表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メヂカルレコオド  作者: 樋桧右京
6/10

二・牧師服の男(3)

「お義姉様、今日はわたしの家に来て下さいますか?」

 授業が終わり、下校のざわめきの中、帰り支度途中の沙和に、由海がねだるような声で話しかけてくる。

「堪忍ね。今日もちょっとこれから用事があるから行けないの」

 由海の期待に満ちた目に沙和は心苦しかったが、雪江の母に昨日了承を取ったため、今日は霧生の所を訪れるつもりだった。

「昨日も一昨日もそう言って来て下さらない。私がこれほどお願いしてもいけませんの?」

「用事が落着したら必ず行きますから、それまでは堪忍してね」

 沙和がやんわりと断ると、今まで可愛らしくあった由海の表情が、みるみる険しくなっていく。

 今まで見せたことの無い形相に、沙和は思わず後退る。

「槻守……さん?」

「……あの男に会うんでしょ」

「え?」

「昨日の霧生とかいう人と会うから、わたしなんて放っておくのでしょう?」

「放っておくなんてそんな……」

 由海が何かを誤解していることは分かるのだが、会おうとしていた事実に違いは無かったため、沙和は咄嗟に否定が出来なかった。

だが、それがどうやら由海の怒りに火を着けてしまう。

「やっぱり……」

 由海の瞳の奥に激しくも暗く重いものが見て取れた。

 このような激情を沙和に見せるなど、今まで一度も無かったことである。

 常に笑顔で明るく沙和に話しかけ、時には励ましてくれた。

 初めて見た憤激する由海に対し、沙和は内心穏やかではいられなくなる。

「由海さん、ちょっと聞いて。そのね……」

 霧生とのことを説明するためには、由海に黙って雪江の見舞いに行ったことも説明しなくてはならない。となれば、見舞いは無用と言っていた由海には、尚更火に油を注いでしまうのではないだろうか。

 どう弁明したものかと沙和が思考を巡らせるが、適当な言葉が出てこない。

しかし、そんな沙和を前に。由海は不意に柔和な面持ちとなる。

 由海はそれ以上騒ぎ立てるでもなく、自分の荷物を手に取ると、それ以上何も語らず静かに教室を後にした。

 出て行く間際に、いつもの無邪気な笑顔だけを残して。

「由海さん……」

 沙和の知らない由海の一面。

その鬼気迫る情に、ただ立ちすくむ沙和であった。

         ◆

日がやや西に傾き始めた頃。

饅頭笠に半纏、股引き、首には手拭いといった、その職として一般的な格好の俥夫が一人、県警本部入り口に立っていた。

何か用があるのだろう。手の空いていそうな適当な者を探している風である。

「そこの俥夫、何か用か」

 警らに出ようとしてそれを目に留めた蒼木が声をかけた。

「へえ、抜鍼隊の霧生様という方はいらっしゃいますか? 表でお待ちのお客さんがいるんで」

「霧生に客?」

 ここで抜鍼隊に、といえば自分か霧生のどちらかである。蒼木はともかく、霧生に警察関係者以外で本部まで訪ねてくるような者など今までなかったことだ。

 誰が訪ねてきたというのであろう。

 怪訝な顔で蒼木は出入り口から顔を出し、本部の門の所で止まっている俥を見ておもわず目を瞠った。

 俥の傍らには先日の見目麗しい少女、渡津沙和がいるではないか。

 暴れ馬の一件以来、時折彼女についての情報の報告を霧生に求めたが、まだ何も、の一点張りであった。

 その度に使えぬ奴と思っていたが、まさか訪ねてくるほどにいつの間にか親交を深めていたとは。

 顔を引っ込めると、蒼木は俥夫を放ったらかしで思案する。

 ここは意地悪をし、霧生は今いないと言って帰してしまおうかとも考えたが、それではわざわざ訪ねてきた彼女が不憫である。

 蒼木はどうしたものかと考えると、不意に口端を吊り上げた。


 机に向かって書類を書いている霧生の肩を、蒼木は優しく叩いた。

「精が出るな」

 いつも馬鹿にするようなことしか言っていないせいか、振り返った霧生は、胡散臭いものを見る目を蒼木へと向けてきた。

 我ながら少々わざとらしかったかとも思ったが、そんな事には全く動じる様子を見せず、蒼木はあくまで穏やかに、優しげな面持ちと声音で続ける。

「そんな顔をするな。これでも貴様を少し認めているのだ。今朝の訓練では我が輩から一本奪っているしな」

「いえ、まだまだです」

 褒められて悪い気はしないのか、やや警戒を弛めるのが見て取れる。

 単純な奴め。

 そしてここから攻撃を開始する。

「なんの、謙遜することはない。我が輩が狙っていた獲物を横から掠め取るとは、目覚ましい成長を遂げていると見える」

「えっと……、何の話で?」

 会話の不穏な流れに、一瞬緩んだ霧生の動きが固くなる。

 今まで見せたことのない様な、蒼木の爽やかな笑顔。

「門の所で先日の渡津嬢がお待ちだ」

 蒼木の言わんとしているところがようやく理解できたのか、霧生の顔が凍り付いた。

 報告を誤魔化していた自覚はあるようだ。

「あの~、その~……」

 蒼木のある意味怖い笑顔と、ばれたという焦りからか、霧生の目が泳いでいる。

 一生懸命何か言い訳を考えているようだが、口を突いて来ないようだ。

 その狼狽ぶりに蒼木は内心でほくそ笑んだだけで、あっさりと促す。

「ご婦人をあまり待たせるものではない。早く行ってやれ」

 蒼木はいつもの皮肉を含んだ笑みに戻る。

「は、はい!」

 一瞬きょとんとした霧生は、椅子が転げる勢いで立ち上がると、急ぎ門へと走った。

 その後を蒼木はこっそりと追う。

 沙和の下へ霧生が駆け付けるのと、蒼木が建物の出入り口脇に身を潜めたのはほぼ同時であった。

 蒼木は二人の会話に聞き耳を立てる。

 もしも沙和と霧生がすでに恋仲であるとでも言うならば、部下の想い人に手を出すほど蒼木も無粋ではない。だが、内容如何によっては、今後霧生をいびるネタに使う気だ。

 出入り口から門までは十間程。常人であればこの距離の会話を聞き取ることなど不可能ではあるが、生憎常人ではない蒼木にとっては差し支えない。

「お待たせ」

「ご無礼とは存じながら、お言葉に甘え、罷り越しました」

 礼一つ取っても、世界を股にかける大企業の社長令嬢に相応しい気品ある立ち居振る舞い。

「霧生には勿体ないな」

 二人には見つからないよう注意しながら、出入り口の陰から様子を窺う。

「言い出したのはこっちだから。それより何か浮かない顔しているけど大丈夫?」

「いえ、そのようなことは……」

「そうかい? ……それでどう?」

「はい。先方に伺いましたところ、ぜひとも宜しなにお願い致しますとのことです。御面倒とは存じますが……」

「そんなこと無いから大丈夫。ともあれ分かったよ。いつ行けばいいかな?」

「ご都合が宜しければ今夜にでも」

「そうだな……じゃあ、午後五時に交代だから、それからということで」

「はい。ではご案内致しますので、その頃にあの神社でお待ちしております」

「了解。あそこの神社だね」

 二人にしか分からない共有する事柄。

 そういったものが一つ出来ると、知らず知らずの内に二人の精神的な距離を一歩縮める。

 その積み重ねがいつしか互いの心を寄り添わせていく。

 未だ特別な仲というわけでは無さそうだが、まんざらでもない雰囲気ではある。

「さて、上司である我が輩としては応援してやるべきか、それとも身の程を知らしめてやるべきか」

 二人の社会的立場の差は大きい。所謂身分の違いというやつだ。

 本人同士が万が一気持ちを寄せ合っても、周り、特に沙和の側が許しはしないだろう。

 このようなことに考えを巡らせるなど、己には似合わぬと思いながらも、老婆心から少しの間考えた蒼木であったが、すぐにそれを放棄した。

「どっちを選ぶも本人達次第だ。選択したその時に必要ならば考えればよい。だが……」

 蒼木は突然含み笑いをしだす。

「貴様の青臭く思い悩む様は、存分に見物させてもらうぞ」


 にわかに背筋に寒気を覚え、身震いする霧生。

「な、なんだ? 急に寒気が」

「まあ、それは大変! 風邪でしたらまた後日にでも……」

 沙和の心配に対して笑顔で応え、否定する。

「いや、大丈夫。オレのこと誰かがきっと噂しているんだよ」

「それはクシャミではなくて?」

 霧生の冗談に。沙和の顔に僅かに笑みが戻る。

「あ、そうか」

 後ろで、獲物を見るような目で視線を送る蒼木の存在に気が付かず、我が身の春とばかりに楽しそうに笑っている霧生であった。

 空の茜色が西の稜線の彼方に消え、紺青の幕が東から天一面を覆い隠した。

望月が白い光と共に顔を覗かせ始めた頃。

 勤務が終わり、私服に着替えて町の通りを行く霧生を密かに付ける者があった。

 蒼木である。

 雑踏の中、警らの振りをして、霧生に悟られない距離を保ちながらその後を追う。

 尾行自体は全く職務とは関係が無く、完全に個人的興味からの行動であった。

「別段相手に困っているでもないが、先に目を付けた者を攫われ、あまつさえ全く蚊帳の外というのは面白くもない。秘密を握り、精々からかいの種とさせてもらうぞ」

 実際、長身で二枚目役者のように顔立ちの整った蒼木の周りには、自称恋人の女性が何人もおり、頼みもしないのに弁当などを本部まで届けに来る輩までいる。

意図して口説いた者もいれば、たまたま見初められてしまった場合もある。

だが大概が、蒼木が女性であることを知らないし、明かすことも少ない。

 伏せた帽子の鍔の奥で、蒼木は邪な笑みを湛える。

 そんな思惑を抱いた蒼木が後ろにいることなど、霧生は夢にも思っていまい。

 霧生を追って元町通りを歩いていると、ふと蒼木の鼻に気にかかるものが感じられる。

「ん?」

その出所を探って八方に視線を巡らせると、霧生と自分の間の上空、そこに求める影が見えた。

「蝙蝠……。昨夜の邪鬼に絡んでいる者が動いていると見える……」

その動きを見るからに、霧生のことを見張っているようだ。

「やれやれ、我が輩の楽しみを……。蝙蝠の尾行にも気が付いていないとは霧生め、あとで説教だ」

 霧生を見失わないように注意しながら、蝙蝠の動きにも気を留める。

 しばらくそのまま様子を見ていると、霧生がクレメンティス女学院の麓にある厳嶋神社へ通じる道へと入っていくのが見て取れた。

 後に続こうとする蒼木。

しかし、不意に足下に感じたおぞましい気配に思わず足が止まる。

「この気配は……」

 眉をひくつかせ、ゆっくりとそちらに目線をやれば、そこには一匹の柴犬がちょこんと座り、蒼木をつぶらな瞳で見上げていた。

 一昨日、沙和が助けた犬だろうか。

 巻尾を激しく振りながら一吠えする柴犬。

 その声に蒼木の肩が一瞬跳ね上がり、顔を引きつらせる。

「き、貴様、我が輩に向かってほ、吠えるとは覚悟は出来ておろうな」

 犬に向かって啖呵を切ろうとするものの、所々でどもってしまい、様にならない。

 柴犬はそのような言葉の意味など全く解せず、もう一声吠えると一歩近付き、遊んでくれとばかりに前脚を蒼木の靴にのせてくる。

「わ、我が輩にさ、さ、触るな!」

 思わず後退る蒼木。だがそれ以上は身体が硬直し、退きたくとも退けない。

 霧生には死んでも知られたくないことであるが、蒼木は犬が大の苦手であった。

 犬は生理的、本能的にとにかく受け付けられない。

 そのため、暴れ馬から沙和を救ったとき、いつもであれば直ぐに口説きに入るのだが、あの時ばかりはそれが出来なかった。

 足が石にでもなってしまったかのように立ち尽くしていると、通りすがりの一人の男が声をかけてくる。

「おや、蒼木の旦那。どうなさったんですかい、こんなところで」

 天秤棒を担いだ甘酒売りである。

「主人、良いところに来た。頼みがあるのだが、この犬を少々抑えていてはくれぬか」

 蒼木はあくまでも平静を装う。

「へえ、お安いご用ですが……」

 天秤棒を降ろすと、甘酒売りは怪訝な情を面に浮かべつつ柴犬を抱きかかえた。

 とりあえずそれ以上近付かれる心配が無くなると、内心安堵の溜息を吐きつつも、蒼木は努めて平静な顔を作る。

「協力ご苦労。暫くそのままにしていてくれ」

「へえ」

 犬からの重圧を取り除くことが出来、慌てて神社の方へ目をやれば、霧生と沙和、それぞれを乗せた俥がこちらに向かって走ってくる。

 蒼木は帽子を目深に被り、咄嗟に見つからないようにする。

 二人が通り過ぎた後、蝙蝠を探して辺りを見回すが、姿を確認することは出来なかった。

 見失ってしまったようだ。

 匂いで辿ろうとするも、直ぐ横にいる犬の匂いが強すぎて判らず、舌打ちする。

「とりあえず二人を追うか」

 そう決めるや否や、蒼木は人の間を縫いながら俥を追って走り出した。


「ちょちょっ、旦那! あっしはいつまでこうしていればいいんで!」

 甘酒売りが声を張り上げて呼ぶも、蒼木の姿はあっという間に見えなくなってしまった。

「なんだってんだ?」

 甘酒売りが胸元の犬に問いかけると、犬は尾を振り、顔を上げて甘酒売りの髯の生えた顎を舐めた。

 日は沈み、冬の名残の寒さが途端に際だち、身に染みる。

どの家にも灯りが点った頃、着物姿の霧生は沙和と共に加納家を訪れていた。

 霧生は、雪江の母に挨拶と自己紹介を済ませると、早速雪江の自室へと通された。

 切羽詰まった状況であることもあるが、沙和の紹介と言うことで信用されているようだ。

 横たわっている雪江の顔色は相変わらず蒼白で、生気がほとんど感じられない。きちんと呼吸をしているのか確認したくなるほどだ。

 霧生はその布団の傍らに膝を付き、沙和と雪江の母は座することもなく、その後ろで様子を見守る。

「失礼」

 霧生は一言断りを入れてから布団をめくり、雪江の手首や首筋に手を当てて脈を取る。

 脈の強さや深さから、体内の気の循環状態をまずは探る。

 脈を取る指先に神経を集中し、研ぎ澄ますため、視界は虚ろになる。

「脈が弱く深い……しかしこれは……」

 霧生は雪江の体内に己の目を送り込むかのように指先で更に探っていく。

 だがその集中を、突然の沙和の叫びが破る。

「霧生様、危ない!」

 その声と共に視界が戻った霧生の目に飛び込んできたのは、どこに隠してあった物か、反対側の手に小刀を握りしめて振りかぶる雪江の姿であった。

霧生の胸元を狙って突き出される小刀。

霧生は上体を反らして咄嗟にそれをかわす。

「加納さん!?」

「お雪!? 何をしているの!?」

思いもかけない雪江の行動に混乱する沙和達。

当然である。先程まで虫の息であったにも関わらず、先程の一撃は十分なほど力漲るものであった。しかも、雪江と霧生は今日が初対面だ。いきなり刃傷沙汰を起こされるような覚えは欠片もない。

雪江は、病人とは思えないほど軽快に跳ね起きると、再び小刀を振りかざして霧生に斬りかかる。

霧生は一歩踏み込んで雪江の手首を取ると、身を反転させ、自身の脇に雪江の腕を挟み込んで押さえる。

「沙和君! おかみさんを連れて別の部屋へ!」

「は、はい!」

 唐突な出来事に、どうしたらいいか分からず立ち尽くすだけの沙和であったが、その言葉幾分か冷静さを取り戻すと、沙和以上に動揺して戦慄いている雪江の母を連れて、急ぎその場を離れる。

 狭い部屋の中では二人にも刃傷が及ぶ危険性があったのと、母親の目の前では、あまり手荒な真似が出来ないことからの霧生の判断であった。

「さぁて、理由は分からんが、昨日の今日でオレを襲うって事は昨日の蝙蝠野郎関係だよなぁ? 身体から邪気をたっぷりと感じるぜ!」

 雪江は押さえられた方とは逆の手で、霧生の脇腹を狙って殴りつけた。

 年頃の娘のものとは思えないほどの痛撃に、霧生は思わず悶絶し、脇を弛める。

「くそっ! 蝙蝠野郎より腕が立つ! この子何か武道の心得でもあるのか!?」

 その隙を逃さず、拘束から抜け出した雪江は一度間を取ってから小刀を構え直すと、すかさず斬り込んで来る。

 幾筋も描かれる銀色の閃条。

 斬りかかられる度に霧生はかわし、または雪江の腕を弾いて刃を凌ぐものの、時折凌ぎきれずに着物や皮膚が切り裂かれる。

 そのような刹那も動きを見極め、隙を窺う。

 雪江が小刀の柄を両手で握りしめ、身体ごと霧生にぶつかってくる。

 霧生はそれを身体半分横にかわすと、みぞおちを狙って拳をたたき込む。

「勘弁してくれよ」

 気絶し、倒れ込む雪江――――となることを霧生は予測していた。

 しかし、一瞬動きは止まったもののその通りにはならず、雪江は飛び退いて間を取った。

「おいおいおいおい!」

 確かに極めたと思った一撃で決着をつけられなかった霧生は、内心焦りを覚え始めた。

 動きを止めるために今のよりも強い一撃となれば、彼女の肉体に損傷を伴うかなり大きな痛手を与えることになる。それはできれば避けたかった。

 しかし、このまま手を拱いていても解決方法はない。

 解決手段が思いつかないままではあったが、雪江は当然、その様な都合などお構いなしに襲いかかってくる。

 このまま狭い部屋で戦っていては不利と踏んだ霧生は、雪江の腕を両手で取ると、そのまま一本背負いで庭へと投げ飛ばした。

 障子戸を突き破り、宙を舞った雪江はそのまま地面へと身体を打ち付ける。

 だが、痛みなど感じていないように、直ぐに起き上がり、霧生に対して構えを取った。

 縁側から雪江を見下ろし、霧生は構える。

「霧生様! 霧生様、お怪我を!?」

 ただ事ではない物音を聞いて出てきたのであろう。

 沙和は縁側の奥から姿を現した。

「沙和君、危険だから下がっているんだ!」

 それに一瞬気を取られ、霧生はつい視線を逸らしてしまう。

 その隙を逃さず、雪江は地を蹴り、白刃をかざして一気に間合いを詰める。

 霧生がその気配で視線を戻すと、すでに雪江の姿は目前に迫っていた。

この間合いからその刃を避けきるのは難しい。

「くそっ!」

 それでも身体を捻り、なんとか致命傷だけは避けようとする。

 雪江の凶刃が霧生を貫くと思われたその時である。

「!?」

 突然頭上から降ってくる大きな影。

 それが目にも止まらぬ動きで雪江の腕を掴んだかと思うと、雪江は一度だけ大きく痙攣し、その場に崩れ落ちた。

 雪江の手から離れて、軽い金属音を立てて踏み石に落ちる小刀。

 倒れた雪江の傍らに立つ姿に目をやれば、それは紛れもなく蒼木であった。

 霧生は驚きを隠せない。

「警部補殿、何故ここに!?」

「子細は後だ。後々障りが出ない程度の衝撃を与えた。気を取り戻さない内に治療してしまえ」

「りょ、了解」

 雪江の身体を抱え上げ、雪江の自室へと運び込む霧生に、沙和も続いてそれを手伝う。

 雪江を布団に横たわらせると、霧生は懐から筆入れのような箱を取り出し、中から二寸ほどの長さの、細い金属製の鍼を取り出した。


 治療を初めて一時間ほど。満ちた月が紺碧よりもなお暗い東の空に姿を現していた。

 治療が終わると、部屋には雪江と沙和を残し、霧生は縁側に座っている蒼木の横に腰を下ろした。

「今終わりました。相当邪気に冒されていました」

「そうか。全て取り除けたか?」

「勿論」

「ならば時期に快方に向かうであろう」

 胸を張る霧生の声に、蒼木はあっさりと頷く。

 悲しいかな。

蒼木と組んで半年、何か言えば必ずと言っていいほど反論、非難、指摘が飛んできていたため、そういった声がないと、また何か企んでいるのではないかと不安になる霧生であった。

「ところで、なんで警部補殿がここに?」

 霧生は勿論今日ここに来ることを蒼木に話してはいないし、仕事の後、途中で会ってもいない。蒼木がここにいる要素はないはずである。

「なに、途中で怪しい蝙蝠を見つけて後を追っていたらこの屋敷にたどり着いた。しばらく様子を窺っていたら何やらただ事ならぬ物音がするではないか。それで仕方なく覗いてみたら庭で貴様と雪江とか言う女子と争っていた、と言うわけだ」

 平静に答える蒼木の答弁に、一瞬首を傾げるも、自分の中で落着したのか、特に疑いを抱くでもなく納得する。

 本当は本部からずっと後をつけていたのだが、それは霧生の知るところではない。

「ともあれ、昨夜に続いてありがとうございます」

「これも職務の一環だ」

 素直に頭を下げる霧生であったが、その反応に蒼木はどこかつまらなそうだ。

 霧生が首を傾げていると、室内から嬉しそうな沙和の声が聞こえてくる。

「加納さん、渡津です。分かりますか?」

 どうやら雪江が意識を取り戻したようだ。

 霧生は一礼してからその場を辞すると、様子を見に室内へと戻る。

 治療前とは打って変わって、頬に赤みの差した雪江の顔を見てみれば、確かに眼を開き、沙和の顔を見つめていた。

「渡津……さん、どうした……のですか? あたし……一体……」

 口ぶりからして、小刀を振り回したときの記憶はないようだ。

「加納さんは数日意識が無くて、こちらの霧生様が治して下さったんですよ」

 紹介に合わせて霧生は一礼する。

 それを聞いた雪江は、上半身を沙和に支えてもらいながら起こし、頭を下げた。

「なにやら私のことで大変ご迷惑をおかけしたようで……お詫びいたします」

「いえ、大したことではありません。それよりも沙和君、おかみさんにお知らせを」

「私ったら……そうですね。直ぐにお知らせして参ります」

 沙和は雪江を横にさせると軽く頭を下げ、足早に退室していった。

 雪江の母が待つ別室に向かう、忙しない足音が遠退いていく。

 沙和を見送った雪江は、霧生に尋ねる。

「あの……もしかして渡津さんのいい人なんですか?」

「え!? あ、いえ、その、まだそういうわけでは……」

 思わぬ口撃にしどろもどろになる霧生。顔も耳も真っ赤になっていくのが自身でも分かる。

 霧生の慌て振りに、雪江はくすくすと小さく笑う。

 だんだん頭も明瞭になってきたのか、饒舌になってくる。

「まだ、ということは、その気はおありなのですね?」

 あまりにも的確な指摘に、口を開いたまま二の句が継げない霧生であった。

 げに恐ろしきは女の勘。

 言葉の出ない霧生の反応に満足そうな雪江は、先程まで虫の息であったのが嘘のようにころころと笑顔を見せる。

「あたし断然応援しちゃいます。霧生さんは私の恩人ですし、渡津さんにはやっぱりちゃんといい男性と寄り添って欲しいなって思いますから。渡津さんもまんざらでもないみたいだし?」

「え!?」

 そのような願望がないと言えば嘘であるが、沙和が自分など相手にするわけがないと思っていただけに、雪江の言葉に喜びながらもつい狼狽えてしまう。

「いや、まさか……」

「いいえ、十年来もの親友ですもの。ちょっと見ればそれくらいのことは分かるわ。あ、でも槻守さんが渡津さんにべったりだから、彼女をまず説き伏せないといけないわね。これは難敵だわ」

 笑いながら言ってはいるが、おそらく本人にとっては大真面目であることは分かる。

 だが霧生は、それよりも彼女の口から出た槻守という名前に意識が向く。

 槻守と言えば、ランスロットがヴァンパイアのことで口にした名だ。

 霧生は傍らに膝を付き、真剣な面持ちで尋ねる。

「今、槻守さんと言ったね。どういった方なのかもう少し詳しく教えてくれるかな?」

 突然変わった口調に雪江は少し驚きを見せたものの、それを何か違う意味に捉えたのか、機嫌良く語り始める。

「あたしと同じで長い付き合いなんですけど、もう一にも二にも渡津さんって感じで。最近なんかちょっとふざけて渡津さんに抱きついたら、くっついちゃ駄目って怒ってね。あたしを引き離そうと必死にしがみついてきたわ。……あれ、そういえばその後からの記憶があんまり……」

 ヴァンパイアはおそらく、噛みつくことで邪気を相手に注ぎ込み、本人の意識を混濁させて意のままに操る。治療前に霧生も確認したが、首筋の痕はおそらくその時のものだろう。

 あからさまな傷跡になっていないのは、霧生にとってはさほど不思議なことではない。

 釘のように太い鍼を痕も残さず、人体に打つ事も技術的に可能だからだ。

 そして、厳嶋神社ですれ違った女子、あの娘が確か槻守由海のはずだ。

 彼女がヴァンパイアだとすれば、これでこれまでのことに合点がいく。

 雪江の話からすれば、由海はかなり嫉妬深い事が窺える。

 神社で霧生と沙和が二人きりでいたことに強い嫉みを受けたとて、何ら不思議なことはないことだ。

 その夜の蝙蝠の異形からの襲撃。

 蝙蝠はヴァンパイアの眷属で、不自然な蝙蝠が、こちらへ向かう二人を付けてきていたと蒼木は言っていた。

 雪江が襲いかかってきたことも、それで説明が付く。

「色々話をありがとう。病み上がりだから少し休んで」

 霧生がそう促すと同時に、沙和が雪江の母を連れて戻ってきた。

「お雪!」

 涙を零しながら駆け寄る母に、雪江は笑顔で応える。

 よほど心配していたのだろう。霧生が場を譲ると、母は雪江にすがりついてずっと泣いていた。

「霧生様……」

「うん?」

 涙を滲ませながら霧生の傍に寄った沙和は、深く頭を下げた。

「霧生様のお陰で大切な友人を助けることが出来ました。何とお礼を申し上げたらいいのか、言葉もございません」

 心から嬉しそうな沙和の声。

 しかし霧生は、その言葉をまだ受け取るわけにはいかなかった。

「まだだ。君のもう一人の友人、槻守さんを治療しなくちゃいけない」

「え……?」

 霧生がそう告げると、縁側に黙って座っていた蒼木が静かに立ち上がった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ