第三十七話「王宮の静かな波紋」
殿下の決意を聞いた私は、心の中でそっと息をついた。
確かに、彼はまだ未熟な部分が多い。
だが、それでも"王太子として"自分の足で歩み出そうとしている。
「……では、具体的にどう動きますか?」
私は殿下の覚悟を確かめるように尋ねた。
「まず、書庫の管理をしている者たちに話を聞く。そして、どの記録が狙われたのかを正確に把握する」
殿下の言葉に、私は小さく頷く。
「それなら、書庫の責任者に直接会うのが早いわね。おそらく今朝の件で警戒が強まっているでしょうけれど」
「問題ない……いや、問題があっても、俺が解決する」
殿下はしっかりと前を向いていた。
以前の彼なら、自分では何もせずに周囲に丸投げしていたはず。
それを思えば、この変化は驚くべきものだった。
「では、早速向かいましょう」
エミリナが柔らかく微笑む。
私たちはすぐに書庫へと足を運んだ。
***
王宮の書庫は、歴代の国王の記録や外交文書、重要な王族の記録が保管されている場所だった。
膨大な数の書物が並ぶこの空間は、王宮の知識の中心とも言える。
扉の前に立っていた衛兵が私たちを見て姿勢を正した。
「アルバート殿下、ご到着です」
「ご苦労。責任者を呼んでくれ」
殿下の言葉に、衛兵はすぐに書庫の奥へと向かう。
間もなくして、一人の壮年の男性が現れた。
灰色の髪に深い皺を刻んだ顔、細身ながらも鋭い眼差しを持つ男――書庫の管理責任者、マルティン・ベルンハルトだ。
「これは、アルバート殿下。お久しぶりでございます」
「ああ、久しいな……マルティン、今朝の件について話を聞きたい」
殿下は堂々と切り出した。
「今朝の件、でございますか?」
「書庫で、エルフェルト王国の条約に関する記録が何者かによって持ち出されそうになったと聞いた。それについて、詳しく知りたい」
マルティンはしばし沈黙し、ゆっくりと息を吐いた。
「……確かに、今朝未明、不審な動きがありました。しかし、未遂に終わっております」
「どんな人物が関与していた?」
「それが……はっきりとは分かりません。何者かが書庫の扉の鍵を細工しようとしていた形跡がありましたが、衛兵が巡回に来たため、逃げ去ったようです」
「では、その者の正体を示す手がかりは?」
「……申し訳ありませんが、今のところございません」
マルティンは静かに答えた。
私は彼の言葉を吟味しながら、ふとある疑問を抱く。
「マルティン様、持ち出されそうになった記録は、具体的にどのようなものでしたか?」
「エルフェルト王国との交易条約に関する古い記録です。特に、今から約二十年前のものが狙われていました」
「二十年前……?」
その年代に、何か特別な意味があるのだろうか。
「マルティン様、その条約の詳細を教えていただけますか?」
「――恐れながら、慎重に扱うべき情報ですので……」
「何者かが狙ったという事実があります。警戒すべきでは?」
私が問い詰めると、マルティンは少し目を伏せ、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「……それは、かつてのエルフェルト王との"秘密協定"に関するものです」
その言葉に、殿下と私は同時に目を見開いた。
「秘密協定……?」
「ええ。表向きには公表されていない条約です。当時の両国の事情によって結ばれたものであり、それが今になって狙われたということは……何者かが、それを利用しようとしている可能性があります」
「……!」
殿下は静かに拳を握った。
「マルティン、その記録を確認させてもらえないか?」
「殿下、それは……」
「俺は王太子だ。この国を守る責任がある。……だからこそ、知るべきことを知る必要がある」
殿下の言葉に、マルティンは一瞬目を見開いた。
まるで、以前の殿下とは違うものを見たかのように。
そして――
「……かしこまりました。殿下がそこまでおっしゃるのであれば、ご覧いただきましょう」
マルティンは静かに頷いた。
そして、私たちはついに、王宮の奥深くに眠る"秘密"へと足を踏み入れることになったのだった。
***
書庫の奥深く、ひんやりとした空気が満ちていた。
マルティンが鍵束を取り出し、厳重に管理された棚の一つを解錠する。
軋むような音を立てながら、扉が開いた。
「この中に、件の記録がございます」
彼が取り出したのは、一冊の古びた書類束だった。
表紙には、エルフェルト王国との条約についての記述がある。
殿下は緊張した面持ちでそれを受け取り、ゆっくりと中を開いた。
私とエミリナも、息を潜めてその内容を覗き込む。
そこには――
「……『王国間交易条約の締結に関する追加協定』?」
殿下が小さく読み上げる。
ページをめくると、詳細な条項が記されていた。
表向きに発表されている条約の内容とほぼ同じものが並ぶが、その最後のページに――
「……何、これ」
私は目を疑った。
「『本協定の締結をもって、ラヴィニア・フォン・エルフェルト王女と、当時の王太子の婚約を定めるものとする』?」
「王女との婚約……?」
殿下が眉を寄せる。
「そんな話は記録にも残っていないはずだが……?」
「ええ、少なくとも歴史上において、ラヴィニア王女がこの国の王族と婚約していた事実はないはずです」
エミリナが冷静に言う。
確かに、そんな話は聞いたことがない。
しかし、この記録が真実ならば――
「……つまり、二十年前に結ばれた交易条約には、本来隠された"条件"があったということね」
私はそう結論付けた。
「だが、それがなぜ今になって狙われている……?」
殿下が困惑したように呟く。
その瞬間――
「――それが分かれば、王宮の未来も変わるかもしれませんね」
静かな声が響いた。
振り向くと、書庫の入り口に一人の人物が立っていた。
「ルイン……!」
現れたのは、公爵ルイン・ベイレフェルト。
穏やかな表情ながらも、鋭い眼差しを向けていた。
「ルイン、なぜここに?」
殿下が驚いた声を上げる。
「陛下より、書庫の件について調査するよう命じられましてね」
ルインは静かに書類に目を走らせた。
「なるほど……これはまた、興味深い記録ですね」
「ルイン、この記録が示す意味を知っているのか?」
殿下が問うと、彼は軽く微笑んだ。
「ええ、ある程度は。今の話からしますと、これは慎重に扱うべき案件ですね」
「どういうこと?」
私が尋ねると、ルインは少し考えた後、言葉を選ぶように答えた。
「この記録が本当ならば……二十年前のエルフェルト王国との条約は、単なる交易協定ではなく、政略結婚を前提とした同盟だったということになります」
「つまり、当時の王太子――今の国王陛下と、ラヴィニア王女が婚約することで、両国の関係を強化する意図があった?」
「その可能性が高いですね」
ルインは頷いた。
「ですが、ご存知の通り、そのような婚約は実現していません。ラヴィニア王女は結局、エルフェルト王国内で別の貴族と結婚しました」
「では、なぜ今になってこの記録が狙われた?」
殿下の問いに、ルインは微かに目を細めた。
「……それは、おそらくエルフェルト王国の内政に関係しているでしょう」
「内政……?」
「エルフェルト王国では、現在王位継承権を巡る対立が起きています。現国王の弟、グスタフ王子派が勢力を拡大しているという話を聞いたことは?」
私はその名前に覚えがあった。
「ええ、確か現国王の異母弟で、軍部の支持を受けている人物でしょう?」
「その通り。グスタフ王子派がこの記録を利用しようとしているとすれば……」
ルインはゆっくりと記録を閉じる。
「これは単なる過去の記録ではなく、エルフェルト王国の未来を左右する"切り札"となる可能性があります」
私たちは静かに息を呑んだ。




