一・女学生(2)
夜の帳が降りて数刻、年季の入った室内は洋燈から照らされる橙色の明かりで染められている。
この客間には火鉢が用意されているため、夜の冷えに晒されることはない。
しかし、訪れた時刻が遅めだったことと、その様な時刻に病人がいる宅を訪ねた後ろめたさから、沙和は勧められた座布団を傍らに置くことで辞していた。
ここは沙和の級友である加納雪江の自宅。
昼間、由海にはああ言われはしたものの、やはり気になった沙和は、一人で見舞いに訪れたのだった。
杞憂に過ぎぬであろう埒もない不安でこの様に押し掛け、由海が知ったらなんと言うだろう。また叱られるだろうか。
自儘を恥じながらも、ひと目だけでも顔を見て安心したいという気持ちが抑えられなかった。
加納家は横濱では有名な呉服屋であり、由海の家ほどではないが立派な屋敷を構えている。
下女に案内されたこの部屋で、雪江との面会の許しを静かに待つ。
間もなくして、物腰、装い共に品のある中年の女性が客間に入ってきた。
その女性は沙和の向かいに両膝を付いて座ると会釈する。
「お待たせ致しました。雪江の母です。本日は雪江のためにわざわざのお運び、この通り、礼を申します」
「いえ。ご迷惑かと存じながらの突然の夜分の訪問、お詫び致します。それであの……お加減の方はいかがでしょうか?」
「それなのですが……」
雪江の母は言葉を詰まらせ、目を伏せる。
ただ事ではないその様子に、沙和は不安の色を濃くする。
しばし沈黙していた雪江の母はおもむろに立ち上がり、戸を開けた。
「ともあれ、来ていただけますか」
沙和は迷うことなく頷いた。
雪江の母に案内され、通された一室。
敷かれた布団に雪江は目を閉じたまま横たわっていた。
「加納さん……」
洋燈の明かりのみで薄暗いせいだろうか、雪江の顔色が青く、やつれているように見える。
その傍らに膝を揃えて座すると、沙和はもう一度そっと声をかけてみる。
「加納さん、渡津です」
反応がないため、雪江の肩に布団の上から手を置き、もう一度呼びかけるが返事をする気配は全くない。
「加納さん……」
沙和の横で嘆息を漏らす雪江の母。
「やはり何も応えてはくれませんか……親しいお友達の声を聞けばもしやとも考えたのですが」
「あの……そんなにお悪いのですか?」
雪江の母の説明に寄れば、昨日帰宅したときから少々体調の不良を訴えてはいたという。
だが今朝のこと。いつになっても起床して来ず臥せたままであり、息はしているものの、誰が呼びかけても全く反応が無い。医師にも診せたが、原因がとんと判らないという。
「そうですか……」
沙和はその顔を見つめ、雪江の身を案じる。
「ただ、一つお医者様も首を捻っていた事がありまして……これを」
雪江の寝着の衿をめくると、首の横、首筋に沿って赤い丸が一寸ほどの間隔を空けて並んでいた。
「お医者様は何らかの流行病かもしれぬと仰っていましたが、はっきりとしたことは判らないとかで……」
母は衿を直し、布団をかけ直すと、沙和へと向き直った。
「あの、渡津さんのお父君は西欧に頻繁に赴き、あちらの事情に明るい御方だとお聞きしています。失礼を承知でお尋ねしますが、雪江の病気に何か心当たりはありませんでしょうか? 何か良い薬などご存じではないでしょうか?」
沙和は、この母がいくら雪江の友人とはいえ、ここまで込み入った事情を素直に打ち明けてくれた訳をすぐに理解した。
医者も半ばさじを投げた状態であり、藁にもすがる思いなのであろう。
しかし、残念ながら今の沙和には期待に応える術がない。申し訳なさそうに首を横に振る。
「……お許し下さい。ですが、どこまでお力になれるかは分かりませんが、不肖ながら、出来うる限りのことはさせて頂きたいと存じます」
雪江の母は頬に涙を伝わせると、沙和の手を握り、何度もよろしくお願いしますと、懇願した。
◆
「あら……ここは……?」
蒼く澄んだ水をたゆたう一面の海原。
四方を見渡しても陸を目にすることはできず、雲一つ無い空との境界を表す線のみが遠くに見える。
足許にも視線を向けてみるが、そこにも頼りにすべき地面がない。
だが、身は沈むこともなく、由海は海面に佇んでいた。
「これは夢……なんだわ」
常識ではあり得ない状況に、そう悟る由海。
ならばと、歩を進めて色々と試し始める。
足を着く度に描かれる波紋。
波紋の弧と弧がぶつかると、オルゴールにも似た音を奏でる。
「綺麗な音……」
最初はそっとつま先を出していたが、着物の裾を軽く持ち上げ、踊るようにして音を鳴らし、遊ぶ。
ひとしきり楽しんだ後、何気なく横を見ると、先刻まで葉の一枚も無かった水上にいつの間にか鳥居が建っていた。
鳥居の奥には立派に生い茂るケヤキの巨木がそそり立ち、その根元には見覚えのある一人の女性が佇んでいる。
「お義姉様!」
夢とは分かっていても、何もない海原に一人ではやはり寂しかった。
義姉と慕う沙和の下へと、由海は小走りで駆け寄っていく。
駆けるごとに音を奏でる水面。
だが、後一歩で鳥居をくぐろうという時、突然足が動かなくなる。
どんなに力を入れようとも、それ以上足が前に出ることはない。
「え……どうして……」
足元を見てみると、水面から伸びた黒い手が由海の足首をしっかりと握り、束縛していた。手には霞がかかっており、人ではあるようだが、男のものとも女のものとも区別が付かない。
「離して……離して下さい……お義姉様、助けて……」
どれほどもがこうと、足が石になってしまったように微動だにすることが出来ない。
由海は、鳥居の奥の沙和に助けを求めて手を伸ばす。
その声を聞いたのか、沙和は、由海の下へ駆けつけようと一歩を踏み出そうとする。しかしその瞬間、沙和の目の前にどこからともなく忽然と人影が現れ、その行く手を阻む。
その人影も、由海を縛る足と同様に黒い霞がかかり、その正体が分からない。
人影は沙和の両肩を掴むと、次第に人の形を崩し、靄となっていく。
沙和は必死に抵抗するが、由海同様、何かに足枷でもされているのか、そこから動けないようだ。
靄は次第に広がり、足掻く沙和をあざ笑うように揺らめき、彼女の姿を包み込んでいく。
「お義姉様……! 離して! お義姉様を助けないと! お義姉様!」
さっきまで助けを求める手であったが、今度は助けるための腕を必死に伸ばす。
次の瞬間、目を開けていられない程の天狗風が鳥居の奥から吹きつけ、ケヤキの枝葉を激しくざわつかせる。
風はすぐに収まり、由海はそっと目蓋を開く。
視界に入るは、上半身を残して靄に包み込まれた沙和の姿。
沙和は気を失っているのか、立ったまま項垂れている。
「お義姉様! ……離して!」
己の足を掴む手に視線を降ろすと、足下に転がる弓と矢が目に飛び込んでくる。
弓は丁寧に作られたとはとても言い難く、枝を削りだし弦を張っただけの代物で、矢も同様に作りが荒い。
いつからあったものだろうか。一瞬そんな疑問がよぎる。
しかし、由海はすぐさまそれらを拾うと、矢をつがえて引き絞り、沙和を捕らえる靄へと向ける。
沙和に当たってしまうかもしれない。
その重いが躊躇いを生じ、なかなか射ることが出来ない。
そうして迷う内に、沙和の身体は首だけを残して靄に包まれてしまった。
迷ってはいられない。
由海は意を決し、矢を放つ。
だが、矢は思い描いた通りには飛びはせず、無慈悲にも由海の足下に落下する。
「どうして? お義姉様を助けないといけないのに……!」
慌てて矢を拾い上げ、再び射ようとする由海であったが、何度試しても矢が前に進むことはなかった。
やがて沙和の姿は靄に覆いつくされる。
「お義姉様、お義姉様!」
沙和を取り込んだ黒い靄は、生き物のようにうごめいたかと思うとある一点に集まり始めて球状となり、唐突に空へと向かって一直線に飛んでいく。
黒い球は見えなくなる程空高く上がると、突然花火のように弾けた。
そして幾条もの黒い筋となって方々の彼方へ散っていく。
「いや……」
由海はおののき凍り付く顔を手で覆い、球が弾けた一点を見つめる。
「イヤぁぁぁぁ――――!」
丑三つ時の槻守邸に、悲痛な由海の叫びが響き渡った。
槻守家屋敷の門の外。
大きな鞄を手に提げた牧師服の西欧人が、眼光鋭い厳しい表情で由海の部屋の方向を見つめていた。
◆
日がやや西に傾き始めた頃、歩く度に痛む足腰に耐えながら独り警ら中の霧生がいた。
蒼木の言うとおり調べると言うことで、兎跳びは結局二十周に負けて貰ったが、それでも身体を痛めつけるには十分過ぎた。
今はかなりマシになったものの、起きがけなどは布団から出るのもやっとの思いであった。
「糞アオめ……いつか吠え面かかせてやる」
ここ元町通りは、多くの外国人が行き交い、そういった者達を相手に商売する店が軒を連ねている。
また、甘酒売りなどの行商人も、ちらほらと見かけられた。
甘酒売りは江戸の頃からよく見られる商売で、天秤棒に箱を二つぶら下げ、片方には茶釜と炉、もう片方には茶碗と盆を入れて売り歩くのだ。関東では一年中、西方では夏に見られる。
「少し冷えたし丁度いいや。親父、一杯くれ」
腰を下ろして一服していた中年の甘酒売りは、愛想良く笑うと箱から茶碗を取り出す。
「毎度。でもいいんですかい? 見つかったらまた蒼木の旦那から大目玉喰らいますぜ?」
甘酒売りは言いながらも本気で心配している風ではなく、どこか面白がっているようだ。
霧生はこの甘酒売りの常連で、すっかり顔馴染みであった。
「平気平気。甘い物でも飲んで、少しは身体を温めた方が仕事もはかどるってものさ」
霧生は茶碗を受け取ると、息で少し冷ましてから一口含む。
一息吐き、ふと山手を見上げると、クレメンティス女学院の特徴ある校舎が目に出来た。
この女学院は、開国後の明治三年、外国人宣教師が診療所の一室で始めた私塾が始まりで、五年後の明治八年、正式に学校となった。
聖書、神学を軸とし、語学、歴史、地理、数学、倫理学、心理学、生理学、植物学、音楽などのほか、洋裁、編み物まで多岐に渡る教育が行われている。それらの教科書の多くが外国語であったためもあるのだろう。特に卒業生の英語力は目を瞠るものがあり、世間から大きく評価されていた。
また学校の性質上キリシタンが多く、卒業生がその後に宣教師となり、地方で活躍することも少なくない。
クレメンティス女学院はこの町ではあまりその名で呼ばれることは少なく、煉瓦造りのため校舎の壁が赤いことや、西欧から輸入した水を汲み上げるための風車があったことから、『赤学校』もしくは『風車の学校』と人々からは呼ばれている。
「ところで親父、最近変わったことはないか?」
「へえ、そうですなぁ。……そういや二、三日前の夕方だかに蝙蝠がやたらと飛んでいたってみんな気味悪がってましたなぁ。心当たりといえばそれくらいで」
「蝙蝠か……」
霧生はこうやって時折商人達と話し、邪鬼に繋がりそうな情報を聞き出していた。
はっきりとした化け物の目撃例ならば大きく噂される事もあるが、普段奴らは表だって動かないため、普通あまり気にされないようなことが邪鬼の仕業のこともある。
そういった些細な情報を日頃から集め、邪鬼を取り締まっているのだ。
明らかに関係ない話で盛り上がって、蒼木に怒られることもしばしばだが。
「あとさ、赤学校の生徒か他の女学校かは分からないんだけど、渡津沙和って知っているか?」
尋常小学校、高等小学校を卒業した女子は、基本的に女学校にしか進学の道はない。
この頃、女性への教育意識は男性に比べてかなり低いものであったが、それでも昨今では各地で女学校が増加し、改善されつつあった。
この辺りでは宣教師達が開いた女学校がいくつかあり、クレメンティス女学院もその内の一つである。
校舎を眺めつつ、甘酒を一口すする霧生。
「ええ、知ってますとも。この辺りの商売人で知らない奴はもぐりだ。回船屋の渡津さんといや、この辺りでは多くの店が世話になってる。その渡津さん所のお嬢さんなら確かに赤学校に通ってますぜ? あっしも何度か見たことありますし、ついさっきも見かけましたよ?」
それを聞くや否や霧生は目の色を変えた。
「なに!? ど、どこにいた!?」
「へえ、山手の麓にある厳嶋神社に入っていくのを今し方……。まさかホの字ですかい?」
霧生は残っていた甘酒を一気に呷り、茶碗を甘酒売りに返すと神社に向かって走り出す。
「ごっそさん! いつもの通りツケで頼む!」
あながち間違ってもいないが、にやつきながら勝手に何かを思った甘酒売りは、走り去る霧生の背中から応援する一声をかけて見送った。
◆
背後の崖上にクレメンティス女学院を臨む、厳嶋神社の境内。
鳥居をくぐると、樹齢千年以上といわれる大ケヤキが神殿の横で堂々とした枝振りを見せている。
春まだ待ち遠しいこの時期には葉が一枚も無いが、夏ともなれば青々と茂り、突き刺すような日差しから守ってくれる木陰を拵えてくれる。
その枝の下。横たわった牛のような巨石に腰を下ろし、沙和のよく手入れのされた輝く艶やかな黒髪が風にさらさらと揺れる。一冊の小説を手にし、それに目を落としていた。
しかし、昨日の雪江のことが気にかかり、読んではみても全く頭に入ってこない。
クレメンティス女学院に通うために、東京の実家から移り住んでいる下宿には電話がない。上流階級の家もしくは大きな商店でもなければ電話を引いておらず、一般宅には無かった。そのため電話を設置している近くの大店で借りて父に問い合わせもしてみたが、海外渡航中のため不在で連絡が取れなかった。
昨日の容態からもおそらく急いだ方がいいと思い、由海と相談するためここで来るのを待っているのだ。何か用があると言っていたが、それが片付き次第来るはずである。
由海が、待っている間の暇潰しにでもと自転車を貸してくれたのだったが、断るのも失礼かと思い一応持っては来たものの、その様な気にはなれなかった。
本を閉じ、憂いから長息する。
「溜息なんか吐いて、何か心配事でも?」
不意の声に、沙和は驚いて振り向く。
するとそこには昨日の巡査がいつの間にか立っていた。
考え込んでいて気が付かなかったのであろう。沙和は立ち上がると頭を丁寧に下げた。
「確か霧生様でしたでしょうか。昨日は大変お世話になりました。……今日はお一人ですか?」
軽く蒼木の姿を探して辺りを覗う沙和。
「そそ、今日はオレ一人」
何とは無しに、蒼木との再会を期待していたのだろうか。蒼木が居ないと分かると無意識に小さく嘆息する。
それを見て何かを察した霧生が肩を落として悲哀を漂わせるが、沙和はそれに気づかない。
目を伏している沙和に、霧生がもう一度尋ねる。
「何か心配事があるなら何でも相談に乗るよ?」
石に霧生が腰を下ろすと、少し迷った後に沙和も隣へ座る。
しかし、沙和はいざ隣に座ってみたものの、昨日今日会っただけのお巡りさんに、雪江のことを相談するのも憚られ、どう答えたものか悩んでしまう。適当に言えば良いのかもしれないが、好意で言ってくれている相手に対して不誠実な行いをすることも心苦しかった。
しばし考え込んだ末、藁にもすがる思いで一つ尋ねてみることにする。
「あの不躾で申し訳ありませんが……良いお医者様か薬師をご存じではありませんか?」
「医者? 誰か身内に病人でも?」
「あまり子細にはお話しできないのですが……」
「そうだなぁ……とりあえず症状だけでも教えてくれる? それによっては何とか出来るかもしれないから」
沙和は、雪江の名前は伏せて昨日見た症状を思い出せる限り、霧生に説明する。
時々頷きながら聞いていた霧生は、沙和の説明が終わると唸った。
「直接診てみないとはっきりとは言えないけど、何らかの理由で気の流れが極端に悪くなっているか、邪気に冒されているのかもしれない」
「邪気……?」
霧生は気について簡単に沙和へ解説する。
気とは身体を動かすために全身を巡っているもので、これが健全であれば、すなわち健康である。
これが何らかの理由から異状が生じれば、疼痛や冷え、倦怠感など様々な病の症状として表れる。重ければ意識の混濁や喪失等が起きてもおかしくはない。
また、内部的要因の他に外部から体内に入り込む邪気が悪さをすることによっても、同様の症状が発生することがある。
肉体的なことのみならず、精神的な事に関しても言え、怒りや悲しみなど、特定の感情が極端に発露しやすくなる症状が見られる。
明治の時代、文化が西洋化しつつあるとは言っても、鬼や天狗の存在、その他、神などの目に見えない何らかの力による身の回りへの作用というものは根強く人々の間では信じられている。
そのため、霧生の話もすんなり沙和に受け入れられた。
「あの、それでそのような時はどういった治療を行えばよろしいのでしょうか?」
霧生は、沙和が話に乗ってきてくれたことが嬉しいのか、少しもったいつけてから口を開く。
「鍼、だよ」
「はり?」
「そう、鍼治療」
日本に鍼治療の技法が伝わったのは、遣隋使や遣唐使の時代に大陸からだと言われている。
その後、日本独自の発展を遂げ、一般的に医師と共に治療に携わってきた。
「鍼治療は考えてもみませんでした……。では、どなたか良い鍼の先生をご存じではないですか?」
微かではあるが光明が見えた気がした沙和は、先程よりも強めの語調になる。
すると、霧生はおもむろに自分を指差した。
「オレなんてどう?」
突拍子もない事に、霧生の言っている意味が沙和には理解できない。
「え……? あの……霧生様はお巡りさん……ですよね?」
「巡査だけど鍼師。いや、鍼師だけど訳あって警察官をやっていると言った方が正しいのかな」
そう説明されても、やはりいまいち事情が飲み込めない。
霧生は腰の剣を軽く叩く。
「昨日、暴れ馬をこの剣で止めただろ? あれもその応用なんだ」
確かに、昨日馬上で霧生が剣を抜いた時、沙和はてっきり馬は殺されるものだと思った。
しかし、馬の後ろ頭に彼が剣を突き立てても馬が死ぬことはなく、手が付けられないほど暴れていた馬が、嘘のようにおとなしくなった。
それは間違いない事実である。
そのことを考えれば、子細はともかく霧生の言っていることは本当かもしれない。今のところ他に糸口が無い以上、一考の価値はある。が、本来が他家の問題であるため、今すぐ返答するわけにも行かない。
「……私の独断で事を運ぶわけには参りませんので、一度相談してから改めて。もしもの時はお頼み申します」
言うと沙和は立ち上がり、頭を下げた。
沙和の言葉に、霧生は快く頷く。
「県警本部抜鍼隊の霧生と言ってくれれば分かるから、いつでも遠慮無く言ってくれ」
そう言うと霧生は立ち上がって軽く身体を動かし始めた。
「身体冷えてない? さっきあっちに温かい甘酒売りがいたから、なんだったら……」
「いえ、私はなんとも。それにここで人を待っているものですから」
「人? ああ、もしかして昨日の妹さん? ずいぶん年は近いように見えたけど」
「ええ、同い年です。実の姉妹というわけではなくて、槻守さんは義理の姉妹といいますか……」
最後の部分はやや口ごもる沙和。
度々女学生の間では友達以上といえる親密な関係が生まれ、義姉妹の契りを交わす。
そういった者達を女学生達はsisterの頭文字を取り『エス』と呼んで揶揄する。
このような現象は一時期に社会問題にまでなったが、若い頃特有の流行病みたいなものとして、結局は放置された。
そのように茶化されることを避けるため、由海も学校などでは沙和のことを渡津さんと呼ぶ。
「いや、それにしても少し意外だな」
「え?」
そんなことを考えていたため、沙和はエスについての関連のことかと、面がやや硬くなる。
「てっきりキリシタンっていうのは、こういう神社には足も踏み入れないのかと思っていたから。渡津君はこの上の赤学校の生徒なんだろう?」
エスとは全く関係ない事柄に、沙和は少し安堵の表情を浮かべた。
「いえ、確かに聖書などの授業もありますけれど、必ずしも皆が熱心な信徒というわけでもないのです。その教えに感銘を受けるところもありますけど、私はどちらかと言えば日本古来の神様、八百万の神々にお祈りすることが多いのです」
「へぇ~」
沙和は立ち上がって、神殿の前に歩み出る。
「霧生様、こちらの神社の御祭神はご存じですか?」
「市杵島姫尊。素戔男尊の剣から生まれた五男三女神の内の一柱で、水の神。効能は冷え性で、別名は……」
「こうのう?」
沙和は首を傾げる。
「あ、いや、なんでもない。こちらのこと」
「でも仰るとおりです。博識でいらっしゃるのですね」
「いやぁ、たまたまだよ」
嬉しそうに微笑みかける沙和に、霧生は、帽子の鍔で目元を隠した。
沙和は一度神殿を見上げると、横の御神木、ケヤキの大樹に歩み寄り、そっと手を触れた。
「私の父は船に縁ある仕事をしております。それゆえ、水の神である市杵島姫尊と、古くから船材として使われたケヤキが御神木としてあるこちらの神社に、船旅の無事をお願いするためにしばしば参拝に訪れています」
そんな沙和の気持ちに応えるように、梢が風に揺られてさざめく。
「それに、ここにいるとなぜかとても気持ちが安らぐのです」
「そりゃあ、それだけ熱心に親孝行なお参りされれば神様だって機嫌良くして、御利益の二つや三つ授けてくれるって」
「そうだとよろしいのですけど」
「絶対大丈夫、オレが保障する」
「まあ」
何の根拠からか、自信たっぷりに胸を叩いて豪語する霧生に何とはなしに可笑しくなり、小さく笑い出す沙和。
つられて霧生も笑い出す。
ひとしきり笑うと、霧生は空を見上げた。
「親孝行かぁ……」
先程までの明るい雰囲気から変わり、霧生の表情が翳る。
その様子に失礼とは思いつつ、沙和は気になりつい尋ねる。
「あの、失礼ですが霧生様のお父上様は……」
少し考え込んだ後、霧生は口を開いた。
「オレの親父も警察官でね。頑固で厳しかったけど、強くて優しい自慢の親父だった。だけど五年前に職務中に……。いわゆる殉職ってやつさ」
沙和は辛そうな面持ちで頭を下げる。
「立ち入った事をお尋ねして……」
そんな沙和に、霧生は慌てて手を振る。
「いや、そんな深刻な顔されちゃうと逆に困っちまうよ」
「ですが……」
霧生は帽子を脱ぐと、沙和を安心させるかのように、満面の笑顔を見せた。
「親父は警察官としての自分に誇りを持っていた。そして警察官として死んでいったのだから本望だったと思う。そんな親父が安心して眠れるよう、オレも警察官になったんだ。それがオレに出来る唯一の孝行かもな」
沙和は刹那目を伏せると、穏やかな面持ちを見せる。
「お強いのですね……」
小さく呟く沙和。
「え?」
「いえ……。霧生様に比べ、もし私が今父を亡くしたらと思うと胸が張り裂けそうで……。霧生様はご立派です」
その言葉に偽りはない。己の身に置き換えたらどれほど悲しく、辛いことか。
丁度そんな今の自分と同じくらいの年に、霧生は父を亡くしているのだ。
もしも自分であれば、これほど気丈でいられる自信は無い。
霧生の透き通った瞳を、暖かく見つめる沙和。
耳を紅く染め上げた霧生は、立ち上がると帽子を被り直す。
「なんか変な話しして御免」
「いえ、そのようなことは……。そうだ、私が神社をお参りしていることは内緒にしておいて下さいね。先生に知られると、お顔を顰められてしまいますので」
元気づけようと楽しいイタズラをした子供のように笑う沙和。
「了解。秘密にしておくよ」
それを感じたのか、霧生も笑顔で頷いた。
霧生はふと神社の入り口に止めてある自転車に視線を向けると、気になっていたのか、そそくさとそちらに近寄り、しゃがんでしげしげと眺める。
「いやぁ、自転車ってこんな感じなのか~。こんな間近で見るのは初めてだな」
少年のように目を輝かせ、霧生はとても嬉しそうにしている。
自転車はとても高価で、実際に走っているところを目にする機会は少なかった。
教師などの初任給が八圓ほどであるのに対し、自転車は一台約二百圓。
気軽に買えるような代物ではない。
自転車を見つめていた霧生は、ちらりと沙和に目をやる。
「あの……これちょっとだけ乗らせてもらっちゃ駄目かな? ……駄目だよね、やっぱり」
「それは私の物では……」
そこまで言いかけて、沙和はふと思い留まった。
自分は霧生に頼み事していてお世話になろうかという時に、あちらの願いばかり無下に断るのはいかがなものであろうか。
もしかすれば、雪江を助けられるただ一つの希望であるかもしれないのだ。粗相があってはならない。それにきちんと理由を話せば由海もきっと許してくれるだろう。
思い直した沙和は頷く。
「はい、ここで少しだけなら」
「本当に感謝!」
沙和は漕ぎ方など霧生に乗り方を説明する。
それから霧生が自転車に跨り、沙和が後ろで転倒しないように支えた。
霧生は漕いでみるものの直ぐに転倒しそうになり、なかなか前に進まない。
それでも何度か練習する内に、ややふらつきながらも沙和の補助無しで前へと走れるようになった。
「おお! 自転車っておもしろいな!」
そのまま境内を廻る自転車。
子供のようにはしゃぐ霧生に、沙和もつられて笑顔になる。
だが、調子に乗って運転していた霧生は不意に平衡を崩したのか、突如としてハンドルが大きく左右にぶれ出す。
「わ! お!? やばい!?」
慌てふためく霧生と、車体が斜めに傾く。
「危ない!」
倒れそうになる霧生と自転車を、咄嗟に支えようとする沙和であったが、支えきれずに一緒に地面へと転がってしまった。
倒れた自転車の車輪がカラカラと空転する。
折り重なる二人の身体。
「いてて……申し訳ない。怪我は?」
「あ、はい……なんとも……その……それより……」
沙和は自分の顔が真っ赤になっているのが分かった。
身体が密着し、殿方の顔が直ぐ目の前にあるものだから、年頃の少女としては恥ずかしくて仕方が無かった。
「いや、これは失敬!」
霧生は飛び起きると手を差し伸べ、沙和もその手を取って起き上がる。
ポケットからハンカチを取り出すと、霧生はそれで沙和の服に付いた土埃を払い落とす。
「あの、自分でやりますから……」
「本当にすまない。ちょっと調子に乗りすぎた……」
後ろで倒れている自転車を起こすと、点検をし、どこも壊れていないことを確認する。
「自転車はなんともない。良かった……」
胸をなで下ろす霧生。
その時、霧生の手から滲んでいる血が沙和の目に止まった。今のでどうやら擦り剥いたようだ。見ている内に少しずつ血の量が増えてくる。
「手にお怪我を……」
「え? ああ、何のこれしきの傷。唾でもつけておけば治っちまうよ」
「いけません」
沙和は霧生の手を引くと手水場に連れて行き、ヒシャクに取った水を霧生の傷にかけて土を洗い流す。
クレメンティス女学院では西欧の先進的な医学の応急手当法の基礎も習う。化膿などを防ぐため、傷を清潔にする重要性を沙和は理解していた。
「~~~~~~!」
ひどく傷にしみているようたが、見栄からか霧生は歯を食いしばり耐えている。
汚れが落ちると沙和は、懐から取り出したハンカチを包帯代わりに傷へ巻いた。
「簡単な手当で大変恐縮ですが……」
「いや、オレの我が儘から迷惑をかけたのに、ここまでしてもらって……ありがとう」
「いえ……」
少年のように純粋な瞳に見つめられ、なぜか顔がまた赤くなるのを感じた沙和は、気恥ずかしくなり思わず顔を伏せた。
そんな沙和の様子と、辺りをにわかに支配する沈黙に、霧生も人差し指で頬を掻いて誤魔化す。
二人を包むように吹き抜ける、寒さ和らぎ始めた春先の風。
そんな二人の空気を、こちらに来る人の足音が破る。
「槻守さんがいらしたようですね」
沙和の言葉に、霧生は咳払いをして襟を正す。
「それじゃあ、なにかあったらいつでも県警本部に」
「はい。その折にはよろしくお願いいたします」
ハンカチの巻かれた手で敬礼をすると、霧生は由海と入れ違いに境内から出て行った。
訝しげにその背中を見送る由海。
「お義姉様、今の男の人は?」
「昨日助けて下さったお巡りさんの霧生様です。偶然お会いしたので改めてお礼を申し上げていました」
「ふうん……」
沙和の説明に、納得していない風の由海。
「あら! お義姉様、お召し物がそんなに汚れてどうなさったの!?」
見れば多少払い落としたとはいえ、まだあちこちに土汚れが目立つ。
「そういえばさっきの人も汚れていた! まさかお義姉様何かされたんじゃ!?」
「滅多なことを言うものではありません! 確かに……一見粗雑なところはありますが、ご立派な志を持ち、礼をわきまえて居られる御方です」
沙和は自分で言って気が付いた。
父親の遺志を継ぎ、人々を守るための職に身を捧げた霧生。昨今、怪死事件なども増えていると聞き及び、降りかかる危険はどれ程だろう。にも関わらず命を賭して職を全うするその姿は、父から何度も聞いた侍というものではないか。
また、世は男尊女卑が未だ色濃く、女性の勤め口は著しく限られ、女子教育など必要無いとさえ考える男性も多い。さらには女性が物の様に扱われることも決して珍しいことではなかった。
そういう世相から比べれば、例え女性に対しても詫びる時は詫び、礼を言う時は礼を述べる霧生の姿が新鮮に映るのも無理からぬ事。しかも自分の方が年下のため尚更である。
そんな霧生の心の強さと優しさに、沙和はいつの間にか感じ入っていたのかもしれないと思う。
だが、珍しく声を荒げて男を庇う沙和に、由海は不満の感情を顕わにする。
「お義姉様はわたしなんかよりも、あの男がいいの?」
一陣の風にざわつくケヤキの枝々。
沙和には辺りの空気が急に冷え込んだ気がした。
「何を言っているの? 私とあの方はそのような関係ではありません」
「本当に?」
由海は顔を近づけ、沙和の瞳の奥を覗き込むように見つめながら問い詰める。
由海の瞳の奥に見えるは暗く鈍い光。
沙和は首筋にひやりとした何かを感じ、目を動かすことも出来ない。今は目線を逸らすことに恐れすら感じる。
「ええ、本当です」
だが気丈に沙和も真正面からその問いに答えた。
すると由海に笑顔が戻る。
視線を外し、駐めてある自転車に向かう。
「……ですよね。そうだと思いました。もしそうじゃなかったらわたし……」
「え?」
「いえ、何でもありません。さ、参りましょう」
「え、ええ……」
自転車を押しながら、微笑む由海。
沙和もそれに並んで歩き出す。
「そういえばお義姉様、この間お話ししました人形のことなんですけど――」
道すがら、いつものように明るく話しかけてくる由海ではあったが、その横顔に今まで感じたことの無かった違和感を沙和は覚えずにはいられなかった。