第十八話「馬鹿王子、庶民の生活を知る」
「……やるしかないのか……?」
玉座の間の隅で、アルバート殿下は掃除道具を手に途方に暮れていた。
「ええ、当然でしょ?」
私は優雅に微笑みながら、扇を軽く仰ぐ。
「殿下は王宮の主。つまり、この城をきれいに保つ責任があるわけよ。今まで使用人たちがどれほど大変な仕事をしてきたか、身をもって学ぶのに絶好の機会ね」
「だからって、俺がモップがけまでしなくちゃならないのか……?」
「ええ、もちろん」
私は容赦なく頷いた。
「それにね、ただの掃除じゃないわよ。綺麗にできなかったら、やり直しだから」
「は!? そんな……!」
殿下は真っ青になった。
「掃除は手を抜いてはいけないのよ、殿下。国の象徴である王宮が汚れていたら、国民も不安になるわ。それに、誰かにやらせるだけじゃ、本当の大変さは理解できないもの」
「そんな理屈……!」
「ルールはルールよ。頑張ってね、殿下?」
私はにっこり笑い、エミリナとルイン公爵と共に、少し離れた場所から見守ることにした。
「くそぉ……やるしかないのか……」
殿下はしぶしぶモップを手に取り、床を磨き始めた。ぎこちない動きだったが、本人なりに真剣だ。
「……ふう、こんなもんだろう」
数十分後、殿下は汗をぬぐいながら顔を上げた。しかし――
「ダメね」
「は!? なんでだよ!?」
「全然磨けてないわ。ほら、まだ汚れが残ってる」
私は扇で床を指し示す。たしかに表面は少しきれいになっているが、よく見ると細かい埃が残っていたり、拭きムラがある。
「やり直しね」
「そんな……」
絶望する殿下の肩を、ルイン公爵がぽんと叩いた。
「……まあ、最初はこんなものだろう。だが、王宮を維持することがいかに大変か、少しは理解できたのでは?」
「……くそっ……」
殿下は悔しそうにモップを握りしめた。
「さ、次はもっと丁寧にね?」
私は微笑みながら、殿下の頑張りを見守ることにした。
***
「……市場、か……」
翌朝、アルバート殿下は王宮の門の前に立ち、深いため息をついた。
「さあ、行きましょうか?」
私は殿下の前に立ち、馬車へ乗るよう促す。
「本当に行くのか……」
「ええ、もちろんよ。市場体験は今日の課題なんだから」
「くそ……」
殿下はしぶしぶ馬車に乗り込んだ。
市場に到着すると、活気のある人々の声が響き渡る。新鮮な野菜や果物が並び、商人たちが元気よく商品を売り込んでいる。
「うわ……こんなに人がいるのか……」
殿下は驚いた様子で辺りを見回した。
「当然よ。庶民の暮らしは、こういう場所で成り立っているの」
「俺、こんな場所来たことないぞ……」
「でしょうね」
私は扇を開きながら微笑む。
「今日は、殿下に"庶民の視点"を学んでもらうわ。実際に市場の空気を感じ、商人たちと話をし、買い物をするのよ」
「俺が……?」
「ええ。ほら、さっそく行きましょう」
私は殿下の腕を引いて市場の中へ進んだ。
「いらっしゃい! 新鮮な果物はいかがですか!」
「今日は野菜がお買い得ですよ!」
「おお、これは良い品だな……!」
市場の活気に圧倒される殿下。彼は明らかに落ち着かない様子だった。
「さあ、殿下。何か買ってみて?」
「俺が……?」
「ええ、庶民の暮らしを体験するのが目的なんだから」
殿下は戸惑いながらも、果物屋の前に立つ。
「えっと……このリンゴを……」
「はい、三つで五銅貨ですよ」
「……五銅貨?」
殿下は財布を取り出し、戸惑いながら銅貨を数えた。
「えっと……これで足りるか?」
「はい、確かに!」
商人はにこやかにお釣りを渡す。
「……おお、買えた……」
殿下は少し感動したようにリンゴを見つめた。
「ほら、簡単だったでしょ?」
私はくすっと笑った。
「殿下、これからは庶民の視点を学ぶことが必要なの。庶民の暮らしを知らずに国を治めるなんてできないもの」
「……そうかもしれない……」
殿下は少し神妙な顔になった。
「さあ、次はもっと違うものを買ってみましょうか?」
私は殿下の腕を引き、市場の奥へと進んでいく。
市場での買い物に少し慣れてきたアルバート殿下は、次なる試練――「値切り」に挑むことになった。
「さあ、次は値切り交渉よ」
私は扇を開きながら微笑む。殿下は警戒するように私を見た。
「……交渉? つまり、安く買うってことか?」
「ええ。市場では、品物の値段が多少上下するのは当たり前なの。特に庶民にとっては、少しでも安く買うことが生活を豊かにする手段の一つよ」
「でも、値切るのって……なんか、せこくないか?」
殿下の言葉に、私はため息をついた。
「殿下、王族だからといって金銭感覚がないままでは困るのよ? 国の財政を考える上でも、適正な価格を見極める力は必要なの」
「うっ……」
痛いところを突かれたのか、殿下は目を逸らした。
「それに、商人も売れ残るよりは安く売ったほうがいい場合もあるの。交渉次第では、どちらにとっても利益になるのよ」
「そ、そういうものなのか……」
「じゃあ、実際にやってみましょうか?」
私は殿下の背中を押し、八百屋の店先へと向かわせた。
「いらっしゃいませ! 新鮮な野菜はいかがですか?」
恰幅の良い八百屋の主人が、活気のある声で呼びかける。店先には瑞々しい野菜が並んでいた。
「えっと……このジャガイモ、いくらだ?」
「三つで六銅貨ですよ、坊ちゃん!」
「……坊ちゃん?」
「坊ちゃんじゃなくて王太子なんだけど……まあいいわ」
私は小声でツッコミを入れた。殿下は少し戸惑いながら、値切りを試みる。
「そ、それを……五銅貨にしてくれないか?」
「五銅貨? いやいや、これでもうちの畑で育てた上等なジャガイモですよ? 六銅貨でも安いくらいだ!」
八百屋の主人は腕を組み、頑として譲らない様子だ。
「ええと……じゃあ……五銅貨にしてくれたら、また買いに来る、とか……」
「ん? 坊ちゃん、これからも来てくれるのかい?」
「そ、そうだ! 俺はこれから市場で買い物を覚えるんだ!」
「ほう、それなら……」
八百屋の主人は顎に手を当て、じっくり考える素振りを見せた。
「……まあ、せっかく坊ちゃんが頑張ってるしな。五銅貨でいいだろう!」
「本当か!?」
殿下の顔がぱっと明るくなる。
「おお、やったな殿下」
ルイン公爵が肩を叩く。エミリナも微笑みながら拍手した。
「交渉成立ね。おめでとう、殿下」
私は殿下にジャガイモを渡しながら微笑む。
「これが市場の醍醐味よ。適切な交渉ができれば、より良い取引ができるの。殿下、今の経験を活かして、もっと上手に交渉できるようになってね?」
「……ああ、なんか楽しくなってきた!」
こうして、アルバート殿下の掃除体験と市場体験は続いていった――