」
「そう」
「でも、灰川さんはうそつきですね」
「何がさ」
闇無は人の悪い笑みを浮かべた。
「だって灰川さん、プロファイリング興味ないって言ってたじゃないですか。今の意見は、興味ないどころかしっかり研究した人が言うことですよ」
俺は再び目をそらした。
「……本の受け売りだよ」
「そういうことにしておきます」
「あのね」
「私の意見ですけど」
「話変えないでくれる?」
「変えてません。日本の警察に、なぜプロファイリングが根付かないか、でしたよね?」
「ああ、そうだった」
「私が思うに、それはアメリカとの文化の違いです」
「ほう」
俺は両肘をついて身を乗り出した。
「アメリカは、すべてが戦いなんです。だから捜査も裁判もプロファイリングも、いかに相手を倒すかという目的のための手段なんです」
「へー」
「そこではいわゆる道徳心などは二の次です。例えば連続殺人の手口を見るとき、アメリカでは段々殺し方がうまくなってるとか平気で話し合うんですけど」
「ああ。日本の現場でそんなこと言うと、不謹慎だとか色々言われるな」
「そうなんです。それに殺人犯の立場になって考えてこういう行動をとるはずだ、とかそういうことは日本ではあまりしませんよね」
「そうだね。生理的なものかな」
「その辺りは比較文化論の分野に入ってくるので一概には言えませんけど、日本は全ての犯罪者は更生が可能だっていう立場を取っているように見える割に、犯罪者を別世界の人間としても扱っているように見えて、少し複雑に思います。その辺りが、目的がはっきりしたプロファイリングが根付かない原因じゃないかと」
「なるほどね」
別世界の人間か。胸の奥にチクンと小さな痛みが走る。
「あの、灰川さん」
「ん?」
「答えたくなかったら、かまわないんですけど」
「うん」
「その……プロファイリングに、何かイヤな思い出でもあるんですか?」
「……」
「ごめんなさい、余計なこと聞きました」
「いや……さすがFBI帰りだなと思って」
イヤな思い出。
イヤどころか、人生最悪の思い出だ。
「昔ね」
言いかけた時、誰かが廊下をドタバタと走る音がした。闇無と顔を見合わせ、廊下を見る。
扉が開く。課長だった。
「おお、まだいたか。灰川、至急現場に向かってくれ」
顔がかなり上気している。年に何回かしか見ない顔だ。俺はイスから立ち上がった。
「事故ですか?」
「いや」
課長は首を振った。
「駅前の路地裏で、身元不明の遺体が見つかった。顔がぐちゃぐちゃにつぶされてるらしい」
「私も行きます!」
闇無も勢いよく立ち上がる。課長の顔が一瞬曇る。
「課長、今日は佐野さん非番ですし、一日限りの代役ってことで」
「うーん……じゃあ、お前に任せる。ちゃんと面倒見てよ」
「はい。行ってきまーす」
課長が立ち去った後、チラッと闇無を振り返る。彼女は満面の笑みを俺に向けた。
「ありがとうございます!やっと現場に行けるー!」
闇無は両拳を握りしめ、何度も前後に振っていた。
もし殺人なら、もれなく県警本部が持っていくんだけど。今は言わなくていいか、喜んでるし。
それに……俺の最後の仕事になるかもしれないし。
俺の運転する車で現場まで10分ほど。駅前、と言っていいのか迷う寂れた路地裏に、雑居ビルが数棟立っている。その間にできているゴミとガラクタの山。そこに死体は転がっていた。
先に来ていた巡査たちが現場を守ってくれている。他の警察官はまだ着いていない。
俺と闇無は黄色いテープをくぐって死体に近づいた。
「ひどい……」
闇無が思わず口を押える。
ひどい、というのは大げさでも何でもない。顔は石か何かで何度も殴られた跡があり、人相の判別がつかない。髪型は丸坊主だ。白いポロシャツと茶色いチノパンを着ているところと体形から、男性であろうことは何となくわかった。
「30代から40代の男性ってとこか?」
「そうですね。でも私は40代を押します」
口を押さえたまま、闇無はこもった声で言った。
「その根拠は?」
闇無は空いている手で死体の手を指さした。
「元がやせてる方っていうのもあるでしょうけど、手の甲のしわの寄り方が30代にしては多すぎると思うんです。シミもありますし。でも50代にしては張りがあります」
「君、勘だけで言ってない?」
振り返って言うと、闇無は口をとがらせた。
「そんなことありません。こう見えて、五感を研ぎ澄ませて色々観察してるんですよ」
「五感ねえ」
「そうです。現にほら、この場所には似合わないにおいがしませんか?」
「においー?」
そう言われて意識すると、確かに何かのにおいがする。何だろう。どっかでかいだような。
闇無が顔をしかめて言った。
「あれですよ、ほら。商品名は忘れましたけど、トイレの消臭剤のにおい!」
「トッ……」
人生で、一回の心臓の音をこれほどはっきり聞いたことは無い。俺は死体に向き直り、マジマジと全身を観察した。心臓が早鐘を打つ。冷汗が背中を走る。
嘘だろ、そんなバカな。このにおいは、確かにあの。
ふと死体の脇に目を止める。白いビニール袋の中に、黒っぽい何かが見える。俺は慎重に袋の口をこちらに向けた。
「ひゃっ!」
闇無が悲鳴を上げた。ビニール袋一杯に詰まっていたのは、丸まった黒い毛の塊。
「これ……この人の髪の毛ですか?」
「そうだ」
俺は地面に両ひざを着いて答えた。
「そうだって……何でそんなにはっきり」
「佐野さんだ」
「え?」
俺ははりつくのどをつばで無理やり湿らせ、繰り返した。
「この死体は……俺の相棒の、佐野さんだ。このにおいのコロンをつけてた」
「えっ」
「あ、あのー」
俺たちの後ろから、制服の警官が声をかけてきた。気の弱そうな若い男だ。
「何ですか?」
黙っている俺の代わりに、闇無が答える。
「あそこにある落書き、何か気になるんですけど、関係ないですかね?」
警官が指を指した先には古いブロック塀。死体からは数メートルの距離。
ガラクタの山を丁度避けるように、赤いスプレーでこう書いてあった。
『今までありがとう さようなら』
つづく