第二話「王太子、三度目の婚約破棄を宣言する」
王宮の大広間。
私は紅茶を楽しみながら、優雅にくつろいでいた。王太子アルバートの二度目の婚約破棄騒動から数日が経ち、ようやく穏やかな日常が戻ってくる――はずだった。
だが、現実はそんなに甘くない。
「侯爵令嬢ソニア・グラント! 今度こそ、君との婚約を破棄する!」
また来た。
私が静かにカップを置くと、周囲の貴族たちが興味津々にこちらを見つめている。王太子アルバートは緊張した面持ちで私を見下ろし、その横には――
「……聖女さま?」
ふわりと柔らかい金髪に、純白のドレスをまとった少女。大きな青い瞳が潤みがちで、見ているだけで「守ってあげたい」と思わせるような、儚げな美貌。
これが、王宮に現れた聖女――エミリナ・ランベルディ。
その聖女が、王太子の腕にしがみつきながら、不安そうに私を見つめていた。
「あの……どうか、殿下を許してあげてください……」
「……許す? 何をですか?」
私は微笑みながら尋ねる。
「殿下は……優しいお方なのです。わたくしのために、自由をくださろうとして……」
「………………」
ああ、なるほど。
私は深々とため息をついた。
やっぱり彼女がアルバートに何か吹き込んだのね。
「つまり、聖女さまは……殿下を自由にするために、私との婚約破棄を求めているの?」
エミリナは俯き、悲しげに唇を噛んだ。
「わ、わたくしは……ただ、殿下に幸せになってほしくて……」
その言葉に、アルバートは力強く頷く。
「そうだ! ソニア、私は彼女を守りたいんだ! だから、君との婚約を破棄する!」
「……ふぅん?」
私はゆっくりと立ち上がった。そして、王太子と聖女の前に歩み寄ると――
にっこりと微笑む。
「私との婚約を破棄するとは、いい度胸してるじゃない」
「ひっ!?」
アルバートの肩がビクリと震えた。
――この殿下、もう学習能力というものを完全に捨ててしまったようね。
「殿下。私、前回申し上げましたよね?」
「え、えっと……」
「軽率な発言の責任は、しっかり取ってもらうわよ?」
「…………!!」
アルバートの顔が青ざめ、エミリナは不安げに彼を見上げた。
「で、でも、今回は違うんだ! エミリナは本物の聖女なんだ! 彼女の力は奇跡を起こす! だから、私は彼女のそばにいるべきで――」
「それと私の婚約がどう関係あるのかしら?」
「え……?」
「殿下は聖女さまと一緒にいたい。でも、婚約は国政に関わる重大な問題。聖女さまを守ることと、婚約破棄がどう繋がるのかしら?」
「そ、それは……!」
アルバートはしどろもどろになる。
「……まさか、ただ聖女さまが『婚約破棄してほしい』と言ったから、それに従おうとしているのではありませんよね?」
「…………」
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
――本当に、この王太子は。
「殿下」
私は柔らかく、しかしはっきりと告げる。
「このままでは、殿下は国政を聖女さまの感情に左右される愚かな王太子という評価を得ることになりますが、それでよろしいの?」
「!!?」
ざわめく貴族たち。エミリナの顔がこわばる。
「ち、違う! 私は……!」
「もし本当に婚約破棄をお望みなら、改めて文書を作成し、各国への報告、関係貴族との協議、そして相応の賠償金を用意していただきますわね?」
「賠償金!?」
アルバートが飛び上がる。
「ええ、当然ですわ。国の安定のために結ばれた婚約を破棄するのですもの、私の名誉を守るためにも、莫大な賠償金が発生しますわよ」
「そ、そんな……!?」
「それとも、聖女さまが負担なさるのかしら?」
「!!」
エミリナの顔が真っ青になる。
「い、いえ……わたくしは……」
「あら、できないのですか? それほどまでに殿下を自由にしたいのなら、当然、それに見合う責任を取る覚悟があるはずですよね?」
「………………」
エミリナの唇が震える。アルバートは目を泳がせ、ついに――
「………………撤回する」
「ふふっ、よろしいですわ」
私はにっこりと微笑んだ。
ええ、分かっていたわ。この王太子にそんな決断力があるはずがないもの。
「まぁ、殿下。三度目ともなると、そろそろ笑い話にもなりませんわね」
「ぐっ……」
私は扇をゆっくりと開き、優雅に微笑む。貴族たちの視線が集まる中、アルバートはもはや抜け道を探しても見つからないと悟ったのか、俯いて震えていた。
――本当に学習しないお方。
「では、これで話は終わりですわね?」
「……あぁ」
しょんぼりと肩を落とす王太子を見て、貴族たちは失笑を漏らす。一方、エミリナは未だに事態を受け入れられないのか、不安げな表情を浮かべていた。
「そ、そんな……! 殿下、約束なさったではありませんか……!」
「えっ!? あ、いや、それは……」
「わたくしのために、婚約を破棄すると……!」
「いや、でも、無理だって……!」
「殿下……っ!!」
――泣きそうになっている聖女様。
――オロオロする王太子。
……もう、これ完全に婚約破棄どころか別の問題に発展しているのではなくて?
私は深いため息をつくと、アルバートをじっと見つめた。
「殿下、ひとつお聞きしてもよろしいかしら?」
「な、なんだ……?」
「殿下は私と婚約破棄をしたいのですか? それとも、エミリナさまを選びたいのですか?」
「えっ……」
アルバートは絶句する。エミリナもハッと息をのんだ。
「まさか……聖女さまに言われたから、というだけで、婚約破棄を口にしているのではありませんよね?」
「………………」
「つまり、殿下はご自身の意思ではなく、聖女さまの感情を優先して決断なさっていると?」
「そ、そんなことは……!」
「では、聖女さまを選びたいと?」
「……えっと……」
沈黙。
――ねぇ、本当に何も考えてないのね、この王太子。
「なるほど。つまり、殿下はどちらも選ぶつもりはない、けれど婚約破棄だけはしようと?」
「ち、違っ――」
「どちらかを選ぶことすらできないようでは、将来王となる資格はありませんわね」
「!?」
周囲の貴族たちが一斉にざわめき出す。
「お、おいソニア!? 今のはちょっと言いすぎじゃ――」
「いいえ? まったくもって正論ですわ」
私は扇をパタンと閉じ、微笑む。
「殿下は、国政に関わる重大な決断を、感情と勢いで三度も覆しました」
「ぐっ……」
「それはつまり、殿下が王になったときも、このように感情で国の命運を左右する可能性があるということです」
「そ、そんなことは……!」
「ありませんと断言できますか?」
ビシッと指摘すると、アルバートは口をパクパクさせて何も言えなくなる。
――まぁ、無理よね。実際にそうしてるんですもの。
「も、もういい! もう何も言うな!」
ついにアルバートは両手で頭を抱え、逃げるように大広間を飛び出した。
「殿下、待ってくださいっ!」
聖女エミリナが追いかけるように叫ぶ。しかし、その声は空虚に響くだけで、アルバートの足音が遠くなるとともに、静寂が広がった。
「あらあら……」
まさかの王太子、戦線離脱。
その場には微妙な空気が流れたが、私が軽く肩をすくめると、貴族たちは笑いを抑えきれずにクスクスと囁き合い始める。
「……ふふ。お強いですね、侯爵令嬢」
突然、隣から声がした。
私はそちらを向く。
「……あなたは?」
そこにいたのは、漆黒の髪を持つ青年だった。深い紫の瞳が私をじっと見つめている。
――この方、確か……
「ルイン・ベイレフェルト公爵。よろしくお願いします、ソニア・グラント殿」
「まぁ、公爵閣下」
これはまた、思わぬ人物が登場したわね。
「あなた、まさか……」
「ええ。馬鹿王子の後始末をするために来ました」
――さて、どうやらここからは新たな戦いが始まりそうね。