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メヂカルレコオド  作者: 樋桧右京
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三・沙和と由海

 三・沙和と由海


 中天に差し掛かった青白い満月の光が照らす大地は、昼間の雰囲気とは一変し、異世界に迷い込んでしまったかの様な錯覚を覚えさせる。

 瓦屋根の日本家屋、西洋建築の家が入り交じって立ち並び、それらから漏れ出る灯りが、紺碧の帳をより際だたせていた。

 古今東西、このような夜には陰に生きる、この世ならざるモノや、人とは根底から異なる存在が闊歩すると言われてきた。

 人は闇を畏れ、そういったモノとの接触を避けるために夜が更けると家に籠もり、朝を静かに待った。

 しかし時代が進むにつれ、人々は闇を退ける術を手に入れていく。

 昔日には暗かった道も、今はガス灯に照らされ足下に不自由することはない。

 そのため人々は、「異なるモノ」達すらもどこかへ消えてしまったと思い始めた。

 だがそれは大きな勘違いである。

 どれほど人が作り出した炎で夜闇を照らそうとも、その恩恵を受ける者がいれば、そこには必ず陰が生まれるのだ。

 炎が強ければ強いほど、深く、濃い陰が。


 夜も更け、辺りもひっそり静まりかえった刻限の槻守邸。

 枯山水も、職人の手と冷たく光る月明かりと相まって、得も言われぬ幻想的な光景を生み出している。

 庭園を見慣れているはずの下女も今日に限って、その光景が、初めての場所に来たかのような感覚を覚える。

「お嬢様、お客様です」

 槻守家の下女がいつもと変わらぬ様子で、自室にいる由海に来客を告げた。

「あら、どなた?」

 だが、由海のその問いに答えた声は、下女である中年女性のものではなく、張りのある鈴のような声であった。

「由海さん、私です。沙和です」

「お義姉様!? まあ、外はお寒かったでしょう? お入りになって」

 喜びに満ちた由海の勧めに、沙和は障子戸を空け、洋燈の灯されている部屋に踏み入る。

 役目を終えた下女は下がっていく。


 下女が下がったことを確認すると、沙和は両手でそっと戸を閉めた。

「こんな遅くにお邪魔して堪忍ね」

「いいえ、いいえ。お義姉様が来て下すってわたしはとても嬉しく思います。てっきりわたしなどもう無用な存在に思われているのではと、気が気ではありませんでしたわ」

 じゃれつく子犬のように目を輝かせる由海に対し、沙和の表情は優れない。

「そんなこと……。だって私達は義姉妹の契りまで交わしたのですよ? その様なこと決してありません」

 由海の対面に座した沙和は手を伸ばすと、由海の頭を優しく撫でた。だが、撫でている沙和の顔はどこか苦しげだ。

 その様なことは気にも留めないのか、気が付いていないのか。由海はただただ嬉しそうに撫でられている。

 由海は撫でている沙和の手を取ると、自分の頬に当てた。

「お義姉様の手、とっても温かい……」

 幸せそうに目を閉じ、温もりを確かめる由海。

 だが、由海の素肌に触れた沙和は、心の臓が止まりそうなほどの衝撃を受ける。

 一見健康的に赤みが差しているものの、触れた手や頬が雪のように冷たく、およそまともな生者のそれとは思えなかった。

「由海さん……」

「そうそう。この間からお義姉様に見せたかった物があるのです」

 由海は片手で沙和の手を握ったまま振り返り、後ろの机の上に置いてあったビスクドールに手を伸ばそうとする。

 しかし、沙和の真剣な声が由海の動きを止める。

「由海さん……私のお願いを聞いてくれる?」

「お願いってなんですか?」

 振り返ったまま、沙和の方を見ずに尋ね返す由海。その音吐からは今までのようにはしゃいだ感が消え、抑揚を押さえたものに変わっている。

「由海さんはね、気が付いていないでしょうけど病に罹っているの。だから治療をうけて頂戴。私、良い先生を知っているから……ね?」

 悲しげに、しかしあくまで優しく諭す沙和。

「病……? わたしどこも痛くありませんし、辛いところもありませんよ?」

 少しだけ沙和の方に首を巡らせて見つめる瞳には、昼間と同じ、昏い陰が見て取れた。

 湧き上がりそうになる畏怖を抑え、沙和は息を飲み込むと、なおも続ける。

「その病の多くはね、当人の知らない内に身体を蝕んでゆくのだそうです。義姉からのお願いを聞き入れてはくれませんか?」

「その病というのは、あの霧生って男の人に聞いたの?」

「そ、それは……」

 口ごもる沙和に、由海は一際険しい眼差しをぶつけてくる。

 嘘でも違うと言ってしまえば話は早いのかもしれない。それでも沙和は由海に嘘を言うことは出来なかった。

 由海は握っていた沙和の手を離すと、机に置いてあったビスクドールを手にし、ゆっくりと立ち上がる。

「やっぱりそうなんだ。わたしはどこも悪くない。それなのに、わたしの言葉よりあの男の言うことの方を信じるのですね」

「違うの、霧生様は……」

 沙和は膝立ちになり、由海の気を静めようと努める。

 ところが、そのために発した言葉が仇となり、由海の逆鱗に触れた。

「わたし以外の名前をお義姉様は口にしないで!」

「由海さん……」

 激しい怒りをぶつけられた沙和は狼狽し、次にかける言が出てこなかった。

 由海はさらに何か言葉を荒げるかと思いきや、途端に妖しい笑みを浮かべ、指先で沙和の顎先をなぞる。

「お義姉様の方こそ、その男に誑かされているのです。わたしは全部知っているの。主の御使いが全て教えてくれるから……」

「主の……御使い?」

 ともすれば声が震えそうになる沙和であったが、それを必死に押し殺す。

 由海は文字通り目と鼻の先まで顔を近づけ、今にも触れんばかりだ。

 感じる由海の息遣い。

「そうです。だから私がお義姉様にも、主のお告げによる真実を教えて差し上げますわ」

 由海は更に顔を寄せ、唇と唇が触れそうになるが、そのまま頬を掠めて横へすり抜ける。

 肩を押さえられ、首筋に由海の生温い息吹が当たる。

 耳元で囁く由海。

「さあ、まずはお義姉様の中に眠る悪魔……サヨリビメを御使いから授かりました力で祓って差し上げます」

「サヨリ……ビメ……?」

 沙和の問いには答えず、沙和の首筋に先鋭い牙を突き立てんとしているのか、冷たく尖った物が当たる。

「霧生様……!」

 差し迫り、助けを求めて思わず沙和の口から突いて出た名。

「他の名を呼ばないで!」

 由海が怒りと共に牙で沙和の柔肌を貫こうとした瞬間、激しい音と共に部屋の障子戸が開け放たれた。


 由海の部屋の入り口に居並ぶ、制服姿の霧生と蒼木。

 間を置かずに霧生は室内に踏み込むと、一気に間合いを詰め、沙和の首元にある由海の頭に目がけて掌底突きを放つ。

 由海が上体を反らしてそれをかわし、そのまま間を取る。

霧生はその隙に沙和の腰に手を回して急ぎ立ち上がらせると、己の背後にかくまった。

 沙和の頼みで、由海の説得を試みることに同意した霧生は、もしものために部屋の外で控えていたのだ。

「大丈夫か、沙和君」

「は、はい。障りありません」

 沙和の無事を確認すると、霧生は腰の鞘から「閃蜂」を抜いた。

 いつもの鍼状の「鳴蛇」とは異なり、剣身の半ばから三角錐となっており、剣と言うよりも槍の穂先といったほうがしっくりくる形状である。

通常、鋒鍼と呼ばれる鍼の形状だ。

また、人体に使われる鍼に多用される物と同じ、銀で作られていた。

 洋燈の明かりを反射して、閃蜂は白き輝きを放つ。

「お義姉様に近づかないで……」

 由海は人形を胸に抱いたまま、立ち上がる。

「お義姉様の横に立っていいのはわたしだけなの! そこを退いて! お義姉様、その様な男に騙されてはいけません。さあ、こちらへ……」

 手を差し出す由海だったが、不安げな沙和は、より霧生へと寄り添い制服の袖をその細い指で掴んだ。

「お義姉……様……」

 信じていた者に裏切られたと、絶望に打ち拉がれた由海の声様。

霧生達の背後から、悠然と入ってくる蒼木。

「その人形か、ヴァンパイアの邪気を宿していたのは。彼女に執着する心に付け入れられ、邪気を自ら受け入れてしまったか。さて、騙されているのは果たしてどちらかな?」

 冷たく見下ろす蒼木。

「わたしは誰にも騙されてなんかいない。主の御使いから啓示を受けたんですもの」

「大方、そう名乗るヴァンパイアの声に誑かされたのであろう。愚か者め」

 叱責するかのような蒼木の言葉。

 だが、由海の心が揺るぐ気配は微塵もない。

「ヴァンパイアなんて知りませんわ。御使いであらせられる天使、カマエル様が私の前に現れてご神託を下さったんですもの。お義姉様が悪魔に惑わされているって」

 自信に満ちて語る由海に、霧生の横に出た沙和が疑問を投げかける。

「由海さん、どうして……どうして雪江さんまであのような仕打ちをしたのです? 私が目当てなら私だけを狙えば良かったでしょう?」

「仕打ち? わたしは加納さんを救って差し上げたの。だって、わたしがお義姉様から悪魔を祓おうとしたら、加納さん邪魔するんですもの。だから思いましたの。ああ、加納さんも悪魔に憑かれているのだと。ですから祓って差し上げたのですわ」

「ですが、それで加納さんはつい先程まで意識もなく、加納さんのご家族がどれほどお心を痛めておられていたことか」

 沙和の訴えを由海は一笑に付す。

「加納さん、悪魔が祓われてとてもご壮健でしたでしょう? わたし天使様に見せていただきましたもの。神の信徒として、お義姉様を誑かすそこの悪魔を成敗しようとしているところを。あれほど動ける方の意識が無かっただなんて、空言にも程がありますわ」

 由海は霧生を指差し、悪魔と称する。

 どうやら雪江との一戦は、どこかに身を潜めていた蝙蝠の目を通して見ていたようだ。

 物言う由海の瞳に濁りは無く、ただ純粋な凶気が見え隠れしている。

 邪鬼といえども、端から宿主としている人間の意を勝手に操ることは極めて困難である。

 そのため、智慧の回る邪鬼は、始めは少しずつ当人と利害の一致するところから、邪鬼にとって都合の良い方向へと意識を誘導するという。

 誘導された意識の下では、邪気に対する抵抗力が失われてしまい、本人も気が付かない内に自然と邪気を受け入れてしまう。

そして、いつしか隅々まで邪気の浸透しきってしまった肉体は『邪鬼』に奪われる。

 だが、今度は蒼木が由海を鼻で笑う。

「貴様がその天使とやらを妄信するのは勝手だが、獣の如く人に噛みついて悪魔を祓うなどとはまた随分と奇妙な。我が輩も知識として多少なりともキリシタンどもの悪魔祓いとやらを知ってはいるが、その様な方法は初耳だ」

「日本でもちょっと聞かねぇな」

 蒼木の言に、相槌を打つ霧生。

 すると、先程まで自信に満ちていた由海の面持ちに翳りが現れる。

「て、天使様が教えて下さったんですもの……人間が知らないだけですわ」

 霧生は険しい顔つきで由海を睨み付ける。

「天使がいるのかどうか自体の否定はしない。オレも仕事柄色々見ているから天使の一人や二人いても今更驚きゃしないさ。ただ、その天使があんたに真実を伝えているかどうかは別だ」

「天使様が嘘を吐くはずありませんわ!」

「分かった。じゃああんたの言うとおりその天使の言うことが正しいかもしれない。だが、あんたは義姉妹の契りを交わした沙和君よりも、その天使の言うことの方を信じるんだな?」

「お義姉様を誑かして騙しているあなたが言わないで!」

「つまり、こんな数日前に初めて会ったような男に沙和君が簡単に騙されるような人だと、あんたは思っているわけだ」

 霧生は間髪入れず、言葉を畳みかける。

「そのような……そのような詭弁! そんな言い方卑怯だわ!」

 霧生の言葉を拒絶はするものの、由海の心中に明らかに動揺が走るのが見て分かった。

 沙和が、なんとか由海を説得しようと呼びかけてみる。

 その声はあくまで穏やかで優しく、姉のようであり、母のようでもある。

「由海さん、天使様はそのお人形を手に入れてから現れたのでは無くって?」

 殆どの事情は、ここに来る道すがら霧生が沙和に伝えていた。

「どうしてそれを……」

「そのお人形に悪魔の魂が宿っていてね、大変危険な物だからそれを探して、英吉利から偉い牧師様も日本に来ていらっしゃるの」

「英吉利……から」

 ランスロットのことについては彼の頼みがあったことから、少しぼかして霧生は教えていた。

「ね? だからそれは牧師様にお渡しして、良いようにして頂きましょう?」

 由海は人形を抱いたまま首を横に振り、後退る。

「これはお父様が下さったんですもの……そんなはず……ありません……わ」

 今にも泣き出しそうな声で俯く由海。

「きっと何かの手違いがあったのです。私からもお父上様には事情をお話して差し上げますから。そしてその牧師様に来て頂きましょう。ね?」

 沙和が手を差し伸べる。

由海は暫くの間、迷い、考え込んでいた。

しかし、ようやく決心がついたのか、ぎこちなく小さく頷いた。

「ありがとう、由海さん」

 説得している間中辛そうな沙和であったが、にわかに笑みが戻り、安堵した様子だ。

 顔を上げた由海の目には涙が溜まっていたが、沙和の笑顔を見るとつられたのか、微かに笑みを零した。

「これで事件解決か」

 荒事もなく落着して胸をなで下ろす霧生。

 だが沙和に歩み寄ろうと、由海が一歩踏み出したその時である。

 由海は突然激しく身体を震えさせ始めた。

「由海さん!?」

 駆け寄ろうとする沙和を咄嗟に制し、霧生は歯ぎしりする。

「間に合わなかったか……」

「厄介な域まで邪気が浸透してしまっていたようだな」

 眉を顰めて見下ろす蒼木の前で異様なほど振るえていたかと思うと、苦しそうに由海は倒れ込んだ。

「由海さん! 霧生様、お願いします! 由海さんを、由海さんを!」

 霧生の手を押し退けて由海に近付こうとする沙和を、両手でその肩を押さえて遮る。

加納邸での騒ぎの時でさえ、沙和は気丈で、努めて冷静であった。

そんな沙和が、今目の前で起きている由海の尋常でない様子に取り乱している。

霧生は、沙和が由海のことをどれだけ大事に思っていたかをその肌に感じた。

 そして、どうやらその思いは由海にも伝わったようだ。

「お義姉……様……ごめんな……さい……お義姉様……たすけ……て……」

 涙を流し、必死に手を伸ばす由海。

「由海さん!」

 沙和の叫びが木霊したとき、由海の身体が黒い靄に包まれ出した。

 それは濃さを急速に増していき、やがて繭のように覆い尽くすと、由海の様子を見ることは全く出来なくなった。

 沙和を下がらせ、閃蜂を構える霧生。

 黒い繭は僅かな間、表面が蠢いていたかと思うと直ぐに霧散し始める。

 そしてそこに佇むは由海ではなく、ブロンドの髪に白い肌を持つ異国の女性。年の頃は二十歳過ぎ。

 英吉利巻に結い、爛々と輝く青い瞳に血のように赤い唇、ベージュのドレスを纏ったその姿は、由海の持っていた人形と瓜二つであった。

 由海と一緒に黒い繭に取り込まれたその人形は、今はどこにも見当たらない。

 異国の女性は、何かを確認するように己の腕や身体へ視線を移していく。

「邪鬼化……」

 今一歩の所で止められなかった事に、霧生は口惜しさを隠せない。

 沙和は口元を抑え、肩と声を震わせる。

「霧生様、由海さんは……」

「大丈夫、助けてみせる」

霧生は沙和を励ますため、一言だけ答えた。

邪鬼化しても、一気に魄気を使い果たされる訳ではない。邪鬼の身体を維持するために少しずつ消耗されていく。

すなわち、急ぎ手を打てばまだ助かる見込みはある。

だが、時間がかかればかかるほど身体への負担は増大し、失われた魄気の分は確実にその者の余命を削ってしまう。

その様に酷な事実を、今の沙和に伝えることは出来なかった。

「お願いいたします……お願いいたします……」

 面を伏せた沙和は霧生の腕を握ると、空知らぬ雨を零し、掠れる声で只々懇願するばかりであった。

 異国の女性を睨め付ける蒼木は、腰のサーベルを引き抜いた。

「貴様がヴァンパイアか。その存在、耳にしたことはある」

 女性は機嫌が良さそうに小さく笑うと、蒼木の言葉を艶めかしい声音であっさり肯定する。

「そうね、人間はそう呼ぶわ。でもね、ルイーザと言う名前があるからそう呼んで」

「すぐに必要はなくなるだろうがな。邪鬼には名を刻むべき墓も不要であろう」

「まあ、怖い人」

 蒼木の挑発を歯牙にもかけないルイーザは悠然と、垂れた一房の髪を指に巻き付けて弄ぶ。

「あなた達のお陰で予定が狂ったわ。もう少しでそっちの娘からサヨリビメを追い出してその貴重な身体を手に入れられたというのに」

 ルイーザは恨めしげに沙和を見つめる。

「サヨリビメ、だと?」

 霧生はその言葉に目を瞠り、背後で不安げにしている沙和を肩越しに見遣った。

「なるほどな」

 ルイーザの言葉を蒼木は鼻で笑う。

「サヨリビメは市杵島姫尊の別名。そして沙和はサヨリの言霊。貴様の目的は霊依姫の身体か」

 ルイーザはただ妖しく微笑むだけで、何も答えない。

 言霊とは、同じ韻を踏む物、または別の文字でも読み方を変えれば異なる意味と同じ韻になる物同士は、密接な繋がりを持つことを言う。

『四』は『死』に、『鯛』は『めでたい』に通ずるなど、これに関連したいわゆる縁起物は数多い。

 霊依姫は、神をその身に降ろすことが出来る巫女のことだ。

 多くの場合、生まれ落ちる以前より神と呼ばれる存在の魂気を宿しているためか、特異な体質を持っている。

その肉体の魄気は、あらゆる魂気と調和しやすいと言われ、魂気しか持たない存在にとって格好の身体である。

通常であれば邪鬼が乗っ取った肉体は、本来の肉体ではない事による魂気と魄気の不和により魄気が消耗し、そう遠くない内に肉体が死に至る。

だが霊依姫の身体であれば、ほぼその心配がない。

邪鬼にとっては喉から手が出るほど欲しいはずだ。

「てめぇ、そのために沙和君の周りを巻き込んだってのか!」

「結果的にそうなったわね。由海という娘が沙和を守りたいという感情を利用して、焚きつけたのよ。沙和という娘には悪魔が憑いて淫らな行いをさせようとしている、近付く者も皆悪魔に憑かれ、沙和を酷い目に遭わせようとしているとね。この娘はキリスト信仰に篤かったから名を利用して信じさせるのは簡単だったわ。あとは唆し、娘の願いを聞き届ける振りして、私を受け入れさせるだけ。流石に始めは躊躇いもあったみたいで、完全には身を委ねはしなかったけど」

 その言葉で霧生は、厳嶋神社ですれ違った由海のことを思い出した。

 最初の蝙蝠の襲撃はその日の昼間、沙和と一緒に居たのを嫉んでのものだったのだろう。

あの時はかなり由海の意識が強かったのか、そのために異形の体術は素人同然であったのだ。心得のない者が操っていたのだから無理もない。

 それで自分を排除できなかったため、由海はヴァンパイアにより頼ってしまったのだ。だから雪江の時は格段に動きが変わっていた。

「酷い……由海さんの心をそんな風に弄ぶなんて」

 沙和が思わず責めを口にするが、ルイーザは高らかに笑い出した。

「あなたにはお礼を言わなくてはね。この娘の妬みを都合良く煽ってくれたから予定よりも早く娘を虜に出来た。もっとも、あなたの言葉のために最後の詰めを損なってしまったのだけど。こうもあっさり翻るとはね。流石は神と守手の関係ってとこかしら?」

「守手?」

 ルイーザの言うことが理解できず、沙和は困惑する。

 その先を蒼木が継いだ。

「なるほど。貴様が槻守の娘の所に来たのも偶然ではないな? 渡津嬢に縁あるこの地で市杵島姫尊を祀るは元町の厳嶋神社。その神社の神木はケヤキ。槻守の槻の字はケヤキを意味する。おそらく槻守家は元々神事に関わりある者の血筋に連なるのだろう。ケヤキの精を槻守の娘は宿し、渡津嬢を守るために自然と惹かれていった。そこをつけ込んだのだ」

 ルイーザは突き刺す視線を向ける蒼木を、笑みを浮かべ、愉しそうに見つめる。

 指一つ動かすのも躊躇われるような張り詰めた空気の中、霧生は思い切って口を開く。

「警部補殿」

「なんだ」

「あの……名前がそうだからと言って、そんなに神様の魂気とか簡単に宿るものなんですか?」

 さっきまでの空気から一転、しらけた雰囲気が漂う。

 刹那の静寂の後、ルイーザは腹を抱えて笑い出す。

「あっはははははは! いいわね、あなた。そういう子好きよ」

 蒼木のこめかみにありありと青筋が浮かぶと、霧生の頭に手刀が振り下ろされた。

「貴様、邪鬼に嘲笑われるなぞ恥と知れ!」

「い、いや気になったものでつい」

「良いか、因果が逆だ! 気は万物に宿る。それは言葉とて例外ではない。魂気が名を引き寄せるのだ!」

 蒼木の鬼の形相に、霧生は質問したことを激しく後悔した。

「計画は不完全だったものの、久しぶりの身体に気分が良かったからお話に付き合ってあげたけど、そろそろ飽きたわね」

 一段調子の落ちたルイーザの声に、霧生達三人は気を引き締め直す。

「だな。そろそろその身体を返してもらおうか」

「これが最後の娑婆の空気だ。心残りの無いよう存分に味わっておくがいい」

 剣をそれぞれ構える霧生と蒼木。

 沙和は足手まといとならないように、二人から距離を取って庭に出る。

 険しい顔の霧生達に対し、ルイーザはあくまで笑みを絶やさない。

 辺りを支配する静寂。

相対峙する三人は、彫像になってしまったかのように動かない。

息を呑んで見守る沙和が微かに動いた拍子に、転がる足下の玉石。

その音を合図にしたかのように、時が動き出す。

霧生は踏み込むと閃蜂をルイーザ目がけて繰り出す。

事もなく横に体をずらしてルイーザはかわすと、突如手の爪を瞬く間に三寸ほど伸ばし、霧生の身体を狙って振り上げる。

 咄嗟に上体を反らして避けるものの先端が掠り、制服の胸部、一部分が切り裂かれた。

 たかが爪と侮ると、鋭利な刃物の如き切れ味に痛い目を見るようだ。

 続いて襲いかかってくる反対側の爪を、飛び退いて間合いを外す。

するとそのルイーザの伸びきった腕を狙い、蒼木が横から雷を纏わせたサーベルを振り下ろす。

ルイーザは膝を折って体勢を低くし、白刃の描く弧から逃れた。

体制の崩れたその隙を逃さず霧生は剣を突き出した。

「烏口!」

 切っ先がルイーザの肩口を捉える。

「ぐあっ!」

 霧生がすぐさま剣を引き抜き、次の手を繰り出すが、傷を押さえながらルイーザは横に飛んで避けた。

 互いに間合いを取ると、再び膠着する。

「よくも私に傷を!」

 見れば、傷を受けたルイーザの肩から先が次第に透けていく。

 霧生の一撃により、腕への気が止められ元々不安定な魄気が仮初めの肉体の形を維持できずに崩壊しているのだ。

 邪鬼の身体は、あくまで宿主の魄気を使って構成している別の身体のため、宿主の肉体自体に直接の損傷はない。

 今まで笑みを絶やさなかったルイーザが怒りを顕わにし、その顔が醜く歪む。

「私の身体を……許さん! 我が眷属よ!」

 ルイーザが怒号すると、突如その背からドレスを破り、腕を広げても足りないほど大きな、蝙蝠のような皮膜の羽が現れる。

 また、にわかに周囲が騒がしくなったかと思うと、沙和が悲鳴にも似た声を上げた。

「霧生様、蝙蝠があのように沢山!」

 霧生はルイーザを警戒しながら下がり確認すると、暗雲の如く槻守邸の空を覆う無数の蝙蝠。

 蝙蝠達は群れた動きで上空を一度旋回すると、蒼木達の居る部屋に突如としてなだれ込んできた。

 二人の視界は蝙蝠に覆われ、ルイーザどころかお互いの姿さえ禄に確認が出来ない。

「くそっ!」

霧生は剣を振り回すが、数匹程度は偶然当たって叩き落とせるものの、焼け石に水である。

 すると耳元でやかましく行き交う羽音の向こうから、蒼木の警告の声が飛ぶ。

「二人とも伏せろ!」

 それを聞いた霧生は直ぐさま伏せると共に、沙和に押して警告する。

「沙和君、伏せるんだ!」

「は、はい!」


二人が伏せた気配を感じ取り蒼木は、サーベルを持った腕を前に突き出した。

「この程度、何の障りもない」

 次の瞬間、サーベルの刃から無数の雷が、弾ける音と共に四方八方へと迸る。

 それはさながら光の嵐のようであった。

 閃光に貫かれ、次々と落下していく蝙蝠達。

数秒の後には室外上空にいた一部を除き、床や廊下を埋め尽くすほどの蝙蝠の死骸が累々と積み重なっていた。

すっきりとした部屋を見渡してみるが、ルイーザの姿が見当たらない。

「どこだ?」

 霧生も頭を起こし、蝙蝠達が掃討されたことを確認すると、急ぎ起き上がって臨戦態勢を整える。

 そして、二人が辺りを注意深く窺っていると、外で身体を起こしかけた沙和が声を上げた。

「霧生様、空に!」

「外か!」

 霧生は蝙蝠の死骸を踏んで足を滑らせないように注意しながら沙和の下へ駆け寄り、蒼木は畳を蹴ると一飛びで庭へと躍り出た。

 夜闇の空を見上げれば、満月を背に羽ばたくルイーザの影が浮かぶ。

「私の蝙蝠達をこうも簡単に退けるとは、そっちの背の高い男……前に私の可愛い蝙蝠達を殺したのもあなただったのね。あなた何者?」

 ルイーザはどうやらこちらの力を見くびっていたようだ。

 ヴァンパイアは、西欧の邪鬼の中でも有数の危険な力を持った存在であることは聞き及んでいた。それ故か、ルイーザにはたかが人間と侮っていた節があったが、今の交戦でその認識は覆ったようだ。

「なに、我が輩など貴様に比べればちっぽけな妖だ。ただの分かたれた狐さ」

「な…………!?」

 自虐的に言う蒼木の言に、驚愕の声を思わず漏らすルイーザ。

「あなた……まさか九尾の欠片!?」

「ご名答」

 蒼木は口端を吊り上げて指を鳴らす。

 身を翻して逃げる素振りを見せたルイーザを、轟音と共に天からの光の柱が貫く。

 そのあまりの激しい音に霧生と沙和は、身を屈めて耳を塞いだ。

 雷に身を焼かれたルイーザは羽ばたく力を失ったのか、庭先へと落下した。

 しかし直ぐにふらつきながらも立ち上がる。

「さすがは高名なヴァンパイア。アレを受けてなお動けるとは感心したぞ」

「謙遜? それとも嫌みかしら。いくら相手は人間といえども、数万もの軍勢相手に一人で戦うなんて馬鹿なこと、さすがの私でも考えないもの」

「ほう、光栄だな」


二千年以上前のこと。

 白面金毛と呼ばれる九尾の狐がいた。

 白面金毛は当時の殷、天竺で暴虐の限りを尽くし恐れられていた。

 その後日本に渡った白面金毛の嗜虐の振る舞いに、時の天皇が討伐の勅命を下す。

討伐のために動員された軍勢はおよそ八万。

決戦の地、那須での死闘の末、人間に敗れた白面金毛はその身を毒石、殺生石に変化させた。

殺生石は強力な毒気放出し、それによって辺り一帯を人の近寄れぬ、草木も生えない荒れ地へと変えてしまう。

しかしそれから三百年近く後、明治の世から五百年ほど前、一人の僧侶により殺生石は砕かれ、各地へと飛散した。

砕かれた多くの殺生石の欠片はその力を失ったが、いくつかの大きい欠片はその強大な力を内包したままであった。


「まさかそんなのが人間の味方をしているとはね、驚きだわ」

「時が経てば立場も移ろうものだ。貴様には言っても分からぬかもしれないがな」

「そう。その口振りだと懐柔も無理みたいね。ならば……」

 ルイーザは言うや否や、足下がおぼついていなかったのが嘘のような力強さで大地を蹴ると、あっという間に沙和の背後に回り、鋭い爪を顔に突きつけた。

「沙和君!」

 剣を構えて一歩踏み出す霧生。

 しかしそれをルイーザの声が牽制する。

「動かないで! 動けばこの娘、ただでは済まないわよ」

 だがその脅迫を蒼木は嘲笑う。

「フン、愚かな。貴様が欲しがっている身体を己で傷つけられるはずが無かろう」

「あら、私は生きてさえいればいいのだもの。この可愛らしい顔を引き裂いちゃおうかしら」

 ルイーザは一瞬顔を引き裂くと見せかけて、沙和の胸元に爪を当て、そのまま引き下ろす。

「やめろ!」

 ルイーザの爪が、沙和の着ている服の胸元を引き裂き、白い肌には数条の赤い線が出来ていた。

「ちっ!」

「やめろ!」

 悲痛な声でもう一度叫ぶ霧生を横目に、ルイーザは再び沙和の顔に爪を当てて、動くなと暗に示す。

「霧生様……蒼木様……申し訳ありません……」

 沙和は足手まといとなってしまった自分を恥じながらも、恐怖で立ち尽くし、顕わになった胸元を隠すこともできないでいる。

 しかし、脚を震えさせながらも沙和は声を振り絞って、背後のルイーザに向かって口を開いた。

「由海さんを……由海さんを返して下さい。由海さんは私の大事な人なんです」

 涙混じりの訴えであったが、ルイーザはそれを鼻で笑った。

「そんなに大事なら放っておかなければ良かったのに。そうすれば私も身体を乗っ取るのがもう少し手間がかかったのにね」

せせら笑うルイーザとは対照的に涙ぐむ沙和。

「由海さん、堪忍ね……私の考えが足りなかったばかりに……」

「フフ。さて、この娘を傷つけたくなければ私の言うことを聞いてもらおうかしら」

「なに!?」

 怒りで溢れる霧生の瞳が、ルイーザを睨め付ける。

「坊や、狐のお兄さんをその剣で殺しなさい」

「な!?」

「それが出来ないというならば……」

 ルイーザが沙和の頬に僅かだけ爪を突き立てると、そこから赤い雫が湧き出る。

「そんなこと出来るわけ……」

「ほう、それは面白い」

「え!?」

 拒絶する霧生の言葉を、思いがけない蒼木の声が遮った。

「貴様如き霧生一人でも十分であろう。ならば我が輩など不要。市民を守るための殉職も悪くはあるまい」

「警部補殿、何を言って……!」

 蒼木は霧生に向き直ると、親指で自分の胸を指した。

「ここだ。違えるな、一撃で仕留めて見せろ」

 霧生は蒼木の意図を図りかね、眉根を寄せた。

「そんなこと……出来るわけがない!」

 躊躇う霧生。当然だ。同僚をその手にかけるなど誰だってしたくない。

 しかし、そんな戸惑う霧生に、厳しい叱責が飛ぶ。

「貴様は警察官であろう! 何よりも市民の生命と安全を優先しろ!」

愉しげなルイーザが皮肉の笑みを浮かべる。

「フフフ。聞いていた九尾の狐とは大違いだこと。こんなにお優しいとは……」

 苦しげにゆっくりと剣を霧生が掲げて構えると、蒼木はもう一度自分の胸を指差した。

「……本気なんですか?」

「当たり前だ。迷えば仕損なうぞ」

 霧生の問いに、蒼木は真摯な眼差しで返す。

 霧生は軽く深呼吸をすると、蒼木の指差す場所の一点を見据える。


「いけません、霧生様、蒼木様……!」

 沙和はこれから起ころうとしている惨劇に胸を痛め、なんとか止めたいと願う。

 だが二人に沙和の声は届かず、霧生も蒼木も向かい合ったまま止める気配がない。

「市杵島姫尊……私の中に居られるなら何卒、何卒お力をお貸し下さい」

 無力な自分が頼るはもう市杵島姫尊しかいない。

 己の身体に秘めているという神に訴えかける。

 しかし、望むような奇跡どころか何の応えもない。

 足手まといとなった挙げ句、恩人達が自分のためにその手を血に染め、また命を落とそうとしている。

 自分はなんと要らぬ存在であろう。自分さえいなければ霧生も蒼木もこのようなことにはならなかったはずだ。

「警部補殿、覚悟!」

 霧生は腰を溜めると、地を蹴り蒼木へと突進する。

 微動だにせず、ただそれを受け入れようとする蒼木。

「霧生様、蒼木様!」

 それを見た瞬間、考える暇もなく沙和の身体は動いていた。

 ルイーザの手を握ると沙和は自分の首にその切っ先を押し当てる。

「なにっ!?」

 あまりにも予想外の事に反応が遅れるルイーザ。

「霧生様、御達者で!」

 その声に驚いた霧生は蒼木まで切っ先が後一寸というところで足を止めた。

「沙和君!」

 沙和は握る手に力を込めると、そのまま自分の喉を貫く。

 そう思われたその瞬間。

「駄目ぇ!」

 由海の声と共に、ルイーザは沙和の喉を貫く前にその手を振り払っていた。


 振り上げた腕を驚愕の目つきで見つめるルイーザ。

「馬鹿な!? あなたの身体はもう私の物なのよ!」

 ルイーザの腕は天に掲げられたまま動かすことが出来ないのか、その顔に強い焦りが見て取れる。

「くっ! 引っ込みなさい!」

 藻掻き、なんとか動かそうと試みているようだが、一向に自由に出来る気配がない。

 ルイーザの中で何かが起きているようだ。

 霧生は沙和に駆け寄るとその手を取り、ルイーザとの距離を空ける。

 向き合って沙和の両肩を掴むと、その手に思わず力を込めた。

「何てことをするんだ!」

「申し訳ありません……私さえ、私さえいなければお二人を助けることが出来ると思いましたら居ても立ってもいられなくて……」

 沙和の眦からこぼれ落ちる雫。

 それを霧生は指でそっと拭い去った。

「これはオレの願いと思って約束してくれ、自分の命を絶つような真似は二度としないと。君のことは必ずオレ達が守る」

 透き通るような黒い瞳を真っ直ぐ見つめる霧生の言。

しばし見つめ返した沙和は、小さく頷いた。

「はい、お約束いたします」

「ありがとう」

 霧生は安堵し、微笑みかけると、制服の上着を脱いで沙和に羽織らせる。

 その身体より一回りも大きな上着に包まれた沙和も微笑み返し、心なしか安心したように見受けられた。

 霧生が踵を返そうとすると、沙和がシャツの袖を掴んで止まらせる。

「霧生様、私からも一つお願いしたきことがございます」

「ん?」

「必ずや、ご無事で帰ってきて下さい」

 力強く頷く霧生。

「分かった、約束する」

 霧生は沙和を少し下がらせると、剣の切っ先をルイーザに向けて構えた。

「逢瀬は済んだか?」

 からかい口調の蒼木に真面目に返す霧生。

「変なこと言わないでください。そんなんじゃありませんよ」

「やはり鈍いな、貴様は」

「何がです?」

 鼻で笑う蒼木の言葉に首を傾げる霧生。

「なに、大したことではない。それよりも片付けるぞ」

「了解」

 二人が向き直ると、ルイーザは見えない束縛を無理矢理引きはがすように腕を振り下ろした。

 荒い息遣いと共に、沙和、蒼木、霧生へと視線を移していく。

「守手の力を少々甘く見ていたようね。腐っても神の眷属か。しかし、もう奇跡は起きない」

 ルイーザは口端を吊り上げて笑うが、蒼木が同じく笑みを返す。

「そうだな、奇跡はもう起きない。従って貴様はここで滅びる運命にある」

 言うと同時にルイーザに向けて腕を突き出す蒼木。

 雷撃が来ると踏んだのだろう。ルイーザはそれに反応して横へと跳躍する。

 霧生はその方向と距離を見極め、跳ねるように駆け寄り一気に間合いを詰めた。

 ルイーザの胸を目がけて霧生が剣を繰り出すと、ルイーザはそれを爪で弾き飛ばそうとなぎ払う。

 しかし霧生は一歩踏みとどまって剣を引くとそれをやり過ごし、体勢の崩れた所を狙って渾身の一撃を放つ。

「紫宮!」

 霧生の剣は、丁度心臓のある辺りを違わず貫く。

 確かな手応え。

 目を見開くルイーザ。

 その手は力なく垂れ下がり、脚からも力が抜けて膝を地に着く。

 霧生は勝利を確信した。

 だが次の瞬間、未だ光り失わぬルイーザの眸が霧生を睨め付けると、その腕を狙い鋭い爪が振り上げられる。

 反射的に飛び退く霧生であったが、剣を抜く暇が無くルイーザの胸に残したまま。

「しまった!」

 いくら邪鬼に抗する術を持つ霧生といえど、剣がなければただの人同然である。

 ルイーザは、異形のように素手で何とかなる相手ではない。

 閃蜂を胸に突き立てたまま、立ち上がるルイーザ。その様子からはまだ余裕があるようにも窺える。

「この程度のことでこの私を滅ぼせると思って? 今度はこちらの番よ」

 ルイーザが腕をかざして空を見上げた。霧生もその視線の先を追うと、そこには無数の蝙蝠達が集まっており、その数は先程の群れの比ではない。空を埋め尽くす雷雲の如き蝙蝠達が、主の命令を待っているかのように旋回をしている。

「この数の蝙蝠から娘を守りながら私を倒せるかしら?」

 挑発するルイーザであったが、霧生が視線を戻したその時、蒼木がいつの間にかルイーザの傍らに佇んでいた。

「な!?」

 喫驚するルイーザに突き立つ剣の柄を握る蒼木。

「我が輩の気配に気が付きもせぬとは、痩せ我慢をしていたようだな。だが貴様の手番はもう来はせぬ」

 蒼木が手に纏うは小さき雷の龍。

蒼木は閃蜂を通してルイーザの体内に直接雷を叩き込んだ。

「くあああああぁぁぁぁぁ!」

 苦痛と苦悶。

 しばらく雷を放出していた蒼木であったが、不意に剣を引き抜いた。

 僅かな間硬直してそのまま立っていたルイーザであったが、蒼木が剣を霧生に投げ渡すと同時に膝から崩れ落ち、玉石の中に顔を埋めた。

「今度こそ倒した……か?」

 霧生は油断無く剣を構える。

 しかし突如ルイーザの周りを白い靄が包みだし、また繭のようになる。

 ルイーザが現れた時と同様、しばらく蠢いていたかと思うと直ぐに霧散する。

そしてそこには元の由海の姿があり、倒れていた。

「由海さん!」

 沙和は駆け寄ると、由海の半身を抱き起こして何度も呼びかける。

「由海さん、由海さん!」

 霧生も続いてその傍らに立った時、ゆっくりと由海はその瞼を開いた。

「お義姉……様、ご無事……で」

 掠れる声を振り絞って、由海は沙和を気遣う。

 沙和は由海の手を握ると、涙を零しながら頷いた。

「由海さんが助けてくれたお陰でこの通り」

 その言葉に安堵したのか、微笑んでみせる由海。

「良かった……お義姉様、堪忍ね。わたしのせいで……」

 由海の詫びに対して沙和は強く首を振った。

「いいえ、いいえ。私が至らなかったばかりに……私が悪いのです」

「お義姉様そのような……」

 沙和と由海は、互いを気遣い合う。

 そんな二人の横で、蒼木が身体を屈めると何かを拾い上げた。

 あのビスクドールだ。

 腕は折れ、胸の辺りには穴が空いている。ルイーザが被った傷と同じ場所だ。

「力失い、姿を維持できなくなったか」

 蒼木は手に力を込めると人形を握りつぶし、粉々に砕く。

 そして宙を舞った人形の首を受け止めた。

「邪気の根源は人形の髪の毛だな」

「髪の毛?」

 霧生が言葉をなぞって尋ね返した。

「女の髪は魔性の力が宿ると言われる程に気を宿している。どういう経緯かは分からぬが、邪鬼の髪がこの人形の頭髪に使われて災い為したのだろう」

 人形の頭も握りつぶすと、髪を摘み、蒼木はその手に小さな雷を纏う。

すると人形の髪にたちまち引火する。

 蒼木が離すと髪は揺れながら小さな炎と共に落ちていき、地面へとたどり着く前には跡形もなくなってしまった。

「あとは由海君の中に残っている邪気を完全に取り除けば万事解決っと」

人形も破壊したとはいえ、こびりついた汚れのように未だ残留している邪気があるはずだ。それを放置すればまた障りを起こすことだろう。適切な治療が必要だ。

「沙和君、彼女を部屋に連れて行って治療を……」

 沙和らに声をかけ、一歩を踏み出した時である。

 霧生の背後、家屋の方から壮年男性の声が庭に響き渡る。

「これは一体何の騒ぎかね? ……どうしたのだ由海!」

「小父様……あの、これは……」

 その声に沙和は振り返り呟く。

 どうやら由海の父親のようだ。

今帰宅したばかりなのか、モーニングコートに身を包んでいる。

どう説明したものか困り口ごもる沙和に代わり、霧生が進み出た。

「御当主ですか? 県警の霧生巡査です。お庭を荒らしてしまい恐縮です。実は先程泥棒を追っていたところ、こちらに逃げ込みまして……」

 一礼の後、由海の父へと定型通りの一般向けの説明しながら歩み寄る霧生。

 邪鬼がどうのこうのと言っても、話がややこしくなるだけなので、こういった言い訳をよく使う。

 だがそれを不意に沙和達の傍に控える蒼木が止める。

「霧生、そやつに近付くな」

「え?」

 霧生は思わず振り返り、由海の父の顔と見比べる。

「何だね、君は? いくら警察といえど、言葉を慎み給え」

 不快感を顕わにする由海の父を、蒼木は鼻で笑った。

「フン、あれだけの騒ぎを起こしたのだ。下女が全く様子を見に来ないのもおかしな事と思っていたが、なるほど。貴様が殺めたか」

「なに!?」

 咄嗟に距離を取り、身構える霧生。

「何のことかね?」

一切の感情も伺わせない冷たい面を見せる当主。

「耄碌するような年では無かろう。身体に付けて間もない血の臭い、我が輩の鼻は誤魔化せんぞ」

 蒼木の言葉に、沙和も由海も目を見開いた。

「そんな……まさか……」

 由海は戦慄く。

 すると突然含み笑いを始め、当主は拍手をしだした。

 眉根を霧生は顰める。

「流石にもう小細工は通じぬか」

「お父……様?」

 沙和に抱き起こされたまま、由海は何を言っているのか理解できないといった風で当主を見つめている。

 槻守家当主は目を細めると、沙和を見遣る。

「沙和殿……何故君は存在するのだ」

「……え?」

 言われた意味が解らず、沙和は眉根を寄せる。

「君のお父上は何事もこの私より優秀だ。故に私は常に次席の座に甘んじなければならなかった。それはいい。だが、なぜ由海まで私と同じような苦渋を舐めさせられなければならないのか。何故、当てつけるように由海と年同じくして生まれたのか。私は由海が不憫でならない」

「お父……様」

 父の言葉を悲しく思ったのか、由海の眦から今にも雫が零れそうになる。

「由海に日の目を見せてやりたい。渡津の娘さえいなければ由海は誰にも負けない力を持っている。そしてその願いは神に聞き届けられた。西欧の教会で祈りを捧げる私に天使が使わされたのだ」

「まさかそれがカマエル」

 霧生の言葉に、当主は大仰に頷く。

「カマエル様は仰せられた。渡津の娘は在るべきではない歪んだ魂の持ち主であり、その肉体は本来カマエル様の物であると。カマエル様から聖なる人形を私は賜った。歪んだ魂を浄化する力を秘めた人形を。それがあれば由海は歪なる者の邪な力を払い除け、真の力を発揮できる。そして由海もまた神の使徒として歪なる者を滅ぼす力を得ることが出来る、と」

焦点の合わない目に恍惚とした表情で語る当主に、蒼木は呆れたように肩をすくめる。

「こう言っては何だが、子が子なら親も親だ。甘言に乗せられていいように扱われおって。愚か者め」

「神の威光を恐れぬ痴れ者が。身の程を知れ!」

「ふざけるなよ……」

「あん?」

 静かな怒りを秘めた霧生の言葉。

「お前のそんな我が儘でどれだけの人が辛い思いを、涙を流したと思っているんだ! 自分の娘まで危険な目に遭わせてそれでも人の親か!」

 徐々に激昂していく霧生の言うことなど、当主は聞く耳持たぬといった体である。

「神の力を得ようというのだ。試練は付きものであろう。何、我が娘ならば必ずや克服してくれると信じておった」

「ヴァンパイアが神の力だと? 自分の目で見ることを止め、心地のいい声にだけ耳を傾けて……反吐が出る!」

「私は神に選ばれたのだ。無礼もそこまでにしてもらおう。さあ、渡津の娘を渡せ。娘の身体は神にお返ししなければならん」

「断る!」

 狂気に冒された当主に向けて、霧生が剣を構える。

すると、当主の身体がにわかに光り出す。

「仕方あるまい。カマエル様、どうか私に不逞の輩を打ち払う力を!」

 次の瞬間、当主を中心として爆光が辺りを覆い隠す。

咄嗟に霧生は目を覆う。

しかし光は直ぐに収束した。

ゆっくり目を開けるとそこに当主の姿はなく、代わりに真紅の西欧鎧に身を包んだ赤毛の青年が一人、宙に浮いていた。

青年の背には白鳥のような一対の大きな翼があり、手には炎を思わせる鮮やかな紅い両刃剣が握られている。


「カマエルという部分はルイーザの虚言ではなかったか。キリシタンが言うところの天使自ら現れるとはな」

 蒼木は実力が未知数である敵を前に一層の警戒の色を見せ、目つきを険しくする。

 悪魔達との戦いにおいて最前戦で戦う兵、能天使。その長がカマエルと言われている。

 唯一神であるキリスト教において、他の宗教上の神は悪魔として見られる。


 カマエルは剣を一振りすると忌々しげに蒼木と霧生を睨む。

「後一歩で万事成就となるところであったものを……我が計画、汝ら如き人間、畜生に頓挫させられようとは。神を畏れぬ不遜な者達よ」

 剣を構え、霧生は慎重に間合いを計る。

 そこに存在するだけでカマエルから発せられる威圧感は尋常ではなく、ルイーザなど比較にならない力を持っていることは肌で感じ取ることが出来た。

 霧生はそれに呑まれぬよう、わざと悪態を吐く。

「今まで裏でコソコソとやっていた親玉があんたか。ヴァンパイアなんて使って嫌らしい真似しやがって、西洋の神の軍団って奴は卑怯者の集まりなんだな」

「控えよ人間! 極東の矮小な悪魔など、我が直接手を下すに及ばず。肉体を得られると唆せばこちらの思惑通り良く動いたわ。奴が事成した暁にはそこの女の身体を奪うつもりであったがな。我が動くのは最後のみで十分」

「面倒は他の奴にやらせておいて、おいしいところだけ頂きますってか。下劣に程があるぜ」

「我を同列に見ること自体、思い上がりよ。これ以上汝の戯言に付き合う謂われはない。……どうやら卑賤なる者も最低限の仕事はこなしたようだ。さあ、尾籠なる魂を宿し女よ。我に従え!」

 カマエルは紅き剣の切っ先を沙和に向け、命令する。

 だが、そんな高圧的なカマエルの言葉に、沙和ははっきりと首を横に振り、拒絶を示す。

「お断りいたします。由海さんは敬虔なキリシタンでした。女学校の礼拝堂でのお祈りも毎日欠かさず、その一途さに敬服の念を抱くほどでした。貴方はそんな由海さんの気持ちを利用し踏みにじって……心という物がないのですか!」

霧生は声を珍しく荒げる沙和に驚く。

僅か数日とはいえ、今まで見てきた沙和からは想像もつかないほど、怒りの情を顕わにした言であった。

 沙和に抱き起こされている由海も、沙和のそんな様子に驚き、目を見開いている。

 だがそんな真摯な沙和の声を、カマエルはせせら笑った。

「心? 我が汝らの心を知る必要はない。汝らが我が心を解し、我に従うのみ」

「そんな……!」

 あまりに一方的な言い分のカマエルに対し、さらに何かを言いつのろうとした沙和であった。

 しかし、急にその表情が翳り、辛そうな様相を呈す。

 息は荒くなり、由海を支えきれずに覆い被さるように伏す。

「身体が……」


 沙和の様子に蒼木は顔をはっとさせる。

「まさか……失礼!」

蒼木は沙和の傍らに膝を付くと着物の衿を捲り、首筋を確認する。

 そこには予想した通りのモノがあった。

 ヴァンパイアの牙による痕。

 沙和による由海の説得の試みた際、どうやら突入が一瞬遅れていたようだ。

 痕が小さいため、浅かったのかもしれない。そのため影響が表に出るのが遅れたのだろう。

 カマエルは一同を満足げに見下ろしていたかと思うと、腕を天に掲げ、その手から光の球を放つ。

 瞬く間に天高く昇った光球はある一点で花火のように弾けた。

 するとそれを合図にしたかのように、沙和が一層苦しみ、綺麗な顔を痛苦で歪ませる。

 そして次の瞬間、蒼木はカマエルから放たれる圧迫感がより強くなるのを感じ取った。

「お前、一体何をした!」

 そんな沙和を見かねた霧生は、剣を突きつけてカマエルに詰め寄る。

 カマエルはその問いを無視し、ただ五月蠅そうに霧生に向けて剣を薙ぐ。

 咄嗟に剣を霧生も剣で受け止めるが、そのあまりの力に受け止めきれないと判断したのか、剣身を傾けて力を流そうとするも、流しきれずに三間ほど吹き飛ばされた。

「い……てっ……」

 強か身体を打ち付けたのか、霧生は痛みで身を捩り、直ぐには起き上がれそうにない。

翼を羽ばたかせて宙を舞い、カマエルは沙和に近付こうとする。

しかしサーベルを提げた蒼木が、その間に立ちはだかった。

「畜生風情が我が前に出ることは許さん」

「フン、徳のなんたるかも知らず、傲るだけしか能のない兵卒風情が。貴様のような者など、この日本の地を踏む資格など無いわ」

「抜かしたな!」

振り下ろされる紅き剣。

蒼木はそれを受け止めるではなく、その剣身の腹を狙って打ち払う。

軌道を逸らされたカマエルの剣は目標を捉えることなく宙を斬る。

蒼木はその隙を狙い、雷を纏わせたサーベルでカマエルの胴を薙いだ。

通常であれば、これで勝負は決するはずであった。

しかし、サーベルを伝わってくる感触に手応えが感じられない。

 返す刃で攻撃してくるカマエルの斬撃も受け流し、やはり体勢を崩したところで再び斬りつける。

 だがやはり結果は同じであった。

「ちっ。貴様……」

 蒼木は最悪の事態を確信した。

「ほう。気づいたか畜生風情にも些かの知恵はあると見える。いかにも。我は火を司る天使カマエル。雷は我が糧。故に汝がいくら攻撃しようとも、雷を力とする限り我に傷を付けることは敵わん」

 陰陽五行。

 万物に宿る気は、陰と陽、及び木、火、土、金、水の五種の気すなわち五行に大別される。

 特に五行の気には相生及び相克の関係が互いに存在し、相生とは他の気の力を補強、活発に、相克の関係にある気に対しては逆に減退させる。

 雷は木気に属し、木気は火気を強める相生関係にある。

 故に、基本的には雷で火に属する存在に傷を付けることは能わず、逆に力を与えることになる。

 カマエルは蒼木を見下し、笑みを浮かべた。

 目の錯覚であろうが、蒼木の一撃を受けたカマエルが一回り大きくなったように見える。

「身の丈に合わぬ力を有しているようだが、畜生の牙如きで、我を貫くことは無理というもの。思い知ったなら道を空けるがよい!」

 大きく振りかぶり、カマエルが紅き剣を一閃させると、蒼木は道を阻むべくその一撃をサーベルで受け流そうと試みる。

 だが、渾身の力が込められた、重くのしかかるようなそれを流しきる事は出来ず、霧生と同じように蒼木も吹き飛ばされた。

 空中で身を翻し、体勢低くなんとか着地をするも、打つ手のない自分に苛立ちを覚え、より顔つきが険しくなる。

 苦しむ沙和の傍らにカマエルは舞う。

 沙和は、苦痛から身動きが取れずにいたが、その視線を以てカマエルへの服従を拒んでいた。

「汝の守手は衰弱して力を失い、我に仇為そうとした愚か者達もあの様。もう、汝を守る者はいない」

 沙和の無力さを知らしめんとばかりにカマエルは言い放つ。

嘲る笑みを浮かべたカマエルは、沙和に向かって手を伸ばし抱え上げる。

 由海がそれを阻もうと沙和の着物を掴むも、力の入らないその手はあっさりと振り切られてしまった。

「遂に手に入れた。あとは悪魔の魂を肉体より召し出し、滅するのみ。極東のこの島国を、神の国へと変える偉大なる覇業に汝の肉体を役立ててやろうというのだ」

 カマエルはその大きな翼を羽ばたかせ始める。

 霧生は身体をふらつかせながらも立ち上がると、雄叫びを上げ、剣を構えて突撃を敢行した。

「うおおぉぉぉぉぉぉ!」

「き……りゅう……様」

 だが霧生がカマエルの下に辿り着くよりも早く、カマエルは一際大きく翼を羽ばたかせると、満月が冷たく光る大空へと舞い上がった。

 カマエルは、一度だけ霧生達を見下ろすと、そのまま夜の闇の中へと飛び去ってしまった。


 カマエルの姿が見えなくなった方向を凝視する霧生であったが、内心次の行動に迷っていた。

 沙和を直ぐに追いたい。だがここには未だ邪気に冒されたままの由海もいる。

 蒼木はあくまで対邪鬼戦においての戦力であり、治療の術は持たない。

 しかし、時を置けば置くほど沙和の身の危険も増していくのは事実だ。

 霧生はどちらかを優先させなければならなかった。

 由海は力の入らない身体をなんとか起こして口を開く。

「わたしに構わずお義姉様を……お義姉様を助けて下さい。わたしなら大丈夫ですから」

「しかし……」

 霧生の迷いを見透かしたのか。

躊躇う霧生の背を、蒼木の言葉が押す。

「ここは我が輩に任せて霧生は直ぐに渡津嬢を追え」

二人の顔を霧生は交互に見比べる。

しばし思案し、一礼すると、その瞳に決意の光を秘めて駆けだした。

槻守邸の門に向かう途中、玄関の扉前へ駐めてある自転車が霧生の目に入った。

神社でこれを借りたときの、沙和とのことが脳裏をよぎる。

昨日のことであるのに、まるで遠い日のことのように感じられた。

「自転車借ります!」

霧生は自転車のハンドルを握ると、跨り、持てる力を注ぎ込んでこぎ出した。


 暗闇に包まれた槻守邸へと向かう道の途中。

 ランスロットは大きな鞄を片手に提げ、ヴァンパイアを滅するべく再び槻守邸へと向かっていた。

 槻守邸の門が見え始めた頃、自転車に乗って勢いよく門から飛び出してくる影が見えた。

 影はランスロットの方に曲がると、猛然たる速度で迫ってくる。

 そしてそれはあっという間にすれ違い、ランスロットがやって来た夜の闇へと消えていった。

「オー、イマノ、ミスターキリュウ?」


蒼木は由海を抱き上げると、自室へと連れて行き、寝かせるための布団を用意するが、由海がそれを止めた。

「わたしは障りありません。ですからあなた様もお義姉様の所へ……」

「だが、放って置いて行くわけにもいかん」

「ですが、先程のことであの方一人ではどうすることも出来ないのは明白。わたしがまた身体を奪われることを案じていらっしゃるのならばご安心下さい。皆様に大変な御迷惑をお掛けしたことも含め、もしもの時のけじめを付ける覚悟は出来ております」

 身体は弱りながらも、その眸は力を失っていない。

 蒼木は、取りかけた布団を置き、由海の前に片膝を付いて向き合う。

「短慮なことは考えるでない。いたずらに己を粗末にするようなことがあれば、渡津嬢が無事に戻ってきた時にどれほど嘆くことか」

「……お願いします」

 だが、そんな蒼木に由海は押すようにしてもう一度頼んだ。

 蒼木は小さく溜息をすると頷く。

「分かった。その覚悟を無駄にせぬよう身命を賭して助けよう」

「感謝いたします。このご恩は生涯忘れません」

 目に涙を湛えて由海は頭を垂れる。

「……一つ訊かせてくれ。この辺りで最もキリシタンが集まるところと言えばどこだ? 奴は市杵島姫尊の魂を召喚すると言っていた。ここでそれを行わず、わざわざ場所を移したのには理由があるはず。場所の選択に何の縁もゆかりもない場所よりは、日本で考え得る天使に最も縁ある場所。すなわち教会であると考えられる」

 少し考えた後、由海はその場所を告げる。

「クレメンティス女学院の礼拝堂……。あそこは日曜には一般にも開放されておりますし、この近辺で一番大きいはずです」

「感謝する」

 蒼木は由海の肩を一度叩くと立ち上がり、直ぐさま部屋を飛び出していった。


 その背を見送り、蒼木の気配が無くなったことを確認すると、由海は一人呟く。

「ルイーザと言いましたね。……聞こえますか?」



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