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メヂカルレコオド  作者: 樋桧右京
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四・それぞれの思い(1)

四・それぞれの思い


霧生はカマエルが飛び去った方向に全力で自転車を走らせていたが、元町付近で一度足を止め、息を弾ませながら今一度方向を確認するために辺りを見回す。

走って来たはいいが、カマエルの目的地に心当たりがあるわけでなく、実は途中で降りていて、とうの昔に素通りしてしまっている可能性も捨てきれない。

しかし聞き込みをしようにも、通りはガス灯に照らされて明るいが、深夜のため人通りはまるでない。

何らかの変わった気配や物音はしないかと、息を整えながら耳を澄まして様子を窺う。

「どこだ……」

すると、不意に頭上から物音が聞こえ、警戒しつつそちらに視線を向ける。

直ぐ脇の商店、瓦屋根の上。

そこにいたのは蒼木であった。

おそらく屋根から屋根へと伝って最短距離で追いかけてきたのであろう。

「警部補殿! 由海君は良いのですか?」

「彼女に自分よりも渡津嬢をと頼まれた。それより奴はおそらく赤学校の礼拝堂、そこにいるはずだ」

「何故分かるんですか?」

「この世に生まれたものというのはすべからく生まれ落ちた地に存在する地脈と深い関わりを持っている。だが、今の彼奴はいわば補給線の伸びきった軍のようなもの。こんな遠方の地で、それも不安定な肉体で何かやらかそうというのだ。自分らに向けられた祈り、信仰という名の気を栄養として、召喚の義を行うに不足している力を補うはず。日本での奴らの影響力は西欧に比べ遙かに弱い。そんな気の集う場所は自ずと限られる」

「解りました! 霧生巡査、直ちに向かいます!」

 早速漕ぎ出そうとする霧生であったが、それを蒼木が制止する。

「焦るな。我が輩は気になることがある故、礼拝堂には行けぬ。間に合えば駆け付けるが……」

 蒼木は霧生を見据え、問う。

「やれるな?」

 霧生は刹那の間目を伏せるが、笑みを浮かべると、自信に満ちた表情を蒼木に向けた。

「誰に言ってるんすか。当たり前でしょう」

 蒼木は口端を吊り上げ、霧生の答えに満足そうに頷いた。

「その言葉忘れるな。まかり間違って命を落とそうものなら、我が輩が貴様を殺すぞ」

「おお、怖えぇぇ!」

 蒼木なりの励ましに、霧生はわざと戯けて見せた。

 僅かな時の間、視線を交わす二人。

 そして蒼木は命を下す。

「行け」

「了解!」

 霧生と蒼木は、それぞれが為すべき事を為すために、各々の道へと別れた。

          ◆

 クレメンティス女学院敷地内にある礼拝堂。

 人気はなく、しんと静まりかえっている中、カマエルはその入り口に降り立った。

 沙和は気を失っているのか、カマエルに抱えられるまま、手足を力なく垂れている。

 カマエルが礼拝堂内へ入ろうと一歩踏み出すと、主を迎え入れるかのようにその扉が勝手に開く。

 中へと踏入り、一歩一歩ゆっくりと奥に掲げられているイエス像へと歩んで行く。

 それに合わせるかのように、独りでに壁に掛けられた燭台に灯が点っていき、礼拝堂内を照らした。

蝋燭の光に照らされたカマエルの鎧がより深い赤に彩られる。

炎の揺らめきに合わせて絶え間なく変化するイエス像の影。

その背後の窓にはめ込まれたステンドグラスから月の光が透り、荘厳な雰囲気を醸し出していた。

カマエルは像の下、冷たい床に沙和を横たわらせると、沙和の身体の上に手をかざした。

それと同時にカマエル達を囲むように、光り輝く五芒星が床に描き出される。

すると気を失ったまま沙和は苦しみだし、眉根を寄せる。

自身の術が効果を及ぼし始めていることを確認したカマエルは、片頬を吊り上げた。

「ククク……。真の肉体を得た暁には極東の猿どもが崇める悪魔など、我の手で全て滅ぼしてくれる。思い上がった蛮族が、猿は猿らしく山で騒いで居ればよいのだ。我らの威光が及ばぬ地などこの世に存在してはならぬ」

 沙和の小さな喘ぎが、礼拝堂内へ微かに響いた。

            ◆

 蒼木は屋根から屋根へと飛び渡りながら、一連の出来事について、特にカマエルがその姿を現してからのことを考えていた。

 沙和がヴァンパイアの邪気に冒されて、体調を悪くしたのは解る。

 だがその後のカマエルが空に打ち上げた光、あれはいったい何だったのであろうか。

 あの直後、沙和の様子が急激に変化した。

 しかし、カマエルの光球が直接何らかの影響を及ぼしたようには見えなかった。

 そもそも、沙和の身体が目的であれば、今回のような回りくどい真似をする必要がどこにあったのだろう。最初からカマエルが出てきて襲えば事足りたはずだ。槻守家当主の心酔の仕方から言えば邪鬼化は簡単だったはずだ。

 そこで一つ蒼木は考え至る。

 あれは合図だったのではないか。

 沙和の気に隙が出来るのを見計らって、なんらかの計を企てていたとしたら。

 しかしなぜ?

 市杵島姫尊は水の神、そしてカマエルは火の天使――。

 蒼木の中で、霧に包まれていた道筋が見え始める。

 そしてある所で、その先にあるものが光となって見えた。

「なるほど、そういうことか」

 蒼木は跳躍方向を変えると、ある場所へと全力で向かう。

 クレメンティス女学院――その麓にある厳嶋神社へ。

           ◆

 霧生はクレメンティス女学院の門に辿り着くと、自転車をそこに放置し、門をよじ登る。

 全力でこぎ続けたため、汗がびっしょりとワイシャツに染みこんでいる。

 礼拝堂を探して敷地内を駆けると、十字架を頂いた、それらしき建物をすぐに見つけることが出来た。

 深夜だというのに窓からは明かりも漏れている。間違いない。

 息を整える時間も惜しんで礼拝堂に近付き、閉ざされている扉に手をかけた。

 一度だけ深呼吸をすると、霧生は扉を引き開ける。

 蝋燭の炎と、何か分からない光で満たされた礼拝堂内。

 正面の像の下に寝かせられている沙和と、紅い鎧に身を包んだカマエルの姿を捉える。

 突然現れた霧生の姿に、カマエルは少なからず動揺を見せる。

「……何故ここが分かった」

 霧生は剣を抜き、静かに一歩ずつ歩み寄る。

「オレにはいろんな意味でおっかねぇ上司がいてな。その人が言ったのさ。てめぇはここにいるって。そしたらこの通りだ」

「……あの狐か。忌々しい畜生風情が! だが場所が分かったからといってどうするつもりだ? 我に力及ばなかったことを、もう忘れたわけではあるまい。せっかく拾った命、取っておけば良いものを」

 霧生は後一歩で間合いに入ると言うところで立ち止まった。

「生憎てめぇにどうこうされるほど安い命じゃねぇんだよ。そして沙和君の命もな! ここでてめぇを倒して沙和君は返してもらうぞ」

 剣を構え、その切っ先の向こうにいるカマエルを鋭く見据える霧生。

「頭の悪い猿だな。愚か者に生きている価値など無い。望み通り殺してくれる」

 カマエルもまた儀を中断すると、鞘から紅き剣を引き抜いた。

 静寂が辺りを包み、空気が張り詰める。

 相手の呼吸を計るかの如く、双方互いを見据えたまま動かない。

だが、数呼吸の後、二人は同時に床を蹴った。

            ◆

 厳嶋神社に着いた蒼木は、鳥居をくぐり、灯りもない暗闇に包まれた境内へと慎重に入っていった。

もっとも、狐は元々夜目が利くため、この暗闇は蒼木にとって支障はない。

 辺りに人影はなく、神木であるケヤキは心なしか枝の張りに生気が足りない。分身である由海があれでは無理も無かろう。

 蒼木は境内の中心まで来ると、不意に足を止め、ここに居るはずの誰かに向かって呼びかける。

「いるのであろう? 薄汚い鼠のように隠れていないで出てきたらどうだ」

 だが応えるものは何も無く、しんと静まりかえっている。

 蒼木は境内の地面を視線だけを動かして見遣ると、鼻で笑った。

「やはり思った通りだ。だが、これで隠したつもりか? あくまで居留守を使うのであれば、こちらも存分にやらせてもらおう」

 言うと同時にサーベルを抜いた蒼木は、刀身に雷を纏わせると、何もない宙に向かって振り降ろす。

 振り抜かれたサーベルから迸る雷が刃となり、地面を穿つ。

 それを何度も繰り返し、蒼木は次々と大地を抉る。

 そして幾度目かに振り下ろした時であった。

 突然境内に初めて聞く声が響き渡る。

「止めていただけますか。この通り姿をお目にかけましょう」

 すると神殿の正面の扉が開き、そこから背中に一対の翼を持つ天使が現れた。

 その天使は金の装飾を施した鎧と、同様に拵えられた剣を腰に佩いている。カマエルとは異なり、穏やかな笑みを湛えるその表情からは、見るものに優しい印象を与えるかもしれない。

「貴男は何者ですか? こちらに仕掛けた物に気付かれた点と今の行動から、敵、ということは理解できるのですが」

「話が早いな。ここに施された市杵島姫尊の力を封印する術、破壊させてもらう」

 微かな笑みを浮かべる蒼木に対し、天使もまた丁寧に応じる。

「それは困りますね。目的を果たすためにはこれは必要なのですよ」

「だろうな。市杵島姫尊本来の力があれば、カマエルにその魂を召喚など出来まい。しかもこの日本で。市杵島姫尊は水の神、カマエルは火を司る。水気は火気を克する、相克の関係。本来であれば手出しすら出来ぬ相手だ。だからヴァンパイアを使って守手を取り込み、邪気を渡津嬢に侵入させて内からの弱体化を図ったわけだ」

 蒼木が導き出した答えを聞いた天使は、表情を全く変えず軽く拍手する。

「ご賢察の通り。ではこれはもう隠している必要ありませんね」

 蒼木の足下に光と共に浮かび上がる、神殿を囲むように描かれた巨大な六芒星。

 それには気を留めず、蒼木は問いかける。

「ここ横濱を足がかりに貴様達の勢力の拡大が目的か。だが一つ分からぬ。市杵嶋姫命の力を封じる貴様のような存在が居るならば、カマエルでなくとも召喚を試みることが出来たはずだ」

 天使は小さく笑う。

「簡単なことですよ。それは私の仕事ではないからです。仕方なく少々手伝いはしましたが、あまり手を出すと、彼、すぐに激怒して手が着けられなくなるのですよ。私の本来の仕事は監視。お恥ずかしい話ですが、カマエルは情が少々激し過ぎる故、目的のためには手段を選ばない所がありましてね。行き過ぎて堕天しないよう監視する必要があるのですよ」

「面倒な同僚を持ったものだな。我が輩にも出来の悪い部下がいて困って居る」

「ははは、お互い苦労しますね」

 一見和やかな調子で交わされるやりとり。

 しかし、一笑いした後の天使の眸には殺気が満たされていた。

「……貴男とは折角気が合いそうなのに心苦しいですが、そこまで知られてしまっているなら、ここからお返しするわけにはいきませんね」

 天使は腰の剣をゆっくりと引き抜く。その剣身にも、華やかな金の装飾が施されている。

「なに、こちらとて同じ事。気にする必要はない」

 蒼木もサーベルを構える。

「私の名は大天使ラグエル。貴男の名をお訊ねしましょう」

「我が輩は神奈川県警抜鍼隊所属、警部補、蒼木。どうせ短い付き合いだ、覚える必要は無い」

「では蒼木殿、参ります」

 ラグエルの身体が宙を舞ったかと思うと、蒼木に襲いかかる。

 ここでもまた、一つの戦いの火蓋が切って落とされた。

              ◆

 クレメンティス女学院礼拝堂では、霧生とカマエルの戦いが繰り広げられていた。

 槻守邸での一戦から、大きく力負けしていることを悟っていた霧生は、カマエルからの攻撃を受け止めようとはせず、回避に徹していた。

 しかしそれは動きが大きくなり、体力の消耗も激しい。また、相手からすれば動きが読みやすく反撃のタイミングがほとんど予測されてしまうこととなる。

 霧生は致命的な攻撃こそ免れているものの、小さな傷を幾つも受けており、ワイシャツは自分の血で所々赤く染まっていた。

「この馬鹿力野郎が!」

 思わず悪態を吐く霧生を、カマエルは一笑に付す。

「力こそ正義! 力ある者に弱者は従うべきなのだ! 力無き者がいくら己の正義、理想を語ったところで絵空事。力の前ではその様なものは全て粉砕されるが運命!」

 振り下ろされるカマエルの剣を、すんでの所でかわす霧生。

「望み通り、てめぇを倒して沙和君を取り返してやる!」

「ほざけ!」

 剣を振りかざした二人の影が交差する。

               ◆

 蒼木とラグエルは、互いに一歩も譲らぬ戦いを展開していた。

 幾合か打ち合うも、力は互角。

 どちらの刃も相手の身体には届かずにいる。

 間を取り合い、相手の出方を窺い合う二人。

「我が輩とここまで渡り合う相手と剣を交えるは、久しく無かった事だ。……面白い」

 不敵な笑みを浮かべる蒼木に対し、ラグエルは常にその笑みを崩さない。

「正直な事を申し上げれば、もう少し簡単に片付くかと思っておりました。その非礼はお詫びいたしましょう」

「フン。丁寧な物言いだが、その実、本気を出していないと言っているように我が輩には聞こえるな」

 その言葉に小さく笑い声を上げるラグエル。

「流石は蒼木殿。ここ日本での活動源の確保は厳しいのですよ。そのため余り力を使いたくはなかったのですが、そうも言っては居られないようですし」

「舐められたものだな」

「だからこそのお詫びです。では」

 言うと同時に舞い上がり、一気に間合いを詰めて剣を大きく振り上げるラグエル。

 近付くラグエルのがら空きになった胴に、蒼木は雷纏うサーベルを一閃させた。

 しかしラグエルは、それを待っていたかのように体を少しずらすと、鎧にその剣身を当てさせる。

「ちっ!」

 誘いに乗せられことに気が付いた蒼木は、己の失態に舌打ちする。

ラグエルの鎧に打ち付けたサーベルは、その衝撃で中程から真っ二つに折れてしまった。

「先程の遣り取りで、剣にひびが入っていたことにお気づきでなかったようですね」

 ラグエルとの戦いで、そこまでサーベルに負担をかけた覚えは蒼木にはなかったが思い当たる節はあった。

 おそらく槻守邸でカマエルの一撃を受けた時、あの時点ですでに脆くはなっていたのだろう。

 どちらにしろ、己の落ち度には違いない。

 振り下ろされるラグエルの剣を、蒼木は横に跳んで避けようとする。

しかし、ラグエルの反対の手が、蒼木の腕を捉える。

「捕まえました」

 次の瞬間、蒼木は自分の腕の捕まれている部分から広がる、違和感に気が付いた。

「これは……!」

 見ればそこから制服の色が、無機質な鼠色に変わっていくのが分かる。

「貴男には彫像となっていただきます。このようなやり方は好みではありませんが、手強い貴男を葬り去るためには致し方なき事。石となった身体を砕けばどうなるか。お察しかとは存じます」

 蒼木は力尽くでラグエルの手を振り払い、間合いを取る。

 しかし一度始まった石化は止まらず、腕から身体へと急速に広がっていく。

「自称神の使いともあろう者が、また随分とえげつない手段を使うものだ」

 この場においても、蒼木はあくまで冷静に振る舞う。

「恐縮です。ですが、カマエルほどではないにしても、やはり手段を選んでいられないこともあるのですよ」

「否定しようが貴様らの根はやはり同じだな」

「それは誤解というものですが、どうやら弁明の時間は無さそうです」

 蒼木の首まで及んでいた石化はすぐに顔まで覆い始め、間もなく全身に至る。

寒空の下、直立姿勢の蒼木の石像がそこに出来上がったのだった。

             ◆

 霧生の繰り出す突きを、カマエルは剣で弾き、霧生が体勢を崩したところで薙ぐ。

 姿勢を無理に戻そうとはせず、霧生はそのまま腰を落としてそれをやり過ごした。

 カマエルが剣を振り抜いた隙に、鎧に覆われていない部分を狙い刺突するも、瞬時に体をずらされ、経穴を捉えることが出来ずに有効打とならない。

 戦い始めてから何度これを繰り返したことだろう。

 邪鬼に対して霧生の攻撃は、経穴に入らなければ決め手とならない。

 それに対しカマエルの刃は、少しずつだが確実に霧生に傷を負わせている。

 形勢不利なまま戦い続ける霧生は、疲労が積み重なるに従って心が折れそうにもなるが、蒼木との別れ際の言葉、なにより目の前に横たわる沙和の姿を目にする度に、気力を振り絞り、絶望的とも言える戦いに立ち向かう。

 沙和の苦しげな喘ぎが耳に届く。

「幽門!」

 腹部の経穴を狙い、攻撃を試みる霧生であったが、それもまた外される。

 カマエルの反射速度が霧生のそれを上回っているのか、決めたと思った瞬間に逸らされてしまうのだ。

 再び剣を薙ぐカマエルの攻撃を霧生はかわそうとするも、蓄積した疲れは、足枷となってのしかかった。

 頭の中で描いたようには思う通り動けず、避けきれないと判断した霧生は、カマエルの一撃を剣で受け止める。

 しかしその強烈な一撃は、押し止めることなど叶わず、霧生の身体をそのまま吹き飛ばした。

 そのまま礼拝堂に備え付けられていた長椅子に、霧生は背中を強く打ち付ける。

あまりの衝撃に数秒呼吸が止まった。

「がはっ……! かはっ……!」

 苦悶の表情を浮かべる霧生をカマエルは見下す。

「たかが人間がここまで持ち堪えたことは称賛に値する。しかし、我と汝の力の差は歴然であることを思い知っただろう」

 霧生は何とか呼吸を取り戻し、椅子の背もたれに手をかけて立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまい満足に立つことも出来ない。

「畜生! 立て! 立ちやがれ!」

 自分の脚を殴りつけて気合いを入れようとするが、脚はその悲痛な呼びかけに応えることがなかった。

「もはや限界であろう? フハハハ! だが我をここまで手こずらせた褒美だ。そこでイチキシマヒメが滅んでいく様を見届けさせてやろう。汝らが神と崇める悪魔との訣別の証人となるがいい!」

 カマエルは剣をぶら下げたまま沙和に歩み寄ると、手をかざした。

 沙和を取り囲む五芒星の光が一際強くなる。

 喘ぎと共に一瞬小さく跳ねる沙和の身体。

「や、やめろ! オレは……オレはまだ……戦える! かかってこいや……こらぁ!」

 禄に身動きの取れない霧生の挑発を、カマエルは横目に嘲笑するだけで相手にしない。

 なんとか沙和からカマエルの気を逸らそうと図るも身と成らず、召喚の義は進行する。

 そして。

「さあ、出でよ! イチキシマヒメよ!」

 カマエルが市杵島姫尊の名を呼んだ次の瞬間、横たわったままの沙和の身体の上に、光と共に一人の人影が現れた。

 その姿の向こう側は透けて見ることが出来る。肉体を持たない魂気である証拠だ。

 眠りについているかのような人影の顔立ちは沙和にそっくりで、古式ゆかしい着物を身につけている。

物語などで伝え聞く天女とはかくのような姿なのだろう。

 カマエルは満足げに頷くと、霧生の方へと向き直り数歩距離を詰める。

「さあ、しかと目に焼き付けるがいい。悪魔が今、我の剣で滅ぶ様をな! フハハハハ!」

 高らかに笑うと霧生に背を向けるカマエル。

 霧生は立ち上がろうと試みるが、身体に激痛が走り動けない。

 先程ので肋骨が折れたのかもしれない。

「てめぇ! こっちに来やがれ!」

 霧生の声を聞こえていないかのように無視し、カマエルはゆっくりと剣を振り上げる。

「空いた肉体は我が有効に活用してやる。ありがたく思え」

 剣を握る手に力を込めるカマエル。

「やめろ――――!」

 霧生の絶叫が礼拝堂に木霊する中、まさに剣が振り下ろされようとしていた。

 だがその時、イエス像の背後にあるステンドグラスを突き破り、影が飛び込んでくる。

 その影の正体を見た時、霧生は自分の目を思わず疑った。

「ゆ、由海君!?」

 まさしくそれは由海に間違いなかった。

 だが一つ違うのは、その背に蝙蝠のような皮膜の羽があることだ。

 カマエルは由海に一瞬気を取られて動きを止めるも、構わず剣を振り下ろす。

 由海はそのまま市杵島姫尊とカマエルの間に身を滑り込ませ、手を広げ庇うように割って入る。

 そしてカマエルの剣は、そのまま由海の身体を大きく切り裂き、礼拝堂の床をその血で染めた。


――――半刻ほど前。

「ルイーザと言いましたね。……聞こえますか?」

 由海は自らの内に未だいるはずのルイーザに呼びかけた。

 その呼びかけに応じたルイーザの声が、頭の中に微かに響く。

 あら、まさかまだ呼びかけてくるとは思わなかったわ――

 驚きと自虐が混ざり合った声音だ。

 無事に事が片付けば、治療によりルイーザは完全に消滅する運命にあるのだから無理もない。

 しかし、次の由海の言葉に、ルイーザは更なる驚きを隠せない。

「お願いです。私に力を貸して下さい」

 まだ勘違いしているのかしら。私は神の使いなどではなくてよ?――

「重々承知の上でお願いしています。わたしにお義姉様を助けるための力を貸して下さい。もし断ると仰るなら、今ここでわたしは自害いたします。ですが、お義姉様を無事助けた暁にはわたしの身体、ご自由に使って下さって結構です」

 ルイーザは由海の提案に対して、しばらく黙していた。

「お願いします」

 もう一度由海が懇願すると、楽しそうなルイーザの声が頭の中に響く。

分かったわ。私も天使どもに利用されっぱなしは面白くないもの。悔しがる顔の一つも見てから消えるとしましょう。だけど今の私に身体の全てを入れ替える力は残っていない。後は自分で何とかするのね――

「お礼申し上げます」

 由海は身体から力を抜き、内から湧き起こる力の波に身を委ねる。

 そして着物の背を破り、そこに一対の皮膜の羽が現れた。

           ◆

「さて、カマエルの方はそろそろ終わったでしょうか。こちらを完全に片付けて合流するとしましょう」

ラグエルは石像となった蒼木に止めを刺すべく、剣を振り上げた。

「もう聞こえてはいないでしょうが、悪く思わないで下さい」

しかし、ラグエルの言葉に反し、声がその耳に届く。

「まったくだ」

「え?」

 ラグエルが思わず尋ね返した瞬間、天から幾条もの雷が雨の如く二人を中心に降り注ぐ。

 振り上げた剣めがけて落ちる閃光。

「ああああああ!」

 ラグエルは苦しみの声を上げる。

その内の一際大きな稲妻が、石像となっていた蒼木を直撃した。

 すると、蒼木の表面に亀裂が入り始め、瞬く間にそれは全身に及んだ。

 動けなくなったはずの蒼木の腕が挙がりそれを一振りすると、発生した衝撃で、蒼木を覆っていた石の膜が全て剥がれ落ちる。

 そこに現れたのは一糸まとわぬ蒼木の姿。いや、それはある意味正確ではない。

体表は獣毛で覆われており、頭には蒼木の正体である狐の耳がぴんと立っていた。


 無数に降り注いだ光の雨により地面は穿たれ、ラグエルが施した六芒星の光は殆ど消えかけている。

 幾つもの雷に身体を打たれ、満身創痍となったラグエルは距離を取り、信じられないものを見る目で蒼木を見つめていた。

「何故です? 薄皮一枚しか石化できなかった……?」

 蒼木は身体の調子を確かめるように指を動かす。指先には鋭い爪が生え揃っている。

「貴様のお陰で制服が粉々になってしまった。この我が輩が始末書など書く羽目になろうとはな。まあ良い、ついでだ。霧生に始末書の書き方でも改めて指導してやろう。……さて」

 蒼木はラグエルを見据えながら、ゆっくりと近付く。

「納得できないといった風だな。木の根は土を割り、抉ってその根を張り巡らせる。即ち木気は土気を克する。雷は木気。我が輩に土の術は効かぬよ。まあ、普段被っている人の皮だけは少々及んだようだが、障りはない」

 蒼木が一歩寄るごとに、同じく後退るラグエル。

「……なるほど、これは配置に些か問題がありました。ですが、術は効かぬともそちらは丸腰。こちらに分があることは変わりありません」

 ラグエルの言葉を鼻で笑う蒼木。

「そう思うならば掛かってくるがいい」

 言うと蒼木は挑発するように指で招く。

「過剰な自信は身を滅ぼしますよ」

 宙を舞い、渾身の力を以て剣を振り下ろすラグエル。

 蒼木はそれに合わせて剣の腹を拳で殴りつけた。

 耳障りな甲高い音と共に砕け散るラグエルの剣。

「先程の雷撃で剣にひびが入っていたことに気がつかなかったか?」

「!?」

「そしてその鎧もだ!」

 蒼木は武器を失ったラグエルの胸に目がけて、手刀を突きだした。

 蒼木の爪は容易く鎧を砕き、ラグエルの胸を穿つ。

 見開いた目で貫かれた己の胸を見つめるラグエル。

「こ、こん……な」

 最後まで抵抗しようとしているのか、ラグエルは震える手を蒼木へと伸ばす。

 それを蒼木は、鬱陶しくまとわりつく虫を払うように除ける。

「それではそろそろお引き取り願おう」

 胸に埋まったままの手から、蒼木は雷を放つ。

 ラグエルの体内は、一瞬にして焼き尽くされる。

そしてその口が開かれることは、二度と無かった。

 手を引き抜き、崩れ落ちた骸からラグエルの姿が消え、宿主となっていた人間の姿が現れる。

 それと同時に微かに残っていた六芒星の光も、その輝きを完全に失った。

 宿主となった人間の息はすでに無い。魄気を維持できないほど使われてしまっていたのだろう。

 貿易商風の身形をした西欧人の男。

首にかけたロザリオが月の光を受けて寂しく輝いていた。

「おそらくこ奴が情報収集でもしていたのであろう。でなければ、渡津嬢などの情報に奴らがあそこまで詳しいはずがない」

 蒼木は視線を境内から臨むクレメンティス女学院に移すと、霧生の所へ駆け付けるべく動き出そうとする。

 しかし、それを阻むように突如襲った目眩に絶えきれず、頭を押さえ膝を付いてしまう。

「くっ! ここ数日の内に力を使いすぎたか……」

 蒼木は霞む目で赤学校を見上げる。

「霧生……」


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