第二十六話「帰国の途へ」
交渉はその後も続いたが、大きな問題は起こらなかった。
木材の輸出量と価格の調整、建築技術提供の範囲、今後の協力関係の確認――細かい詰めの作業はあったものの、アレクセイ王太子との交渉は比較的スムーズに進んだ。アルバート殿下も、最初のぎこちなさが嘘のように、徐々に自分の意見をしっかり述べられるようになっていた。
私とエミリナは、その様子を静かに見守りながら、適宜サポートに回った。
こうして、予定していた交渉の日程をすべて終えた私たちは、エルフェルト王国を発つこととなった。
「まさか、こんなにちゃんと交渉を終えられるとはな……」
帰路につく馬車の中で、アルバート殿下がしみじみと呟いた。
「まあ、最初の頃を思えば随分マシになったわね」
「お前、褒める気あるのか?」
「あるわよ。少しだけ」
「『少しだけ』か……」
殿下は苦笑した。
エミリナが微笑みながら、そっとお茶を差し出す。
「アルバート様、本当にお疲れ様でした。とても立派に交渉をこなされましたよ」
「ありがとう、エミリナ。でも、やっぱり疲れるな……交渉って、こんなに大変なものだったのか」
「最初から楽な仕事だと思っていたの?」
「……正直、思ってた」
私は思わずため息をついた。
「全く……でも、実際に経験してみて、どうだった?」
「大変だった。でも、面白くもあった……かもしれない」
殿下は窓の外を見つめながら呟いた。
「最初は、とにかくうまくやらなきゃって、そればっかり考えてた。でも、交渉を重ねるうちに、相手の考えを聞いたり、条件をすり合わせたりするのが、少しだけ楽しく感じられたんだ」
私は軽く目を細める。
――なるほどね。
「じゃあ、今後も外交を続ける気はあるの?」
「……うん。まだまだ未熟だし、もっと経験が必要だけど、やってみようと思う」
そう言った殿下の顔は、以前より少しだけ頼もしく見えた。
「へえ、珍しく前向きじゃない」
「お前なぁ……」
殿下は呆れたように私を見るが、私はただ肩をすくめるだけだった。
エミリナが小さく笑う。
「アルバート殿下の成長が見られて、わたくしも嬉しいです」
「成長か……そうだな。俺、少しはマシになったかな?」
「ええ、とても」
エミリナの優しい言葉に、殿下は照れくさそうに頬をかいた。
私は扇を軽くたたきながら、窓の外を眺める。
王都まで、あと少し。
これから殿下がどう変わっていくのか、それはまだ分からない。
でも、確実に一歩を踏み出したのは間違いない。
「まあ、帰ったらまた王宮のゴタゴタが待ってるわね」
「うっ……忘れさせてくれよ、それくらい」
「無理よ。だって、あなたは王太子なんだから」
「はぁ……」
殿下は深いため息をついた。
王都に戻れば、また忙しい日々が始まるだろう。
でも、この旅で得た経験は、きっと殿下の糧になるはず。
――さて、次はどんな騒動が待っているのかしら?
私は微かに笑いながら、流れる景色を眺めた。
***
王都の門が見えてきたころ、馬車の中でアルバート殿下がぐったりと肩を落とした。
「……やっと帰ってきた……もうしばらく旅はごめんだ……」
「随分と疲れてるわね」
「当然だろ! 頭使いまくったし、礼儀作法も気をつけないといけなかったし……お前たちは慣れてるかもしれないけど、俺にとっては大仕事だったんだぞ……」
殿下は座席にもたれかかりながら、ぼやくように言った。
「まぁ、確かにね。最初に比べれば、ずいぶん頑張ったんじゃない?」
「お前、それ本当に褒めてるのか?」
「褒めてるわよ。少しだけ」
「やっぱり『少しだけ』か……」
ため息をつく殿下を横目に、私は扇を開く。
「そんなに疲れたなら、ご褒美をあげるわ」
「……ご褒美?」
殿下が怪訝そうに私を見る。
「ええ。長旅、お疲れさまの意味を込めてね」
私は馬車の外をちらりと見ると、ちょうど王都の入り口に差し掛かるところだった。
「じゃあ、まずは一度宮殿に戻りましょう。落ち着いたら、連れ出してあげるわ」
「ちょっと待て、それはどこへ……?」
「楽しみにしておきなさい」
殿下は私を疑わしげに見つめたが、私が何も言わないと分かると、結局観念したように頷いた。
***
宮殿に戻り、一通りの報告を終えたあと、私は殿下を連れ出した。
「おい、本当にどこへ行くんだ?」
「だから、楽しみにしておきなさいって」
夜の王都を歩きながら、私は扇を軽く振る。
「せっかくのご褒美なのに、疑ってばかりじゃつまらないわよ?」
「いや、お前が言うとろくでもない気がして……」
「ひどいわね。たまには信用したら?」
私は笑いながら、目的の場所へと向かった。
着いたのは、王都でも評判のいい小さな酒場だった。貴族が訪れるような格式ばった場所ではなく、市民たちが気軽に集まれるような、居心地のいい店だ。
「ここは……?」
「王宮の食事もいいけれど、たまには庶民の味を楽しむのも悪くないでしょ?」
殿下は戸惑いながらも、興味深そうに店内を見渡した。
「……こういう店に入るの、初めてだな」
「まあ、王太子が庶民の酒場に来ることなんて普通はないでしょうね」
私は肩をすくめながら席につくと、店の主人が気さくな笑顔を向けてきた。
「お嬢さん、お久しぶりだね。今日は珍しいお連れさんだ」
「ええ、長旅を頑張ったから、ご褒美に連れてきたの」
「そりゃあいい。じゃあ、いつものやつでいいかい?」
「ええ、それと――殿下には初めての体験だから、少しずつ色々な料理を出してくれる?」
主人はにやりと笑いながら頷いた。
「まかせときな!」
しばらくすると、素朴ながらも美味しそうな料理が次々と運ばれてきた。焼きたてのパンに、香ばしく焼かれた肉、濃厚なスープ、そして新鮮な野菜のサラダ――王宮の洗練された料理とは違う、力強い味わいのものばかりだ。
「……うまいな」
殿下は驚いたように肉を頬張った。
「でしょ? たまにはこういうのもいいわよね」
「こういう店があるなんて知らなかった……」
「そりゃそうでしょうね。王太子は普段、庶民の生活を知る機会なんてほとんどないもの」
私はグラスを傾けながら、殿下の反応を楽しむ。
そこへ、ふいに店の扉が開いた。
「ほう、珍しい方々がいらっしゃるようですね」
静かに響く低い声。
振り返ると、そこには黒衣をまとったルイン・ベイレフェルトが立っていた。
「ルイン!?」
殿下が驚きの声を上げる。
「お久しぶりですね、アルバート殿下。それに、ソニア様」
ルインは軽く会釈をしながら、私たちの席に歩み寄る。
「なに、私も偶然この店に立ち寄っただけですよ」
「嘘ね」
私は扇で口元を隠しながら、じっとルインを見つめる。
「偶然にしては、タイミングが良すぎるわ」
「……ふふ、まあ、そういうことにしておきましょう」
ルインは微笑みながら、店の主人に注文をする。
「それにしても、殿下が庶民の酒場で食事とは……驚きました」
「俺だって、たまにはこういう場所で食べるさ」
「そうですか? ならば、次はぜひ王都の屋台巡りでもされてはいかがでしょう」
「……いや、それはさすがに……」
殿下が気まずそうに目を逸らすのを見て、ルインは楽しげに微笑んだ。
「ともあれ、長旅お疲れさまでした、殿下」
ルインが静かに杯を掲げる。
私も、殿下も、それに倣ってグラスを持ち上げた。
「「乾杯」」
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音を響かせた。
こうして、長旅のご褒美の夜は、穏やかに更けていった。




