しおり
穏やかな日が数日過ぎた。
沙織さんの体は見る見る内に元気になっていった。
そして日が経つに連れて沙織さんと俺の距離が少しずつ近づいているのに気付いた。
それでも、俺は一線を引いていた、なぜなら俺はこの時代の人間では無いからだ。
「一平さん、その後ろで揺れて綺麗な音がしているのは何ですか?」
「後ろ?」
それは俺がいつも後ろポケットに入れている携帯に付いてるストラップのドリームボールだった。
俺が携帯を取り出して沙織さんに渡すと沙織さんは携帯よりドリームボールに興味があるようで、手にとって見たり携帯を揺らして音を聞いていた。
沙織さんの手から携帯を取って、ストラップを外して沙織さんにドリームボールを渡す。
「それはドリームボールって言う物だよ。今の時代だと舶来の品って言うのかな。外国の鈴みたいな物だよ」
「すごく綺麗な澄んだ音がする」
沙織さんが揺らすたびにシャラ~ン シャラ~ンと音を奏でていた。
「もし、良かったら沙織さんにプレゼントするよ」
「ええ、でもこんな高価な物を頂くわけには」
「そんな高価なもんじゃないよ。ドリームボールは持っていると願いが叶うと言うお守りみたいな物だからね。良かったらどうぞ」
「本当に良いんですか?」
「ああ、構わないよ。沙織さんにはお世話になっているしね」
「ありがとう」
沙織さんは嬉しそうに耳元でドリームボールを揺らして澄んだ音色を楽しんでいた。
「た、大変です! さ、さおりお嬢様! 大変です!」
買い物に出ていたはずの小夏ちゃんが慌てて玄関に走りこんで来たかと思うと、いきなり引き戸を閉めて鍵をかけた。
「小夏、どうしたのそんなに慌てて」
「だ、旦那様が駅前で!」
「小夏、落ち着いて話なさい!」
小夏ちゃんが沙織さんに諭されて大きく深呼吸をした。
「旦那様が駅前で駐在さんと話をしているのを見つけて慌てて知らせに戻ったんです」
すると、沙織さんは直ぐに玄関の俺の漁サンを持つと俺の手を引っ張りながら裏口に向った。
「一平さん、今すぐに逃げてください。お父様に見つかれば殺されてしまう」
「判った」
その時、玄関で男の叫び声が聞こえてきた。
「沙織! 居るのだろ! 小夏! 鍵を開けんか!」
そして裏口に向いながら俺は沙織さんに伝えるべきか悩んでいた事を告げることにした。
裏口の手前で俺は両手で沙織さんの肩を掴んだ。
「沙織さん、聞いて欲しい事があるんだ」
「早く逃げないと」
「聞いてくれ、今から10年後の大正12年の9月1日のお昼に関東で大地震が起きる。だからその日だけは関東から遠くに離れていて欲しいんだ」
「わ、判りましたから早く」
「今までありがとう」
そう言って沙織さんのおでこに軽く口付けをして俺は裏口から飛び出した。
一平が裏口から飛び出すのと同時に年配の男がもの凄い形相で庭に駆け込んできた。
「あら、お父様。お元気そうで」
「沙織! あの男はどこだ?」
「男? それは誰ですか?」
「惚けるな! あの男物の洗濯物は何だ?」
「嫌ですわ、お父様。女2人では無用心ですので殿方が居るように装っているだけです」
父親は怒りをオロオロしている小夏に向けた。
「小夏! 貴様は何で玄関の鍵を閉めた!」
「お父様! 小夏を怒鳴るのは筋違いですわ。用心の為に鍵を閉めるのは世間の常識です。それに巷では戦争の準備をしているなんて噂があるくらいですのに」
「勝手にしろ!」
父親は苦虫を噛み潰した様な顔をして腕組みをしたまま庭に座り込んだ。
その時、遠くで「居たぞ!」と男の声がする。
沙織は一平に貰ったドリームボールを握り締め「さようなら」と心の中で呟いた。
俺は裏口を飛び出して走り出した。
少し広い通りに出て海側の駅の方に行くべきか悩んでいると「居たぞ!」と下の方から声がした。
直ぐに山の方へ向って走り出す。
狭い路地を縫うように逃げるが、俺が知っている町の道とは全然違う。
地の利がある駐在達に徐々に追い詰められている気がした。
そして気が付くと石段が見えてくる。
それは町を見下ろせる公園がある小高い丘の石段だった。
すると。左右の筋道から誰かが走ってくるような足音が聞こえる。
石段を上がれば広場があるはずだが、裏に抜ける俺が知っている石段が今の時代にあるとは限らなかった。
それでもここに居れば確実に掴まる。
掴まれば沙織さんや小夏ちゃんに迷惑がかかる。
「ええい! 儘よ!」
俺は漁サンを脱いで石段を2段飛ばしで裸足で駆け上がる。
直ぐ下に追っ手の気配を感じる。
何とか、頂上の広場にたどり着くとそこには満開の桜が咲き乱れている。
桜を見る間もなく駆け出した。
その瞬間、あの時と同じ様に疾風が駆け抜けた。
そしてあの日と比べ物にならないくらい花びらが舞う。
花嵐…… 思わず目を瞑り再び目を開くと目の前に人影が現れた。
衝突する寸前で避けるが勢い余って飛び込み前転をするように転んでしまった。
「痛っ!」
一平は花びらが敷き詰められている地面の上に座り込んでいた。
「あの、大丈夫ですか?」
不意に声がする。
顔を上げるとそこには着物を着た女の子が立っていた。
その着物は薄い水色に桜の小紋だろうか桜色の帯を締めて萌黄色の肩掛けをして、長い黒髪が風に靡いていた。
「沙織……」
彼女に良く似た20代くらいの女の子だった。
どこからか携帯の着信音が聞こえる。
慌てて俺はズボンのポケットに手を当てた、俺のじゃない。
すると女の子が携帯を取り出して話し始めた。
「もしもし」
「詩織、今どこに居るの?」
「私は桜の丘の公園に居るよ、小波」
そんな声が聞こえて彼女の携帯に付いているドリームベルがシャラ~ンと澄んだ音色を奏でていた。
俺は自分でも信じられない事に、俺は立ち上がって女の子に声を掛けていた。
「着物、良くお似合いですね。とても素敵ですよ」
そして、この町にもう少し居ようと思った。
何故って、素敵な思い出が始まりそうだから。




