イレギュラーは、夜道で起きる。
第一話
事故は、深夜に起きた。
雨に濡れた交差点。
赤信号に差し込むヘッドライト。
ブレーキ音が、わずかに遅れた。
衝突音は一度きりだった。
金属が潰れ、ガラスが砕け、車体は無残に横転した。
運転席にいた父親は即死。
助手席の母親は重傷。
後部座席のチャイルドシートにいた、生後数か月の赤ん坊だけが、奇跡的に無傷だった。
警察は事故として処理した。
居眠りか、判断の遅れか、あるいは雨による視界不良。
だが、現場を見た一部の人間は、言葉にできない違和感を覚えていた。
ブレーキ痕の位置。
衝突角度。
そして、事故車の周囲に残された、説明のつかない“空白”。
結局、それは掘り下げられることはなかった。
事故は事故として処理され、
記録だけが静かに残った。
――時は流れる。
*
暖簾をくぐると、油と出汁の匂いが鼻を突いた。
「いらっしゃ……って、はいはい。今日もお疲れさん」
カウンターの向こうで、幼馴染が軽く顎をしゃくる。
坂本翔太。四十を過ぎ、父親からこの店を継いだ居酒屋の大将だ。
「いつもの」
「はいよ。はい、生」
グラスが置かれる。
説明はいらない。ここは、そういう店だった。
「……はぁ」
一口飲んで、思わず息が漏れる。
「その溜め息、仕事か? 女か?」
「どっちもだよ」
「はいはい」
翔太は焼き鳥を返しながら、苦笑する。
「まだマッチングアプリやってんの?」
「一応な。マッチはする」
「で?」
「既読がつかねぇ」
「写真変えろって言っただろ」
「変えたわ。若い頃のは詐欺って言われたから、最近のにした」
「それが原因だろ」
「うるせぇ」
二人で笑う。
笑える程度には、もう慣れていた。
テレビでは音量を落としたニュースが流れている。
連続通り魔殺人事件。
犯人は、まだ捕まっていない。
「物騒だな」
「近所で出たら洒落にならんぞ」
「夜道は気をつけるわ。一応」
「お前が言うと説得力ねぇな」
「もう若くねぇっての」
そう言いながら、腹を軽く叩く。
「昔はヤンチャで、地下格闘技にまで手ぇ出してたくせにな」
「今やったら一発で腰いく」
「だろうな」
焼き鳥を焼きながら、翔太がふと思い出したように言う。
「そういやさ……成人式の日、覚えてるか?」
「……タイムカプセル」
「それそれ」
翔太はニヤッと笑う。
「お前、小学生の頃さ。
将来の夢、正義の味方になるって書いてなかったっけ?」
「……やめろ」
「ガチで書いてたぞ。ノートに」
「ガキの頃は純粋だったんだよ」
「今は?」
「見ての通り、くたびれた四十過ぎのサラリーマンだ」
「夢も現実も、だいぶ方向変わったな」
「言うな」
だが、不思議と嫌な気はしなかった。
両親の話もした。
もう二人ともいないこと。
姉が相変わらず口うるさいこと。
甥にやったお年玉が高すぎた愚痴。
マッチングアプリの愚痴。
サブスクで観る映画とアニメの話。
休日に、何も予定がない現実。
「俺たち、ちゃんと大人になったはずなんだけどな」
「気づいたら四十過ぎてたな」
「怖ぇよな」
一瞬、間が空く。
「……まぁ、生きてりゃいいか」
「だな」
グラスを軽く合わせる。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「おう。夜道気をつけろ」
「近所だって」
「それでもだ」
会計を済ませ、手を振る。
俺は一人、夜の道へ出た。
*
白いカーテン越しの光が、病室を満たしている。
ベッドの上には、十五歳になる少年が眠っていた。
身体は成長しているが、意識は戻らないまま。
椅子に腰掛ける母親は医師だった。
彼女は毎日、ここに来る。
希望は口にしない。
奇跡も、期待していない。
ただ、呼吸を確かめ、
今日も変わりがないことを確認する。
「……また明日ね」
それは祈りではなく、
いつものルーティンだった。
*
夜の街。
その女は、一人で歩いていた。
三十代前半ほどの、どこにでもいそうな女性。
連続通り魔事件。
本来、今夜も“予感”はあった。
だが、胸の奥に小さな違和感が引っかかる。
「……ズレてる」
理由は分からない。
だが、放っておけない感覚だった。
その瞬間――
遠くから、女性の悲鳴が聞こえた。
「チッ……」
女は舌打ちし、走り出した。
*
その夜、俺は家に帰る途中だった。
悲鳴が聞こえた瞬間、身体が先に動いた。
(助けたら、いいことあるかもな)
ほんの一瞬、そんな下心がよぎる。
だが、路地の奥を見た瞬間、それは消えた。
女性が押し倒されそうになっている。
刃物が、街灯の光を反射した。
「おいっ」
声をかけると、暴漢が振り向く。
刃が振るわれる。
かわす。
一歩踏み込み、拳を叩き込む。
――当たった。
だが、感触がおかしい。
殴った箇所から、影のような“何か”が滲み出る。
「逃げろ!」
女性を突き飛ばすようにして逃がす。
次の瞬間、腹部に激痛が走った。
深い。
致命傷だと、すぐ分かった。
それでも、最後の力を振り絞る。
渾身の一撃。
再び、異様な“何か”が、暴漢から漏れ出た。
視界が暗くなる。
倒れているのが、自分だと理解するまで、少し時間がかかった。
――誰か、来た。
*
「……あーあ」
駆けつけた女は、血の海に倒れている男を見下ろした。
「この男、死ぬ予定じゃなかったはずなんだけど」
本来、死ぬ可能性があったのは、襲われていた、あの女性のほう。
筋書きは、完全に狂っている。
だが――見た。
人間が。
素手で。
異形に、確かにダメージを与えていた。
「完全にイレギュラーじゃない」
逃走する異形へ発砲する。
弾はかすめるが、仕留めきれない。
「……はぁ。最悪」
倒れている男は、もう息をしていない。
それでも。
縁はある。
干渉できる。
予定外。
「……使うしかないか」
女は、淡々と判断した。
――転生処理を開始する。
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