マリア・フリオンの場合 その3
脂の匂いがする。いや、臭いがする、と言うべきか。
オイルなんて上等な言葉じゃない。オイルだとオリーブオイルとか、さらっさらな油を思い浮かべてしまう。これは違う。脂だ。ぎとっぎとの脂だ。それもよく肥えた豚の。
だが、それがいい。食欲を大いに刺激してくれて、自分がいま生きていると実感できる。生の喜びをダイレクトに魂で受け止められる脂の匂いだ。
マリアの腹がぐうと鳴った。そして気付く。ここはどこだ？
つい今しがたまで真っ白い部屋でカウンター越しに赤眼鏡に黒ずくめの女と何か大事な話をしていたはずが、マリアは薄ら寒い屋外に立ち尽くしていた。見れば、同じように立ちすくむ男達が何人もいる。お互いに言葉を交わす事もなく、皆黙りこくり、まるで空腹を耐えている奴隷のように見える。ただじっと動かず、これ以上腹が空かないようにと。
「お腹を空かせた奴隷みたいって思ったでしょ」
はっとしてマリアが振り返る。そこにはノーラがいた。赤眼鏡が薄暗い景色によく映えている。
「彼らはみんな魂を奪われた奴隷よ。そして、私達もね」
これは何らかの行列なのか、店舗とおぼしき建物の扉がスライドして開き、何人かの男達がゾロゾロと出てきて、代わりに並んでいた奴隷達が店内に消えて行った。
「あたしも、奴隷なの？」
騎士であったこのあたしが？ 名門フリオン家の出身であるこのあたしが、奴隷に？ 実はあの真っ白い部屋は奴隷売買の場だったのではないのか。マリアはノーラを睨み付けた。この女に騙されて奴隷として売られたのか？
「人は皆、何かしらに囚われた奴隷よ。例外はないわ」
ノーラが寂しそうに言う。明るい色合いのシャツに真っ赤なネクタイを締め、裾の短いジーンズに脚を通している。カウンターに座っていた時よりもかなりラフな格好だ。いつの間にかマリア自身もノーラのような楽な服装に変わっていた。さっきまでの天使のような死者の装いではない。天使の輪っかも見当たらない。
「ほら、迷わず進みなさい。答えはそこにあるから」
ノーラが先へ進むよう促す。マリアの前に並んでいた男の姿はすでになく、スライド式のドアがマリアを飲み込もうと口を開けて待っていた。
このまま立ち尽くしていても埒が明かない。マリアはえいやっと店内に踊り込んだ。
その途端に脂の匂いがさらに濃厚なものになり、空気ですら脂を含んでいるように思えた。床も例に漏れず脂まみれのようで、一歩踏み込むごとに小さくキュッと音を立てて滑る。そんなぬらぬらとした狭い店内に男達が詰め込まれるように座り、ズルズルと音を立てて何かを吸っていた。
「うっわ」
思わずマリアは声を上げてしまった。そのか細い声に反応して、店内の男達が一斉にマリアの方に振り返る。そしてみんながみんな文字通り目を丸くしてマリアを凝視した。
ああ、そんな目で見ないで。
そんな飢えた野犬がか弱いウサギを見るような目で見られたら、あたし、あたし、あなた達を叩き切ってしまう。マリアは無意識にファイティングポーズを取った。
「そりゃあ、容姿端麗金髪碧眼白人美女なんて属性持ちがこんな店に来たらそうなるわ」
ノーラがマリアの戦闘体制を無理矢理解いて、慣れた手付きで券売機にお札をねじ込む。
「ほら、マリアさん。空いてる席にとっとと座るの」
「えっ、あ、はい」
空いてる席に、と言われてもすぐ手前の二つの椅子しか空いていない。マリアとノーラのちょうど二人分だ。
ここは、奴隷達の食堂だろうか。男達はみんなマリアをじいっと見つめながら、食事を進める手と口の動きを止めようとはしなかった。
マリアがおずおずと椅子に座ると、ちょうどその隣に座る男の注文したものが出来上がったのか、ごとんと重そうな音を立てて器がカウンターに置かれた。
「うっわ」
また声が出てしまった。
これは、食べ物なのか？ それとも、湧き上がる人の無限の欲望を表現したオブジェ？ マリアの顔がすっぽりと入ってしまいそうな器になみなみと濁ったスープが満たされ、ちらりとパスタのようなものが沈んでいるのが見える。その上に手で引き千切ったかのような分厚い肉片がびっしりと敷き詰められ、炒められた野菜の切れ端が山を成していた。
脂の匂いの正体はこいつか。マリアは圧倒された。こんなに分厚い肉なんて、生まれて初めて見る。
ふと、隣に座る男と目が合った。
「えへへ、お先に」
相当に身体の大きなその男は、にやあっとしてからマリアに軽く頭を下げ、丸々とした両手で愛おしそうにどんぶりを包み込んで引き寄せて、見ろ、これが漢の食いっぷりだっ、と言わんばかりに割り箸をしんなりした野菜の山に突き刺し、勇猛果敢に山の切り崩しにかかった。
それにしても、でかい男だな。なるほど、これがオークとヒトのハーフとか言う奴だな。この豚のような食いっぷりは間違いなくオークのそれだ。マリアはほんのちょっと身体をこのハーフオークから離した。
「ねえ、ノーラ」
マリアがノーラにそっと耳打ちする。
「このオーク、なんであたしに頭を下げたの？」
「さあ。マナーがいいんじゃない？ って、オーク？」
ノーラはぎょっとして隣の男を覗き見て、すぐ納得した。なるほど、オークだ。
「それと、ねえ、ノーラ。あたしもあれ食べたい」
「マジで？」
ノーラはもう一度隣のオークを覗き見た。むさぼる、と言う単語がこれほど似合う生き物は初めてだ。しかし、いきなりあれに挑むのはいささか無謀に思える。
「あの量見て普通は怯むよ。そのウエストで食べられるの？」
貧乏女騎士はよほど食糧事情が厳しかったのか、それとも鍛えに鍛えた腹筋の賜物か、かなり細い身体つきをしていた。ノーラが羨ましく思ってしまうくらいだ。
「あれに挑まなければ、あたし、きっと後悔する」
「女騎士さんっぽいかっこいい台詞だけど、ラーメンに対して言う台詞じゃないわよ」
「お願い。食べたいの」
マリアの澄み切った青い瞳に真っ直ぐに見つめられて、ノーラは言葉を失った。命を賭けて挑戦する覚悟を決めた者に、いったいどんな言葉がかけられようか。
「もう、どうなっても私は知らないよ」
「ありがとう、ノーラ」
二人の意味深な寸劇が終わったのを見計らって、店員がノーラに注文を聞いた。
「私は、麺半分のアブラ少し、カラメ。で、この子が」
ノーラの後をマリアが継ぐ。
「これと同じのをちょうだい」
隣のオークが食べているどんぶりをびしっと指差す。
店内にざわっと一陣の風が巻き起こった。マリアの金髪が舞い上がり、青い瞳がキラリと輝く。
「あれって、ヤサイアブラマシマシカラメだぞ」
「おい、マジかよ、あの外人ねーちゃん」
「意味解って言ってんのか？」
店内のざわつきが収まらない中、狼狽した店員はこの外国人の保護者であろうお団子ヘアに赤眼鏡の女へ視線を送った。って、こっちも外国人かよ。
ノーラはゆっくりと頷いた。
「構わないわ。やってちょうだい」
やや待って、そしてごとりとマリアの前にかなり重量があるどんぶりが置かれた。さっきオークが食べていたのと寸分違わぬ盛りっぷりだ。分厚い肉がとろりと脂を滴らせてマリアを挑発する。
「あたしはマリア・フリオン。フリオン家の名誉にかけて、いただきます」
まずは肉からだ、肉。マリアは大きく口を開けて肉の塊に噛み付いた。
肉がとろける。とろけるお肉。肉が一瞬にして脂となって喉を流れていく。それでもまだ口の中に残る肉片が脂と旨味を溢れさせている。一口目でこれか。まだまだあんなにあるってのに、一口目でこれか！
こんなお肉が、この世にあったなんて！
「はい、体験版終了ー」
マリアは唐突に現実へと引き戻された。いや、今さっきまでのラーメンを無心に啜っていた時こそが現実で、この真っ白い転生ハローワークとやらこそが幻想なのではないか。
「ふう、美味しかったね。私はあれでもうお腹いっぱい。よく食べ切ったわねー、マリアさん」
ノーラがスーツの上からお腹をさする。マリアはとろんとした青い瞳でうっとりと答えた。
「あんな食べ物がこの世にあるなんて」
「異世界の食べ物ってどれも魅力的だからね。さて、どうしようか？」
「何が？」
マリアは惚けたように聞き直した。ノーラはにっこりと微笑んで、デスクの引き出しから小さな金色のトンカチを取り出した。
「転生よ、転生。21世紀現代日本で新しく生きてみる？」
マリアは迷わなかった。
「ええ。もちろん」
「はい、けっこう。では、転生ー！」
きーん、と天使の輪っかが澄んだ金属音を奏でた。
そうして、端本まりあは生を受けた。再びあのラーメンを食べるために。
