終・施術録
終・施術録
事件後、市杵島姫尊の魂を宿す渡津沙和は、女学院に通うために住んでいた下宿から、病という名目で東京の実家に帰宅し、一月近くそこに滞留。その間、一歩も外に出ては居なかった模様。未確認情報ながら、今回の騒動で病死扱いとなった槻守由海に関し、元町近辺では様々な噂が人の口に上っており、それらから沙和嬢を守るための、渡津家当主が取った措置と思われる。
牧師、ランスロット・イーリィは事件後、帰国する予定であったが、英吉利方面の出航予定日当日に行き倒れている所を、市民から通報を受けた警察官がこれを保護。帰国前にと日本食の食べ歩きを行い、酒を飲んで気が大きくなったところでうっかり路銀を使い果たす。そのため船代も無くし、目下路銀稼ぎのための職探し中である。
霧生巡査はカマエル戦で受けた傷の治療のため、半月ほどの入院後、一週間の休暇を経て職務に復帰。現在は特段の支障もなく勤務。かつてない強力な邪鬼との戦闘経験は貴重であり、抜鍼隊隊員として以降、更なる重用をここに進言するものなり。
本件で交戦した邪鬼ヴァンパイアについて、自身の邪気を他者に感染させることで複数の対象を自由に操る能力が認められた。このような事例は国内では抜鍼隊発足以降過去に例が無いため、更なる調査を必要とする。
槻守家当主について、邪気から解放され生存はしていたものの、魄気の大半をカマエルに使用されて強い衰弱状態にあり、回復は困難と見られる。そのため、帝国海運副社長の職を自ら辞任。下女殺害の件については、邪鬼化以前であるものの、邪鬼による精神支配下においての所行の可能性も否定できないため、刑法第三編第一章第四節第三一七条邪鬼特例第一項により過失殺傷ノ罪を適用、病床のまま起訴。それにより二〇圓以上二〇〇圓以下の罰金刑及び一定期間観察下に置かれる見込み。
本書を以て、本件邪鬼カマエルに関する治療が完了したことを報告する。
◆
髪と同様、口髭にもちらほらと白いものが混じる初老の男は、目を通し終えた書類を大きな机の上に置いた。
老いてなお精悍さを失わない鍛えられた体躯、落ち着いた物腰がこの人物の年輪を感じさせる
机の上には、神奈川県警本部長と白で書かれた黒塗りの木の板が置かれている。
本部長とは、神奈川県警の長である。
「ご苦労だった」
本部長の労いに、相対して立つ蒼木は霧生に対してのそれと変わらぬ態度だ。
「霧生巡査が手こずりはしたものの大したことではない」
「まあ、そう言うことにしておこうか」
悪戯顔の本部長の言葉に、蒼木はあくまで余裕の表情を崩さない。
そんな様子に本部長は一度だけ軽く笑うと、職務の顔に戻る。
「しかし、これからこういった難事件は増えていきそうだな、頭の痛いことに。しかも霊依姫か……。今回は最悪の事態こそ免れたものの、これからも彼女を狙う邪鬼は後を絶たないだろう」
「なに、姫には若侍が付いている。なんとかなるだろうさ。もっとも、まだまだ頼りない所も多い。みっちりと鍛えねばならぬな」
蒼木は言うと肩をすくめる。
「ははは、報告にもあったが君にしては珍しく、随分と霧生巡査を買っているようだな」
「それぐらいでなくては困るな。なにせあれの父親は我が輩が唯一惚れた男だ」
口端を吊り上げる蒼木。
「君にとっても息子のようなものかね?」
「冗談を。我が輩は人の親などと言う柄ではない。ただ……」
「ただ?」
一瞬遠くを見つめる蒼木であったが、小さく首を振って踵を返す。
「いや、なんでもない。さて、そろそろ邪魔をしに行くとするとしよう」
「おお。渡津の娘が昨日こちらに戻ってきたそうだな」
「警らと称して奴め、さっきいそいそと出て行ったよ」
「人の恋路を邪魔する奴は、と言うぞ?」
邪な笑みを湛える蒼木に、本部長は心から可笑しそうな笑みを浮かべた。
「恋は障害があるほど燃え上がるものさ」
蒼木は振り返ってそれだけ言うと、本部長室を後にした。
「己を責め続けるか。妖にしておくには惜しいものだ」
窓の外に見える、本部から出て行く蒼木の背中を、本部長は穏やかな目で見送った。
◆
「沙和君!」
息を弾ませ、駆け足で厳嶋神社の鳥居をくぐる霧生。
沙和の姿がそこにあることを想像し、境内に足を踏み入れるが、期待した姿はどこにも見当たらない。
今日横濱に戻るから、ここで待って居ると先日手紙で連絡があったのだ。
数日おきに手紙をもらってはいたものの、一月ぶりの再会である。胸躍らせていただけに肩すかしをくらった気分で、がっくりと肩を落とす。
「まだ来てないのか……」
その呟きと同時に、霧生の視界の端、ケヤキの木の陰から人影が姿を現した。霧生が待ち望んだその姿。
沙和は、静かに頭を下げた。
「霧生様、お久しゅうございます。ご健勝そうで何よりです」
由海を亡くし、気鬱にでもなっていないかと案じていたが、その元気そうな微笑みを見れば、それは杞憂に過ぎなかったのだと判る。ほっと安堵の息を吐いて、霧生は沙和の所へ駆け寄った。
「ああ。沙和君も元気そうで何よりだ」
「もうお怪我はすっかりよろしいのですか?」
「大丈夫。ほらこの通り!」
言うや否や、腕を大きく振り回して自身の丈夫さを誇示する。
大仰な様に、沙和の口元からくすくすと笑みが零れた。
「まあ霧生様ったら。でも余り無理はなさらないで下さいね」
「分かった。それよりここで何を?」
霧生はケヤキの幹に触れ、新芽の吹き出した枝を見上げる。
「由海さんに横濱に戻ってきた事の報告を……」
「由海君?」
「はい。由海さんはこのケヤキの精だと仰っていました。でしたらこのケヤキもまた由海さんですよね」
沙和の言葉、その笑顔には哀しみの色が透けて見える。
ようやく、霧生は彼女が無理をしているのだと気付いた。彼女の心の傷は、まだ乾いていない。
当たり前である。
まだ、たった一月なのだ。大切な存在を失った哀しみを忘れるには、あまりにも短い。
忘れる事が出来たわけではない。それでも、親友に救われた命を無駄にしないために、彼女は彼女なりのやり方でその死を乗り越え、前に進もうとしているのだろう。
そんな沙和の心を慮り、霧生は励ますように力強く頷いた。
「そうだな。確かにそうだ」
「ここに来ればいつでも由海さんに会える。そう思うようにしたら、私も元気が出てきたのです」
霧生には沙和が、自分にそうでなくてはいけないと、言い聞かせているように聞こえた。
彼女が心の底から笑える日はもう少し先かもしれない。
出来ることならば、彼女の本当の笑顔を自分が取り戻してやりたいと思う。
沙和の言葉に、霧生は小さく頷いた。
そこでふとあることを思い出し、霧生はポケットから白いハンカチを取り出す。
「そうだ、これ。前にここで巻いてくれたハンカチ。ずっと返しそびれていて……。有り難う」
自分なりに綺麗に畳んだハンカチを、沙和に手渡す。
ハンカチを受け取った沙和は、しばらくの間無言でそれを見つめていたかと思うと、静かに目を閉じ、何かを祈るように布を握りしめる。
そしてそれを霧生に差し出した。
「これは霧生様がお持ち下さい。お守り、と言ってはおこがましいですが……。霧生様のご武運、そして何よりもご無事を祈って」
霧生は嬉しそうに頬を弛ませ、彼女の想いが込められたハンカチを受け取った。優しい温もりが、ハンカチを介して伝わってくる。
「この世で最も御利益のあるお守りだ。大切にするよ」
「はい」
霧生の喜ぶ顔に、沙和も今日一番の笑みを見せた。
そんな二人の間に、突然一陣の春風が吹き抜ける。
長い黒髪が乱れ、華奢な身体が突風に煽られてよろめくと、地中からせり出しているケヤキの根がその足を引っかけて、沙和は大きく体勢を崩した。
「きゃっ!」
「沙和君!」
倒れ込む沙和を咄嗟に抱き留めて、霧生は少女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「はい、お陰様で」
「良かった」
ふと重なる視線に、言葉が途切れる。
触れ合う、吐息と吐息。
「霧生様……」
「沙和君……」
頬を紅く染め、潤む瞳で霧生を見つめ返す沙和。
どちらからともなく瞼を閉じ、二人は唇を寄せ合う。
抱いている沙和の柔らかく細い肩が、小さく震える。
手から伝わる沙和の温もり。
早鐘のように打つ鼓動。
しかし、あと僅かで唇と唇が触れあおうかというその時であった。
前触れもなく突然霧生の頭に衝撃が走り、鈍く、重い音が響いた。
「いってぇ!」
「霧生様!?」
頭を押さえてうずくまる霧生の様子を、沙和が心配そうに窺う。
「何だぁ!?」
痛む頭に手を置いたまま辺りを見回すと、足下に小枝というには少々大き過ぎる枝が落ちていた。
どうやらケヤキの枝が折れて、霧生の頭に直撃したようだ。
見上げる霧生を嘲笑うかのように、ケヤキの枝が風にざわめく。
「どうやら由海君に怒られたようだ」
「まあ」
顔を見合わせ、思わず吹き出す二人。
楽しそうな笑い声が、他に人気のない境内に響き渡る。
それから程なく、霧生を呼ぶ蒼木の声が聞こえてきた。
「げ。警部補殿だ。仕方ない、それじゃあ仕事に戻るよ。また」
踵を返しその場を後にしかけた霧生を、沙和が呼び止める。
「あの、今度お昼にお弁当をお持ちしたいと思うのですが、ご迷惑ではないですか?」
思いもよらない沙和の申し出に、霧生は顔を輝かせて即答した。
「ぜひ!」
「はい。それではお気を付けて」
沙和の見送りを背に、霧生は蒼木と合流する。
「フム、我が輩はお邪魔であったかな?」
沙和の姿を遠目に確認しての、イヤらしい笑み。
「絶対わざとだ……」
「何か言ったか?」
「いいえ。行きましょ行きましょ」
先だって霧生が歩き出すと、蒼木もすぐにそれに追いて横並びで歩く。
いつもと変わらぬ賑わいを見せる元町。
甘酒売りなどの顔見知りと挨拶を交わしながら務める、ごくごく平凡な警らの仕事。
退屈ながらも平穏なこの日常が、今はとても愛おしく感じる。
そして通りかかる、港近くの一軒の本屋。
ここから始まった事件はついこの間の出来事であるのに、もう随分と昔の事のように思えた。
「霧生!」
いつの間にか足を止めていた霧生は、我に返り、少し先にいる蒼木の下へ急ぐ。
「警部補殿、この間はちゃんときりゅうって呼んでいたじゃないですか。何でもまた元に戻っているんですか!」
霧生の抗議を蒼木は鼻であしらう。
「我が輩に決めた一本分の期間は終了だ。ちゃんと呼んで欲しければ、また我が輩から一本を奪うのだな」
「横暴だ!?」
納得いかず思わず声を上げる。
しかし、ふと、ルイーザとの戦いの中で、蒼木が沙和を助けるために自分を殺せと言った、あの時の事を思い出した。
「警部補殿、一つ訊いていいですか?」
「何だ」
「ルイーザとの戦いの時、オレに警部補殿を刺せと言いましたよね。あの時何か考えがあったんですか?」
「無い」
「そうですよね、策も何も無いなんて……無い!?」
てっきり何か策があるのだとばかり思っていただけに、あっけらかんと言う蒼木に驚きを隠せない。
「じゃあ一歩間違えれば、ホントにオレ殺しちゃうところだったじゃないですか!」
「何を勘違いしている。貴様如きの腕で我が輩の命を獲るなど二千年早いわ。貴様が生半可な腕で刺したところで奴を油断させて、我が輩が余裕で仕留める。策と呼べるほどのものではないな」
「あー、そうですか」
馬鹿にした物言いに、霧生は仏頂面になる。
だが、あの夜の蒼木の眼差し。
霧生には、覚悟を決めたそれにしか見えなかった。
あの時の言葉は、警察官として蒼木からの最後の教えだったのかもしれない。
尤も今となっては最後でも何でもないわけだが。
しかし、霧生にとって様々な転機となったあの事件、あの夜のことは一生忘れないだろう。
実のところを言えば、人智を越える力を持ちながら、相棒である父を殉職させた蒼木を恨みもしていた。
それが、この事件以降、そんな気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。
今では、父も蒼木も全力を尽くしながらの結果だったのだろうと納得が出来る。
意地の悪さが玉に瑕だが。
そんな思いに耽りながら蒼木を見つめていると、それに気が付いた当の本人が、霧生を気持ち悪げに見返してくる。
「何だ、早速浮気か? 我が輩に惚れても男には興味がないぞ」
「違いますよ、どうやったらまた一本取れるか考えていたんです」
それを聞いた蒼木は、面白いとばかりに口端を吊り上げる。
「良い心がけだ。では本部に戻ったら、一つ稽古を付けてやろう」
「望むところです!」
霧生は鼻息を荒くし、腕を叩いて己を奮い立たせる。
沙和を見送った厳嶋神社のケヤキの樹が、ようやく訪れた平穏な日々を喜ぶかのように、春の暖かい日差しの中、静かにその枝を揺らしていた。
以上で「メヂカルレコオド」終わりです。
最後まで呼んでいただき、誠にありがとうございます。
もしよろしければ、評価など入れていただければ幸いです。
また、この作品がベースとなって書かれた、「妖かしに贈る唄」をまだ読まれてない方は、是非ご覧下さい。
それでは、またお会いできる日を……。




