第九話「馬鹿王子、逃げ場なし」
「……あの、ソニア様」
翌朝、私は優雅に紅茶を楽しんでいたところ、部屋の扉が小さくノックされた。現れたのは、昨夜アルバート殿下に泣きつかれたであろうクラリス王女だ。
「何かしら?」
「兄上が……その、少し落ち込んでいるようです」
「当然でしょうね」
私は紅茶を一口含み、クラリスに視線を向けた。
「クラリス、まさかとは思うけど、殿下を甘やかせと言いに来たわけじゃないでしょうね?」
「いいえ、そんなことはいたしません」
クラリスは控えめに微笑む。
「私は兄上が"まともな王太子"になるのが王国のためだと思っていますし、ソニア様のやり方も合理的だと感じています」
「ふふ、分かってるじゃない」
「ただ、兄上があまりにも"逃げ場がない"と感じているようですので、少しだけ……余裕を与えてもいいのでは? と」
「余裕、ねえ」
私は扇を軽く開き、思案するふりをする。確かに、昨日の夜からずっと落ち込んでいるのなら、少し刺激を与えたほうがいいのかもしれない。
「……分かったわ。じゃあ、殿下の様子を見に行きましょうか」
「ありがとうございます」
クラリスがほっと安堵の表情を浮かべる。だが、彼女は知らない。私が"甘やかす"つもりなどさらさらないことを。
***
「殿下、ご機嫌いかがですか?」
「……最悪だ」
アルバート殿下は、自室のソファでぐったりと脱力していた。目の下にはうっすらとクマができており、魂が抜けたような顔をしている。
「ソニア、俺はもう……終わりだ……」
「何が終わりなのよ」
「父上にも母上にも兄上にも見捨てられた……そして、最後の希望だったクラリスにも……!」
「まあ、当然の結果よね?」
「当然じゃない!!」
アルバート殿下は突然顔を上げ、私を睨みつけた。
「俺は今まで自由に生きてきたんだ! それを急に"まともになれ"と言われても、できるわけないだろう!」
「できるわよ」
「できない!」
「できる」
「できな――」
「できるの」
私は優雅に扇を閉じ、にっこり微笑んだ。
「だって、殿下ができるようになるまで、私は絶対に諦めないもの」
「……っ!」
アルバート殿下が身じろぎし、青ざめた顔でこちらを見つめる。
「お、お前……まさか……」
「まさかも何も、これから"馬鹿王子更生計画"の本番が始まるのよ?」
私は優雅に微笑みながら宣言した。
「さあ、殿下。今日から"徹底した教育"を始めましょうか」
「徹底した教育……?」
アルバート殿下は顔を引きつらせながら、私を見つめた。まるで目の前に魔王でも現れたかのような怯えようである。まあ、ある意味正解かもしれないけれど。
「そう。昨日までのはまだ"準備運動"だったのよ」
私は優雅に扇を開き、軽く仰いだ。
「ここからは"本番"。殿下が"まともな王太子"になるための、特訓開始ってわけ」
「……」
アルバート殿下は言葉を失っていた。顔が青白くなり、視線を泳がせている。まるで逃げ道を探しているようだったが、残念ながらどこにもない。
「ちょ、ちょっと待て! ソニア、俺に何をさせるつもりだ!?」
「何って、基本的なことよ?」
私は指を折りながら説明する。
「まずは朝早く起きること。そして、朝食前に軽い運動をして、体を目覚めさせる。その後は礼儀作法の復習、政治学の勉強、王太子としての振る舞いを学ぶ時間を設けるわ」
「……」
「昼食を挟んで、午後は武術訓練。最近、殿下がまともに剣を振っている姿を見たことがないものね。それから、馬術の練習も必要でしょう? さらに、国の情勢を知るための報告書を毎日読むことにしましょうか」
「……な、なあ、ソニア」
「何?」
「ちょっと待て、これは……スケジュールが詰まりすぎてないか?」
「そんなことないわよ? 殿下がサボっていた分を取り戻すためには、これくらい当然でしょう?」
「当然じゃない!!!」
アルバート殿下は絶叫し、ソファから飛び上がった。
「朝から晩まで修行みたいな生活じゃないか! もっとこう、優雅な王太子生活ってものが……!」
「優雅な生活は、努力の上に成り立つものよ?」
私は微笑みながら、きっぱりと言い切った。
「王太子としての義務を果たさない者に、"優雅"を求める資格はないわ」
「……!」
アルバート殿下はぐっと口を噤む。しかし、目は必死に抗議していた。
「まさか、こんなに厳しいとは……」
「当然でしょ? 殿下、まさか本気で"少し怒られて終わり"くらいに考えてたんじゃないでしょうね?」
「そ、それは……」
「もしそうなら、随分と甘い考えをお持ちだったのね」
私は扇を閉じて、ゆっくりと殿下へと歩み寄る。
「安心して。私は殿下を"まともな王太子"にするために、全力を尽くすわ」
「いや、安心できない!! それが怖いんだよ!!!」
アルバート殿下が悲鳴を上げる。
「クラリス! お前からも何とか言ってくれ!」
「……兄上、頑張ってくださいね」
「応援するなぁぁぁぁぁ!!!」
絶望に満ちたアルバート殿下の叫びが、王宮中に響き渡った。