第十二話「馬鹿王子、逃亡未遂」
「……くそっ、このままじゃ本当に俺が更生してしまう……!」
翌朝、殿下は決意を固めていた。そう、"逃げる"という決意を。
「筋肉痛が治るまで休むとか、優しさってものはないのか……」
昨日の鍛錬でボロボロになった身体を引きずりながら、殿下はこっそり寝室を抜け出した。
目指すは城門――ではなく、"比較的安全な避難場所"。つまり、彼にとって最後の砦である王宮図書館だ。
「ここならソニアもそう簡単に俺を見つけられないはず……!」
確かに図書館は静かで目立たない。しかし――
「……殿下」
「ひっ!?」
甘い声が背後から降りかかった。振り向くと、そこには淡い笑顔を浮かべたエミリナが立っていた。
「こ、これは……ただ、ちょっと……本でも読もうかと……」
「まぁ、それは素敵ですわね。でも――」
エミリナは優雅に微笑みながら、殿下の腕をそっと取った。
「ちゃんと鍛錬の時間までには戻りましょうね?」
「……え?」
「わたくし、ソニア様と約束したのです。"殿下が逃げそうになったら、わたくしが止めます"って」
「聞いてないぞそんな約束!!」
「ふふ、殿下が聞いている必要はありませんもの」
「俺の意思は!?」
「大切なのは、"王太子としてあるべき姿"ですわ」
エミリナはにこやかに言い放ち、そのまま力強く殿下の腕を引いた。
「う、うそだろ……!? こんな細腕で……!?」
「信仰の力ですわ」
「どういう理屈だそれは!!」
殿下の必死の抵抗もむなしく、彼はエミリナに連れ戻されてしまった。
そして――
「はぁ……やっぱり逃げようとしたわね」
腕を組み、待ち構えていた私はため息をつく。
「馬鹿王子、逃亡未遂の罰として――今日の鍛錬は倍よ」
「いやだあああああ!!!」
無慈悲な宣告が響き渡る中、ルイン公爵は優雅に微笑んでいた。
「よかったですね、殿下。鍛え甲斐があるというものです」
「お前も悪魔かあああ!!!」
こうして、馬鹿王子の更生計画はさらに厳しさを増していくのだった。
***
「なあソニア、そろそろ鍛錬以外のことをやらせてくれ……」
午前の鍛錬が終わり、昼食の時間。殿下はぐったりした様子でテーブルに突っ伏していた。
「は? まさかもう音を上げたの?」
「違う、そうじゃない! 俺だって王太子らしいことを学びたいんだ!」
「……ほう」
珍しくまともな発言が出たものだから、私は思わずじっくりと殿下を観察してしまう。
「な、なんだよ……」
「いや、今の発言、ちゃんと録音しておきたかったなと思って」
「そんなこと言わなくてもいいだろ!」
「で? 具体的に何を学びたいの?」
「……その、社交とか?」
「……は?」
思わず聞き返してしまう。
「社交? 殿下が?」
「なんでそんなに疑わしそうな目をするんだよ!」
「だって、今までろくに社交に興味持ってなかったでしょ?」
殿下はむっとした顔をして、スプーンでスープをかき混ぜた。
「まあ……その……」
「まさか、また逃げる口実じゃないでしょうね?」
「違う! いや、違うと思う! たぶん!」
「たぶんの時点で怪しいわ」
「俺だって、少しくらい王太子らしいことをしないといけないって思ってるんだよ……」
その言葉には、ほんの少しだけ真剣さが混じっていた。
……まあ、逃げるための方便ではないのかもしれない。
「ふーん……じゃあ、近いうちに実践の場を設けてあげる」
「え?」
「ちょうど来週、宮廷で夜会があるのよ。殿下も参加なさい」
「……夜会……?」
「ええ、貴族の令嬢や紳士たちと優雅に会話して、ダンスでも踊るのよ」
「……」
殿下の顔が明らかに引きつった。
「お、おい、ダンスって……」
「あら、まさか踊れないとか言わないわよね?」
「…………」
「……踊れるの?」
「……かろうじて」
「それ、絶対に踊れないやつじゃない」
「お前が怖い顔するからだろ!」
「じゃあ今からレッスンね」
「えええええ!? まだ昼食も終わってないのに!?」
「馬鹿王子が社交界デビューするんだから、準備は徹底的にやるわよ」
「た、助けてくれルイン!」
「王太子として避けては通れぬ道ですね。頑張ってください、殿下」
「エミリナぁ!!」
「ふふ、きっと素敵なダンスになりますわ」
「誰か味方してくれえええぇ!!」
こうして、馬鹿王子の"社交界デビューに向けた地獄のレッスン"が幕を開けた。