婚約破棄の裏で
「すまない、セレナ。……この婚約はなかったことに、して欲しい」
もう何年も、未来の旦那様だと思い続けてきた人の口から放たれた突然の婚約解消。彼の金色の髪が月の光に照らされて、艶やかな光を帯びている。彼の翡翠色の瞳は伏せられ、表情が見えにくい。
なんでいきなり婚約解消なの??
動揺した気持ちを落ち着けるために深呼吸する。
「どうして今更、婚約を解消しようとなさるのですか。何か私、殿下のご不興を買うようなことをしてしまったのでしょうか?」
「いいや、そうではない。君は初めて会ったときから変わらず、美しく聡明な女性だ。この国に君よりも素敵な女性はいないだろう」
えぇ……何それ。
「……それなら、どうして」
彼がその美しい顔を上げて悲しげに歪め、何かを言いかけたとき、背後から咳払いが聞こえた。
「ルカ」
背後を振り返って見ると、私の従者のルカが立っていた。彼の雪のように真っ白な髪が風に靡かれてさらりと揺れる。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。そろそろご帰宅の時間が近づいておりますゆえ」
「え、えぇ……けれど、今は殿下とお話しをしているの」
殿下に同意を求めるように視線を向けるけれど、彼の焦点は微妙にずれている。
ルカが殿下に視線を向けると、殿下はびくりと肩を揺らした。
「いや、セレナ。詳しい話はノースヒル候に伺ってくれ。すまないが、君にはもう会えないと思う」
「そんなっ」
殿下のもとへ行こうとするけれど、ルカに後ろから腕を掴まれて身動きがとれなくなってしまう。それでも必死に殿下を見つめると、腕を掴むルカの手の力がぎりりと強くなり、その痛みに顔を顰める。
「行きますよ、お嬢様。殿下、お先に失礼致します」
ルカに引きずられるようにその場から離れる。殿下は悲しげな表情でその場に佇んでいた。
その夜、父であるデイビッド・ノースヒル候の口から正式な婚約解消の話を聞いた。婚約解消の証書には、父と殿下のサインがしっかりと付けられていた。
***
「ふっ、く……ふっ」
悲しくて泣いているのではない。悔し涙だ。いったい何年いろんな事を我慢して、殿下の妃になるために血の滲むような努力をしてきたと思っているのだ。
「お嬢様、涙をお拭きください」
ルカに真っ白なハンカチを差し出され、それを両目に押し当てる。ついでに鼻水も拭って良いだろうか。
「ありがとう、ルカ」
私の感謝の言葉に、ルカは柔らかく微笑んだ。昔と変わらない可愛らしい微笑みだ。私の涙が落ち着くと、ルカは温かいチョコレートドリンクを持ってきた。
「今夜は特別ですよ。さぁ、侍女頭に勘付かれる前に飲み干してくださいよ」
「ふふふっ、無理よ。まだとっても熱いもの」
暫く温かいカップに手を当ててから、まろやかに甘いルカ特製のチョコレートドリンクを一口飲む。
「ねぇ、きっとお父様はがっかりなさったでしょうね……」
「いいえ、お嬢様の婚期が遠ざかって小躍りしておられました」
「ふふっ、嘘おっしゃい」
自然に出た私の笑みを見て、ルカは安心したようにほっと息を吐いた。
「元気が出たようで何よりです」
「ええ、あなたのお陰よ。ダメな主人でごめんなさいね」
「お嬢様は私にとって、世界で一つだけの大切な宝物ですから」
気障な台詞を恥ずかしげもなく言う、目の前の美しい青年を、少し呆れた気持ちで見つめる。
ルカは将来結婚出来るのかしら……。
ルカは私の乳母と執事の息子で、私と3歳離れている。昔から素晴らしい忠誠心でこの家に仕えてくれているのだが、自分のことよりも私のことを優先させてしまう彼にときどき不安を抱いている。
「ねぇ、ルカ。今回私は殿下との婚約が解消されてしまったから、きっとお嫁に行くのはずっとずっと後になってしまうと思うわ」
「そうでしょうね。王太子の元婚約者に手を出そうとする男はなかなかいないでしょう」
「そ、それでね、あなたは別に私がお嫁に行くまで待ってなくていいからね」
「何をです?」
「あなたの結婚よ」
「……」
数秒沈黙が続き、ルカの結婚話は触れてはいけない話題だったのかと不安になる。
「ごめんなさい。私がそんなこと言うのは、余計なお世話よね」
「……いえ、お気になさらず。それでは、私はこれで失礼いたします」
「ええ、今日はごめんなさいね。こんなに夜遅くまで付き合わせてしまって…。それから、ありがとう」
今までも、何か辛いことがあってもすぐに立ち直ることが出来たのは、兄のような、幼馴染のような、優しいルカが傍にいてくれたからだ。
「おやすみなさいませ」
ルカが一礼して部屋を出て行く。小さい頃から変わらない、彼の雪のような白い髪が廊下へ消えていく。
***
半刻ほど過ぎたころ、お嬢様の部屋の扉を静かに開く。
寝台の上には、滑らかな漆黒の髪が広がり、透けるような彼女の白い肌が仄暗い部屋の中でぼんやりと浮かび上がっていた。美しい黒曜石のような瞳は固く閉じられている。
「お嬢様」
反応がないことを確認して、彼女のぽってりと柔らかく美味しそうな唇に、そっとキスをする。
「貴女は何も知らないままでいい。流されるままに、俺のところに堕ちてくればいい」
初めて彼女に出会ったのは、俺が10歳のころだった。それまでは屋敷の外にある使用人用の住まいで暮らしていたから、生まれたときから深窓の令嬢である彼女とは会う機会などなかった。
初めての出会いも、彼女がこっそりと屋敷を抜け出そうとしたのがきっかけだった。
大人しそうな見かけとは違い、彼女は昔から活動的な女の子だった。
その日、俺は近所の悪がき達に囲まれて屋敷の裏庭の塀の近くにいた。年寄りのように真っ白な髪をもつ俺は、昔からいじめの対象にされていたのだ。当時友達なんていなかった俺は、誰も助けに来ないことを覚悟して、殴られたら殴り返そうと猫のように威嚇しながら目の前の悪がきたちを睨んでいた。
悪がきたちはみんな体格が大きく、どんなに食べても痩せっぽちだった俺はいつも喧嘩に負けていた。けれど負けず嫌いな性格の俺は、何度だって彼らに応戦していた。
リーダー格の少年が殴り掛かるのを合図に、数人で攻撃してくる。腹を蹴られて蹲ると、真後ろからよく通る女の子の声が響いた。
「やめなさいよ、あなた達!一人相手に寄って集って、恥を知りなさいっ」
腹が痛くて動けないから、俺は視線だけ彼女に向けた。
そこには、見たこともないほど綺麗で可愛い女の子が立っていた。肩まで伸びた緩くウェーブした黒髪が風に揺れている。彼女はその大きく綺麗な瞳で、にらめ付けるように悪がき達を見ていた。
「もうすぐ家の者たちが来るわ。このことは、あなた達のお家の人に報告しますからねっ!」
さっきまで俺を殴っていた悪がきたちも、心を奪われたかのように彼女を見ていたが、彼女の言葉にはっとして悔しそうに唸ると逃げ出すように走り去っていった。
「ねぇ、あなた大丈夫?お腹痛いの?」
彼女が塀の柵を掴みながら、心配そうに俺を見る。初めて彼女に目を向けられて、俺の心臓が激しく鼓動した。
「だ、大丈夫」
「そう。でも、医者に診てもらったほうが良いわ。今ちょうどお父様の主治医の先生がいらしてるから、こちらにいらっしゃい」
彼女は数歩離れた場所の柵をこんこんと軽くたたく。がこんと音がして2本の柵が外れ、子供が一人かろうじて通れそうな空間が出来た。
「本当はこれ、私の秘密の抜け穴なのだけれど、知られちゃったわね」
くすりと悪戯をするときのような笑みを浮かべた彼女は、とんでもなく可愛かった。俺は彼女に手を引かれるまま屋敷に入っていった。
俺の両親は屋敷で働いているから彼らに会うとまずいと思い、きょろきょろと忙しなく視線を泳がせる。
けれど。
「マリアンヌっ」
突然彼女が呼んだ名前は俺の母親の名前だった。
「ルカが外で怪我をしちゃったの」
母は傷だらけの俺を見てびっくりした顔になったが、すぐに俺の頭を抑えてお辞儀をさせた。
「ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません、セレナ様」
「いいのよ、別に。ジョルジュ先生は医務室にいらっしゃるのね」
母が頭を下げる姿を見て、傍らの少女がこの屋敷のお嬢様だということに気が付いた。低い背をぴんと伸ばすその姿は、小さいけれど立派な貴族のものだ。
「ルカをジョルジュ先生のもとへ連れて行って手当てさせるわ」
「いいえ、セレナ様っ。この子は私が連れて行きますので、セレナ様はルイージ様のもとにお戻りください」
「えぇ……あの子まだ居るの?」
女の子は心底嫌そうな顔をしながらも「しかたないわね」といって、俺を母に託すと足早にその場を離れていった。
それから俺は医務室でジョルジュ先生という初老の医者に診てもらい、母と礼をしてから、帰宅するために正面玄関に向かっていた。
そのときまたもや後ろからよく通る声に呼び止められた。
「待って、ルカ!マリアンヌ、相談があるのだけれど」
走って追いかけて来たのか、少女の息が上がっていた。
「ルカは昼間、家に誰もいないのでしょう?もし良かったら、この家で働いてもらえないかしら」
「えぇ!セレナ様っ、それはどういう」
「ほら、ルイージは男の子だから、きっとルカも一緒に遊ぶ方が楽しいし嬉しいと思うの!それに私もライバルがいる方が勉強を頑張れるわ。お父様とセバスチャンからはもう承諾を得ているわよ。ねぇルカ、どうかしら」
彼女の黒曜石のような瞳がきらきらと輝きながら俺を映す。傍らの母は俺の返事を固唾を飲んで見守っていた。
「う、うん。良いよ、別に」
照れて赤くなった顔を見られないように、俯きながら言った。彼女は可愛らしいと思う。そして誰よりも綺麗な女の子だと思う。けれど俺が恋をしても良い対象ではないことは理解していた。
「本当っ、嬉しい!」
俺は彼女の可愛らしい満面の笑みを見ることが出来なかった。彼女が俺の返事を聞いて嬉しそうに頬を緩めた瞬間に、「なんて生意気な態度なの?!」と怒った母から強力な鉄拳を食らったからだ。
残念な事に俺は人生初の心のシャッターチャンスを逃してしまったのだ。
その翌日から俺は侯爵家に毎日出入りすることになった。セレナがいった通り、毎日彼女と同じ授業を受ける。3歳も年が離れているのに俺のほうが勉強についていくのに必死だった。けれどセレナに格好悪いところは見せられないと、俺は必死に勉強して、半年ほど経った頃には彼女の勉強を手伝ってあげることも出来るようになった。俺たちは他に年の近い子供がいなかったため、互いに唯一無二の存在になっていく。セレナと二人だけのときは、彼女のことを敬称で呼ぶこともなくなった。彼女にその方が嬉しいと言われたのだ。
そんなある日。
「ねぇ、ルカ。今日はルイージが来るのよ」
セレナと出会った日に彼女は俺が居たほうが「ルイージも喜ぶ」といっていたのに、俺はそれまで一度も「ルイージ」に会うことはなかった。
「へぇ、どんな子?」
「そうねぇ、甘えん坊さんかしら」
「小さい子?」
「ルカと同じ年よ。もし良かったら、私と一緒に来てくれる?」
「はぁ」
俺は小さい頃から自分のことは自分でするように躾けられてきたため、周りの同年代の男よりは精神年齢が高いようだった。けれど3つも年下の女の子から「甘えん坊」と評される子とはきっと仲良くなれそうにないなと漠然と感じたことを覚えている。
そして俺とセレナは、その子が待つ応接室に向かった。普段は授業が終わると俺は父や母や他の使用人の手伝いをしていたので、いつもより長くセレナといれることを嬉しく思っていた。
コンコンコン
「入るわよ、ルイージ」
応接室で待っていたのは、きらきらと輝く金色の髪に翡翠色の瞳の美少年だった。同い年とその少年はセレナ様を見てぱっと笑顔になったのも束の間、俺に気づいて急にその美しい顔を僅かに歪めた。
「ねぇセレナ。誰、その子」
「あぁ、こちらはルカよ。ルカ、この子がルイージ。二人とも仲良くしてね」
セレナ様はにっこりと微笑んで俺とその少年の手を握らせた。同い年にしては細くて白い少年の手をじっと見る俺に、少年は眉を顰める。
「何か?」
「いや、何でもない。よろしく、ルイージ」
俺が彼の名前を呼ぶと、少年の翡翠色の瞳が嬉しそうに揺れた。
「うん、こちらこそ。君は僕のことを皆みたいに殿下って呼ばないんだね」
殿下?殿下って王族につける敬称だよな…。
俺は確認するようにセレナに視線を向けた。すると彼女はにっこり笑ってこくりと頷く。
「ルイージはこの国の第1王子なのよ」
危うく不敬罪に問われるところだった俺は、すぐに言いなおそうと口を開きかけたが、セレナの手で口を塞がれた。
「良いのよ。ルイージはあなたとお友達になりたいのだから、名前で呼んであげて?」
にこりと微笑みながら小さく首を傾げるセレナの可愛さは、国で最強と謳われる兵器と同等の破壊力を持っていた。国王に対する俺のちっぽけな忠誠は一瞬にして崩れていく。
ルイージはそれかはらも半年に一度、多いときで2ヶ月に一度、セレナの屋敷に訪れた。セレナの屋敷でたくさんの本を読ませてもらった俺は、博識なルイージとの会話も楽しめるようになった。セレナは相変わらず可愛くて綺麗な笑顔で俺たちの話を聞いていた。
そうして俺は身分が桁違いに違う2人の大切な友人を手に入れた。
けれど、出会いから3年ほど経った頃から、俺たち3人の関係は少しずつ変化していった。
***
朝起きると、昨晩の出来事が嘘のようにいつもの穏やかな光景が広がっている。扉の前にはルカが朝食のトレイを持って、いつものように爽やか過ぎるほど爽やかな笑顔で立っている。
「ねぇ、ルカ。今朝の貴方の笑顔がいつも以上ににこやかに見えるのはどうして?」
「いえいえ、いつもと同じですよ。相変わらずお嬢様は寝起き姿も美しいです」
にこにこと笑うルカに暖めたタオルで顔を拭われる。
「けれどヨダレの後がありますねぇ、昨日のホットチョコレートの夢でも見ていたんですか?」
「……私、殿下から婚約を破棄されたのよね?」
「そうですよ」
ルイはまるで「よかったですね」とでも言うかのように微笑む。
「今日からはお妃修行がありません」
お妃修行……。未来の王妃になるべく、周辺国数カ国の外国語習得はもちろん、細かな日常の所作や結婚相手である殿下の趣味・嗜好・性癖まで、知りたくもないようなことまでみっちりと教えられた。それは私が10歳の頃から続く、地獄の時間だった。お妃修行を始めて早8年。次の私の誕生日に結婚するときになって、あいつは突然婚約を破棄すると言ってきたのだ。後で8年分の労働費用を慰謝料としてきっちり受け取ろう。
昔はルイージという幼名だった殿下と出会ったのは、私が3歳くらいのころだ。といってもその頃の記憶なんてないし、殿下が家に来るのも数ヶ月に一度くらいだったから小さいときの彼の印象なんて無いに等しい。
彼との思い出は、ルカがこの家に来てから、3人で遊ぶようになった頃からのものしかない。
殿下とルカは身分の壁を越えた友人だった。昔から二人はよくわからない題名の本に夢中になっていたり、武術や馬術や身長に至るまでいろんなことで競っていた。私はそんな二人の友人を眺めているのが好きだった。
私が10歳の誕生日を迎えた日、突然父から殿下との婚約が決定したことを知らされた。その当時の私は心から喜んだ。殿下と結婚したら、毎日のようにルカと殿下と3人で暮らせると思っていたからだ。
けれど婚約から1ヶ月過ぎたころ、地獄のお妃修行が始まった。殿下は王になるための勉強があるからといって、毎日へとへとになるまで頑張っている私に会いに来れない。父も娘に会うためだけに王宮に行くことは出来ないといって、私はひとり辛いお妃修行に耐えるしかない日々を送っていた。けれど、何週間かして憔悴した私を見かねたルイが私の従僕として王宮に入る決心をしてくれたのだ。
それからは毎日、ルカが励ましてくれることで辛い修行に耐え抜いた。今では周辺国だけではなく、貿易が盛んな相手の国の言葉は全てマスターした。国王からも私の所作は全てが優雅で美しいとお褒めの言葉を頂いている。別に知りたくなかった殿下のいろいろも全て頭に入っている。
それなのに、どうしてなの!
昨日は淑女らしからぬ取り乱した姿をルイに見られたが、ルカは相変わらず優しい態度で傍に居てくれた。早く落ち着いて周りを安心させたいのに、私の結婚は遠ざかってしまった。
ルカに彼の結婚の話を振ったときの、彼の表情を思い出す。
本当は誰か結婚したい相手がいるではないかしら……。
そう思うと何故か胸の奥がチクリとした。
***
馬術、武術、身長など、ルイージは何かにつけては俺に挑んできた。俺がそれら全てを返り討ちにしたのは言うまでも無いけれど。
セレナは俺とルイージの勝負をいつも傍で笑って眺めていた。彼女の綺麗な瞳を少しでも自分の方に向けようと、俺たちはいつも必死だった。
けれど成長するにつれて、セレナとルイージ、そして俺の間に見えない壁が存在感を増していく。
ルイージはいつもセレナのことを誇らしげに語っていた。まるで自分のもののように。ルイージの口からセレナの話題が出る度に、心の中がもやもやとした気持ちでいっぱいになった。いつも一緒に居るのは俺の方なのに、ルイージは自分の方がセレナに近い関係だと思っているようだった。いや、実際にその通りだったのだ。
セレナの10歳の誕生日の前日、ルイージがひと月ぶりにセレナの家にやって来ていた。ルイージといつものように馬で競争した後、俺とルイージはセレナがいる場所から結構離れたところまで来ていた。帰りも競争するのだろうと思った俺は、近くにあった木の下で体を休めるためにごろりと横になった。
「ねぇ、ルカ。ルカはさ、どう思ってるの?セレナのこと」
ルイージは横になった俺の頭の近くに座ると、唐突に聞いてきた。
「何言ってんだよ。セレナ相手にどうもこうも思える訳ないだろ。お前と同じ、友達だよ」
どきりと心臓が鳴ったけれど、いつも通りの口調で答えることが出来た。それから、少しの沈黙の後、ルイージは息をゆっくり吐いて口を開く。
「……そう」
下から見上げたルイージの表情は逆光のせいで見ることが出来なかった。けれど、ルイージの声が少しだけいつもよりも低く、満足気に震えているような気がした。
「どうしたんだよ、いきなり、そんな事聞いてさ」
そのとき俺はなんだか悪い予感がして、ルイージとの話を続けようとした。
「うん。僕ね、昨日父上にセレナとの婚約を認めて頂いたんだ」
婚約?
俺は聞きなれない言葉に眉を顰めて上体を起こした。
ルイージと目線が合う。
ルイージの翡翠色の瞳は、それまで見た事がないほど歓喜の色を秘めていた。けれど俺は背中がぞくりと泡だった。なぜならその瞳は純粋な喜びの色だけでなく、明らかな狂気を宿していたから。
「婚約っていうのはね、結婚の約束のようなものだよ。僕とセレナは大人になったら結婚するんだ」
「け、っこん」
「うん。それでさっきルイに聞いてみたんだよ。ルカはセレナのこと、どう思ってるんだろうって」
翡翠色の瞳が細められ、その瞳の奥に映った自分はひどく動揺した顔をしていた。ついさっき自分の口から出てしまった言葉が、頭の中で反芻する。一言も発さずに固まる俺を満足気に見て、ルイージは言葉を続ける。
「本当に良かったよ。もしルカもセレナのことを好きだったらどうしようって思っていたんだ」
そんなことを言える筈がない。俺は悔しい気持ちでぎゅっと拳を握った。
「お前さ、俺がセレナのことを好きだったら、どうするつもりだったんだよ」
「さぁ……、どうしただろうね」
ルイージはおどけた口調で答えたけれど、その目は笑っていなかった。
「あぁ僕もう行かないと。ノースヒル候に呼ばれているんだった」
俺たちはセレナの場所に帰るために再び馬に跨った。
「ルイージは、セレナのことを、本当に好きなのか?」
「もちろんさ。これからもルカは僕らと一緒に居てね」
行きとは逆の位置で走る。
ルイージが言った“僕ら”という言葉が、嫌でも彼らと自分の距離を感じさせた。何でもどんなことでも勝負に勝ってきた筈なのに、セレナまでの距離は俺には遠すぎて、どんなに足掻いてもルイージには勝てないのだろうと、前で揺れる金色の髪を見つめながらそう思ってしまった。
***
夕日が差した窓の外に目を向ければ、中庭にルカと若い女の子が立ち話をしている。ルカは真っ白な髪も美しいけれど、澄んだ空色の瞳や整った中性的な顔立ちも相まって女の子たちから絶大な支持を得ている。性格は少々難があるけれど、基本的には優しいのでお勧め物件だ。
ルカが女の子に向ける優しそうな笑顔を見て、またツキリと胸が軋む。
「きっと殿下に振られて人恋しくなってるんだわ。ルカの周りの女の子にまで嫉妬するなんて。もしもルカが結婚して此処を去ってしまったら、私は本当に独りになってしまうわね…」
口から漏れてしまった独り言にはっとして、思わずもう一人の幼馴染にしがみ付きそうになる弱い心に喝を入れる。
「ダメよダメよ。ルカにはルカの人生があるんだもの。こんな所でいつ結婚出来るかもわからないような女の世話をさせていては可愛そうだわ」
私は気持ちを入れ替えて、机の上に散らばった便箋をまとめ、文章の続きを書く。
この国では王太子の元婚約者として名前が知られすぎてしまっている。きっとこの先どんなに待っても求婚されることはないだろう。だから結婚相手は隣国で見つける方が良いと考えたのだ。
私は大使として隣国に渡っている知り合いに手紙をしたためる。なるべく早く、返事が欲しいと一筆添えて。
***
夕方中庭を歩いていたら同じ使用人に声を掛けられた。なんでもルイージが今でもセレナに毎日花を贈っているらしい。
あきらめの悪いやつめと内心で舌打ちする。
「お嬢様を悲しませたやつからの贈り物なんて全部捨ててください」
「はぁ、よろしいのですか?セレナ様に何も言わずに捨てて」
「許可します。旦那様は私に一任されていますから大丈夫」
「わかりました」
その使用人が戻っていってから、上を見上げる。此処からはセレナの部屋がよく見える。
俺は昔から此処でセレナの部屋を見上げていた。まるで美しい星に惹かれるように。
セレナの婚約が決まってから一ヶ月後に、セレナはルイージの妃になるための教育を受けるために王宮へ上がった。
セレナの部屋から温かい光が消えた日々は、夜空から星が消えたような暗闇の中だった。
俺はセレナの家庭教師との授業を続けていたけれど、セレナに勉強の進行速度を合わせる必要がなくなったため、数週間で高等教育までの過程を全て終わらせた。
何もやる事がなくなって、毎日図書室に入り浸っていた俺を見たノースヒル候が、俺を王宮のセレナのところに従僕として行かせることにしたのはそんなときだった。
王宮で久しぶりに会ったセレナは酷く憔悴していた。けれど綺麗で可愛らしい笑顔はそのままで、それが余計に痛々しく感じた。
「ルイ、来てくれたのね。ありがとう」
「大丈夫か?随分痩せちゃったな。ルイージは、あいつは何してるんだ」
「ルイージは王様になるための勉強で忙しいのよ」
眉尻を下げて微笑むセレナはとても寂しそうだった。
「これからは、俺が近くにいるからな」
「うん、ありがとう」
セレナの頭を優しく撫でると、柔らかな黒髪から甘い香りが漂った。
それから5年。
セレナは辛い妃修行を泣き言も言わずに頑張っていた。けれどルイージは相変わらず滅多にセレナのもとに現れなかった。
セレナの15歳の誕生日、俺はもう半年も会っていないルイージを探しに王宮内を歩き回っていた。その年の誕生日は酷い吹雪で、セレナの家族が王宮に来れなかったため、俺はルイージも参加して少しでも賑やかな雰囲気になればと思っていたのだ。
俺は長い渡り廊下を渡った先の、ルイージの部屋の前で足を止めた。その部屋の扉が少し開いていて、中から話し声が聞こえる。
俺が近くにいる侍女に視線を向けると、彼女は困ったような恥ずかしいような顔をして俯いた。
嫌な予感がして、ルイージの部屋の扉を勢いよく開くと、寝台の上のルイージと若い女は情事の最中だった。俺の姿に気が付くと女が短い悲鳴を上げて部屋を飛び出していった。
「ルイージ、これはどういうことだ」
「見ての通りだよ。使用人の女の子と遊んでいたのさ」
反省する様子もなく、ルイージは布を腰に巻きつけながら気だるげに起き上がった。
「セレナはお前のために今も頑張っているんだぞ」
怒りで声が震えるのを抑えるように握った拳に力を加える。
「知ってるよ。良い子だよね、本当」
にっこりと笑うルイージを見て、目の前が真っ赤に染まる。
「お前はセレナのことを愛しているんだろう?!」
ダンッと近くの壁を叩いた。
「うーん。そんなことも言ったねぇ、たしか。でもその時は、どうにかして君に勝ちたかったんだよ」
「どういうことだ」
「馬術、武術、勉強、何をやっても君には勝てない。君にわかる?僕の気持ち。君に会う度に僕の中で劣等感が膨らむんだ。この国の第1王子なのに、平民のひとりにさえ勝てないんだよ。あの時は、何とかして君に勝ちたかった。君の悔しがる顔が見たかったんだ」
「どうしてセレナを利用したんだ」
「だって、見ていればわかるよ、君のセレナに対する気持ちなんて。君がどんなに望んでも手に入れられないものを、僕ならすぐにでも手に入れられることを教えたかったんだ。あの時の君の悔しそうな顔ったらないよね。大丈夫だよ、セレナはそれなりに大事にしてあげるから。それとも僕が毎晩抱き潰して飽きた頃にでも君にあげようか?」
くつくつと笑うルイージに、俺の中でどす黒い塊が渦を巻いて暴れる。
「覚えていろ、ルイージ。セレナは絶対に渡さない」
「まぁ、せいぜい頑張ってよ。それから、ルカは僕の大切な友達だから教えてあげるけど、僕たちの結婚式は4年後だよ。後4年、セレナは耐えられるといいね」
閉まる扉のから、ルイージの壊れたような笑い声が聞こえた。
***
「外国へお嫁に行くのか…」
そういえばルカも数年海外へ行っていた。私の15歳の誕生日が過ぎてから何週間か後になって突然外国へ留学すると言い出したのだ。その頃には私も随分お妃修行が身についてきていたから再び独りになることにそれほど不安はなかった。
「セレナ、俺はしばらく隣国で経済の勉強をしてくる。侯爵様に昨日許可を頂いたんだ」
「そう、寂しくなるわね。でも頑張って、応援してる」
「ん、ありがとう」
それから3年間、ルカは隣国で経済学を学んだ。
「私もルカが留学した国に行こうかしら」
「どこへ行くのですか」
はっと後ろを振り返ると、真っ白な髪を無造作に下ろしたルカがドアの枠に寄りかかって私を見ていた。
「ルカ……」
どきりと心臓が飛び跳ねる。ルカは身体を扉の枠から離すと、長い足を大きく進めて数歩で私の近くまで来た。
「お嬢様。どこへ、行かれるのですか」
ルカはちらりと机の上に広がった便箋を見て、その綺麗な顔を歪める。
「隣国の大使殿に何の用があるのですか?」
……やっとここまで来れたのに、絶対に逃がしません。ぼそりと呟かれた言葉は聞き取れなかったけれど、ルカがとても辛そうな顔をしている。
「結婚の、相手を隣国で見つけようと思って…」
ルカは一瞬酷く傷ついた顔をしたが、すぐにその琥珀色の瞳に怒りを含んで私の両手首を掴む。想像以上に強いルカの力にぎりぎりと手首が痛む。
「ル、カ」
「させません」
掴まれた手首をぐいっと引き寄せられ、私はルカに抱きしめられる形になった。ルカは片方の手首から手を離し、私の背中に腕を回した。背中からも力を込められ、私とルカの身体はますます密着する。
赤くなっているであろう顔を隠すために俯くと、ルカの心臓が騒がしく鳴っていることに気が付いた。
ルカの顔を見ようと、上を向くと、目が合った途端にルカの顔が真っ赤に染まり、顔を背けられてしまった。
「見ないでください。今、すごく格好悪いんですよ俺。強引に、お嬢様を奪おうと思ったのに、貴女が綺麗過ぎて、…力が入らないんです」
そう呟いたルカの腕から力が無くなる。
「ルカは、私のことを好きだというの?」
見上げたまま、ルカの真っ赤な横顔をじっと見つめる。ルカは俯いているため、彼の長めの前髪が目に掛かっていて彼の目元はわからない。
「……好き、ですよ。昔から、初めて貴女に会ったときから」
ルカはその綺麗な薄い唇を小さく動かして、震える声で告白した。
ルカが私のことを好きだと言った!
気づけば私の目から涙が零れ出していた。はらはらと流れ落ちるそれは止まらない。私は嬉しいのだ。ルカに好きだと言ってもらえて、心の底から喜んでいる自分に気が付いた。
「私も、好き、なんだと思う。ルカのこと」
再びルカの腕に力が入り、私の身体はぎゅっとルカの大きな身体に包み込まれる。ルカの背中に手を添えると、彼は一瞬びくりと肩を震わせたが、甘えるように私の肩に顔を埋めた。猫のように柔らかい白い毛が頬に当たってくすぐったい。
ルカはしばらく私を抱きしめた後、そのままゆっくりと口を開いた。
「一緒に、隣国で暮らしませんか?」
私は彼の背中に添えた手に力を加える。
「よろこんで」
ルカは顔を上げて私の顔を見ると、泣きそうになりながら嬉しそうに笑った。
私は幸せだ。
***
俺は18歳で隣国に留学した。セレナと離れるのは辛かったけれど、セレナを守るための力が欲しかった。
留学先は隣国のトップの教育機関で、偶然にも隣国の王子と同窓になった。彼はルイージと違って真面目な性格で、努力家で、俺たちはすぐに親しくなった。
1年ほど経った頃、彼は俺にこの国の弱点を聞いてきた。それに答えることは反逆罪だったけれど、俺は外国を見て、どんなに自分の国が愚かなのかを思い知ってしまった。隣国にはわが国のように道端で飢えている人を見かけない。教育の機会は全ての人に平等に開け放たれ、国民は自分の能力に適した仕事をしている。
彼は第2王子という立場から王位継承を目論んでいた。当時の第1王子がルイージ並みに馬鹿な男だったからだ。政治が腐った隣国を吸収し、改善すれば国王に王位継承を認めて貰えると彼は言っていた。
俺たちは協力することにした。
俺は初めに内密にノースヒル候を説得し、現国王に反感を持つ貴族を見方につけた。幸運な事にセレナの父親は俺の言い分をすぐに受け入れてくれた。彼自身、国王による政治の腐敗に心を痛めていたのだ。
それから俺は国内にある反政府組織に通じた。彼らは同じ平民の俺の話を興味深く聞き、彼らの膨大なネットワークで情報を入手し、国王を崩御させる計画を立てていった。
3年の隣国での教育期間が終わり、俺は再びセレナのいる国に戻ってきた。
3年ぶりに見たセレナは、言葉では言い表せられないほど美しく成長していた。彼女の評判は隣国にまで流れてきていたけれど、想像以上に綺麗だった。そのころ、ルイージの彼女に対する態度も変化していた。3年前では有り得ないほど、毎日セレナの傍に居るようになっていたのだ。
俺は文官として王宮で職を得た。たまにセレナを見かける度に、彼女の近くに当然のようにルイージが立っていて激しい怒りを感じる。けれどその度に、この国を、ルイージをもうすぐ亡き者にするのだという興奮が湧き上がってきた。
そして、ついに待ち望んだそのときが来たのだ。
長年病床に臥せっていた国王が死に、王位がルイージに渡った日。俺は隣国の王子と計画していた革命を実行することにした。
反政府の革命家たちが隣国とは別の国境で火花を着け、混乱に乗じて隣国から王都に兵を送る計画だ。
もともと国王による政治に多くの国民が不満を抱いていたため、実行から数日で、反政府勢力は着実に地方を征圧していった。反乱の情報が王宮にまで伝わったころ、俺は真の目的を達成するためにルイージのもとに向かった。
そしてルイージの命を助ける代わりに、隣国への併合と、セレナとの婚約の解消を約束させたのだ。
隣国への併合は簡単に頷いたけれど、セレナのことはなかなか首を縦に振らなかった。
3年の間に彼は本当にセレナに恋をしてしまったのだ。俺とルイージに、もしも昔のような関係が続いていとしたら、俺はセレナをルイージに託していたかもしれない。けれど3年前に、俺はルイージからセレナを奪うと決めてしまったのだ。
「もしもセレナを手放すつもりがないというのなら、少し時期早々だが、俺がこの手でお前の首を掻き切ってやる」
ルイージは初め、俺がそんなことするはずがないと高を括っていたが、俺が生身の真剣を握り締め、その切っ先をルイージの喉仏に当てると彼の顔から血が失せた。
「こ、こんな事をして、ただで済むと思うなよっ」
「早く答えろ。セレナを手放すか、貴様の命を手放すか」
長い沈黙の時間が過ぎ、
ルイージは足に力がなくなったように、へたりと膝を着いた。
「頼む…僕を殺さないでくれ」
目の前で力を失くして項垂れるかつての友人を見ても、俺の心の中は仄暗い歓喜で満たされていた。
セレナ、俺の愛しい人。もう二度と君を逃がさない。
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