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メヂカルレコオド  作者: 樋桧右京
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二・牧師服の男(2)

 真円間近の月が中天から西に傾き始めた深夜。

「由海」

 部屋の外から父の声がすると同時に由海の自室の戸が開いた。

「はい、お父様」

 机に向かっていた由海は座したまま父へと向き直る。

「これから少々出かけてくる。……ん? おお、その人形はそんなに気に入ったかね?」

 用件を告げて戸を閉めようとした当主の目に、机の上に置かれたビスクドールが映った。

 由海は人形を一目見遣ると、嬉しそうな笑みを満面に湛える。

「それはもう。わたしの宝ですわ」

 由海の言葉に、大層満足げに当主は頷いた。

「そうかそうか。それは何より。手に入れてきた甲斐もあるというものだ。それでは行ってくる」

「お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 戸を閉めた当主は、由海の部屋を後にした。


 足音が聞こえなくなると、洋燈の明かりの下、由海は机に向き直りビスクドールを見つめた。

 今し方までの笑顔は消え、憂いた表情だ。

「あなたにお義姉様をお引き合わせしようと思って、今日お誘いしましたの。でもお義姉様は加納さんの所へ行く用があるからって来て下さらなかったわ」

 独り呟きながら、その白魚のような指の先で、人形の髪をそっと優しく撫でる。

「きっとあなたの事なんてどうでもよくなったのよ」

「そんなこと決してありませんわ。わたし達は義姉妹の契りまで交わしたのですもの」

「でもそれは結局口約束に過ぎないわ」

「そうですけど、お義姉様はお優しいから、仕方なく見舞いに行かれたのですわ」

 由海は誰と話しているわけでもない。

 一人芝居のように自分自身の言葉に問答していた。

 だが、一つはいつもの由海の声であったが、もう一つは由海とは明らかに異なる別人の声。

 それは可愛らしい由海とは対照的に、気の強そうな女性を思わせる声であった。

「優しい人というのは流されやすくて心移りもしやすいものよ。その加納というのが誑かせばすぐにでもあなたから心が離れるわ。人間なんてそんなもの」

「……やはり、わたしがお義姉様を悪い誘惑から守らなくてはいけないわ。加納さんからも、そしてあの霧生という男からも。でなければきっとあの夢のようにお義姉様はいなくなってしまうの。そうなったらわたし生きていけないわ!」

 手で顔を覆い、涙を流す由海。

 だが同じ口から妹を慰める姉を想わせる穏やかな声音が紡がれる。

「大丈夫、とても良い考えがあるから。そうすれば沙和……沙和の心は永久にあなたのもの。大丈夫、今度は全て身を委ねてくれるなら、もっと力を貸してあげる。主はあなたの味方……あなたを選ばれたの」

「それがわたしに与えられた使命……。お義姉様はわたしが守ります……」

 自分の言葉に酔うかのように、由海は恍惚と至福の笑みを浮かべる。

 妄執の世界に意識を奪われている由海には届いていないようであったが、別の声は最後にこう呟いた。

「そう、そして霊依姫(たまよりひめ)を我が物に……」

          ◆

 蝙蝠の異形に襲われた翌日の朝。

早々に霧生は蒼木を呼び止め、訓練を申し出た。

いつもは蒼木に呼び出されて嫌々ながらの訓練であったため、霧生から言い出すことは当の霧生自身の記憶にある限りでも初めてだった。

「よかろう」

 そう言って快く承諾した蒼木の不敵な笑みに、頼んだことを早くも少し後悔する霧生ではあったが。


「それどうした。自分から言い出しておいてもう音を上げるか?」

防具も着けずに竹刀を提げた袴姿の蒼木が、床に転がる霧生を見下ろして言い放った。

身につけた面の奥で息を弾ませ、もつれそうになる脚に活を入れて立ち上がる。

「なんの! まだまだぁ!」

 竹刀を振りかぶり、打ち込んでいく霧生であったが、そのことごとくが軽くあしらわれてしまう。

「踏み込みが甘い! 動きが単調になってるぞ!」

 弾き飛ばされ、霧生は壁に背をしたたか打ち付ける。

 しかし、痛もうが休むも座するも良しとせずに立ち、即座に構える。

 呼吸を整え、横へと移動し間合いを計る。

「本気で我が輩の命を獲るつもりで来い、霧生(ウーシォン)

 蒼木も距離を保つように横へと移動する。

 互いに一撃の呼吸と間を探り合う。

 しばらく道場を同じ方向に廻っていたかと思うと、今度は不意に足を共に止め、互いに相手を凝視する。

 にわかに訪れる静寂。

 そして数呼吸の間の後、二人は同時に床を蹴った。

 上段から振り下ろす蒼木と、突きを繰り出す霧生。

 竹刀と竹刀が宙を交差する。

「――――!」

 蒼木の竹刀は霧生の面を掠め、宙を裂く。

対し、霧生の一撃は蒼木の喉を的確に捉えていた。


壁際に座して並ぶ二人。

霧生は汗に塗れた面を外すと一息吐いた。

「まさか我が輩が一本取られるとはな」

 疲労感漂う霧生とは相対的に、蒼木は涼しい顔をしている。

 初めて蒼木から一本取った霧生は、恐る恐る蒼木の喉を覗き込む。

「つい思いっきり打ちこんじゃいましたが、喉なんともないんですか?」

 手応えは確かにあった。

 竹刀とは言え、常人なら防具も無しに喰らえば喉が潰れ、文字通り息の根が止まってもおかしくない。

 霧生の心配を余所に、蒼木は余裕顔だ。

「貴様の竹刀での突き如きで、我が輩を傷つけられると思ったか。妖を舐めるでない」

「へいへい」

 霧生は安堵しながらも、蒼木の言いように悔しさも滲ませる。

「もし、我が輩の命が欲しければ」

 立ち上がり、道場の出口へと歩き出す蒼木。

「鳴蛇でも閃蜂でも持ってくるがいい」

「え?」

 蒼木は口の端を吊り上げてそう言い残すと、道場を後にした。

 鳴蛇は普段霧生が提げている剣のことだ。閃蜂は鳴蛇に比べて剣身が太く、剣先が三角錐状となっており、特に力の強い対邪鬼用の武器である。

 それらで先程と同じような攻撃をすれば、確かに妖怪である蒼木に痛手を与えることは可能だろう。

 だが……。

 蒼木の冗談とも本気ともつかない言葉に、霧生は戸惑いを見せた。

           ◆

 その日の昼頃、剣道場で嬉々とした蒼木に散々打ちのめされた霧生は、あちこち痛む身体を引きずりながら警らに廻っていた。

「クソ~。一矢報いたとはいえ、身体中が……」

 霧生とて、並以上の剣の腕前を持っており、実際、県警本部で霧生に勝てる巡査はいないと言っていい。故に自負もあったが、昨夜の二つの敗北に脆くもそれは崩れ去った。

 父の墓前での誓い。

 牧師服の男はともかく、邪鬼にも己の力が及ばなかった。今のままではそう遠くない内に誓いを破ることとなってしまうだろう。

 もっと力をつけなくてはならない。

 さっきは蒼木から一本取ることが出来たが、次も取れる自身は残念ながら全く無い。

 今のままでは、昨夜以上の邪鬼が現れた時、屍を晒すことになる。

 そうなったら――

そうなったら、だれが邪鬼から沙和を守るのだろう。

 思わずその考えに至った時、霧生は一人紅潮し、頭を振った。

 服のポケットから、夜の内に洗濯しておいた沙和のハンカチを取り出す。

 僅か二度会っただけの女子相手に何を考えているのか。

蒼木も言っていたではないか。

相手は日本屈指の大企業の社長令嬢、かたや安月給の巡査である。誰がどう見ても釣り合わない。身の程知らずにも程がある。

 埒もない幻想を抱いている場合ではない。

 自分は警察官である。精進を重ね、警察官として沙和を守ることができればそれでいい。

 警ら中、ハンカチを見つめながら、霧生はそんな思いに耽る。

「グェ」

 そんな珍しく抱いた少々感傷的な気分を、足の裏の奇妙に柔らかい感触と蛙のような声が阻害した。

「な、なんだ!?」

 うっかり蛙でも踏んだかと慌てて足を退けて下を見てみると、昨夜の牧師服の男が何故かうつ伏せに倒れていた。

 ハンカチを懐にしまい、慌てて男を抱き起こす。

 一見したところ怪我をしている様子は見受けられない。

「おい、どうした! おい!」

 霧生が揺さぶりながら声をかけると、男はうっすら目を開け、雲を掴もうとするように手を伸ばす。

「おい! 誰かにやられたのか!?」

 霧生の呼びかけに、震える唇で声を絞り出す。

「ハ……」

「は、なんだ?」

「ハラ……ヘリマスタ」

 霧生は目を細めると、抱えていた手を離した。

牧師服の男は頭を道路へしたたか打ち付ける。

「ノー!」


 屋台の蕎麦屋で霧生と、牧師服の男ことランスロット・イーリィは肩を並べて、湯気の立ち上る熱々の蕎麦をすすっていた。

「オー、ソバオイシイマス! オカワリ!」

 言って、出てきた二杯目の蕎麦に箸をつけるランスロット。

「おいおい、こちとら安月給なんだから少しは遠慮しろよ、ったく」

 霧生は横目に呆れて言いながら自身も三杯目に手をつける。

蕎麦屋に来る前、なぜ行き倒れていたのか尋ねると、来日早々に財布を無くし、ずっと飲まず食わずでいたとの答えが返ってきた。

それを聞いた霧生は仕方なくここへ連れてきたのだ。

久しぶりに胃に食べ物を入れたランスロットは、先程まで虫の息だったのが嘘のように元気になっていく。

「まったく、ホントにこれが昨日オレを殺しかけた奴なのかね。死にかけにやられそうだったオレって一体……」

 行き倒れる直前だったような男に敵わなかったのかと思うと、霧生は自虐的にならざるを得なかった。

「ブシハ、クワネド、火ノヨウジンネ」

 知っている日本語を披露し、自慢気なランスロット。

「それを言うなら高楊枝だろ」

「オー、ハハヨウジ」

しかし、間違いを指摘されると項垂れてしょんぼりする。

感情の起伏が激しい男である。

「それも違うし。……まあいいや、聞きたいことがあるんだ。昨日あんたが言ってたヴァンパイアって何だ? 昨日のアレも知っているみたいだったけど」

箸を止めずに尋ねると、ランスロットも食べながらすんなり答えた。

「勘違イノ、オワビネ。ワタシ、ヴァンパイアノタマシイ、入ッタモノ追ッテ、日本キマスタ。ヴァンパイア、キケン。ヒトノ生キ血スッテ、ナカマ増ヤス。タマシイハイッタモノ、情報ツカンダ私タチ、エクソシストガ回収スル前ニ、日本ジンガ買ッテイッテシマッタ」

 ランスロットは、霧生の首に噛みつく振りを交えながら説明した。

 生き血を吸って仲間を増やす。

 同じような症例はある種の邪鬼が原因でも発生する。邪鬼の持つ邪気が他の者に感染り、新たな邪鬼となる。

ヴァンパイアとは西洋の邪鬼と言ったところなのだろう。

「昨日ノコウモリ、ヴァンパイアノ、ケンゾクネ。トキドキ、ヴァンパイアモコウモリ、人ニ姿変エル。買ッタ日本ジンノ家カラコウモリ飛ンダ。ダカラ、ワタシキノウ追ッタ」

 その蝙蝠が霧生の前に現れ、蝙蝠が消えた路地から霧生が出てきたからランスロットは霧生をヴァンパイアが変化したものだと勘違いしたのだ。

「眷属か……。ヴァンパイアってのが蝙蝠を邪気で操ってたってところか。ところで、えくそしすとって、何だ?」

「悪魔バライ、退治スル。クニデハナイショノシゴトネ」

 霧生達も邪鬼に関しては公言することが固く禁じられている。一般市民にいらぬ混乱を招くことを防ぐためだ。それを思えば、ランスロットのエクソシストが内緒であるというのも合点いくことではある。

「で、家が分かってるって言うことは、日本人の誰が持ち去ったってのは判明しているのか?」

 ランスロットは蕎麦を頬張りながら、赤ベコのように首を振り、頷く。

「ミスターキリュウ、アナタダカラ特別、オシエル」

 汁を一口喉に流し込んでから、ランスロットは答える。

「帝国カイウン副シャチョ、ツキモリ」

「帝国海運のツキモリ?」

「イエス」

 その名前に霧生は聞き覚えがあった。

 それも新聞でとかではなく、もっと身近で聞いたはずだが、いまいち思い出せない。

 ともあれ、帝国海運副社長ならば住所は調べれば直ぐに分かるだろう。それに父が社長である沙和に訊けば何か分かるかもしれない。

 昨夜のような異形を従える邪鬼が、その家に潜んで居ることは確かのようだ。

「よし」

 霧生は丼を持ち上げて底に残った汁の最後の一滴まで喉に流し込むと、勢いよく立ち上がる。

「それじゃ行こうか」

「オー、ドコヘ?」

 ランスロットは霧生の思わぬ言葉に訝しげな表情を浮かべる。

「警察本部だ」


「こちらですね」

 警察本部の係の者が、革製の札入れを保管室から取り出してきて、ランスロットの前に差し出した。

「オー! ワタシノウォレット! デモ……」

 一瞬喜んだランスロットであったが、直ぐに暗い面持ちになる。

「ん? 財布が戻ったのに嬉しくないのか?」

 そんなランスロットを、霧生は不思議そうな顔で見る。

 蕎麦屋を後にした霧生はランスロットを連れて本部に来ると、拾得物の中にランスロットの財布がないかを調べてもらったのだ。

 案の定、ランスロットが言う特徴の革の財布が届けられていた。

 霧生はランスロットの手を取り、その上に財布を載せる。

 ランスロットは首を横に小さく振りながら中身を確認した。

すると途端に表情が明るくなる。

「ホワイ!? マネー、ソノママ、入ッテイマス! 私ノクニデハ、ウォレット落トシタラ、マネー、絶対カエッテコナイマス! オー! ナンテコッタ!」

 戸惑いながらも大喜びのランスロットの声に、他の者達が何事かと注目する。

 その様子を可笑しそうに笑う霧生。

「あんたの故郷じゃあどうだか知らねぇけどさ、日本じゃこれが普通だよ。まあ、たまに猫ばばする奴もいるから、運が良かったと思って今度は落とさないようにな」

 ランスロットは係の者の手を握って強く振ると、今度は霧生の手も握って振った。

「サンキュー! サンキュー!」


 警察本部から出てくると、ランスロットは改めて後ろにいる霧生に礼を述べた。

「いいって。これがオレらの仕事だし。それよりこれからどうするんだ?」

 今までにこやかであったが、急に神妙になるランスロット。

「……ヴァンパイア、放ッテオケマセン。葬ルマデ、帰レマセン」

「そうか。まあ、あんまり派手にやらないでくれよ」

 霧生はランスロットに近寄ると、こっそり耳打ちする。

「あんたの持っている剣、法に触れるからさ。あんまり目立たれるとこっちも立場上、な」

 霧生はそう言ってランスロットの肩を叩いた。

「アリガトウゴザイマス。トッテモ、オ世話ニナリマスタ」

 笑顔で頭を下げたランスロットがその場を去り、その後ろ姿を、見えなくなるまで霧生は見送った。

「なんか、また近い内に会いそうな気はするけどな」


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