第十六話「馬鹿王子、逃亡(再び)」
「……もう、無理だ……」
アルバート殿下が限界を迎えたのは、王子様レッスン三日目の朝だった。
私はいつものように朝食の席に殿下を呼びに行ったのだが――
「殿下がいない?」
「はい、お部屋にも、庭にも、お城の中には見当たりません……」
侍従が慌てた様子で報告してくる。
「また逃げたのか……」
私は呆れてため息をついた。ほんの数日前に捕獲したばかりなのに、もう二度目の逃亡とは。懲りない人だ。
「ルイン、どう思う?」
「そうだな……前回は適当に逃げた感じだったが、今回はどうやら本格的に身を隠すつもりらしい」
ルイン公爵が腕を組みながら言った。
「本格的に?」
「馬車も使わず、単独行動。着替えや簡単な食料も持ち出している。準備していたな」
「……逃げることにだけは本気なのね」
まったく、別のことにこの情熱を注いでくれればいいのに。
「エミリナ、あなたは何か知らない?」
「え? わ、わたくしですか?」
エミリナはきょとんとし、それから慌てて手を振った。
「いえ、何も! 昨夜は普通にお休みになられていましたし……ただ、朝食の前に少しそわそわされていましたけど……」
「そわそわ?」
「ええ、何か決意したような顔をしていましたわ」
――決意。
つまり、昨夜の時点で逃げることを考えていた、ということか。
「ふむ。では、まずは城の外に逃げたと考えていいだろうな」
ルインが顎に手を当てて言う。
「けれど、そんな簡単に見つかるはずは……」
「いや、見つかるわ」
私は確信を持って言った。
「だって、殿下は王子としての教育を受けてきた人間よ? 貴族の習慣が染みついているわ。逃げたといっても、完全に庶民の暮らしができるとは思えないもの」
「なるほど……」
ルインは納得したように頷いた。
「では、彼の"居心地の良さ"を求める習性を利用するわけだな」
「ええ。さっそく王都の高級宿や、貴族向けのサロンを調べさせましょう。きっとどこかにいるはずよ」
こうして、アルバート殿下の逃亡劇第二幕が開かれた。
もちろん、私がそう簡単に逃がすはずがないけれど。
***
「王都の高級宿と貴族向けのサロンを調べさせているけれど、まだ見つからないわね……」
私は王宮の書斎で報告を聞きながら、扇をぱたりと閉じた。
「案外、学習したのかもしれん」
ルイン公爵が淡々とした口調で言う。
「前回、貴族の屋敷に身を寄せたせいであっさり捕まった。今回はもう少し慎重に動いている可能性が高いな」
「慎重に、ね……」
私は考える。確かに殿下がまともに頭を使ったとは考えにくいけれど、これまでの生活習慣を急に変えるのも難しい。つまり――
「隠れる場所を"多少の快適さを伴う場所"にしている可能性が高いわね」
「おそらくな。安宿や貧民街に身を隠すような根性はないだろう」
「うん、絶対にないわね」
「では、少し視点を変えるとしよう」
ルインは静かに続ける。
「貴族の庇護を受けるのではなく、自分で何とかできる範囲の"快適な場所"を確保したとしたら?」
「……となると、選択肢は狭まるわね」
私は扇を軽く叩きながら、可能性を考える。
①貴族向けの隠れ家的な宿
②誰にも知られていない、城の外れの別宅
③王都にある趣味のサロンや秘密の溜まり場
「サロンや溜まり場はすでに調べさせているし……城の別宅の可能性は?」
「一応、確認させているが、今のところ反応はないな」
「じゃあ、やっぱり宿ね」
「宿と言っても、王族が気軽に泊まれるような宿は限られている。身分を隠して潜り込むにしても、変に豪華な場所では目立ちすぎる」
「となると……」
私は立ち上がった。
「ちょっと調べてくるわ」
「自ら動くとは珍しいな」
「ええ。だって、もう殿下を追いかけるのにも疲れてきたし、さっさと捕まえて更生計画を再開させたいもの」
私は微笑み、エミリナに声をかけた。
「エミリナ、あなたも来る?」
「え? わ、わたくしも?」
「ええ、どうせなら"聖女が馬鹿王子を捕獲する"という偉業を成し遂げてみるのも面白いと思わない?」
「……そ、それは確かに」
「では決まりね。さあ、馬鹿王子を狩りに行きましょう!」
私は意気込んで王宮を後にした。
***
「――最高だ……!」
アルバート殿下は、ふかふかのソファに身を沈め、心の底から安堵のため息をついた。
王宮での厳しい"更生計画"から逃れ、ついに自由を手に入れたのだ。
「もう朝から鍛錬だの勉強だの言われることもない……! ここなら誰にも邪魔されず、好きなだけ怠けられる……!」
彼が身を隠しているのは、王都の片隅にある"隠れ家"だった。
――と言っても、まさか粗末な宿にいるわけではない。
アルバート殿下が選んだのは、高級ではないが落ち着いた雰囲気のある貴族向けの宿。表向きは"余所者の商人や学者が短期間滞在するための宿"となっており、身分を隠すにはちょうどいい。
しかも、ここには彼が以前出資した"とある人物"がいた。
「殿下、お飲み物をどうぞ」
優雅にティーカップを差し出すのは、宿のオーナーであるベルナール。
彼は元貴族でありながら、今はこの宿を経営し、ひっそりと暮らしている人物だった。かつて財政難の折、アルバート殿下が少しばかり援助した縁で、今回の"隠れ家"を提供してくれたのだ。
「ベルナール、お前はいいやつだ……! 俺の味方になってくれるんだな……!」
「ええ、もちろんですとも。とはいえ、殿下がこうして身を隠しているのを知られれば、大ごとになりますが……」
「大丈夫だ! 俺はもう王太子なんかやめる!」
アルバート殿下は堂々と宣言した。
「好きな時に起きて、好きな時に食べて、好きな時に寝る! そんな自由な生活をここで満喫するんだ!」
「……それはまるで、駄目になった貴族の成れの果てのようですね」
「なにか言ったか?」
「いえ、なにも」
ベルナールは優雅に微笑んだ。
だが、アルバート殿下はまだ気づいていなかった。
――すでに"狩人"たちが、彼の居場所に迫っていることを。
***
「なるほど。ここね」
私は宿の前で腕を組み、満足げに頷いた。
「……どうして、こんなに早く突き止められたのですか?」
エミリナが驚いたように私を見つめる。
「殿下の考えることなんて単純なのよ。王宮にいれば厳しく管理されるから逃げ出す。でも、極端に劣悪な環境には耐えられない。つまり"それなりに快適で、でも目立たない場所"を選ぶしかないのよ」
「ソニア様、本当に容赦がないですね……」
「当然よ。さて――行くわよ、エミリナ」
「えっ? ま、待ってください、どうやって捕まえるのですか?」
「ふふ……簡単よ」
私は微笑み、そっと扇を開いた。
「このまま"優雅に"殿下を狩りに行くわ」
逃げ場はもうないわよ。アルバート殿下――!