第十四話「馬鹿王子、社交界デビュー(今更)」
「無理だ! 絶対に無理だ!」
朝から殿下の叫び声が王宮に響き渡った。私は扇を軽く鳴らしながら、彼を冷静に見つめる。
「何が無理なの?」
「社交界に出るなんて聞いてない!! そんなの急すぎるだろ!」
「いいえ、これは以前から決まっていたことよ。ただ、殿下が"聞いてなかった"だけ」
「……ぐっ」
殿下が唇を噛む。エミリナが気まずそうに微笑んだ。
「でも、アルバート様、これも王太子として大切なことですわ」
「うっ……」
「それに、すでに準備は整っているの。殿下には今夜の舞踏会に参加してもらうわ」
「舞踏会!? ちょっと待て、ダンスの練習はまだ完璧じゃないぞ!?」
「ええ、だからこそ"実戦"で鍛えるのよ」
「お前、鬼か!?」
「違うわよ、教育者よ」
私はさらりと答えた。ルインが静かに頷く。
「確かに、実戦で鍛えるのは効率が良いですね」
「そうでしょう?」
「お前ら……!!」
殿下は涙目になりながら頭を抱えた。
***
舞踏会の夜。
殿下は意を決したように正装し、私たちの前に姿を現した。黒と金を基調とした豪華な軍服風の礼装に身を包んだ彼は、普段の情けなさが嘘のように立派に見える。
「……似合ってるじゃない」
「えっ……?」
「まさかここまできちんと着こなせるとは思わなかったわ」
「お、おう……」
私は冗談半分で言ったのに、殿下は珍しく照れている。エミリナが小さく笑った。
「アルバート様、とても素敵ですわ」
「そ、そうか?」
「さあ、行くわよ。今夜は殿下の社交デビュー(今更)だもの」
「ぐぬぬ……」
殿下はしぶしぶと舞踏会の会場へと向かった。
***
舞踏会の会場に足を踏み入れると、多くの貴族たちが殿下の登場にざわめいた。
「おや……?」
「アルバート殿下が舞踏会に……?」
「珍しいこともあるものね」
殿下の名誉のために言っておくと、彼がまったく舞踏会に出たことがないわけではない。だが、ここ数年はほとんど顔を出さず、出ても端で酒を飲んでいるだけだった。
そんな殿下が、今夜は堂々とした姿勢で会場に入ったのだから、貴族たちが驚くのも無理はない。
「ほら、胸を張って」
「そ、そう言われても……」
私は扇を使って殿下の背中を軽く押す。彼はぎこちなく背筋を伸ばした。
「アルバート殿下、ご機嫌麗しゅう」
美しい金髪の令嬢が殿下に向かって優雅にお辞儀をした。彼女は侯爵家の令嬢で、社交界ではかなりの人気を誇る女性だ。
「どなたかと踊られるご予定は?」
「えっ……?」
殿下は一瞬、私に助けを求めるような視線を送ってきた。
「ほら、王太子ならエスコートくらいできるでしょう?」
「くっ……」
殿下は一度深呼吸し、震える手で侯爵令嬢の手を取った。
「よ、よろしければ、一曲……」
「ええ、光栄ですわ」
私は遠くから見守りながら、小さく微笑む。
「さて、殿下の社交デビュー、成功するかしら?」
ルインが静かに紅茶を飲みながら言った。
「失敗するに賭けよう」
「エミリナは?」
「えっと……わたくしは成功すると思いますわ」
「じゃあ、私は大失敗に賭けるわ」
「お前ら、俺のことを何だと思ってるんだ!?」
遠くで殿下の叫びが響いた。
***
「う、うまく踊れるかな……」
殿下が小声で呟く。
「落ち着いて、殿下。リズムに乗れば、自然と体が動くわ」
「リズムって、そんな簡単に……」
楽団がワルツを奏で始める。侯爵令嬢は優雅な微笑みを浮かべながら、殿下の手を取った。
「さあ、殿下。私をリードしてくださいませ」
「……わ、わかった」
殿下は深呼吸し、一歩前へ踏み出した――が。
「……あっ」
その瞬間、彼の足がもつれ、侯爵令嬢のドレスの裾を踏みつける。
「きゃっ!」
「わ、悪い!」
慌ててバランスを取ろうとするも、今度は自分の足を踏み、盛大に転びかける殿下。
会場が静まり返った。
「……」
「……」
「あっははははは!!!」
突然、侯爵令嬢が笑い出した。
「殿下、とても大胆なダンスの始め方ですこと!」
殿下は顔を真っ赤にして立ち上がる。
「す、すまん!」
「大丈夫ですわ。もう一度、最初からやり直しましょう?」
「お、おう……」
殿下が再び手を取ると、侯爵令嬢は優雅に微笑んだ。
「大丈夫。ゆっくりやればいいのですわ」
会場の貴族たちが、興味深そうに見守る中、二人のダンスが始まった。
◇◆◇
「……意外となんとかなってるわね」
私は扇で口元を隠しながら、殿下のダンスを見守った。
「初めのミスは痛かったが、少しは様になってきたな」
ルインが腕を組みながら呟く。エミリナもほっとしたように微笑んだ。
「アルバート様、頑張っていますね……」
殿下はぎこちないながらも、一生懸命ダンスを続けていた。最初の転倒があったためか、周囲の視線も温かい。
――これは、予想以上にうまくいくかもしれない。
私はそう思い始めたが、次の瞬間、殿下がやらかした。
「うわっ!」
回転のタイミングを間違え、バランスを崩した殿下が、侯爵令嬢の手を離してしまったのだ。
「きゃっ!」
令嬢は体勢を崩し、そのまま倒れかけ――
「っと!」
間一髪、殿下が彼女の腰を抱え込み、支えた。
会場がどよめく。
「……」
「……」
「きゃあああ!! 素敵ですわ、殿下!!」
「なんと劇的な展開!」
「これも計算された演出かしら!?」
いや、絶対に違う。
私は心の中でツッコミを入れたが、貴族たちは大盛り上がりだった。
「こ、これは……」
殿下は自分の手を見つめ、次に令嬢を見た。
「だ、大丈夫か……?」
「ええ、ありがとうございます、殿下」
侯爵令嬢は恥ずかしそうに頬を染めながら、殿下の手を取る。
――結果オーライ?
私は殿下を見つめながら、微妙な気持ちになった。
「……もしかして、これで人気が上がるのかしら?」
ルインが淡々と呟いた。
「意図していないのに、自然と"ドラマチックな展開"を生むのは、ある意味才能ですね」
エミリナが感心したように言う。
「……まさかの計算外の成功?」
私は扇を閉じながら、殿下の社交界デビュー(今更)が思わぬ形で大成功を収めつつあることに、なんとも言えない気持ちになったのだった。