宮原宗馬の場合 その1
端本まりあが失踪した事自体は大した問題ではない。
端本まりあがいなくなった事により仕事が進められず、納期に間に合わない事が問題なのだ。
かと言って、今回のプロジェクトにおけるまりあの役割は非常に重要であり、彼女の代わりが勤まる人材を今から見つけるのも至難の技だ。最悪、プロジェクトの中止も視野に入れなくてはならない。
がらんとした誰もいないオフィスで、宮原宗馬は脳裏によぎるその最悪の事態を振り払うかのように頭を振り、深く溜息をついて、オフィスの壁にかかった小さなデジタル時計を睨み付けた。仕事中は時間を見る必要がないので腕時計は外している。
時刻は11:15を示していた。AMではない。PMだ。よし、終電までもうひと仕事できるな。
ナチュラルにそう考えてしまい、宗馬は自分で自分につっこみを入れた。
「だから! 今日は定時で上がれって言ってんだろ!」
何を終電時間から逆算して片付けられる仕事はないかって考えてるんだか。とにかく今は仕事どころじゃない。帰って寝ろ。もう何時間寝ていない? それどころか何時間マンションに帰っていない? このシャツに袖を通して何日目だ? いや、そもそも端本まりあがいなくなってから何日経ったんだ?
窓から見える向かいのビルはすでにすべてのフロアの灯りが落ちていて、宗馬の頭上のLED蛍光灯だけがいやに煌々と明かりを振りまいていた。窓ガラスにメタルフレームの眼鏡をかけたやつれた男がぽつんと一人で映っている。
まりあのアパートは鍵がかけられたままだった。何度電話かけても繋がらず、実家へ連絡を入れてもまりあの両親も彼女の失踪に心当たりはないらしく、失踪発覚から24時間後に警察へ捜索願いを提出した。
当初は、納期に追われる毎日に嫌になって逃げ出したんだろう、すぐにけろっとした顔で帰って来るだろうと思われた。
PC用MMORPG『ブリリアント・ストーリーズ・オンライン』の大型アップデート『ゴッド・スピード・エピソード』はまさに社運をかけたプロジェクトだ。このアップデートが成功したあかつきには、家庭用据置ゲーム機版パッケージ販売や、スマホアプリ版の開発など、とにかく大きな仕事が目白押しなのだ。そのメイングラフィックデザインを担当していたまりあが突然姿を消してしまった。
今更すべての絵を描き直す訳にもいかない。それにまりあの優れたスペックはデザイン面だけではなく、中世ファンタジーの騎士団や庶民の生活ぶりなど、その知識量は歴史研究の専門家レベルに達するものだった。ゲームのバックボーンデザインもまりあの手によるものであり、ゲーム開発に欠かせない存在だったのだ。
『ゴッド・スピード・エピソード』プロジェクトリーダー兼メインシステムエンジニアの宗馬はもう何日も自宅には帰らず、警察からの情報を待ち、まりあ抜きでどこまでゲームが成立するか、そしてまりあが帰ってきた時に速攻で仕事復帰出来るようにとゲーム開発を一人で進めていた。
販売元の大手ゲームメーカーに、まさかスタッフ失踪のために開発が中断しているだなんて言える訳もなく、まさに宗馬が所属する下請けゲーム開発会社は吹き飛んでしまいそうな事態だ。
いったいどうすればいいんだ?
そんなの決まってる。寝る間も惜しんで働けばいい。
壁の時計を見る。11時20分だ。夜の。よし、終電までまだひと仕事できるな。
いやいや、待て待て、そうじゃないだろ。
いったい何日間、こうして誰もいなくなったオフィスでキーボードを叩いているか、宗馬自身も解らなくなっていた。
と、それは不意にやって来た。
宗馬は急に胸の奥に鈍い痛みを感じ取った。それはすぐにギリギリと締め付けるような鋭い痛みへと変化し、身体が内側に折り畳まれるような筋肉の収縮が始まった。
冷たい汗が噴き出る。指先が氷のように冷たくなっていく。呼吸すらままならない。宗馬は身体を硬直させたまま前のめりになって顔面から倒れ込んだ。
何だ、これは。心臓が、動いて、いない、のか?
締め付ける胸の痛み、身体が縮こまる苦しみが、宗馬の視界を白く染める。何もかもが白いヴェールの向こう側に消え失せて行くようで、そして徐々に冷たくなる身体が床に沈むように重く感じ、ああ、自分が消えてなくなる、と思ったら、宗馬の視界を覆い尽くしていた白いヴェールがはらりと跳ね除けられて、どこか病的なほどに真っ白い待合席に座っている自分に気が付いた。
「なん、だと?」
あれだけ苦しかった胸もまるで何事もなかったかのようにすこぶる快調で、むしろどこか開放感にも似た暖かさに溢れかえっているぐらいだ。
この白い待合室のベンチシートに座っているのは自分だけではないようだ。宗馬は周囲の様子を伺った。五人ほどの人間が真っ白い患者着のような物を羽織り、ぼんやりと上を向いて座っている。
上に何かあるのか?
宗馬もそれに倣って頭上を見てみると、そこには柔らかく光る輪っかが一本浮かんでいた。どう見ても、宗馬の頭上に輝く天使の輪っかだ。
「これは何の冗談だ。ん、待て、今何時だ?」
終電まであと何分ある? 宗馬は白い待合室で時計を探したが、そこにはそれらしきものはなかった。自分の腕にも時計は着けられていない。
「はい、666番のお客様ー!」
不意にややかすれた甲高い声が待合室に響いた。声のする方を見ると、一切の無駄を排除したようなシンプルなカウンターがあり、何人かのスーツ姿の人間がそれぞれ手許の書類に何やら書き込んだり、ディスプレイを睨むようにしてキーボードに指を踊らせていたり、事務処理的な仕事をしている光景があった。
そのスーツ達のうちの一人、赤い眼鏡と赤いネクタイが印象的ないかにも職員風のお団子ヘアの女性が宗馬をじっと見ている。
ピンポーンと玄関チャイムに似た柔らかい音を立てて頭上の輪っかが点滅し、その輪っかの真ん中に666と数字が並んで見えた。自分が呼ばれたのか?
何にしろ、このままぼうっと天使の輪っかを見ていても事は進展しない。動かなければ。
宗馬はすっくと立ち上がり、赤眼鏡の女性職員が思わず怯むほどの堂々とした態度で勢い良くカウンターに歩み寄り、先制攻撃と言わんばかりに切り出した。
「すまないが、状況説明を頼む。今、かなり忙しいんだ」
「忙しい死者なんて初めて見るわ」
ノーラが切って返した。
「失礼、今、何て言った?」
この職員風の女の言葉に、一つ非常に気になるキーワードがあった。聞き慣れない単語のくせに、一度耳にしたら心にグサリと突き刺さって二度と抜けないような単語だ。宗馬はカウンターに乗りかかるような体制でノーラに食ってかかる。
「忙しい、死者、なんて、初めて、見るわ」
ノーラはご丁寧にも一字一句区切ってゆっくりはっきり言ってやった。
死者。死者、だと? 自分は、死んだのか。
「よし、わかった。で、どうすれば帰れる?」
「わかってないじゃん!」
「いや、理解したさ。その上で聞いているんだ。どうすれば戻れるんだ? こんなとこでグダグダやってる暇はないんだ」
ぐいとさらに詰め寄る宗馬。その接近した分だけ仰け反るノーラ。
「ちょ、ちょっと待って。物事にはスタイルってのがあるの。いったん私のスタイルを貫かせて。いい?」
「手短にだ」
まずい。完全にこいつのペースだ。主導権を取り戻さないと。ノーラはふうと一呼吸置いて、いつもの自分のスタイルを思い出して実行した。
「ようこそ、転生ハローワークへ。来世に期待をアイキャンフライ。私、ノーラ・カリンがあなたの転生を担当させていただ」
「ハローワークに用はない。自分は仕事中なんだ。もう帰るぞ」
「聞いてよ!」
お団子ヘアを揺らしてピシャリと言ってやる。こんなタイプは初めてだ。ノーラはコツコツとデスクを小突いて宗馬に強い口調で告げた。
「あんた死んだの! もう仕事しなくてもいいの! これから転生して、来世でどんな楽しい人生を送るか、ここはそんなことを話し合う場所なのよ」
宗馬はメタルフレームを中指でたんっと上げてノーラに返した。
「アイキャンフライって何だ?」
「あんたも時間差ですか? ええ、そうですよ、キャッチコピーですよ! もう、転生するの? しないの?」
「けっこうだ。幽霊でも構わないからとにかく仕事に戻らせてくれ。納期が迫っているんだ」
こいつ、仕事の鬼か。ノーラは溜息を漏らした。ここんとこ面倒な客ばっか来るわ。