第四十八話「静かなる違和感」
宰相の執務室を出た後も、私の胸には得体の知れない不安が残っていた。
(あれは……本当にグリフィスなのかしら?)
表面上は何も変わっていないように見える。けれど、長年彼を知る殿下やルイン、そして私ですら抱く違和感は決して無視できるものではない。
「まずは証拠を固める必要があるわね」
私はルインと殿下に目配せをしながら、低く言った。
「そうだな。ただの思い過ごしならいいが……俺の勘がそうは言っていない」
殿下が難しい顔をする。ルインも腕を組みながら、考え込んでいた。
「何にせよ、確実な証拠がなければ動けないな。まずは宰相の身辺を探るか」
「ええ。……それと、"聖女"にも話を聞いてみるべきかもしれないわ」
私の言葉に、二人が同時に私を見る。
「エミリナか?」
「ええ。彼女はもともと王宮に出入りしていたし、宰相とも面識がある。何か気づいていることがあるかもしれないわ」
少し考えた後、殿下は頷いた。
「確かに、彼女の視点から何か分かるかもしれん。……今、彼女はどこにいる?」
「たしか、王宮の礼拝堂で祈りを捧げているはずよ」
「よし、なら行ってみるか」
王宮の礼拝堂は、王族や貴族たちが静かに祈りを捧げるための神聖な空間だった。
その中央に、淡い金色の光を浴びながら、静かに祈る聖女エミリナ・ランベルディの姿があった。
長い金色の髪が肩に流れ、その白いドレスはまるで神聖な光を宿しているかのように柔らかく揺れている。
「……ソニア様?」
私たちの気配に気づき、エミリナがそっと顔を上げた。
「邪魔をして悪いわね、エミリナ」
「いいえ、大丈夫です。……何か御用でしょうか?」
彼女は静かに微笑みながら、私たちを見つめる。
私は一歩進み、率直に切り出した。
「宰相グリフィスについて、何か気づいたことはない?」
その問いに、エミリナは小さく目を瞬かせた。
「……グリフィス様、ですか?」
「ええ。最近、彼の様子が変だと思わない?」
エミリナは少し考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「……そうですね。最近、どこか冷たくなったような気がします」
「冷たく?」
「以前は、冷静な方でしたが、それでもどこか人間らしい温かさがありました。けれど、最近のグリフィス様は……まるで"感情がない"ような気がするんです」
エミリナの言葉に、私たちは思わず顔を見合わせる。
(やはり……)
殿下が低く息をついた。
「俺たちも同じことを感じていた。やはり、何かが起きているようだな」
エミリナは不安そうに唇を噛む。
「まさか、グリフィス様に何か……?」
「まだ確証はないわ。ただ、あなたの言葉は重要な証言になる」
エミリナは静かに頷き、そして少し躊躇いがちに口を開いた。
「……それと、これは偶然かもしれませんが……」
「何?」
「以前、グリフィス様が"しばらく王宮を離れる"と仰ったことがありました。ですが、数日後にお会いしたとき……なぜかそのことを覚えていなかったんです」
――心臓が跳ねる。
「覚えていなかった?」
「ええ。"そんなことは言っていない"と否定されてしまいました。でも、確かにわたくしは直接聞いたんです。だから……少し、違和感があって」
エミリナの言葉が、まるで氷のように私たちの中へと染み渡る。
違和感。記憶の食い違い。まるで"別人"になったかのような変化。
(これは……もう、確信してもいいかもしれないわね)
私の中で、一つの仮説が形を成し始めていた。
――今、王宮にいるグリフィス・フォン・ファイアストンは、本物ではない。
本物の彼は、どこかに囚われている可能性が高い。
「……エミリナ、ありがとう。あなたのおかげで、大切な手がかりが得られたわ」
「そんな……わたくしはただ、お話ししただけです」
エミリナは控えめに微笑んだ。
小さな違和感が、確信へと変わっていく。
真実が、少しずつ、明らかになろうとしていた――
***
「エミリナ、少し付き合ってくれる?」
私の問いに、エミリナは少し驚いたようだったが、すぐに静かに頷いた。
「……はい。わたくしにできることがあるなら」
「助かるわ」
殿下とルインも頷き、私たちはそろって王宮の廊下を歩き出した。
エミリナの証言により、私たちの仮説はほぼ確信に変わりつつあった。
今、王宮にいるグリフィス・フォン・ファイアストンは、本物ではない。
だとすれば、本物はどこにいるのか――
その手がかりを探るため、私たちは宰相の執務室に戻ることにした。
「……まず、もう一度執務室を確認しよう」
ルインの言葉に頷き、私はエミリナとともに静かに扉を開いた。
中には、グリフィス……いや、"偽物のグリフィス"が机に向かって書類を読んでいた。
「……宰相閣下、少しお時間をいただけますか?」
私が声をかけると、グリフィスはゆっくりと顔を上げた。
その目は冷静そのもので、どこまでも理知的。
けれど、そこにはやはり"何か"が欠けているように思えた。
「侯爵令嬢、王太子殿下、そして……聖女殿下まで。珍しい顔ぶれですね。何か御用でしょうか?」
その声も、話し方も、確かにグリフィスのものだった。
だが――
「ええ、少し気になることがあって」
私は探るように言いながら、彼の反応を見た。
「気になること、ですか」
グリフィスは微かに眉を寄せたが、すぐに表情を戻す。
それは"本物"の彼もする仕草だった。
けれど、エミリナが言っていたように、彼の目には以前の"温かみ"がない。
まるで、"必要な仕草"だけを模倣しているかのように。
「宰相閣下、少し質問しても?」
殿下が口を開いた。
「もちろんです」
「以前、お前が"しばらく王宮を離れる"と言っていたと聞いたが、それは事実か?」
その瞬間――
一瞬だけ、グリフィスの瞳が揺れた。
ほんの刹那の出来事。だが、私たちはそれを見逃さなかった。
「……いいえ、そのような話をした記憶はありませんが」
グリフィスは落ち着いた声でそう言った。
けれど、その返答そのものが、エミリナの証言と食い違っている。
――嘘をついた。
「……そう。ならいいわ」
私はそう言って、一歩下がる。
この場で問い詰めても、証拠がなければ意味がない。
だが、確実に"何か"がある。
「お時間を取らせてしまいましたわね。失礼します」
私たちはそのまま執務室を後にした。
廊下を歩きながら、私は低く呟いた。
「やっぱり……怪しいわね」
「はい。さっきの反応……どう見ても動揺していました」
エミリナも真剣な表情で頷く。
「グリフィス様は本来、動揺を表に出すような方ではありません。たとえ嘘をつくとしても、もっと巧妙にごまかすはずです……なのに、今回は一瞬だけ"戸惑った"ように見えた」
「そうね……やはり、"本物の記憶"がないからかしら」
「それか、"記憶を植え付けられている"可能性もありますね」
ルインの言葉に、私とエミリナは同時に息をのんだ。
「記憶の操作……まさか、そんなことが……?」
エミリナが不安げに眉を寄せる。
「魔術か、それとも何か別の方法かは分からないが……偽者が本物の記憶を完全に持っていない可能性はある」
「確かに……それなら、記憶にないことを突かれたときの一瞬の戸惑いも説明がつくわね」
「ただし、これもまだ推測の域を出ないですがね」
ルインは慎重に言ったが、彼の目は鋭く光っていた。
いずれにしても、次の目標は明確だった。
――"本物のグリフィス"の行方を突き止めること。
そして、"偽物の正体"を暴くこと。
「エミリナ、あなたも協力してくれる?」
私が尋ねると、エミリナは迷いなく頷いた。
「はい……わたくしも、グリフィス様のためにできることをしたいです」
「頼もしいわね」
私は微笑み、殿下とルインにも目を向けた。
「では、本格的に動きましょう。"本物のグリフィス"を取り戻すために」
エミリナを加えた私たちの調査は、ここから本格的に動き出す。
"偽物の宰相"に気づかれぬよう慎重に――しかし、確実に。




