鳥根高史の場合 その1
鳥根高史は死んだ。
中学校にあがるまで、彼の人生にはこれっぽっちのひずみも見られなかった。夏休みの突き抜けた青空のように、曇りなく澄み切った少年時代だった。これから先も順風満帆な人生が待っている、と高史自身も思い込んでいた。
しかし、それは間違いだった。
同級生達よりもほんのちょっと出来が良かっただけで、周囲にもてはやされ、自分は持っている人間なんだと何ら根拠もない自信のみを武器にして、彼本来のスペックよりはるかに高いレベルの高校を受験し、当たり前のように不合格を食らい、人生の転落が始まった。
その奈落へと続く石だらけの坂道をいったん転がり始めれば、後はもう加速に加速を加えて一直線に落ちていくだけだった。ひたすら堕ちていくだけだ。
俺はいったい何をしてきたんだろう。何のために生きてきたんだろう。
そんな答えの見つからない問いかけが頭によぎったのは、最期に一花咲かせようと、動画投稿サイトへ東尋坊ダイブを実況生中継するために福井行きの電車に乗ろうと向かった最寄り駅の一歩手前で信号無視のトラックに轢かれる寸前だった。
あ、これ死ぬんじゃね?
高史は思った。駆け抜ける走馬灯とか、宙に浮いた状態で上から自分自身を眺めるとか、死の瞬間とはそんな幻想的で非現実的なものではない。迫り来る死はただただリアルなんだ、と。そして、トラックでけえ、と。
トラックのバンパーが身体にぶち当たり、痛みを感じる間もなく弾き飛ばされたのが解った。それだけだった。理解できたのはそこまでで、次の瞬間には強い衝撃に頭を揺さぶられ、視界が真っ白く塗りつぶされ、ふわっと暖かさすら感じるほどの柔らかい風に頬を撫でられて、やたら堅くて座り心地の悪いベンチに腰を下ろして、おとなしく順番待ちをしている自分がいた。
「えっ」
ここは何かの待合室か。無機質で淡く光るような真っ白い壁に囲まれた空間は、どこか役場的な雰囲気に満ちていた。
カウンターのようなテーブルは簡易的な仕切りで区切られて、そのボックス席一つ一つにいかにも職員的なスーツとネクタイを身に付けた人間が座っていて、それぞれ何やら書類の束をめくっていたり、キーボードを叩いてパソコンに打ち込んだりしている。
そんな事務所的な雑音がやけに耳に心地いい。高史は真っ白い部屋の待合席に良い気持ちで座っていた。トラックに轢かれたことなんて、遠い日の夢みたいにもう思い出せない。
周囲を見れば、自分と同じように白い患者着みたいなものを羽織った人達が、あまり広いとは言えない待合室にポツポツと離れて座っている。みんなぼんやりとやや上を眺めるような格好で席につき、お互い喋ることもせずにただ黙って何かを待っているようだ。そして何より特徴的なのは、頭の上に光る輪っかが浮いていることだ。それはまさしく天使の輪のようであり、もちろん高史の頭上にも鈍く光る輪があった。
やっぱり、俺は死んだのか。
あっけなく人生は幕を下ろしたな。高史はため息を一つ漏らした。それにしても、この部屋の雰囲気はなんだ?
高史はふと気付いた。この光景には見覚えがある。ハローワークだ。一回だけ行ったことがあるが、あの何とも末期的な解放感がこの場の雰囲気にそっくりだ。
「298番のお客様ぁ!」
と、カウンターにいた一人の女性職員がやけに甲高いアニメ声を張り上げた。それに応じるかのように高史の頭の上の光る輪っかがピンポーンと点滅した。
なんだこれ? そういうシステムなのか?
「298番のぉ! お客様ぁ!」
頭上を見上げてみれば、点滅して光る輪っかの中心に数字が浮かんで見えた。298番と書いてある。俺か? 俺の番か? って、何の順番だ?
「天使の輪ってこんな機能があんのかよ」
「ほら、そこの光った人。呼ばれたらさっさと来るの」
ハスキーで甲高いアニメ声のする方を見ると、栗色の髪を頭の天辺でお団子にした細身の女性職員が高史を手招きしていた。鮮やかな赤色の四角いセルフレームの眼鏡がキラリと光を放つ。
「あっ、は、はい」
その高圧的な態度に思わず従属的な態度を取ってしまう高史。
「転生ハローワークへようこそ!」
栗色のお団子ヘアがペコリと頭を下げた。眼鏡に負けないくらい紅いネクタイがデスクに垂れ下がる。
「ちょっと失礼しまーす」
呼ばれるがまま、ギシッと安っぽい音を立てる椅子に座った高史に赤眼鏡の女性職員は赤ネクタイをさっと跳ね上げて、コンビニのレジにあるバーコードリーダーような機械を取り出して高史の天使の輪へ当てた。ピピッと読み取り音が鳴り響く。
「シマネタカシさん、いや、元シマネタカシさんですね」
「ずいぶん多機能だな、この天使の輪」
赤眼鏡の奥からジロリ、高史を睨む女性職員。
「あなたの未来を鷲掴み。はじめまして。元シマネタカシさんの転生手続きを担当させていただきますノーラ・カリンと申します」
社交辞令的に形だけ頭を下げたようなノーラを見て、高史は彼女には天使の輪っかが浮いていないことに気付いた。職員はどうやら別扱いのようだ。
「まずはじめに、おめでとうございます! 元シマネタカシさんは見事に転生の権利を引き当てました」
「て、転生! と、その前に、一ついいですか?」
「何か?」
「シマネ、じゃなくて、トリネです。トリネタカシです」
ノーラはきっちり3回大きく瞬きをして、慌てて手元のタブレット端末に顔を近付けて眼鏡を上下させてピント調整をした。
「シマネだかトットリだかはっきりしろよ」
ギリギリ聞こえるような小声でボソッとつぶやくノーラ。
「あんた島根と鳥取の両県民を敵に回したぞ」
「えー、コホン。元トリネタカシさん。この度は死亡ガチャSSランクレア当選おめでとうございます」
高史のつっこみも華麗にスルーして、ノーラは何事もなかったかのように続けた。なかなかの鋼の心臓っぷりだ。
「それと、あなたの未来を鷲掴み、って何?」
「時間差でつっこまないで」
「聞き流した方が良かったですか?」
「私のキャッチコピーです。先進める? キャッチコピーの説明する?」
ジロリ、赤眼鏡の向こうからノーラが睨む。
「まあともかく、転生って、つまり、転生だ。やり直しだな。強くてニューゲームだな。異世界転生だな!」
未だ自分に訪れた「死」に実感は沸かないが、転生というとびきり魅惑的なキーワードが高史のハートを確かに鷲掴みした。
「中世ファンタジーの剣と魔法の世界へチート転生なんだな!」
高史がノーラにがぶり寄る。
「チートって何ですか?」
「当然モテモテのウハウハのハーレム展開が待ってるんだろ!」
「ハーレム展開って、あなたは鏡ってアイテム知ってますか?」
「いやいや、今、俺閃いた。閃いちゃった。マックだよ、マック。関西風に言えばマクド? 異世界でマクドナルドを開くんだよ!」
「ハンバーガー屋さんを経営するんですか? ファンタジー世界とやらで。その下卑たスマイルいくらです?」
「ビジネスモデルとしてすでに確立済みだし、肉だってそこらのモンスターを狩ればタダで手に入るだろ。料理スキルさえチートすればずっと俺のターンだ!」
「だからチートって何よ? むしろあんたの人生がターン制ってとこにびっくりしたわ」
「いいから気持ち良く語らせてくれよっ!」
相手の側頭部を狙うような言葉のキャッチボールを続けていた高史とノーラだが、ついに高史が折れてしまった。
「ほとんど努力したこともなく、経験や実績もないくせにあなたにはそれができるとでも言いたげですね」
徐々に興奮が高まり鼻息が荒くなる高史に対して、ノーラは冷ややかな目付きで極めて事務的な口調で静かに言った。
「元トリネタカシの課金貢献度は余りに低く、かつ、人生プレイ実績解除もほとんどなされていない状態でありますし、転生先は非常に限られた範囲となります」
「いまさらっと呼び捨てにしたろ」
「つっこみ所が違うと思いますよ」
一瞬睨み合う高史とノーラ。高史はノーラの手元のタブレット端末が気になり、カウンター越しに覗き込むように身を乗り出した。しかしノーラはタブレット端末を胸に抱くようにして身をよじり、ピシャリと強い口調で言った。
「人生は十四歳まで基本プレイ無料です。マイキャラクターの育て方次第でどんどん可能性を伸ばすことができます。しかし元タカシはぬるま湯のような現状に甘んじて成長することを怠りました」
高史はノーラの氷柱のような冷徹な言葉にグサリと心を刺し貫かれた気がした。思い切り心当たりがある。中学生まで、まともに頑張った項目が挙げられない自分がいる。
「十五歳から課金制が始まります。課金次第でどんどん成長し、またマイキャラクターの努力次第でゲーム内マネーを獲得するチャンスは増え、結果として課金貢献度も上がるはずでした」
高史にとって耳に痛い話だ。引きこもり中はよくパソコンの人気MMORPG『ブリリアント・ストーリーズ・オンライン』で有り余る時間を潰していたが、働いていないので課金する金もなく、当然のように湯水を使うごとくジャブジャブ課金しまくるプレイヤー達との格差は到底埋められないものだった。
「ですが元タカシは底辺高校入学という課金を最後に、イジメを理由に不登校になり、引きこもりを経てニートへとクラスチェンジを果たしました。当然非課金ですね。言わば逆理想的なマイナス成長をしました」
「全部、山田中が悪いんじゃねえか」
高史はあの頃を思い出し、拳を握り締めた。難易度の高い高校受験に失敗し、行きたくもない底辺高校で受けたいじめの数々。すべてのきっかけは、山田中幸輔という一人の同級生の悪戯だ。
「ヤマダナカ? 山田なのか田中なのかはっきりしてください」
「そうだ、そいつだよ。ヤマダなのかタナカなのかすらわからねえ奴に、口を開けば『マジヤベぇ』しか言えねえ奴に、俺の人生は狂わされたんだ」
ノーラはタブレット端末を指でなぞり、高史の人生プレイ履歴からヤマダナカの項目を探した。
「ああ、ありました。元タカシへのイジメの主犯格ですね。これなら一発ぶん殴ってやればあっさり立場が逆転した雑魚キャラですよ。今更言うのも何ですが」
「ザコ、キャラ?」
ノーラはタブレット端末を操作しながらさらに続ける。
「なるほどなるほど。ザコキャラの中のザコキャラですが、元タカシの人生においては超重要キャラですね。詳しくは人生のネタバレになるから言えませんが」
「ネタバレって何だよ、ネタバレって」
「いいから。元タカシは不登校と言う逃避を選択しましたね。努力して戦うと言う選択で、未来はずいぶん違ったものになったかもしれません」
「戦うって、ほんと、今更言うなよ」
「ちなみに現状のヤマダナカコウスケさんはそれから努力を重ねて、それなりの職に就いて、結婚もしてもうすぐ第一子が産まれそうですね」
「聞きたくねえよ」
「あ、そう」
ノーラはきっぱりと切って捨てるように言い、タブレット端末を操作して元タカシ情報を読み上げた。
「元タカシの人生プレイ実績の確認ですが、ほとんど解除項目がありません。就職も、結婚、出産も未解除のまま。ニートとして社会的貢献度がゼロどころかマイナスです」
「社会的貢献度って、何をすればよかったんだよ?」
「ショッピング一つしても、労働で稼いだお金を社会へ還元する運動と言えますね。ちょっといい洋服を着てお洒落することも、対人初対面印象値を上げるだけじゃなく、課金による社会的貢献度が増す立派なレベル上げ行為です。お母様が買ってくれた服以外着たことありますか?」
「外に出る必要ないんだ。服なんてなんでもいいだろ」
「あ、そう。他に、例えばバレンタインデーにチョコレートをもらうことも、経済効果という観点からすれば社会貢献と呼べます。二十歳過ぎてから、お母様以外からチョコレートをもらった実績がありますか?」
「妹が床に落ちたラムレーズンをくれたよ」
「床に落ちた時点でそれは廃棄物です」
ノーラはタブレット端末のカバーをパタンと閉じて、高史に真っ直ぐに向き直った。
「元タカシに伺います。ずっと引きこもり、ニートへとクラスチェンジした未成長のキャラで、人生と言うハードモードのゲームをクリアできると思いますか?」
高史は答えられないでいた。ノーラの一言一言が鈍器と化して、心をボコボコに殴られている気分がした。
「何の努力もせずにただ死んだだけで転生と言うビッグチャンスが与えられるなんて、まともに頑張って生きてきた人達にとってこんな不公平があると思いますか?」
「それじゃあ、そんな俺は何に転生できるんだ?」
ようやく絞り出した言葉に、ノーラは冷たく感情のこもっていない言葉で返した。
「マンボウです」
「……マンボウ?」
「ええ。マンボウ。せっかく死亡ガチャでラッキーにもSSレアを引き当てて転生のチャンスを得たんです。この際、人生のボーナスステージのような海の生活を楽しんでみてはいかがですか?」
ノーラの声に優しさが含まれているのに高史は気付いた。憐れみでも同情でもない、暖かい真心がノーラの赤眼鏡の向こうにある青い瞳に浮かんでいた。
「人生のボーナスステージ、か」
「転生、しますか? それとも、やめてこのまま消滅するのもいいでしょう」
消滅。なんて寂しくて心が凍るような言葉なんだろうか。確かに、今まで何もしてこなかったかもしれない。まったく無駄な人生だったかもしれない。しかしそれすらも消えてしまう。それが本当の死と言うものなのか。
「マンボウで、生きてみるよ」
「いい選択だと思いますよ」
ノーラがデスクの引き出しから金色に輝く小さなトンカチを取り出した。ふわりと立ち上がり、慈悲に満ちた穏やかな笑顔で高史の頭上の天使の輪っかを金色のトンカチで叩いた。
「転生ー!」
キーン、とそれは祝福の鐘の音ように聞こえた。
「なんでそれだけアナログな機能なんだよ」
高史の最後のつっこみも、海の泡とともに溶けて消えて行った。
あ。産まれた。
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