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メヂカルレコオド  作者: 樋桧右京
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序・影

前回投稿の「妖かしに贈る唄」の前身というかベースとなった作品です。

明治時代風作品を手がけてみて、色々と試してみた習作的作品でもあります。

今投稿できる物もないので、置いてみます。

お目汚しかも知れませんが、よろしければご覧下さい。

     序・影


「お嬢様、旦那様がお戻りになりました。広間にてお待ちです」

槻守家当主から娘の由海(ゆみ)を呼ぶよう申しつけられた齢三十半ばになろうかという下女は、日が沈み春寒厳しい縁側を伝い、由海の部屋の外から、閉じられた障子戸はそのままに声をかけた。

屋敷は瓦屋根の日本家屋で、廊下は庭に面するように延びている。

その縁側からは枯山水の庭園が一望できた。

枯山水とは、水を使わずに、敷き詰めた石や白砂に水の流れを表現する庭園のことである。

槻守家の庭園は毎日職人が入るため、二日と同じ姿を見せることは無い。手入れの行き届いた庭は、灯籠のほのかな明かりに白き流れを浮かび上がらせ、一期一会の幻想的な雰囲気を醸し出していた。

昼の景色も美しいが、日暮れた後の風情もまた格別である。

 この時刻、由海は自室で聖書を読むのが日課であった。

 果たして、部屋の中から本を閉じる音と共に、あどけなさの残る音吐が返る。

「分かりました。すぐに参ります」

 少女の返事で役目を果たした下女は、会釈を一つ、そそと廊下を戻って行く。


「お帰りなさいませ、お父様」

 娘の年は十五。由海が一礼をすると、結い流しにした、背の中程まである艶やかな黒髪が一房、肩からこぼれ落ちた。

微塵縞――細かな格子柄の着物を纏った由海は、火鉢の焚かれた畳敷きの室内へと静かに歩み入って来る。

「ははは、息災だったかね?」

齢四十頃。由海の父は、撫で付けた髪に口髭、モーニングコート姿で火鉢の傍らに立ち、陽気に娘を迎えた。

帰宅時のまま着替えもせず、由海を呼び出したのだ。

本来モーニングコートは午前中にのみ着用する普段着であるが、日本に入ってきた時にはその様な事など気にされず、時間を問わない上流階級の平服として定着していた。

「ええ、変わりなく。お父様こそ、ご壮健そうで由海は安堵致しました。此度の船旅はいかがでしたか?」

「ははは、そうさな……」

 当主は手招きをし、火鉢に当たるように促しながら腰を下ろす。

「行きは上首尾であったが、帰りがいけない。欧羅巴からの帰路のことだ。スエズ運河に差し掛かった頃、急に時化てね。それはもう、海坊主が船を玩具にして遊んでいるんじゃないかという位に酷かったものさ」

「まあ、そのような……」

 憂い気な由海を余所に、父はあくまで朗らかである。

「お陰で机の上に置いてあった土産が危うく……おお、そうだ」

 不意に何かを思い出し、手を打ち鳴らすと、部屋の隅に置かれた大きな旅行鞄に手を伸ばす。開けて取り出した物は幾重にも風呂敷で包まれていて、当主はそれを解き中身を由海の目の前にそっと差し出した。

「まあ、これは……」

 幼子の如く瞳を輝かせる娘に、満足げに頷く。

 それは青い目にブロンドといった、人の頭ほどの大きさもある、女の子の姿をしたビスクドールであった。

 磁器で作られた肌は白く、髪は精巧に結い上げられ、ベージュのドレスに身を包んだその姿は、話に聞く西洋の貴婦人そのものである。硝子で作られた眸は爛々とし、もしや生きているのではないかと疑いたくなる程の、見事な出来だった。

「これをわたしに?」

「ああ、そうとも。寂しい思いをさせている娘への罪滅ぼしさ」

「お父様のお勤めは日本の将来にも関わるものと心得ておりますれば、その様なことなど……」


 由海の父は、帝国海運株式会社の副社長を務めている。

 帝国海運といえば、政財界ではその名を知らぬ者などいない世界を股にかける船会社で、所有する汽船の数、取り扱う物資量共に日本最多を誇る。

徳川の世では長年鎖国をしてきた日本であったが、黒船来航から端を発する騒乱により、世界へと目を向けざるを得なくなった。その時、人々が目の当たりにしたのは産業技術の大きな隔たりであった。

その中でも特に日本は船舶技術、航路の開発に世界から大きく後れを取っており、世界水準にまでそれらを引き上げることが命題の一つとされた。

列強諸外国と比肩し得るほどの国力を付けるためには、貿易により外国からの技術や物資を手に入れなければならない。

だが、貿易を行うに当たり、自国の船と航路を持たざるとなれば、それらを持つ国に日本の経済は掌握されると言っても過言ではない。

 そんな時代の中、帝国海運は海外製の汽船を購入。欧羅巴航路の開発を皮切りに北亜米利加航路、濠太剌利航路などを次々と開設。

並み居る外国の海運会社を押し退け、開国から僅か三十年余りで帝国海運の名を世界に轟かせる。

これにより日本は列強国の仲間入りを果たした。

 その帝国海運副社長である槻守家当主の日常は多忙を極め、ここ横濱の屋敷どころか、国内にいること自体が少ない。

由海は幼い内に母を亡くしており、また父が後妻を娶らないこともあって、普段、この広い屋敷には由海と世話役の下女が一人暮らしているだけであった。


 娘の言に、父は詰まらぬと言わんばかりに眉を顰めた。

「父が居らずとも差し支えることなど何もないと?」

「その様なこと……堪忍して下さいませ」

 父の言葉に、由海は洋燈の明かりに照らされた顔を紅潮させ、袖で顔を覆う。

「ははは。これは戯れ言が過ぎたか」

羞じらいながらも袖の陰から向けられる娘の恨みがましい眼差しに、当主は顔を綻ばせながら自戒の意味か二、三度己の額を叩いた。強がってみせる可愛い娘の困った顔が見たくて、ついつい意地の悪いことをしてしまった。

「土産は気に入ってもらえたかね?」

「それはもう。是非とも渡津さんにもお見せしたいくらいに」

「社長の所の沙和さんか。相変わらず仲睦まじいようで何より」

「お父様と渡津の小父様の仲にも負けないほどです」

 先程までの控えめな物言いから一転、由海の声音に熱が籠もる。

「渡津さん、この間の試験でも首席の成績でしたし、見目麗しく、器量も良い。わたしなどは只々感嘆するばかりです」

 自分と比較して悔しさを滲ませるでもなく、由海は沙和という女性を純粋に称える。

「ハハハ。流石はあの社長の御子。非凡な才を持っていらっしゃる。だが手紙に寄ればお前もその試験、次席だったのだろう? そう自分を貶めるものじゃない。次はお前が勝るやもしれんぞ?」

 親心から父なりに励ましてはみるが、当の娘はその様な気持ちを知ってか知らずか首を横に振る。

「いいのです。私は渡津さんに試験で勝る事が出来なくとも。ただ渡津さんの……」

 何かを言いかけて由海は俯いてしまった。灯りの陰となってその表情を窺い知る事は出来ない。耳が赤く染まっているようにも見えるが、照り返した炎の色だろうか。

「…………」

「そ、それより此度はいつまで横濱にいられるのですか?」

 言葉に困っていると、それを察したと言うわけでもなく、由海が話題を切り替えた。

「おお、そうだ。こうしてはいられなかった。数日は横濱に居るが、今日この後出かける用があったんだ。ちょっと俥を呼ぶように言ってくれるか」

 俥とは俥夫と呼ばれる者が牽く、人を輸送するための車のことだ。

「かしこまりました。それではこれで……」

 由海は土産の人形を丁寧に抱えると、広間を辞していった。

 当主は、障子戸が閉まり由海が去ったことを確認すると、火鉢の傍らに備え、出張でしばらく使っていなかった煙管盆を手元に寄せ、懐から愛用の煙管を取り出した。

 盆の刻み入れから煙草を取り出して火皿に詰め、火を点けて燻らせる。

 一呑みの後、煙を大きく吐き出すと、一度だけ煙管を灰吹きに打ちつけた。

            ◆

 洋燈の明かりの下、辞書を片手に机に向かう由海は、引いて調べた内容を、鉛筆で帳面に書き付けていく。

 父との話の後、自室に戻った由海は勉学に没頭していた。

 帳面に慣れた手つきで、次々と英文を綴ってゆく。

 それもようやく区切りが着くと、一息吐き我に返ったように懐から銀製の懐中時計を取り出す。

「あら、わたしったら時間も忘れて……。もう日が変わっているわ」

 長く座り続け強張った足でよろめきつつも立ち上がると、両手を天井へと突きだし、伸びをする。

 根を詰めていた身体に、新鮮な空気が巡る。

「明日も早いことですし、そろそろ床に着かなければ障りますね……」

 下女が敷いておいてくれた布団を一見すると、灯りを消そうと洋燈に手を伸ばす。

 だがその時、由海は背後に言い知れぬ寒気と気配を感じた。

 洋燈に伸ばしたその手が止まる。

 なにやら気になりふと後ろを振り返ると、閉まっていたはずの、書棚の硝子戸が開いている。

 観音開きの書棚には和洋の書物が並び、中央に空けた場所には父から貰った西洋人形が置かれている。

「あら……掛け忘れたかしら?」

 硝子戸には金属製の小さな閂が付けられており、掛けてあれば勝手に開くようなことなど無い。

 由海は立ち上がり、書棚に近づくと戸に手をかけた。

 しかし閉めようとしたその時、何か奇妙な違和感を覚えて首を捻る。

 なんであろう。

 気になり、棚を見回すが分からない。

「…………?」

 が、薄明かりの中で凝らしてみると、ようやっとその正体に気がついた。

 人形の様子が、先程と異なっているのだ。

「目が……閉じている?」

 その様なことあるはずがない。

 父から貰った時、硝子製の目が確かに輝いていた。だが今、その眸は閉ざされている。

 自分の目を疑い、何度も見直す由海。

怪異か妖か。混乱する由海であったが、ふと古来より日本に存在する絡繰り人形を思い出した。

絡繰り人形には瞬きをする物もあれば、一瞬にして面を変える物まであるという。技術の進んだ欧州であれば、まぶたを閉じる人形くらい在ってもなんら不思議な事ではない。

「お父様ったら、絡繰りがあるならそうと仰っておいて下さらなければ、心の臓に悪いですわ」

明日女学校から帰ったら、改めてどのような仕掛けになっているのか見てみよう。

導き出した結論に由海は納得すると、静かに戸を閉じようとする。

だが、完全に閉まりかけたその時。

「え…………?」

 人形のまぶたが突如として見開かれた。

 由海は驚きながらも、これも絡繰りだと心中で呟く。

 しかし、生き物のそれと違わぬ、生々しく光る瞳は、ゆっくりと上へと向けられ、その視線が、由海の眼を捉えた。

「――――――――!?」

            ◆

 上弦の月が西の地平線の陰へと身を隠してから幾ばくか。鶏鳴の刻には些か遠い頃。

 横濱のとある神社。

 神殿入り口に付けられた鈴の緒を手で玩ぶ一人の若い男がいた。

 年の頃は二十歳前。黒の上下に帽子。肩先には飾りがあり、胸には二列の四つボタン。軍服にも似た意匠であるがそれとは異なる、警察官が着用する制服だ。

 通常、警察官は反り身の西洋剣、サーベルを腰に佩いているが、この巡査が下げている物は若干形状が違う。柄や護拳こそ他の巡査が身につけている物と変わらないものの、鞘の形は反りも無く、細長い先細りの円錐状である。

 他に人気のない境内で、巡査は鼻歌交じりに星空眺めていた。

「いや~、いい気持ちだ。気質は陽の土。効能は胃弱改善ってところかな」

 温泉にでも入っているかの様な口ぶりである。その態からして、脱いでこそいないが風呂で寛いでいる風に見える。

ゆったりと、実に心地が良さそうだ。

 程なくして、同じ制服に身を固めた、長身の影が境内入り口に現れた。星明かりのみで、顔までは見てとることが出来ない。

霧生(ウーシォン)! どこに行ったかと思えばこんな所で油を売っていたか」

 影から発せられた高めの透る声が境内に響き渡る。それは若くはあるが、備えた威厳を感じさせる。

 辺りには民家もなく、ただ鬱蒼とした常緑樹のみが一帯に生い茂るのみで、二人以外にそれを聞く者もいないためか声量に遠慮がない。

 霧生とはこの若い巡査の名であろう。が、聞こえなかったはずもないと言うのに、呼びかけに応える様子が全くない。

 強い歩で長身の影が距離を詰めると、再び、先程と同じ調子で声を発した。

「霧生巡査! 名を呼ばれたら即返事をしろ!」

 再度の呼びかけに、今し方まで上機嫌であった若い巡査の面に、誤魔化そうともしない疎ましげな情がありありと滲む。

「オレはウーシォンなんて名前じゃねぇ。きりゅうだ。霧生真司っていう名前がちゃんとある! 唐人読みなんてするんじゃねぇ!」

 不快を露わに立ち上がる霧生を、長身の影は鼻で嗤う。

「我が輩にそう呼んで欲しければさっさと一人前になることだ。貴様に呼称如きを抗議出来るほどの器があるか?」

 すると今度は霧生が嗤った。

「蒼木警部補扱い殿は大層ご立派と見える。いや、きちんと本名でお呼びした方がよろしいですか。蒼媛殿? 正式な警官になることも出来ないくせに……」

 その言葉を遮るように、蒼木が霧生の胸倉をつかんだ。それまで影にしか見えなかった端整な顔が眼前に迫り、視界を埋める。

「正規でないから何だ? 女である我が輩より、いや、貴様達人間が妖と呼ぶ我が輩よりも、人間である貴様の方が優れているとでも? 大きな口を叩きたくば、訓練で一度くらい勝ってみせたらどうだ」


警官の制服に身を固めた蒼木はちょっと細身の優男風で一見それと分からないが、さらしを解いた普段着を見れば、明らかに女性であると分かる。

だがそれも本当に女性といってよいものかどうか、霧生は疑問を抱いていた。

それは彼女が人間ではなく、化け物、怪異、あやかし等いくつかの呼び方を持つ、総じて古来より人々が『妖怪』と呼び慣わしてきた存在に他ならないからだ。

具体的にどのような妖怪なのかまでは、霧生の知るところではない。見ている限りでは、容姿も生活も人間のそれと全く変わらないからだ。それでも、霧生には彼女が人でない事を疑う余地はない。彼女の部下となって半年余り。その期間の任務中におよそ人間にはあり得ない『力』を再三に渡り、見せつけられているからである。

また、明治の世では女性が職を持つ事は難しく、職種も学校教師など極限られている。ましてや警察官になるなど常識的に考えられることではないし、少なくとも表向きの採用例もゼロである。

いや、この際それは些細な事に過ぎない。

人でない存在が、人間社会の、しかも公的な組織に雇われている事が霧生には信じ難かった。

もちろん、彼女が女性であることも妖怪であることも多くの警官は知らない。知っているのは上層部と、極一部の警官だけだ。また、この事実に関しての口外も上から直々に固く禁じられている。

しかし、雇われているとは言っても正式な警察官としての『採用』ではなく、あくまで、協力者として手を借りているだけの状態だ。これも他の巡査達の知るところではないが、任務遂行の必要上、便宜的に巡査の一階級上である警部補と同等の権限が与えられているに過ぎない。ゆえに、どれほど功績があろうと昇進することは絶対にないのだという。なればこそ、霧生は蒼木に対し、警部補扱いと言ったのだ。


蒼木は霧生を突き放すと踵を返し、肩越しに一瞥する。

「我が輩のような者が上司面しているのが気に入らないのであれば、妖の手を借りる必要がない程、抜鍼隊を強くするがいい。なれるものならな。話はそれからだ」

 苦々しい顔つきで、霧生は乱れた襟元を直す。

そして先を行く蒼木の後に続いて歩き出した。

 県警本部に戻り、今日の分の報告書を提出するまでは帰宅が許されない。

 面倒な事務仕事が待っているかと考えるだけで、憂鬱な気分になる。

頭の中で報告書の草案を考えながら鳥居をくぐると、こちらに背を向けたまま蒼木が立ち尽くしていた。

「蒼木警部補、本部に戻らないのですか?」

 どこか投げやりに言葉を投げかける霧生。

 その声に振り返った蒼木は、冷ややかな目線を霧生に向け、前方を見ろと指差した。

「貴様、この程度の仕事も満足に出来ないのか」

 嫌な予感を覚えた霧生は、恐る恐る蒼木の示す先に目線を向ける。

 そこには五歳程度の子供――と同じ背丈の鬼がいた。

 鬼、と言ってもその容姿は、日本人の多くが想像するであろう、古来より語り継がれてきた、角を生やし金棒を持つそれではない。

 星明かりの下でもはっきりと判る、赤くぎらついた眼。頭がやたらと大きく、それと釣り合わない細身の身体。指には禍々しさを感じさせるほどに歪に伸びた爪。耳の先端は尖り、その背には蝙蝠のような羽が生えている。

 鬼は犬を思わせる仕草で地面に座り、まとわりつくような視線を二人に向けて、時折奇声を発する。

「インプ……! 馬鹿な、さっき始末したのに!」

「通報では確かに一匹であった。だが、だからといって他にも居ないとは限らん。通報者が見かけたのが一匹だった、それだけのこと。うつけ者が」

 霧生は反論が出来なかった。事実、鬼を一匹見たという通報から、先入観で複数いるかもしれないという可能性を失念していたからだ。

 そんなことにも気付かず、一匹を取り締まっただけで仕事を終えたと寛いでいた己の浅はかさに、苛立ちを覚える。

「我が輩は先に戻る。この程度、一人前であるどこかの巡査であれば容易かろうからな」

 蒼木は皮肉げに言い放つと、インプの脇を抜け、その場を立ち去ろうとする。

が、それをそのまま見逃すインプではない。

 羽根を羽ばたかせ、金切り声を上げて蒼木を威嚇する。

 しかし。

「……下がれ」

 インプに向けられた、蒼木の静かだが重くのしかかる声と、寒気立ち突き刺すような視線。

 蒼木は怯むどころか、たった一声でインプを萎縮させ、後退らせる。

 そして、面白くも無さそうにそのまま夜の闇の中へと消えていく。

 蒼木の姿が見えなくなると、インプは霧生を振り返り先程よりも激しく耳障りな声を上げ始めた。

「うるせぇ! ……ったく、やってやろうじゃねぇか糞アオが」

 蒼木が消えていった方向に雑言を吐くと、霧生は腰の剣を抜いた。

 その剣はやはりサーベルではなく、刃すらついていなかった。柄から伸びる剣身は細長く円錐状で、長さこそはサーベルと変わらぬものの、形状は西洋のスティレットという刺突専用武器に似ている。大きな針に護拳を付けた物と言ってもいい。

「こちとらまだ報告書が残っているんだ。ちゃっちゃと終わらせるぜ」

 切っ先を向けると同時に、インプは宙に舞い、霧生めがけて襲いかかって来る。

 牙をむき出しにし首下狙って飛来するインプを、片足を軸にして回転し、なんなくかわす。

 勢い余って通り過ぎるインプ。

 霧生はインプが体勢を立て直す前に、その背後から剣を突き出す。

 慌てて振り返ろうとするインプの横腹を霧生の剣が貫く――かのように見えた。

 確かに見た目はインプの身体を貫いているものの、手応えが全くない。空気を相手にしているかのようである。

 当のインプも、まったく障り無いように見える。

「ちっ、外したか。ちょろちょろ動くんじゃねぇ!」

 後ろへと飛び退いて距離を稼ぎ、構え直す霧生。

 宙に静止しているインプは頭を巡らしながら奇声を発すると、再び飛びかかってくる。

 不動のまま、霧生は迫り来るインプを見据え、何かを見極める。

 そしてインプが間合いに入った瞬間。

「鳩尾!」

 突き出した剣先がインプのみぞおちを捉え、貫いた。

 霧生の手に伝わる確かな手応え。

 先程とは異なり、苦悶の声を上げ、剣に貫かれたままもがくインプ。

 だが間もなくして、断末魔と共にインプの身体は元から何も存在していなかったかのように霧散し、消滅した。

 代わりに、先程まではいなかったはずの、見たこともない犬が霧生の足下に横たわっている。

 剣を収め、膝を折って犬の身体に触れてみる。

 体温は急速に失われていき、この犬の生が今終わろうとしていることが霧生には分かった。

「魄気をインプの魂気に使い果たされたか……」

 霧生は骸となった犬に、手刀を捧げた。


 年号が明治となってからはや三十年余。

 西欧や亜米利加から多くの文化、技術、物が日本へと輸入されてきた。

 都市の夜道はガス灯に照らされ、海には遙か遠い国と日本を繋ぐ汽船が往来し、国内の移動時間を大きく短縮した蒸気機関車は、江戸の頃までは遠かった町を身近なものへと変えた。

 各分野で急速に成長した日本は、瞬く間に西洋列強諸国と比肩するに至る。

 目覚ましく豊かになった日本。

 しかし、あまりにも急激な変化は、人々が知らないところで歪みも生み出していた。

 物事なんでも良い面があれば、悪い面も存在する。

 後者。それが『邪気』である。

 『気』とは万物に宿る物であり、例えば人の精神を司る気を特に『魂気』、肉体を司る気を『魄気』と呼ぶ。また、陰陽五行論により気は様々な系統に大別することが出来る。

 そのように種類はあれど、総じて言える事。それは人間を始めとする生物、草木などの植物、踏みしめている大地に至るまで、それぞれに宿る気が互いに調和することによって、世界が成り立っていることだ。

 その調和が乱すもの。それが『邪気』である。

 二百五十年以上続いた江戸幕府の時代。太平の世は気の乱れも少なく、邪気が生じるようなことも、また外から入り込むことも少なかった。

 ところが、めまぐるしく変貌を遂げていく明治の世では、気は安定する暇もなく乱れが生じる。気の乱れは歪み、変質し、いつしか調和と無縁の邪気を生み出すこととなる。また、外部からの邪気の侵入をも容易くしてしまった。

 人が余り無理をすると、病に伏せてしまうのも同じ理屈である。

 多くの邪気は自然と消えてしまうものだが、淘汰から残り、熟した邪気は次第に更なる変質を遂げ、魂気を有するようになり、意志を持ち始める。

 そうした邪気を、霧生達は特に『邪鬼』と呼ぶ。

 これとはまた別に、付喪神とよばれる年を経た物や生物の気が変質して妖怪化したもの、また、調和の取れた澄んだ気が長い年月の間に次第に魂気となり意志を持って、いわゆる『神』と呼ばれる存在に昇華される例も存在する。

 その中でも人に害を為すものは、霧生達は便宜上、邪鬼に含んでいる。

 そして肉体を持たない邪気は、時折人間や動物の『魄気』を奪い、利用して己が肉体を得ようとする。

先程のインプもその一例だ。

インプは以前には国内での目撃例が皆無であったが、開国以降、徐々に報告されるようになった。また、異国の記録に過去目撃例があるとのことから、西欧より入り込んだ邪鬼と断定。異国の記録名に倣い、同様の姿の邪鬼をインプと呼んでいる。

 魂気と魄気であるが、これらは調和しなければ正常な生命個体として成立することができない。元々異質な存在である邪鬼はほとんどの事例において生物と調和することが不可能なため、魄気は安定することが出来ず、寄生された肉体は、次第に病魔に冒される如く崩壊していくこととなる。そうして一度崩壊した魄気は失われ、二度と元に戻らない。故に、長時間魄気を邪鬼に使われた元の個体は、正常な肉体の営みを維持することが出来ずに死に至ることとなる。

 維新から年を経るごとに、港町を中心に邪鬼絡みの目撃、変死事件が増加。

一般的には半分迷信とされていた『化け物』『妖怪』の存在がまことしやかに噂されるようになり、人々の間に不安が広がった。

政府もこの事態を看過することは出来ず、警察組織の中に対策部署を設ける。

それが霧生と蒼木が所属する、神奈川県警抜鍼隊であった。

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