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メヂカルレコオド  作者: 樋桧右京
9/10

四・それぞれの思い(2)

 切り裂かれた矢絣の着物に広がる赤い染み。

 僅かの間、そのまま自身の身を以て市杵島姫尊を守る壁となっていたが、血の広がりが胸の半分以上を覆った頃、由海は遂に力尽きて崩れ落ちた。

「由海君!」

 それと同時に消える市杵島姫尊の姿。

思わぬ出来事にカマエルは驚愕の声を上げる。

「なに、魂が肉体に戻っただと!?」

 息も絶え絶えに倒れた由海は必死に腕を伸ばし、横たわる沙和の手を握る。


 どれぐらい経ったであろうか。

沙和は果てしない闇の中を彷徨い歩いていた。

 一寸先も見えず、手を伸ばしても触れるものなど無い。

何の音も聞こえず、何を頼りに進んで良いのかも分からない。

歩けば歩くほど増してゆく不安。

「霧生様……由海さん……」

 不安は次第に恐怖へと変わっていく。

 心を奮い立たせて、この闇から抜け出る方法を探して歩いていたが、ついには立ちすくんでしまい、動けなくなってしまう。

「もう駄目……ここから出る方法なんて無いのです……」

 首を振り、沙和は脱出することを諦めようとする。

 心が折れ掛けたその時である。

 目の前に淡く光る何かが落ちていることに気が付く。

 いつからあったのだろうか。

 沙和は何かと足早に近付きそれを拾い上げた。

「……矢?」

 青白く光るそれの正体は、紛れもなく一本の矢であった。

 そして拾い上げたと同時に、沙和が望んだ声がその耳に届く。

「お……義姉……様」

「由海さん……? 由海さんどこなの?」

 矢を握りしめたまま、沙和は由海を探す。

「お義姉……様……」

 次に聞こえてきた由海の声と同時に、目の前に差す一筋の光。

「由海さん、そこなの?」

光に近付くと、それは神社神殿の扉のようで、半開きとなった隙間から洩れてくるものであった。

「由海さん!」

 身体が通れるほどの隙間はなく、沙和は扉を開けようとするが、押しても引いても動く気配がない。

「開かない……なぜです……?」

 まるで分厚い鉄で拵えたかのようにびくともしない。

「お願いです、開けてください!」

 沙和は懇願し、扉を強く叩く。

 すると、隙間から細く白い女性の手が伸びてきた。

「お義姉様……」

「由海さん!」

 沙和がその手を握りしめた瞬間、扉が開き、辺りが光で溢れた。


 沙和が目を開くと、蝋燭の光で赤みを帯びた天井と、端に見覚えのある像が視界に入ってくる。

「ここ……は……」

「お義姉……様……」

 すぐ傍から聞こえる掠れた由海の声。そして、自分の手を握る冷たい感触。

 沙和は急速に意識を取り戻すと、半身を起こし、声の主を確認した。

「由海……さん?」

 由海を見た瞬間、彼女の身に何が起きたのか、全く理解が出来なかったが、一つだけ分かることがあった。

 彼女の命の灯火が、今まさに消えかけているということだ。

 由海を抱きかかえ、狼狽える沙和。

「由海さん、由海さん……ああ、こんなに血が……誰か、誰か由海さんを……」

 助けを求めるように辺りを見回すが、目に入るのは、赤く染め上げたぼろぼろのワイシャツを身に纏う霧生と、血の滴る剣を提げているカマエルの姿。

 沙和はすぐに、霧生と由海をこのような目に遭わせた張本人を察した。

「貴方が……由海さん達をこのような……なぜこのような惨いことを……」

 それは悲しみか、それとも怒り故か。

発したその声は震えている。

 だが、そんな沙和の声など耳も貸さず、カマエルは由海に対し、怒りと憎悪の眼差しを向けている。

「汝が邪魔さえしなければ成就となったものを! 原形を留めぬほど叩き潰してから今一度召喚してくれる!」

 カマエルは剣を逆手に持ち、虫の息である由海に非情にも突き立てようと振りかぶった。

 それに対して沙和は、己の身体で由海の身体を覆って庇おうとする。

「そのような鬼の所行、決してさせません!」

「邪魔だ、退けい!」

 次の瞬間、沙和を中心に無数の光り輝く粒が大気中に舞い始めた。

「これは!?」

粒に触れたカマエルは、それの正体に気が付き、たじろいで後退る。

 それを追うように粒は密度と範囲を増していく。

「くっ!」

 それから逃れるように、カマエルは大きく跳躍した。

「お義姉……様」

「由海さん!」

 由海の生気が乏しくなった手を、両手で包むように握りしめる沙和。

「お……義姉様が……ご無……事で……良かっ……た」

「しっかりして、由海さん!」

 受け入れがたい親友の死という現実。

 しかしそれがもうすぐそこまで迫っていることを、沙和は悟らざるを得なかった。

「お義姉……様の……手……温か……い」

 一筋の涙を零しながら、苦しいはずなのに由海は微笑んで見せる。

 今の由海に出来る、精一杯の沙和に対する情の証。

 しかしそれを最後に由海の命の灯火は消えた。

「由海……さん?」

力無く、物言わぬ骸となった由海。

その温もりは、失われていくことはあっても、二度と戻ることはない。

「由海さん……」

 悲しくないわけではない。しかし何故か沙和は泣くことが出来なかった。

 自分にとって余りにも非現実的なためか、それとも事実を受け入れることが出来ないためか、それは自分にも判らない。

 何らかの由海の力であったのだろうか。沙和達を包む輝く粒が、急速に消えていく。

 それに警戒の色を少し弛めるカマエル。

「フ……フハハハハ、守手がくたばって力も失ったか。まあ良い。さあ、もう一度召喚の儀を行おう」

 構えていた剣を下ろし、歩み寄ろうとする。

 だが、霧生は痛々しい身体で必死に起き上がり、そうはさせまいと剣を構えてカマエルに一撃を繰り出す。

 しかしそれはあっさり弾かれ、カマエルに蹴り飛ばされてしまう。

「うぐっ!」

 床に背を打ち付け、苦痛の声を上げる霧生。

 カマエルは沙和の方に行くのを止め、踵を返し霧生の方へと向き直る。

「我は今、とても虫の居所が悪い。まずは汝を肉の塊へと変えてから、召喚の儀を行おう」

 冷ややかながらも、その下に感じる激しい怒り。

 霧生は迎え撃つために起き上がろうとするも、自力で立つこともままならない。

「ああ、このままでは霧生様までも……」

 自分の心の中にいる存在。

 父や由海、それにいつしかそこに、霧生も今は住んでいるのを沙和は感じていた。

 沙和にとって大事な者。

かけがえのない者。

そして決して失いたくない者。

「お父様……由海さん、力を貸して!」

 その時、祈る沙和の耳に聞こえるはずのない声が届く。

 お義姉様、手を伸ばして――

 確かに由海の声を聞いた沙和は、足下で横たわる由海の亡骸に目を落とす。

 だが血の気を失った由海の口が開いた様子はない。

しかし再び聞こえる由海の声。

お義姉様、手を伸ばして――

幻ではない。

沙和は何が起こっているのか理解出来ないながらも、言われた通りに怖ず怖ずと伸ばしてみる。

するとそこに無数の光の粒が現れ始め、僅かの間取り巻くように舞ったかと思うと、沙和の手元を中心に収束していく。

次第に形を為していき、瞬く間にそれは一本の弓へと姿を変える。

ようやく解ったの。わたし……『由海』はお義姉様のための『弓』なのだと――

「私のための……?」

 わたしたちは二人で一つ――

 沙和はこれで霧生を助けることが出来るかもしれないと、一筋の光明を見た思いだ。

 急がなければ霧生を殺められてしまう。

しかし、ふと肝心なことに気が付く。

「だけど、矢が……」

 矢はお義姉様の中にある。さあ、引いて――

 それを聞いた時、沙和は夢の中で見た青白く光る矢を思い出していた。

「由海さん……霧生様……!」

 光の弓を引く沙和。

 すると沙和の周りに無数の氷の結晶が生まれ、それらは急速に沙和の手元へと集結する。

 集まり形作ったそこには一本の氷の矢が生まれていた。

 こちらに背を向けているカマエルに対して狙いを定める。

 一瞬止まる時の流れ。

「霧生様、由海さん!」

 そして、沙和は躊躇いなく矢を放つ。

 沙和の中で止まっていた時間が途端に動き出し、遅れた分を取り戻すように矢は目にも止まらぬ早さで大気を切り裂き、カマエルの胸を貫いた。

「うぐぁは!?」

 役目を終えた光の弓は砕け、蛍のように散ったかと思うと音もなく虚空へと消えていった。

 お義姉様が必要としてくれる限り、わたしはいつでもお側にいます――

 沙和を思う、どこまでも温かく優しい声音。

「由海さん!」

 それが沙和の耳に届いた、最後の由海の声だった。


 霧生は、不意にカマエルの胸を穿った矢に驚きを隠せなかった。

 飛来した方向を見れば、どうやら沙和の放った物のようだ。

 カマエルは、鎧を砕いて己の胸から突き出た矢を、驚愕の眼差しで見つめている。

「汝……」

首だけをぎこちなく向けて、肩越しにカマエルは沙和を睨み付けた。

沙和は怯む様子もなく、毅然と視線を受け止める。

 千載一遇の好機と見た霧生は、最後の気力を振り絞って立ち上がった。

 もう一度倒れるようなことがあれば、まず次は無い。

 閃蜂を構え、狙う一点を見据える。

 尚も戦う意志を見せた霧生に気が付いたカマエルは、目をぎらつかせて剣を振り上げた。

「辺境の猿などにこの我が敗れるなどあり得ん! あるはずがないのだ!」

 対して、冷徹そのものである霧生の声。

「それじゃあてめぇはその猿以下って事だ」

「ぬぐぅるらぁぁぁぁ!」

 カマエルの怒りの咆吼を合図に、同時に動く二人。

 霧生の切っ先が届く前に紅い剣が霧生の肩を捉え、その肉を深く切り裂き鮮血をまき散らす。

 だが霧生はそれを全く意に介さずそのまま踏み込んだ。

「うおおおおぉぉぉぉ!」

 全ての神気を掛け声と剣先に込めた霧生の一撃は、鎧を貫きカマエルの頚もとの経穴を違うことなく穿つ。

 貫かれてなお、もう一度剣を振り上げるカマエル。

だがそれは振り下ろされることなく静止する。

 動から静へと一転し、沈黙が辺りを支配する。

 微動だにしないカマエルと霧生。

 息を呑んで見守る沙和。

 どれほどの時が過ぎたであろうか。

 とてつもなく長くも感じたが、おそらくはほんの数秒のことだろう。

 振り上げたカマエルの手から力が失われ、紅い剣がすり抜けて床に重い金属音を響かせて落ちた。

 閃蜂を引き抜くと、カマエルは虚空を見つめたまま、膝から崩れ落ち、前のめりに伏す。

 そしてそれ以上カマエルが動くことはなかった。

 霧生は勝利を確信し、一気に身体から力が抜ける。

 思わず剣を取り落とし、床へどっかりと座り込んだ。

「勝った……」

 疲労困憊の中、湧き上がる勝利の喜びから自然と顔が綻ぶ霧生。

「霧生様!」

 沙和も勝負は決したと見たのか、急ぎ駆け寄ってくる。

「沙和君、身体に障りはないか?」

「私はどこも。それより霧生様のお怪我の方が……」

 沙和は懐から手ぬぐいを取り出すと、霧生の顔などについた血を優しく拭う。

 その後、今受けた肩の傷をしばり、応急手当を施す。

 必死な沙和の顔を見ながら、悔やんでも悔やみきれず霧生は呟いた。

「由海君を守れなかった……。なんと詫びればいいのか」

 包帯代わりに結んだ手拭いの上から手を当てる沙和。

「……霧生様、多少は痛みが和らぎますか?」

「あ、ああ。ありがとう」

 沙和は切ない瞳で、手の上から霧生の傷を見つめている。

「手当はこうして手を当てて痛みを和らげることから、手当と言うようになったそうです。……ここ数日の内に私は蒼木様、由海さん、そして霧生様の手に助けられて今こうしています。どなたか一人でもその手が無ければ、私はこうして生を享受していることは出来なかったのです。ですから霧生様がご自身を責めることはありません。責めは全て私が……私が……」

 今にも泣き出しそうな顔で自分を責める沙和に、霧生は首を振った。

「オレはついさっきまで、正直なところ死を覚悟していた。だけど沙和君のお陰で今こうして生きている。沙和君が責任を感じる必要はどこにもないんだ。沙和君はカマエルの謀に巻き込まれただけなんだから」

 霧生は励ましてみるものの、そう容易く沙和の心の傷を癒せるとは自身も思わない。

 だが、今自分に出来る精一杯のことをするしかない。

「……由海君をいつまでも冷たい床の上に寝かせておくのは忍びない。手伝ってくれるかい?」

 沙和の悲しみを払拭させることは出来ない。しかし、霧生の言葉で沙和は落ちる涙を堪え、頷いた。

 霧生は沙和の手を借りて立ち上がると、痛む身体を堪えつつ、由海の傍へと歩み寄り亡骸を抱き上げる。

 鼓動の止まったその身体は冷たく、袈裟懸けに切り裂かれて血に染まった胸が痛々しい。

 リボンは解け、艶を失った長い黒髪が垂れていた。

踵を返し、沙和が霧生を支えつつ礼拝堂を後にした。

外へ出ると、満天の星空が霧生達を出迎える。

「由海君もあそこで一緒に輝いているのかな……」

空を見上げた霧生のふとした呟きに、沙和は小さく首を振った。

「いいえ。由海さんはずっと私の傍にいます。そう言っていましたから……」

「そっか……」

 何とか元気な顔を見せようとする沙和のいじましさに、霧生も今出来る精一杯の笑顔で応える。

「行こう、冷えるといけない」

 霧生が促し、半ば引きずるように足を前に運ぶ。

沙和もそれをかいがいしく支える。

 そして数歩前に進んだその時であった。

 霧生は不意に背筋に寒気のようなものを覚える。

 何度も感じたことのあるその感覚は、紛うことなく殺気。

 慌てて振り向いた霧生の目に飛び込んできたものは、礼拝堂の中で立つカマエルの姿。

「我の物にならぬ霊依姫など滅びてしまえ!」

 いつの間にか拾い上げていた紅い剣を、逆手に持って振りかぶり、沙和へと向けて投げつけた。

 霧生の手に剣はなく、由海を抱きかかえて両手がふさがっているため、叩き落とすことも沙和をその場から退避させることも出来ない。

沙和は霧生が巻き込まれないように突き放そうとする。

 しかし他に手段がないと悟った霧生は、飛来する剣の前に身を晒し、沙和の壁となる。

「霧生様!」

 沙和の悲痛な叫び声が響き渡る。

 霧生は今度こそ訪れた己の死を覚悟し、静かに目を閉じる。

 次の瞬間、金属同士がぶつかり合う甲高い音が周囲に響き渡った。

 霧生の身を襲うはずの痛みは、いつまで経っても襲ってこない。

 不思議に思った霧生は恐る恐る目を開けて確認する。

 するとそこには、両刃剣を手にしたランスロットが佇んでいた。

「オー、ミスターキリュウ、カンパチネ」

 足下に転がるカマエルの剣。

 礼拝堂に視線を戻すと、そこにカマエルの姿はすでになく、由海の父が倒れていた。

 息があるかどうかは、ここからでは判らない。

 ただ一つ判るのは、今度こそ、この戦いが終わったと言うことだ。

 唐突に現れた命の恩人に、キリュウは苦笑いを向ける。

「まったく、それを言うなら間一髪だろ……」

 緊張の糸が切れたのか、霧生は呟きながら膝から崩れ落ち、芝生に顔を埋めた。

「霧生様! お気を確かに! 霧生様!」

「オー、ミスターキリュウ!?」

 霧生を呼びかける二人の声が、どんどん遠くなっていく。

 そして霧生の意識は暗闇の底へと沈んでいった。


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