明日の後悔
1章 あじさいの道
7月。
いつも通る道には、あじさいの花が咲いている。
昨日まで青かったあじさいは、今日は少し紫色になっていた。
もうすぐ、雨が降るのかも。
どうせなら、服が絞れるくらいの土砂降りの雨が降ってくれないだろうか。
仕事を終えた青田優衣は、少しずつ暗くなってきた空を眺めた。
今日の夕方、彼が家にくる。
明日は2人でどこか泊まりに行こうと、彼は旅行を計画していた。
自分は出掛ける事どころか、交際する事すら、きちんと返事をしていないのに。
いつまで、誰にでも都合のいい人でいるつもりなんだろう。
少し前の自分なら、いくらでも断る理由があったのに。
仕事とか、家族とか、自分をよく見せようとする自尊心のせいで、そこから、逃げる勇気すら見つからない。
低くなってくる雲が、家から出られないような雨を降らせてくれないか、優衣はそう願っていた。
高校を卒業した後、地元を離れ、大学で看護師の資格を取った。
4年間の奨学金を返還するために、付属の大学病院で、4年間勤めた。
看護師になって、5年目の今年。
こっちに戻ってくるよう両親の強い説得で、地元にある総合病院に転職した。
大学病院では、仕事を覚えるのにも、多くの職員が順番を待つ。ひとつの事を覚えたら、時間を掛けて仲間と振り返り、確かな知識として身につける。
そんな守られた毎日から、1人で多くの仕事を抱える今の環境に移動した優衣は、同じ5年目の職員より数段遅れていると噂された。
朝、退院する患者を゙見送ると、急に入院が入り、準備に追われる。医師から指示された点滴を用意していると、別の患者の検査の時間が迫ってくる。
エレベーターを待ちながら、仕事が後から後から追いかけてきて、看護師さん! と呼ばれていることにも気がつかない。
「ねぇ、看護師さん、お父さんの爪を切ってくれない? ずいぶん伸びて、タオルに引っ掛かるの。」
「わかりました。後で切りますから。」
約束した患者さんは、その3日に亡くなった。
「ごめんなさい。すぐにくれば良かったのに。」
「いいよ、みんな忙しいんだから。最後に切ってもらえて、良かったね、お父さん。」
家族と少し話しをしてると、
「青田さん、ちょっと。」
優衣は、看護師長から呼ばれた。
「早く家族を部屋から出してちょうだい。いつまででも感情に浸ってたら、仕事が進まないわよ。さっさと処置やって、ベッドを空けて!」
大学病院で自分が身につけた知識や理論なんか、いつ役に立つのだろう。ここの現場では、自分を守るほんの少しの知恵だけが必要なんだ。
夜勤が明けて、1人で家へ帰る。
ヘトヘトになった自分の話しを、聞いてくれる同僚もいない。
こんなはずじゃなかったのに。
ただ疲れて、寝るだけの日々。
目と手がいくつあっても足りる事はない。
そんな現場なのに、看護師達は、どうして世間話しなんかして、笑って仕事ができるんだろう。
自分が目指していたものって、本当はこんな感じだったのかな。
忘れていたもう一人の自分が、また少し顔を見せる。
優衣は缶ビールを空けて、立ったまま飲んだ。
ご飯、いらないや、このまま寝よう。
両親の住む実家から、少し離れた職場へ通う事もできたが、不規則な自分生活を、教師をしている家族に知られるのは恥ずかしかった。
こっちへ戻ってきて喜んだ両親の話しも聞かず、優衣は病院の近くにアパートを借りていた。
救命士の資格を取った朝川哲人は、地元の消防に勤めてから5年になる。
自分は救命士の資格を持っているから、本当は火事の現場なんて行きたくもなかったが、田舎の消防署に勤務するという事は、当直のローテーションの駒になる。
最新の医療機械の使い方も理解できない上司達を、朝川は心の中でバカにしていた。
3ヶ月前、患者を他院へ搬送する救急車の中で、看護師になった高校の同級生の優衣に再会した。
大学病院からやってきたという優衣は、こんな田舎で勘違いしている奴らの事を、きっと心の中で笑っているはず。
都会から来たという割には、薄化粧で控え目な優衣。威張り散らす地元の看護師とは違い、物腰が優しくて穏やかな優衣に、朝川は恋をした。
高校の頃、ずっと同じクラスだったのに、優衣は自分の事など覚えていないようだった。
無理もない。
自分は3年間、サッカーに明け暮れた。
サッカー部のマネージャーだった数人の女の子と、途切れる事なく付き合ってきた。
時には、他校の女子からも告白される事もあったし、自分から何もしなくても、女の子はいつも周りにいた。
優衣の事は、頭が良かった事は覚えているけど、地味で印象が薄く、自分の恋愛対象ではなかった。優衣自身も恋愛には興味などないようで、仲のいい数人の友達しか話さないせいか、目を合わせた事があったかどうかすら、記憶にも残っていない。
半年前。
1年間付き合っていた彼女が、突然結婚の話しを始めた。
仕事でもある程度頼られるようになってきたのに、自分はこんな何もない女と結婚するのかと思ったら、朝川はその子にあっさり別れを告げた。
かわいい顔をしていたし、別れたくないとけっこうしつこかったから、もう少しだけ遊んでやろうと思っているけど。
1人になって半年。
こんなに誰かが隣りにいなかった期間はない。そろそろ、本命の彼女でも作ろうか、そう思っていた頃、搬送を終えて、救急車の中で疲れて眠る優衣に、朝川は声を掛けた。
「青田さん?」
「そうですけど。」
「ずいぶん、疲れてるね。」
「すみません、昨日は夜勤だったから。」
「俺の事、覚えてる?」
優衣は朝川の名札を見た。
「朝川くん?」
「そう。」
「消防士になったの?」
「救命士の免許をとってからずっとここで働いてる。」
「そうなの。ここは隣りの町の病院への搬送が多いから大変だね。」
「仕方ないよ、それが仕事だから。」
「今日はこれで勤務は終わり?」
「うん。これで終わり。」
「じゃあ、これからご飯でも食べに行かない?」
優衣は少し考えていた。
いつも多くの人に囲まれていた朝川は、少し苦手だ。
「18時に山川って居酒屋で待ってるから。」
朝川は浮かない顔をしている優衣を、無理矢理誘った。
居酒屋に先に着いた優衣は、店から流れる曲を聞いていた。
先に来て待っていたら、なんだか誘ってもらった事が嬉しかったと、勘違いされそうで嫌だった。
朝川は、どうせ自分をからかっているだけなんだろうけど、少しだけ、誰かと話しをしたかった。
「今、もう一人きますから。」
優衣は店員にそう言うと、また曲を聴き始める。
ムラマサって、こんな感じだったっけ? どうしてメンバーが代わったのかな。
ナオのギターの音、すごく好きだったのに。
流れている曲は、学生の頃に追いかけていたバンドだった。
クラッシックしか聴いてこなかった優衣は、友達が貸してくれたムラマサのCDに、一瞬で心を奪われた。
少しかすれた声と、いろんな表情を見せるギターの音色、気持ちが高まった心臓が打つようなリズムに、勉強どころではなくなった。
友達とライブハウスに通う日々。
今まで優等生だった自分は、親からも先生からも初めて小言を言われた。
大学生の時は、たいして勉強もしてこなかったけど、なんとかこうして看護師になれた。
一緒にライブハウスに通っていた友達も、同じように看護師になって忙しく働いていた。
時々、会って朝まで飲んで、昔の話しをたくさんしていたのに、地元に帰ってからは、そんな友人もいない。
この町で暮らす事になった自分は、あい変わらず優等生を演じているし。
ナオの真似をして金髪に染めた最後の夏休み。
あれ以来、あんなふうに大きな声で、誰かの名前を呼んだ事があっただろうか。
「待った?」
朝川がきた。おしぼりで手を拭きながら、
「先に飲んでれば良かったのに。」
そう言った。
「私もちょっと前に着いたから。」
「ビールでいい?」
「うん。」
朝川はメニューを拡げると、自分のおすすめを次々と注文していった。
「よく、来るんだね。」
「職場でも来るし、友達とも来るからね。」
「朝川くん、ずっとこっちにいたの?」
「救命士の学校に3年間行って、こっちに戻ってきて5年目。青田さんは?」
「私はむこうの病院で4年勤めて、今年戻ってきた。」
「前の病院を辞めたのはなんで?」
「親からこっちに戻ってくるように言われてね。」
「そんな所からこっちにきても、何もないからつまらないだろう。勉強にもならないだろうし。」
「そんな事ないよ、こっちの方がすごく忙しい。」
「救急車の中で、ぐっすり寝るくらいだからね。」
「ごめん、本当に今日は眠たかった。」
朝川は笑った。
「あの病院なら、早川知ってる?」
「技師の?」
「そう、レントゲンにいるだろう。」
「いた。」
「早川が青田さんが帰ってきたって、言ってたから。」
「他には、ここにいる?」
「あんまり、いないかな。みんな出てってしまったし。」
2人で他愛もない話しをしているうちに、気がつくと時間は23時を過ぎていた。
「もう、帰る?」
朝川が優衣に聞いた。
「うん。明日、早いし。」
「家って、どの辺なの?」
「病院の近く。」
「それなら、一緒に帰ろうよ。俺もその辺だから。タクシー乗り場まで歩こう。」
「そうだね。」
2人はタクシー乗り方まで歩いていた。
「青田さん、彼氏いるの?」
「いないよ。」
「むこうでできなかったの?」
「うん。」
「それなら、俺と付き合わない?」
「朝川くん、彼女いるでしょう。いつも女の子に囲まれてたし。」
「それはもう、昔の事。」
朝川は優衣の肩に手を回した。
「こっちの子には飽きたんだ。みんな同じ話しばっかり。」
「それって、朝川くんが同じ事しか聞かないからでしょう。」
「青田さん、あい変わらず冷たいよね。早川の事も、この前振ったでしょう。」
「忙しい病院の中で話しをされても、困るし。」
「ひどいなぁ。早川が可哀想。」
「私はそういうやつなの。」
優衣は朝川が肩に回している手を解いた。
タクシーに乗ると、ムラマサの曲がかかる。
「ムラマサ、ずいぶん流行ってるんだね。」
優衣がそう言った。
「青田さん、この人達好き?」
「うん。ギターが代わって、ちょっと淋しいけど。」
「えっ、元々このメンバーじゃなかったの?」
「昔は別のギターがいたの。デビューする直前にメンバーが代わった。」
「ふーん。ねえ、青田さん、さっきの返事だけど。」
「忙しいから、そんな気もちになれないかな。」
優衣はそう言って話しをはぐらかした。
2章 あの日の鍵盤
朝川が家に来た。
ちゃんとした返事もできないまま、何度か会っているうちに、旅行に誘われた。
「明日早いから、今日はここに泊まるよ。」
食事を終えた朝川は優衣にそう言った。
「やっぱり変だよ。付き合ってもいないのに、泊まるとか、出掛けるとか。」
「それは、はっきりした言葉がないだけで、俺達、付き合ってると同じ事だよね。」
朝川は優衣を抱きしめた。
「朝川くん、私といたってつまらないよ。なんの話題もないいし、楽しい話しも出来ないし。」
「そんな事ないよ。大学病院からきた看護師と付き合えるなんて、あんまりはないからね。」
朝川は優衣にキスをした。
「ほら、これが答えでしょう。」
優衣は何も言えず下をむいた。
降ったり止んだりしていた雨は、本格的に土砂降りになった。
窓を叩く雨の音は、優衣の心を叩くようだ。
「さっきから、窓ばっかり見てる。」
朝川が優衣にそう言った。
「雨、止まないね。」
「朝までには止むんじゃない。」
「私は雨のほうが好きなんだ。人が少なくて落ち着くし。」
「変わってるね。晴れるほうが、気分がいいじゃん。」
優衣はあい変わらず窓を見ていた。
「優衣。」
「何?」
「いい加減、寝ようよ。明日早いし。」
「うん。」
布団に包まった優衣。
朝川は優衣の布団を取ると、静かに優衣を上から抱きしめた。
「ごめんなさい。」
優衣は小さな声で言った。
朝川は何も言わず、優衣の体にどんどん近づいてくる。
優衣は固く目を閉じ、こんな事、早く終わってくれないか願っていた。
明け方。
朝川が眠っている横で、優衣は明るくなっていく空を見ていた。
結局一睡もできなかった。
朝川は近くにいたら誰でも良かったのか。
そんなふうに思っている自分だって、受け入れてしまったじゃないか。
涙が出るくらいの恋愛なんか、一体どこにあるんだろう。
優衣はベッドから起き上がると、朝川を起こさないように支度を始めた。
机の奥にしまってあったムラマサのCDを出した。
デビューする前のムラマサには、まだナオがいる。
ナオが曲を書いてたのに、今は名前がどこにもない。
偽物だよ、こんなの。
あれだけ好きだったケンの声さえ、最近は歪んで聞こえた。
自分が朝川にしている事だって、みんな偽物のくせに。
「優衣、早いね。」
「うん。」
「なんか、今日いつもと違うよ。」
「何が?」
「化粧のせいかな。」
「そう?」
朝川は優衣にキスをした。
「雨、止んだね。」
優衣は精一杯笑顔を作った。
「俺は晴れ男だからね。」
朝川の車に乗った優衣は、いつも通る道に咲くあじさいを見た。
「今日は真っ青。」
「何が?」
「あのあじさい。」
「そう、全然気がつかなかった。」
朝川が選んだ旅館には、大きなグランドピアノがロビーにあった。
優衣がそのピアノを見ていると、弾いていいですよ、と仲居さんが言った。
「時々、ここの息子さんが仕事を終えて弾きにくるんですよ。なんでも弾けるから、好きな曲があったらリクエストしてください。」
「朝川くん、あとで来てもいい?」
「いいよ。そう言えば、学祭の合唱コンクールの時、優衣はいつもピアノを弾いてたよね。」
「そう。」
「ずっと習ってたの?」
「うん、ずっと。」
部屋についた2人。
窓から見える川は、昨日の雨のせいか水かさが増している。
「昨日、けっこう降ったんだね。」
優衣はそう言った。
「優衣。」
「何?」
朝川は優衣を後ろから抱きしめた。
「高校の頃、1回だけ隣りの席になったよね。」
「そうだった?」
「ぜんぜん、目も合せてくれなかった。」
「そうかな。」
「そうだよ。優衣は坂口達といただろう。」
「モエとね。」
「そっちじゃなくて、男の坂口。」
「坂口くんは、幼稚園から一緒にピアノ習ってたからね。」
「俺は話しに入れなくて淋しかったよ。」
「朝川くんには、たくさん周りにいたじゃない。」
「本当に好きになる子なんていなかった。」
「じゃあ、なんで付き合ったりするの?」
「時間潰しだよ。」
「ひどい。」
「優衣は違うよ。」
「そんな話しを聞いて、何も信じられない。」
優衣は朝川を見て笑った。
「もう、朝川くんはやめろ。」
「下の名前、知らないもん。」
「哲人だよ。いい加減、名前で呼んでよ。」
夕方。
優衣はピアノの前にいた。
朝川はお風呂に入っている。
「ピアノ、弾いてもいいですか?」
「どうぞ。」
フロントに声を掛けると、優衣はピアノの蓋を静かに開けた。
初めは昔練習していたクラッシックの曲を弾いていたが、しばらく練習してないと、なんだか納得がいかなくなり、ラジオから流れていたムラマサの曲を弾き始めた。
「ぜんぜん、違うよ。ほら。」
優衣は男性の声がする方を向いた。
スーツを着た男性は、優衣の隣りに座って曲を弾き始めた。
「よく、覚えてるようだけど、この曲はすごく複雑に作っているんだ。」
「ナオ……?」
「さっ、俺が弾く番だよ。」
優衣は立ち上がると、ピアノを弾くナオを見つめていた。
「優衣。」
朝川が呼んだ。
「もう、夕食だから部屋に戻ろう。」
「ちょっと待ってて。」
ナオはピアノを弾きながら、優衣をチラッと見た。
「いいから、戻ろう。」
朝川は優衣の手を掴んでエレベーターへ向かった。
夕食を終えた優衣はロビーを探したが、ナオはいなかった。
「朝川くん、ちょっと先に行ってて。」
優衣はフロントに行った。
「さっき、ピアノを弾いてた男性は、ここの人ですか?」
「そうです。時々、仕事が終ったら、ここにピアノを弾きに来るんです。」
「今日はもう帰りましたか?」
「家の方で、夕食を食べてると思いますけど。」
「あの、少し会えませんか?」
「よく来るんですよ。あの人のファンだったって人がね。でも、会えないって断ってるんです。」
「そうですか。」
優衣は外に出た。
昨日の雨を含んだ空気は、まだ生暖かい。
ナオ、ここにいたんだ。
初めて聴くナオのピアノなのに、ずっと前からそこで聞いていたような気持ちになる。
「どこに行ってたの?」
「ちょっと外。」
「散歩に出掛けるんなら、一緒にいこうよ。」
「ううん、外の空気を吸っただけ。」
「優衣の好きなムラマサって、刀の名前だろう。」
「そう。すごくキレる刀で、妖力があるの。」
「もっと、オシャレな名前にすればいいのに。曲と名前が合ってないよね。」
「昔はね、もっといろんな曲をあったの。」
「そんなにいいかな。俺にはわかんない。」
「朝川くんはいつも、何聞いてるの?」
「だから、朝川くんはもうやめなよ。」
「ごめん。ずっとそう呼んでるから、急に名前でなんて呼べないよ。」
「優衣、真面目だよね。俺はずっとサッカーやってただろう。スポーツなんて、みんな騙し合いだから。」
「今でもやってるの? サッカー。」
「今は仕事が忙しいから、ほとんど練習に行けてないよ。」
「そうなんだ。」
「なあ、優衣。」
「俺達もう27だろう。もう少し付き合ったら結婚しないか。」
「会ったばっかりなのに?」
「優衣となら、一緒になってもいいかなって思ってる。いい奥さんになると思うし。」
「ありがとう。もう少し考える。私、もう一回お風呂入ってくる。」
優衣は立ち上がった。
「じゃあ、俺も行くわ。」
お風呂上がり、少しのぼせて休憩所で水を飲んでいると、ナオが廊下を歩いていた。
「ナオ!」
ナオは優衣に気がついたようだったが、そのまま優衣の前を通り過ぎた。
「あの、」
立ち上がると少しめまいがしたけど、優衣はナオを追いかけた。
振り向いたナオは、
「何?」
そう言った。
「ピアノ、弾けるなんて知らなかった。」
どんな言葉を掛けたらいいか迷った優衣は、それだけ言うのが精一杯だった。
微笑んだナオはピアノの前に座ると、聴いたことのない曲を弾いた。
「優衣。またここにいたんだ。遅いから心配したよ。」
ナオのピアノに聴き入っていた優衣は、
朝川が隣りに来たのに、気が付かなかった。
「優衣!」
「あっ、ごめん。」
優衣はびっくりして、朝川の顔を見た。
ナオはずっとピアノを弾いている。
「もう少し聴いていてもいい?」
「わかった。部屋で待ってる。」
朝川は優衣の髪を撫でると、部屋に向かった。
ピアノを弾き終えたナオに
「なんて曲なの?」
優衣は聞いた。
「雨の音、みたいでしょう。」
ナオは優衣の右手を掴むと、鍵盤に置いた。
少しメロディを弾くと、優衣の右手を見る。
優衣はナオの奏でたメロディを同じように弾いた。
すぐにメロディを覚えた優衣を、ナオは驚いて見つめた。
覚えたくて、覚えているんじゃない。
ピアノを教えてくれた母は、よく聞いて! と、何度も優衣の前でピアノを弾いた。
もういいって!
私とお母さんの違いなんて、ぜんぜんわからない。
優衣は練習が長くなるのが嫌になり、いつの間に母の弾くメロディを一度で覚える様になった。
2つ上の姉は、とっくにピアノをやめた。
毎回、母とピアノの前で言い合いになり、気の強い姉のせいで、いつも自分にとばっちりがきた。
イライラして優衣にピアノを教える母は、音を間違えると、指をつまむ事さえある。
こんなに嫌な思いをして、どうしてピアノを続けないとダメなのか。自分はピアノなんて弾けなくても別に困らないのに。
「彼氏待ってるよ。」
ナオは立ち上がると、優衣にそう言った。
「いつも、ここで弾いてるの?」
「時々ね。」
「今度はいつ弾くの?」
「さあ。」
ナオはそう言って少し笑うと、玄関を出ていった。
金髪だった髪は塗れたように黒くなっている。
あんなに楽しそうに笑っていたはずのナオは、誰も寄せ付けない空気が漂う。
みんなそうやって、世の中に紛れていくんだ。
自分が夢中だった過去も、無茶してた過去も、明日には後悔になる。
部屋に戻ると、朝川が布団に寝転んでいた。
「なんかさ、こうやって2つ並んでると照れるね。」
「そうだね。」
「優衣の母親って音楽の先生だったっけ?」
「そう。」
「ピアノは強制?」
「そうだね。」
布団の端に座る優衣を、朝川は自分の方に引き寄せた。
「朝川くん、やっぱり、」
「何?」
「ううん、なんでもない。」
3章 本当の自分
「沙耶、ナオに会ったの。」
優衣は学生時代の友人、河合沙耶に電話をした。
「嘘! ムラマサのナオ?」
「そう。」
「ムラマサ、せっかくデビューしたのにナオがいなくなったから、私はもう嫌いになった。なんかケンも歌い方が変わったし。」
沙耶はそう言った。
「そうだよね。私達が好きだったムラマサは、もういないね。」
「赤点たくさん取って、レポートも書かないで、ライブハウスばかり行って、そうやって捧げた青春なのに、なんだろうね。曲だって、本当はナオが作ってたのに、新しいギターの人が当たり前のように弾いてて、なんかがっかり。」
「ねえ、沙耶。今度行かない? ナオがいる所。」
「えーっ、私、今妊婦だよ。」
「本当に?」
「来月、籍を入れるの。」
「知らなかった。」
「誰にも教えてないもん。」
「どんな人?」
「うーん。そんなに好きじゃないけど、結婚するならいいかなって人。」
「全くわかんない。」
「優衣は?」
「私の事はいいの。」
「なにそれ。」
「ねぇ、体調が良かったら行こうよ。子供できたら、自分の時間なんてなくなるし。私、迎えに行くからさ。」
ある日。
職場に知らない女の子が優衣を訪ねてきた。
「青田優衣さんって、どこにいますか?」
「私、ですけど。」
女の子は、優衣を上から下へと見つめた。
「話したい事があって。」
「もうすぐ、お昼休憩だから、外来の所で話そう。下で待ってて。」
昼休み。
外来の隅で、さっきの女の子が待っていた。
「青田さんって、北高の青田さんでしょう?」
「そう。あなたも北高?」
「そうです。私は2つ下の学年です。少し前まで、哲人と付き合ってて。」
「そうなんだ。」
「結婚の話しをしたら、急に別れようって言われたんです。私は、農協の臨時職員だから、結婚する対象じゃないんだって。」
彼女はうつむいた。
「今でも好きなんでしょう。」
「だって、今でも、時々来ますよ。結婚は別の人とするけれど、関係は続けようって。」
「そうなの?」
「哲人にとって、女なんか持ち物ですよ。隣りに置く子を自慢したいだけ。」
「あなたはこれから、どうするの?」
「哲人が選んだ人が自分よりブスだったら、心の中で哲人の事も、女の事も笑ってやろうと思ってました。私と関係を続けたいって言ったのは、きっと哲人は、いつか私の所へ戻ってこようとしているんだって。だけど、青田さんを見てたら、私は、哲人にそのうち本当に捨てられるんだと思いました。別れたくないです。どんな形でも、哲人と一緒にいたい。」
「朝川くんの事が好きなら、ずっと好きでいればいいでしょう。朝川くんに捨てられるのは、きっと私の方だから。」
優衣はそう言って、彼女に微笑んだ。
ナオを見掛けてから、2週間後。
優衣は連休を取って沙耶を迎えに行った。
沙耶の彼は、沙耶よりだいぶ年上の医者だった。
優衣が運転する車で、妊婦の沙耶が旅行に行く事に、彼は大反対だった。
「やっぱり、ダメだよ。女2人なら危ないし。それに、本当に君は運転大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。優衣は田舎で運転に慣れてるから。」
心配そうな沙耶の旦那を後に、沙耶はじゃあね、と言った。
優衣は車を走らせた。
「ごめんね、優衣。あの人すごい心配症で。」
「妊婦だもん、心配するのは仕方ないよ。こっちこそ、無理に誘ってごめん。」
「早く会いたいね、ナオ。」
「沙耶はレイが好きだったよね、ベースの。」
「そう。レイは赤い髪だったよね。私が赤で、優衣が金髪にして、最後の夏休み、2人とも無茶したよね。」
「レポート出てないって、突然、大学から呼ばれて、スプレーで髪の毛を黒くして学校に行った。」
優衣と沙耶は笑った。
「結局バレてさ、あの怖い橋田先生に、看護師になる自覚がないってずいぶん怒られた。ライブの時間が迫ってて、優衣がお腹が痛いって嘘を言って抜けてきたよね。」
「私達、普段から目をつけられていたから、ちょっとした事でも説教が長くて、女性としての品格とか、本当、しつこかったね。」
「入学した時は真面目だった優衣が、どんどん成績も下がって、派手になっていくから、橋田先生は、すごく心配してたらしいよ。ヤバい彼でもいるんじゃないかって。」
「結局、2人共こうして、看護師になれたんだし、真面目か不真面目な差って、そんなにないのかもね。」
「そうだよ。」
優衣の携帯がなった。
「出ないの?」
「運転してるし。」
「彼氏?」
「どうかな。」
「優衣、男の話しになると、いつもはぐらかすよね。」
「そうかな。」
「大学にいた頃、いたじゃない? あの、テニスやってたなんとか先輩。何回か会ったんでしょう? 彼、けっこう本気だったもね。」
「そんな事、あったっけ?」
「ほら、またはぐらかす。優衣、恋愛は優等生のまま。今、付き合ってる人は、いるんでしょう? さっきから、電話してきてる人。」
「そうだね。」
優衣は自分を訪ねてきた女の子を思い出していた。
「いつまでも、ナオって言ってられないよ。」
「そうだけど。ねえ、沙耶の彼は、いくつなの?」
「今年で38。」
「ずいぶん離れてるんだね。」
「彼はバツ1よ。前の奥さんに逃げられたみたい。あの束縛する性格なら、みんな逃げるかも。」
「沙耶はその性格を好きになったから、結婚するんでしょう。」
「好きじゃないよ。別に恋したわけじゃないけど、すごく大切にしてくれるから、それもいいかなって。彼はジャズをやってて、時々ドラムを叩くの。その時だけかな、この人が好きだわって思うの。」
「お腹の子、聞いてるよ。」
「結婚するって、そんなもんじゃない。好きって気持ちが続かなくても、お互い受け止められるようになるっていうか。こうして、子供ができたのってやっぱり、運命もあるのかもしれないけど。」
「そっか、そうだよね。」
「優衣の人は?」
「同級生。」
「へぇー、何してる人?」
「消防にいる。救命士なんだって。」
「救命士なの。それって、優衣が看護師してる時に会ったんでしょう?」
「そう。救急車の中でね。」
「よくあるパターンだよね。救急の現場で出会うのって、なんか運命感じるらしいもん。きっと真面目で優しい看護師さんの優衣を、好きになったんでしょう? そりゃ、あとからショック受けるわ。あの金髪の写真見せてやりなよ。」
「やっぱりそう思う?」
「絶対そうしたほうがいい。」
宿についた2人。
「ねえ、ナオは?」
「時々、さっきあったピアノを弾きにくるらしいの。」
「えっ、いつもいるんじゃないの?」
「この前は偶然会えた。」
「優衣、やっぱり、あんたとぼけてるよ。せっかくオシャレして来ても、会えないかもしれないって。」
沙耶は大笑いした。
「ごめん。沙耶と来れば会えそうな気がして。それに、ピアノを弾くナオを見てほしいの。」
「そっか。」
「私達、いろんなものを諦めたよね。ちょっと好きなバンドを追いかけただけで、悪人みたいに言われてさ。普通の女の子が送るようなキラキラした生活をしてみたかったね。」
優衣は短い自分の爪を見ていった。
「今じゃ男の人の裸を見たって、なんにも恥ずかしいとか思わなくなったし。この仕事は嫌いじゃないけど、なんだか、気持ちを切り替えないとやってられない。」
沙耶は笑った。
「ねぇ、お腹の子はどっち?」
「聞いてないの。」
「知りたくないの?」
「どっちが生まれても、私の子だもん。悪魔でも、天使でも。」
「沙耶、すごいなぁ。」
夕方になっても、ナオは来なかった。
彼に電話をしてきた沙耶が、部屋に戻ってきた。
「彼、ずっと沙耶の事、心配してたでしょう?」
「まあね、宿に着いてホッとしてたよ。優衣も電話したら?」
「私はいいよ。」
「冷たいね、相変わらず。」
「このまま、嫌いになってくれればいいのに。」
「けっこうひどいよ、それ。付き合う前にちゃんと断ればよかったのに。」
「もう一回、お風呂に行ってくる。」
優衣はロビーのピアノを見つめていた。
やっぱり、会えないのか。
「お客さん、前にも来ましたよね。」
仲居さんが優衣に声を掛ける。
「そうです。少し前に来ました。」
「ピアノ弾いてたから、覚えてますよ。」
「今日、あの人は来ないんですか?」
「ここの息子さんの事ですか?」
「前に、時々来るって聞いたから、今日も会えるかなって思って。」
「きっと、奥にいるはずですよ。ピアノを弾きに来ないだけで、奥にはいると思います。」
「仲居さんは、ここに勤めて長いんですか?」
「はい。もう、40年。ナオトくんが生まれた日も、覚えていますよ。小さい頃から、よくここでピアノを弾いていました。お父さんに反発して、東京に出ていってから、心配してたんですけど、この前、ひょっこり戻ってきて、またピアノを弾き始めました。昔と変わらない、優しい子ですよ。」
「そうですか。」
「今日も彼氏さんと一緒なんですか?」
「いいえ、今日は友達と来ました。」
「そうでしたね。そう言えば、お友達は赤ちゃんがいるのかな。」
「そうです。」
「あっ、おしゃべりがすぎました。最近は感染症の影響なのか、そういう時代なのか、お客さんと話すを良しとしないんです。それじゃあ、ゆっくり、お風呂に浸かって休んでください。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
部屋に戻ると
「優衣、いい加減電話してやってよ。さっきからすごいなってるよ。」
沙耶がそう言った。
優衣が携帯を見ると、朝川からの着信が並んでいる。
「嫌いなら、いい人ズラすることないよ。別の男と来てるとでも言えば?」
「そんな事したら、小さい町なんだから、噂が拡がって病院にいられないよ。」
「それならまた東京に来たらいいじゃん。病院なんか腐る程あるよ。」
「ねぇ、沙耶。一緒に旅行までして、そういう関係になって、やっぱり好きじゃなかったって、言える?」
「そりゃ、言いづらいよね。」
沙耶は笑った。
「優衣、諦めてその人と一緒になりな。」
「……。」
「優衣も悪いけど、逃げられない状況を作ってる彼も悪いよ。小さな町なんだから、別れたりなんかしたら、お互い仕事しづらくなるのがわかってるでしょう。もしかしたら、優衣が断れないのを知ってて、最初から誘ってきたのかも。」
「そうなのかな。」
「大学の時はバッサバッサ斬ってたのに、優衣も大人になっていろいろ駆け引きするようになったんだね。」
「斬ったりしてないし、駆け引きなんかしてないよ。」
「自分の気持ちに正直になりなよ。」
「そうだね。やっぱり、電話してくる。」
優衣はロビーに戻ってきた。
「もしもし。」
「もしもし、優衣。」
「電話に出ないから心配したよ。」
「今日は学生時代の友達と出掛けるって、言ってたよね。」
「そうだけど、電話くらいできるだろう。」
「ごめん。」
「明日、何時に帰ってくるの?」
「友達を送ってからそっちに行くから、夜遅くなる。」
「何時でもいいから、連絡ちょうだい。」
「仕事があるんだし寝ててよ。お昼休みに、私からちゃんと連絡するから。」
「明後日は勤務なの?」
「そう。日勤。」
「じゃあ、なるべく早く帰っておいで。次の日、辛くなるだろうし。」
「大丈夫だよ。」
「ねえ、優衣。なんだかこのまま、いなくなってしまうような気がして、すごく不安なんだよ。」
ピアノの音が聞こえる。
ナオが来たんだ。
「あれ、どこにいるの?」
朝川は、優衣に聞いた。
「前にきた宿。」
「それなら、俺も行きたかったのに。」
「そうだね、また今度。じゃあ、おやすみ。」
「俺からの電話には、ちゃんと出てよ。」
「うん、わかった。」
優衣は早々に電話を切った。
ピアノを弾くナオの近くに行く。
「この前の人?」
ピアノを弾くのを止めて、ナオは優衣にそう言った。
「今日は来ないかと思った。」
優衣はナオを見ていた。
「多岐さんから、聞いてね。」
「多岐さんって、さっきの仲居さん?」
「そう。君がピアノを聴きに来てるって。」
ナオは再びピアノを弾き始めた。
帰りが遅い優衣を、沙耶が迎えにきた。
「優衣、本物?」
「そう。」
ピアノを弾き終えると、ナオは2人を見た。
「今日は、友達と一緒なの?」
「そうです。」
「ピアノ、弾く?」
ナオは、優衣の右手を鍵盤に置いた。
さっきまでナオが弾いていたメロディを優衣は弾いた。
「すごい、優衣。ピアノやってたなんて知らなかった。」
沙耶はそう言った。
「この前も、そうやって弾いたんだよ。ピアノ、けっこうやってたんでしょう?」
「うち、親がピアノにはうるさかったんで。」
「この前、弾いてたムラマサの曲、ちゃんとした楽譜、あげようか。」
ナオはそう言った。
「いいの?」
「いいよ。」
「お友達は、妊婦さん?」
ナオは沙耶を見た。
「そう。」
「大事にしてね。」
ナオの透き通った瞳に、2人とも言葉が出なくなっていた。
楽譜を取りに行くからと、奥に歩いていくナオの背中を見て、
「世の中に、こんな素敵な人がいるんだね。」
沙耶が言った。
「本当。」
優衣に楽譜を渡したナオ。
「これ、ナオが書いたもの?」
「そうだよ。」
「私がもらってもいいの? そこのコンビニで、コピーしてこようか?」
「アハハ、コピーはいくらでもあるから、本物をあげるよ。」
「良かったね、優衣。」
「どうもありがとう。」
優衣はナオを見つめた。
「これ、すごく複雑なんだね。今のムラマサが歌っている曲とも違うし、この前、弾いてくれたものとも、少しだけ違う。」
「わかるの?」
優衣はナオの顔を見た。
「弾いてもいい?」
「いいよ。」
ナオは、沙耶に座るようにソファに案内する。自分も沙耶の隣りに腰を下ろすと、優衣がピアノを弾く様子を2人で見つめた。
「ムラマサのファンだったの?」
ナオは沙耶にそう言った。
「そう。二人共、青春をささげたの。」
「そんなに、好きになってくれて、ムラマサは幸せだね。」
淋しそうなナオの横顔を見た沙耶は、それ以上何も言えなくなった。
午前1時。
なかなかの眠れなかった優衣は、誰もいないロビーの大きな窓から、空を見ていた。
沙耶とは、眠る直前までいろんな話しをした。
たくさんの思い出があったね。
夢中になるものを追いかけるのをやめて、自分を取り繕う事に精一杯になっている私達は、信じられないくらいつまらない時間を過ごしているね。
ナオの弾くピアノは、そんな自分達の心を嘆いている様だね。
ロビーから見える夜は、曇り空のせいなのか、周りが明るいせいなのか、星はひとつも見えない。
「起きてたの?」
ナオが隣りに座った。
「びっくりした!」
「俺もびっくりしたよ。こんな時間にロビーに人がいるなんて。暗いのに、怖くないの?」
「暗い方が、落ち着きます。ほら、ライブが始まる前って、すごく暗くなる瞬間があるでしょう。短い時間にいろんな思いが溢れてくる。」
「そう、そんな風に思うんだ。君は何をしてる人?」
「病院で働いてます。友達もそうです。ナオさんは?」
「俺はピアノの調律の仕事をしてるよ。」
「ここの息子さんだって聞きました。」
「そうだよ。川瀬直斗って言うんだ。君の名前は?」
「青田優衣です。ナオさん、ピアノ、好きなんですね。」
「気づいたらそこにあったからさ。小さい頃はおもちゃと同じ。元々、母さんが若い頃教えてたみたいで、結婚してこっちに来る時、あのピアノを一緒に連れてきたんだ。」
「このピアノには、いろんな思い出があるんだね。」
「優衣ちゃんは、ピアノをけっこうやってたの?」
「私の母親が音楽の教師で、ピアノを弾けて当たり前の生活。クラッシックしか聴かせてもらえなかったけど、大学で一人暮らしをした時に、さっきの友達にムラマサの事を教えてもらって。」
「やっぱり、俺がメンバーだった事を知ってて、ここに来たんだ。」
「ナオさんがここにいたのは、この前、初めて知りました。今日は、その……、結局探しにきたんですけど。」
「そう。」
ナオは遠くを見ていた。
「昔と同じ目なのに、すごく遠くを見てるような気がします。」
「優衣ちゃんは、思ってる事、けっこうズバッと言うんだね。」
「そうですか。」
「この前の彼、すごく格好いい人じゃない。」
優衣は何も言わず下を向いた。
「どうしたの?」
「彼が見ている自分は、作り物なんだろうな。」
「君が見ている俺だって作り物だよ。」
「そう?」
「村正の妖刀って、元々存在しないんだ。いろんな人の怨念で、作られた虚像のもの。」
「本当の話し?」
「俺が作った話し。本当は刀に妖力が宿って、人を斬ったっていうから。ちゃんと存在しているよ。」
「なんだ、びっくりした。」
「デビューの話しがあった時、俺の代わりに別のメンバーが入る事になってて、その人はケンの声を気に入ってたらしいんだ。有名な人の息子さんみたいでね。その人を中心に新しいムラマサとしてやっていく事が決まった時、ムラマサは俺の念が作り上げた本物の虚像になったんだなって、そう考えた。最初から存在しなかったって思うようにしたんだ。」
「元々はそんなつもりで名付けたんじゃないでしょう?」
「ケンが、人の悲しみや辛い気持ちを、斬っていきたいと思ってつけたよ。」
「昔はもっといろんな曲があったのに。」
「ある程度ファンもついてたから、今までの曲も残すってなったらしくって、全部なくなるくらいなら、俺としては、残してくれてありがたく思ってるよ。」
「曲はナオさんが作ってきたのに、別の人が作ったみたいになってるのが、なんだか悔しい。」
「だからさ、残した時に、わざと複雑にしたんだよ。簡単にはできないような複雑な曲にね。どうせ、ムラマサは幻になったんだし……。今は単純な゙メロディになってて、難しい部分はほとんど捨てられてる。曲を聴く度に心の中で、ざまあみろって笑ってるんだ。」
「けっこう、意地悪だね。」
「みんな、そうだろう。君だって。本当の自分なんて、見せてる顔の真逆だよ。」
「そうだね。」
ナオは微笑んでる。
「ねえ、また話せない?」
優衣はナオにそう言った。
「彼氏に怒られるだろう。」
「ここから、帰ったら、ちゃんと話すから。」
「それって、最悪なパターンだよ。2人で旅行までする関係なのに、今は他の男と話してるってさ。」
「そうだけど。」
「優衣ちゃんって、けっこうしつこいよね。俺を2回も探しにきた子は初めてだし、ピアノの音も忘れないし。」
「そうかな。」
優衣は笑った。
4章 破れた楽譜
沙耶を送って家に戻ると、時間はすでに午前2時を回っていた。いつまでも起きてると言った朝川に電話をしようか迷っていると、朝川の方から電話が来た。
「今、家の前にいるよ。着いたら連絡がほしいって言ったのに。」
「ごめん。」
朝川の足音が聞こえてくる。
「心配したよ。こんな時間まで帰ってこないから。」
「朝川さん、ずっと家の前にいたの?」
「ずっといたよ。何かあったら困るからね。」
「あのね、」
「今度は、2人で行こうよ。」
「朝川さん、あのね、」
朝川は、優衣を抱きしめた。
「淋しかったんだ。話しは明日聞くから。」
朝川は優衣を抱きしめたまま、ベッドへ向かった。
キスしようとした朝川に優衣は抵抗した。
「どうしたの?」
「朝川さん、」
優衣は起き上がると朝川をまっすぐに見た。
「朝川さんとは、付き合えない。ひどい事してると思ってる。これ以上、一緒にいられないの、ごめんなさい。」
「何言ってるの? 冗談でしょう。」
朝川は優衣は押し倒した。
「冗談でこんな事言わないよ。」
「旅行に一緒に行ったのって男かよ。」
「違う。」
「なんで、急にそんな事言うのかわからないよ。」
「ごめんなさい。」
朝川は優衣を離さなかった。
「明日、仕事だし、もう休んでいい?」
「こっちは、ずっと待ってたんだ。ちゃんと話そうよ。」
「話しがしたいなら、こんな事しないで。」
「優衣、俺達何度もこうしてきたじゃないか。」
朝川は優衣が逃げられないように両手を押さえつけた。
「あの、ピアノを弾いてたやつか?」
優衣は朝川から目を逸らす。
「なぁ、俺が結婚なんて言ったから、少しだけ迷ったんだろう。許してあげるから。」
朝川が優衣は体を触り始めた時、
「帰って!」
優衣は起き上がって朝川を力一杯押しのけた。
いつもと違う優衣の態度に、朝川は少し驚いた。そして、自分を拒否した優衣の事が、無性に腹が立った。
「絶対、別れないからな!」
朝川は出ていった。
次の日。
「青田さん、眠そうだね。」
「昨日、帰って来るのが遅くって。」
優衣は助手さんと、シーツを取り替えていた。
「青田さんは別にやらなくてもいいのよ。私達の仕事だし。」
「午後いちで入院が入るって言うから、急がせたのは私ですし。」
「青田さんがまた入院を受けるの? 詰め所にヒマしてる人、たくさんいるじゃない。」
「ここの部屋は私が担当なんですよ。」
「ねぇ、青田さんも知ってるでしょう? ここの人達は、あなたの存在が不安でたまらないの。」
「なんでですか?」
「ずっと地方で仕事してるとね、あなたの様に別の色を持った人がくると、自分達がやっている事を否定されている様で、足を引っ張ろうって気持ちになってるの。」
「私はそんなつもりなんてないですよ。」
「そうよね。青田さんはここのやり方を否定なんかしてないし、みんなとうまくやろうとしてるだけ。でも、やっぱり女の世界って、自分がいつも一番でいたいの。青田さんの事を少しでも褒める人がいたら、許せなくなる。ここのやり方しか知らない人はみんなそうよ。」
優衣は取り替えたシーツを抱えると、小さなため息をついた。
「これ、下に持っていきますね。」
「ありがとう。本当、古くなればなるだけ、威張り腐ってイヤだね。私が病気したら、青田さんに担当をお願いするわね。」
入院患者がやってきた。他院からの転院だったのか、その患者は救急車でやってきた。
「優衣。」
優衣は朝川から目を逸らした。
「珍しいね、優衣が家に来るなんて。」
優衣は実家に帰っていた。
「ご飯は?」
「いらない。お母さん、ピアノ弾いてもいい?」
「いいけど、ご飯食べてからにしたら?」
「あんまり食べたくないの。」
優衣はナオからもらった楽譜を拡げた。
「何、これ。ずいぶん、複雑な曲ね。」
「お母さん、弾ける?」
「嫌よ、こんなの弾くの。」
優衣は、複雑なメロディを少しずつ弾いていった。
「この曲、聞いた事ある。テレビで流れてたのとは、ちょっと違う感じがするけど。」
母はそう言った。
「もう少し、ピアノが喜ぶ曲を弾いたら?」
優衣は真剣に弾いていた。
ピアノの蓋を閉じると、
「今日は泊まって行きなさい。ほら、ご飯食べて。」
「いらないって言ったのに。」
「優衣、何かあったの?」
「この前、東京に行って来たって言ってたから、向こうの病院に行こうとしてるのかって心配してたのよ。また、自由にされるんじゃないかと思って、ハラハラするよ。」
「ちゃんと卒業したじゃない。資格だって取れたし。」
「お父さんがね、本当は病院じゃなくて、学校とか夜勤のない所に勤めてくれれば良かったのにって言ってるのよ。高校の頃みたいに成績が良かったら、上にだって行けたのに。」
「私は別に夜勤は嫌じゃないし。」
「真面目で優しかったのに、どうしてこんなに反抗的になっちゃったんだろうね。」
優衣は食べ終えた食器を片付けた。
「もう、いいの?」
「うん。」
優衣は冷蔵庫から父のビールを出して、立ったまま飲んだ。
「ちょっと、やめてよ、優衣。」
「お父さんは?」
「会議の後に、飲み会って言ってた。」
「じゃあいいでしょう。私が飲んだって。」
「もう、女なのに、品がないのよ。」
お風呂から上がると、
「ずいぶん携帯がなってたよ。」
母が言った。
朝川からの着信が並ぶ中、ナオからの着信がひとつあった。
優衣は携帯を持つと、自分の部屋に行く。
「もしもし。」
「もしもし、今週の土曜日って空いてる?」
「うん。空いてる。」
「花火が上がるから、一緒にロビーで見ようよ。」
「いいの?」
「俺、夕方まで仕事だから、こっちきて待っててよ。」
「わかった。ねえ、ナオ。」
「何?」
「あの曲、難しいね。途中でぜんぜん感じが変わる。」
「弾いてみたの?」
「うん。」
「ギターで弾くともっと複雑だよ。」
「今度、ギターも教えて。」
「いいよ。」
ナオとの電話を切った途端、優衣は急に淋しくなった。
誰かを思う気持ちは、こんなにも切ないものなのだろうか。
朝川から電話がきた。
どんな気持ちで、電話を掛けているのだろう。
朝川が遊んでいるあの子の所に、さっさと行けばいいのに。
優衣は朝川からの電話には出なかった。
夜勤が明けた木曜日。
玄関で、同級生の早川と一緒になった。
「今帰り?」
「うん。早川くんも?」
「昨夜、交通事故の患者が来ただろう。休憩なんかぜんぜん取れなかった。」
「そっか。大変だったね。お疲れ様。」
「青田さん、朝川と結婚するの?」
「しないよ。何言ってるの。」
「朝川が言ってたからさ。」
「そんな話し、間違ってるよ。それじゃあ。」
さっきまで、暗い中にいた優衣は、高過ぎる太陽に少しめまいがした。
早く家に帰って眠ろう。
今晩も夜勤だし。
帰り道にあるあじさいは少しピンクが変わっていた。
これから雨になるのかな。
土曜日の夜は晴れてくれるといいのに。
大きくなった花は、少しの風では揺れる事はない。
家まであと少し。
優衣は大きなあくびをした。
「優衣。」
玄関には、朝川が待っていた。
「朝川くん。」
「今日は夜勤明けだろう。俺も今仕事終わったところ。」
「昨日、交通事故の人が運ばれたんだっけ。」
「そう。結局、隣町の病院に搬送になった。」
「帰って、ゆっくり休めば。」
「冷たいな。優衣の家で休むよ。」
「朝川くん、もう会えないって言ったでしょう。」
「俺は納得できないよ。」
朝川は優衣の手から鍵を取ると、勝手に家に入っていく。
「ちょっと、待って。」
机にあった楽譜を見つけると、朝川はそれを破った。
「なにするの! ひどい。」
「この前、ピアノ弾いてたやつと、会ったんだろう? 優衣がおかしくなったのは、この前そいつと会ってからだよ。」
優衣は床に散らばった楽譜を集めていた。
朝川は優衣が集めた紙を掴むと、窓からそれをパッと投げた。
風に乗った楽譜は、桜が散るようにハラハラと消えていく。
呆然と窓を見ていた優衣を、朝川はきつく抱きしめた。
「優衣。好きになるって、苦しいな。なんでだろう。誰でも良かったはずなのに、すごく苦しくて辛いんだよ。もう一回、やり直さないか。」
どこかへ行ってしまった楽譜の切れ端のひとつが、風に遊ばれているように、遠くで舞っている。
「1枚しかなかったの。同じものはひとつもないのに。」
体の力が抜けた優衣は、床に座り込んだ。
「朝川くん。もう帰って。」
「嫌だ。」
朝川は優衣を離そうとしない。
「じゃあ、私が出ていくよ。」
優衣は車の鍵をとると、玄関に向かう。
あれっ?
さっき見たあじさいの色が、どんどん濃くなって目の前に広がる。
そんなに雨が降るの?
良かった。
土砂降りの雨が降れば、もう、ここには誰もこない。
気がつくと、優衣は病院のベッドで寝ていた。
「優衣、大丈夫?」
両親が優衣の顔を覗き込む。
「朝川くん、ありがとうね。こんな人が彼氏だなんて、優衣は心強いだろうな。」
父がそう言った。
「いいえ。当たり前の事ですよ。優衣、疲れてたんだろう。この点滴が終わったら、家においでよ。今日の夜勤も代わってもらったから。」
「優衣、そうしたら?」
母はそう言って優衣の手を握った。
悔しくて涙が出てくる。
優衣は泣き顔を見られないように布団にもぐった。
楽譜をバラバラにしたのは朝川くんじゃない。
「私の家に帰る。」
優衣は布団の中からそう言った。
優衣の実家に着いた。
朝川も一緒にいる。
「今日は一緒にいてもいいですか? 心配なんで。」
「優衣、朝川くんがいてくれて良かったな。」
父がそう言うと、優衣はピアノの前に向かって歩いていった。
「ちょっと、」
母が止めるのも聞かず、優衣はピアノを弾き始めた。
一度に弾いた曲は、耳と手が覚えている。
「本当、意地っ張りね。」
「仕事に戻るよ。もう、大丈夫そうだから。」
「私も戻る。朝川さん、あとお願いね。」
両親は出ていった。
2人きりになったけれど、優衣は朝川と顔を合わせようとせず、ピアノを弾いている。
「優衣。」
ピアノをやめない優衣の手を朝川は掴んだ。
「もう、いいだろう。忘れてしまえよ。」
「朝川くん、卑怯だよ。」
「その気にさせておいて、どっちが卑怯だよ。」
「……。」
「一緒になるなら、みんなが祝福してくれる方がいいだろう。あんな得体のしれないやつなんか選んだら、みんな悲しむよ。」
優衣は朝川の手を振りほどこうと力を入れたが、朝川は優衣を床に押し倒した。
「痛いっ。」
「あっ、ごめん。大丈夫?」
優衣は肘をさすった。
「どうすんだ、楽譜なんてもうないんだぞ。せっかくもらった物を失くして、なんて言い訳するんだよ。」
「……。」
「言いたくない事は、いつもだんまりだな。」
朝川への文句なら溢れる程出てくるのに、楽譜をくれた時のナオの顔が浮かぶと、喉の奥が熱くなるだけで、何も言えなくなる。
朝川は優衣にキスをした。
少しずつ服を脱がせていく朝川の手が、自分の体に張り付いているみたいで、優衣は息が苦しくなった。
「優衣の部屋に行こうよ。もう少し休まないとダメだよ。」
「先に行ってて。2階の右だから。」
優衣は脱がされた服を着ると、膝を抱えた。
2階へは上がらず、少し離れた所から優衣を見ていた朝川は、そんな優衣を後ろから抱きしめた。
「優衣。」
顔を上げない優衣。
「そんなに俺が嫌い?」
優衣は2階に上がっていった。
窓を見ている優衣。
抜けるような高い空に輝いている太陽の光に、優衣の心を突き刺さる。床に座り込んだ優衣は、また目眩がして目を閉じる。
「大丈夫?」
朝川は唯の背中に手を置いた。
「少し休まないとダメだよ。」
優衣を抱えてベッドへ寝かせると、朝川は優衣の体にぴったりと自分の体をつけた。
「さっき、ぶつけた所、大丈夫かい?」
「なんでもない。」
「それなら良かった。」
バラバラになった楽譜が自分の目の前に降ってくるようだ。こんなに近くで舞っているのに、手を伸ばしても届かない。
「優衣。結婚しよう。俺達、最初からそうなる運命だったんだ。」
午後3時。
ぐっすり眠る朝川に気づかれないよう、部屋から出た。
「松川さん。青田です。」
優衣はいつも声を掛けてくれる看護助手に電話をした。
「大丈夫? 倒れたって聞いたから。」
「大丈夫です。ただの寝不足ですから。」
「それならいいけど。」
「松川さん、今日は夜勤に行きます。交代するはずの人には、私から連絡しますから、誰でした?」
「田原さんよ。」
「わかりました。」
夕食の時、優衣は何もなかったように両親と朝川に笑顔を見せた。
お風呂からあがってきた朝川は、
「さっきはごめん。」
ベッドで本を読んでいた優衣に体を寄せた。
「疲れたからもう寝るね。」
「そうだね。そのほうがいいよ。」
朝川は電気を消した。
朝川の腕の中。
逃げようとしている優衣の意識が、何度も呼び戻される。
言いかけた言葉も、何もなかったように消されてしまう。
「もう、眠りたい。」
優衣は朝川にそう言った。
「いいよ。ゆっくり休みなよ。」
朝川の手は、それでも優衣を求めて続けた。
5章 奏でるもの
午前0時。
隣りで眠っている朝川を残して、優衣は仕事へ向かった。
朝川が自分を触った感覚を思い出すたびに、体を切り刻んでほしいとさえ思ったりする。
「青田さん、本当に大丈夫なの?」
「はい。ぐっすり寝ましたから。」
「救命士が彼氏なんて、頼もしいわね。」
優衣は愛想笑いをした。
ナースコールがなった。
「私が行きます。」
朝、看護師長が出勤してくる。
「あら、青田さん。お休みにしたはずなのに、なんでいるの?」
「師長、話したい事があります。申し送りが終ったら、少し時間をください。」
優衣の実家に泊まっていた朝川は、まだ開けきらない目で、優衣の手を握ろうと探したが、隣りに優衣はいなかった。
先に起きたのか? そう思い、下へ降りていくと、
「おはよう。優衣はまだ寝てるの?」
優衣の母がそう言った。
「先に起きてると思ったんですけど。」
「えっ?」
窓を見ると、優衣の車がなくなっていた。
「あの子、どこへ行ったのかしら。」
「話しってなんですか?」
夜勤を終えた優衣は、師長とミーティングルームに入っていた。
優衣は退職届を出した。
「何を急に。こんなのルール違反よ。」
「わかっています。でも、もうこちらにはいられません。」
「大学病院から来たっていうから、期待してたのに、恩を仇で返されたわね。」
「申し訳ありません。」
怒りが収まらない師長は、看護部長に電話をしていた。
ミーティングルームから出てきた優衣に
「青田さん。」
看護助手の松川が声を掛ける。
「本当に辞めちゃうの。」
「ごめんなさい。松川さんにはたくさん助けてもらったのに。」
「これからどうするの?」
「ここから離れて暮らします。」
「そう。看護師長、どんな顔してた?」
「呆れてました。」
「あの人、うんと困ればいいのよ。青田さん、今までありがとう。これから頑張ってね。」
「こちらこそ、いろいろありがとうございました。」
病院を後にした優衣は、ナオの元へ向かった。
体は眠いはずなのに、頭の中はナオでいっぱいになっている。
楽譜の事は、なんて言おう。
破ったのは、朝川だけれど、大切にしなかったのは自分なんだ。
正直に話そう。
同じものなんてないけれど、この前と同じ気持ちで弾いたら、きっと同じ曲になるはず。
15時を過ぎたあたりにロビーに着くと、フロントは団体客でごった返していた。
仲居さん達も忙しく動き回っている。
「あっ、あなた。」
この前の仲居さんが優衣に気が付いた。
「忙しそうですね。」
「今日は花火があるのでね。」
優衣はロビーの端の方に座ると、携帯がなった。
朝川や母から、何度も電話がきていた。
優衣は携帯の電源を切る。
昨夜の朝川の顔が浮かんできて、優衣は固く目を閉じた。
誰かが優衣の肩を叩く。
「花火、中止だよ。」
ナオはそう言って、優衣の隣りに座った。
「ずっとここにいたの?」
「いつの間にか眠ってしまったんだ。」
優衣は目を擦った。
「本当に不用心な子だね。」
ナオはそう言って笑った。
「明日は仕事?」
「辞めてきたの。」
「本当に?」
「本当だよ。」
「どうして、急に。」
「ナオがせっかくくれた楽譜、失くなったの。それで、もう、何もかも嫌になった。」
「それだけ?」
「それだけ。私にはすごく大切なものだったから。」
「楽譜ならいつでも書いてあげるのに。」
「同じものって、二度とできないよ。だってナオの曲、毎回少しずつ違うもの。」
「よく知ってるね。」
「私、耳だけはいいの。」
「ピアノ、弾く?」
「うん。」
ナオが左手を弾くと、優衣は右手に弾いた。
雨が少し強くなった頃、
「優衣。やっぱりここか。」
朝川に右手を掴まれた。
「帰ろう、みんな心配してる。」
「帰らないよ。」
朝川はナオを見ると、
「もう、優衣にかまうのはやめてください。」
そう言った。
「朝川くん、この人は関係ないの。それに、朝川くんの事は、好きじゃない。」
「優衣をこんな所に連れてくるんじゃなかったよ。」
ナオは何も言わず、立ち上がった。
「帰ろう。今日の事は、怒ったりしないから。」
優衣は朝川の手を解いた。
「さようなら、朝川さん。」
「優衣。」
「この前、朝川さんと付き合ってるって子が、私の所に来たよ。結婚はできないけど、関係は続けていこうって言われて悩んでた。」
優衣は朝川に背中を向けると、窓を流れる雨を見つめた。
朝川が帰ったあと、ナオが優衣の肩に手をおいた。
「ずいぶん、強いんだね。」
優衣の頬につたう雫は、雨なのか涙なのかわからない。
「こんなふうにしたのは、ナオだよ。」
「俺が?」
「ムラマサの事で頭がいっぱいだった時から、ずいぶんと言いたい事が言えるようになった。」
「そういう事か。」
ナオは優衣の髪を撫でた。
「ムラマサの妖刀は実際しないって言っただろう。あのバンドもみんなが作り上げた虚像なんだよ。もし、君がムラマサを知って、変わったって言うなら、それは元々の本当の自分が出てきただけ。」
「……。」
「あんなふうにはっきり言葉を投げるんだね。だけど俺もずるいから、もう人とモメるのはたくさん。」
ナオは優衣の隣りで雨を見つめていた。
「ごめんなさい。ここに来る前に、ちゃんも話してくればよかった。」
本格的に降ってきた雨は、小さな川を作り、窓を流れていく。
「花火、明日に延期になったたよ。今日は俺の部屋に泊まっていきな。どうせ、行き当たりばったりで、動いてるんだろうしさ。」
6章 押さえられないコード
ナオの部屋に入る。
「ごめんなさい。」
優衣は謝った。
「なんで謝るの?」
「迷惑だろうと思って。」
ナオはギターを持って、優衣の隣りに座った。
「教えるって約束したよね。」
「いいの?」
ナオが教えてくれた簡単なコードは、ムラマサの曲にはない。難しいコードを覚えようとする度、優衣の指も手首も痛くなった。
「難しいんだね。」
「簡単に覚えられたら、こっちも困るよ。」
優衣はまた練習し始めた。
優衣からギターを取り上げたナオは、
「もう、今日は終わりにしよう。」
そう言った。
「もう少し。」
ギターに手を伸ばした優衣を、ナオは抱きしめた。
「勝ち気だね。これじゃあ、彼氏もさぞかしイライラしただろうさ。」
「ナオはいつもの私の顔、知らないもん。」
ナオは優衣と向かいあった。
「それって自分はおとなしいでも言いたいの?」
「そうじゃないけど。」
「わざわざ言わなくても、ピアノ弾いてるのを見たらわかるよ。いろんな優衣ちゃんが出てくるからね。優しい時も、冷めた時もあるし、勝手に進む時も、俺を待ってる時もある。」
優衣は恥ずかしくなって、下を向いた。
「ねえ、どうして、ギターを始めたの?」
ナオを見つめた。
「反発だよ。そういう時期ってあるだろう。決まったものを崩したくなる時がさ。その時は、ピアノを一切やめたんだ。」
優衣はナオのギターにそっと触れた。
「崩したと思っても、作ってきたんでしょう。ナオは優しいから。」
優衣は、自分の指を掴んで、きつく注意していた母を思い出す。
「ナオは、途中で嫌にならなかった?」
「何を?」
「ピアノを教えるの人って、思い通りに弾かないと怒るでしょう。人それぞれ、みんな違うのに、生きてる速さとか、自分の中にあるリズムとか。どうしても、同じように弾けない時だってある。」
「そうだね。」
「私、お母さんの怖い顔を見たくないから、なんの感情も沸かないように、ただ真似して弾いてただけ。」
「それはそれでいいんだよ。それでも弾ける方法を身につけただろう。」
ナオは優衣を見つめていた。
「そうだ、多岐さんに言って、なんか作ってもらおうよ。」
「いいよ、みんな忙しいから。」
「多岐さんは、裏表のない人なんだ。優衣ちゃんの事は、この前からすごく気になって仕方がないみたい。」
ナオは優衣を部屋から連れ出した。
「ここで待ってて。」
居間に案内されると、着物をきた若い女の人がやってきた。
「直斗の友達?」
「はい。青田と言います。」
「珍しいね。直斗が誰かを連れて来るの。私は柊子。直斗の双子の姉。」
「双子、だったんですね。」
「直斗はね、跡取りの男の子なのに勝手に出ていって、結局、女の私が、跡を継ぐ事になった。せっかく戻ってきたのに、ずっと部屋に引きこもってたし。」
「あっ、姉ちゃん。」
「直斗、また多岐さんに夕飯頼んだの。多岐さんだって忙しいんだから。自分の食事くらい、自分で作ったら?」
「今日はいいだろう。優衣ちゃん、こっち。」
「ちょっと待って、直斗。その子、さっきロビーで男の人とモメてたじゃない。どういう事?」
「姉ちゃんが見てたのは、幻だよ。」
「バカね、しっかり見たわよ。」
「優衣ちゃん、こっち。」
厨房の隅に、食事が用意されている。
「食べなよ。」
「お姉さん、怒ってたよ。」
「いつもの事だから。ほら、食べなよ。」
優衣は味噌汁を飲んだ。
「美味しい。」
「いつも自炊してるの?」
ナオは優衣に聞いた。
「してるけど、適当だよ。普通の食事したのは、久しぶり。」
「直斗、この人誰だよ。」
「あっ、父さん。」
「また、多岐さんに頼んで。」
「頼めるの多岐さんしかいないだろう。」
「柊子から聞いた。客とモメるのだけはやめてくれよ。」
「モメてないよ。この人はピアノ弾きたくて来たんだよ。さっきの男は、それが嫌なんだろう。」
「よくわからんな。」
「父さんだって、ピアノ弾いてる母さんを、婚約者から奪ったって聞いたよ。」
「母さんが勝手に俺について来たんだよ。」
「ピアノは勝手について来ないだろう。父さんは、ずっと母さんのピアノを弾いてる姿を見たくて、独り占めしたんだろう。」
「あなた、なんて名前だ?」
ナオの父は優衣の方を見た。
「青田、です。青田優衣です。」
「わざわざ、ここにピアノを弾きに来るなんて、なんか事情でもあるんだろう。頼むから、あのピアノは悲しい事に巻き込まないでくれ。いい事で弾くなら、好きにしてくれていいから。」
「はい。」
「食べたら、下げておけよ。」
ナオの父は厨房に戻った。
「ナオのお母さんは?」
「小2の時、病気で死んだんだ。」
「そうだったの。」
「父さんひどく落ち込んでたけど、毎日、厨房に立ってたよ。一昨年、祖母が死んで、名古屋のデパートで働いていた姉ちゃんがこっちに戻ってきて、跡を継いだんだ。」
「ナオがバンドを始めたのはいつ?」
「俺は高校を卒業してすぐ。一人で東京に行ったんだ。毎日、姉ちゃんと父さんがケンカするのを見てるのも嫌だったし、あの頃はなんでもできると思ってたからね。最初に組んだバンドの連中なんて、楽譜をひとつも読めないから、ずいぶんバカにしてやったよ。」
「そんなナオ、想像できない。」
「東京で夜学に通いながら、バイトして、バンドもやって、やっと掴んだデビューだったのに。呆気ないもんだよ。」
「優衣さん、これ使って。」
柊子がキレイな浴衣を持ってくる。
「いいんですか?」
「忙しくて、話しもできなくてごめんなさいね。明日は花火があるから、ゆっくりしていって。」
「ありがとうございます。」
「優衣ちゃん、お風呂入っておいでよ。」
「うん、そうする。」
ナオよりも早くお風呂から上がってきた優衣は、ギターのケースを開いていた。
どうしても、あとひとつのコードを覚えて弾きたい。
「こら!」
「ナオ、びっくりした。」
「今日は終わりって言っただろう。」
「どうしても、もう一つ覚えたくて。」
「楽器だって、寝かせてやらないと。」
「都合のいい話しだね。」
「ゆっくり休んだら、明日は違う音になってるよ。」
ナオはギターをケースに戻した。
「こっちにきてよ。」
ナオがベッドに呼んでいる。
昨日の朝川の顔が浮かんだ。
「ここでいいよ。」
「彼の事、思ってた?」
「違う。」
ナオは暗くなった優衣を見て、嘘をついているのがわかった。
「彼はどんな人なの?」
「高校の同級生。」
「ナオは、好きな人いたの?」
「俺は小1から、高校3年まで、ずっと片思い。」
「へえー、想像してたナオと違う。今、その人はどうしてるか知ってるの?」
「同級生のやつと結婚したって聞いたよ。保育士になって、今もここの保育園にいるよ。」
「会うの、辛くない?」
「もう、奥さんだしさ。」
「そっか。」
「優衣ちゃん、こっちに来てよ。」
優衣はナオの隣りに並んだ。
「ナオが弾いてた雨の音、今度教えて。」
「あの曲は適当だったから、もう弾けないよ。」
「そうなの?」
「優衣ちゃんと会う時は雨ばっかり。」
「そう?」
「雨を連れてくるみたいだよ。」
ナオは優衣の肩に手を回した。
優衣は少し、体を強張らせた。
「少し寄りかかっても、いい?」
ナオが言った。
「いいよ。」
ナオは優衣の肩に寄りかかると、目を閉じた。
優衣の肩から力が少し抜けた時、ナオはキスをしてすぐに離れた。
びっくりした優衣に
「なんでもないよ。」
ナオはそう言って笑った。
雨の音が聞こえる。
眠ろうとすればする程、窓をつたう雫の音までが聞こえてくる。
この雨が止んだら、また大事な何がなくなってしまうのだろうか。
ナオは隣りで眠る優衣を見た。
優衣の背中を抱きしめた。
眠っているはずの優衣は、少し震えているように感じた。
優衣の髪を撫でると、自分の布団にもぐって、また目を閉じた。
7章 朝焼けと花火
朝焼けの空は、まるで夕焼けのように焦げている。
雨が続いた次の日に登る朝日は、この世の終わりを告げるような大きな太陽。
隣りで眠るナオに気づかれないように部屋から出ると、優衣は多岐を探した。
5時になったばかりだと言うのに、多岐はきちんと着物を着て、働いている。
「多岐さん。」
「あら、」
優衣は多岐に声を掛けた。
「昨日はありがとうございました。ちゃんとお礼も言えず、ごめんなさい。私も少しはできるんですよ。仕事、教えてもらえませんか。」
「そんな、直斗さんと一緒にいてやってください。」
「多岐さんと一緒にやりたんです。」
優衣は多岐の後ろを離れなかった。
「あら、優衣さん。」
「女将さん、困ってるんです。ずっと後ろにいるもので。」
「昨日、泊めてもらったのに何もしないのは、すごく嫌なんです。多岐さん、次は何をするんですか?」
優衣は多岐に聞いている。
「エプロン持ってくるから、ちょっと待ってて。優衣さん、もう少ししたら、厨房の方を手伝って。それが終わったら、お風呂掃除。やる事はたくさんあるの。」
柊子は優衣にそう伝えた。
目を覚ましたナオが居間にやってくる。
「おはようナオ。優衣さん、多岐さんの後について離れないみたいよ。2人とも楽しそうで、いいコンビができたわね。」
「そっか。」
ナオは眠いのか、また目を閉じた。
「今日は仕事?」
「うん。昼で終わりだけど。」
「優衣さんが一緒だったから、ちゃんと寝たのかと思ったのに。」
「なんだよ、それ。」
「隼斗もぜんぜん眠らなかった。」
「雨の事か。」
「神経質って本当に困る。」
「姉ちゃんが鈍感なんだろう。」
「きっとね、優衣さんも鈍感よ。」
柊子はそう言って笑った。
柊子にエプロンを借りた優衣は、客が帰った部屋を掃除していた。
「優衣さんはなんの仕事をしてたの?」
シーツを取り替えながら、多岐が聞いた。
「病院にいました。だからこういうの、少しできますよ。」
けして手際がいいわけではないけれど、優衣は丁寧に仕事をしていく。
「いつまでこちらにいれるんですか?」
「私、仕事辞めたんです。家も出てきてしまったから。明日、一度帰って、新しい仕事を見つけます。」
「まあ。若い時って、無茶するっていうか、怖いものなんて知らないからね。」
「多岐さんは、無茶しましたか?」
「そりゃ、昔はね。優衣さん、仕事の事、女将さんに頼んでみたら?」
多岐が持っていたシーツを優衣は軽々と持ち上げた。
「優衣、ご飯できたよ。探したよ。多岐さんといたのか。」
「ナオ、おはよう。私、多岐さんと食べるから。」
「優衣さん、私達はまだまだ食べないの。直斗くんと先にどうぞ。」
「ナオ、今日は仕事なの?」
「仕事だよ。昼過ぎには戻ってくるよ。」
居間で朝食を食べていると、
男の子が起きてくる。
「優衣さん、悪いけど、食べたらこの子を保育園に連れて行ってくれない? 場所はすぐにわかるから。」
「隼斗、今日はこの人と保育園に行ってね。」
「直斗の彼女か?」
男の子はそう言った。
「生意気ね、早く食べなさい。」
男の子は柊子にそう言われた。
「ナオは土日も仕事なの?」
パンを食べているナオに、優衣は聞いた。
「今日は特別だよ。明日、イベントがあるみたいで、調律を頼まれたんだ。帰ってきてから、昨日の続き教えるよ。」
優衣は柊子の息子の手を繋ぎ、保育園まで歩いていた。
「帰ったら水鉄砲やろうよ。みんな忙しくて、誰も遊んでくれないんだ。」
「いいよ。隼斗くん、泣いても知らないからね。」
「女の力なんてどうせ弱いし。」
「あらら、ずいぶんな言い方ね。」
「直斗と結婚するのか?」
「えっ、なんで?」
「直斗と一緒にいるから。」
「ねえ、何歳?」
「6歳。」
「来年小学生か。」
「姉ちゃんは?」
「27歳。」
「そりゃあ、ババアだ。」
「こら! 口が悪いねぇ、誰がそんな事教えるの?」
幼稚園の頃に一緒だった坂口くんとは、同じ身長だったせいか、いつも隣りで手を繋いでいた。
母も坂口くんの母も、きっと2人は結婚するのだろうと話していたけれど、中学に入り、急に背が伸びた坂口くんは、いつの間にか、優衣の隣りに来る事はなくなった。
時々、ピアノの話しをしたけれど、坂口くんは吹奏楽部の仲間と楽しそうに話すことが多くなった。
高校の頃は、仲の良かった数人の女の子達と、たいして面白くない話しを、何倍にも膨らませて時間をかけて話している毎日だった。
懐かしいはずの地元に戻っても、結局、朝川以外、誰も話す人は誰もいなかった。みんな、その時だけの、泡の様な関係。
隼斗を送り、保育園から戻ってくると、多岐さんは大きなお風呂を数人の従業員と磨いていた。
やりますと言って張り切っていた優衣も、暑さで体力が奪われていく。
「これが終ったら、少し休みよ。後はお客さんがくるまで、自由時間だから。」
柊子はそう言った。
「疲れたでしょう。音を上げた?」
「大丈夫です。」
「優衣さん、隣町の診療所がね、看護師さんを募集してるらしいの。今までいた人が腰を痛めて辞めてしまったらしくてね。ここから通えるから、ちょっと話しを聞いてみたら?」
「本当ですか?」
「うちで、働いてもいいけど、せっかく資格があるんなら、必要とされる所に行くといいよ。」
「はい。」
「話しをしてた彼とはちゃんと別れたの?」
「もう、会うつもりはないです。」
「一緒に旅行するくらいだもの、簡単に別れられるもんでもないでしょう。」
「そうですけど。」
「ご両親は、優衣さんがここにいる事、知ってるの?」
「そのうち、きちんと話します。」
「本当にハチャメチャな人ね。」
柊子は笑った。
「少し前まで、直斗のファンだって子が何人もきてね。直斗はずっと部屋から出てこなかったのよ。多岐さんがいろいろ力になってくれてね、最近は少し話すようになったけど、2回も来たのは優衣さんが初めて。」
「そうだったんですか。」
「ナオ、東京でうまく行かない事があったんでしょう。誰かに話しても、救われない事が。」
「お姉さんは、何も聞かないんですか?」
「私達、すごく仲が悪いの。直斗がやってる音楽も理解できないし。ピアノなんて、少し習ったけど、大嫌いよ。」
柊子と優衣が2人で笑っている所に、ナオが帰ってきた。
「早かったね。」
「うん。毎年、調律してるピアノだと、そんなに時間がかからないから。」
「ねえ、直斗、ご飯食べたら、優衣さんを隣町の診療所に送って行って。」
「なんで?」
「診療所で、看護師さんを探してるみたいなの。」
「優衣はそこで働くの?」
「話しを聞いてみるといいよ。」
柊子はそう言った。
ナオの車に乗った優衣。
「隣町って、ここからどれくらい?」
「30分くらいかな。」
「本当にそこで働くの?」
「縁があったらね。」
「うちで働けばいいじゃん。」
「ナオばっかり頼るわけには行かないよ。そのうち、部屋も見つけるから。」
「俺は別にいいよ。」
「ナオ、また曲書いたら? 今はいろんな方法があるんだし。」
「じゃあさ、一緒にいてよ。曲を作る時ってすごく孤独なんだ。」
「ナオが作ってきたのって、本当の事を書いていたの?」
「そうだね。あんまり、作り話はないかな。」
「ずいぶん、大恋愛したんだね。」
「そこばっかり切り取るなよ。」
2人はそう言って笑った。
帰りに隼斗を迎えに行って戻ってきた2人。
「優衣、水鉄砲やるって約束しただろう。」
優衣は夕方まで、隼斗と外で水鉄砲をして遊んだ。
びしょ濡れになった隼斗と優衣を見て、柊子は怒った。
「優衣さん大人なのに、本気でやってどうするの! 早く着換えてきて。」
「ナオ、ずるいよ。ずっと隠れてたでしょう。」
「アハハ、早く着換えこいよ。今日は花火が上がりそうだよ。」
柊子が用意してくれた浴衣に着替えた優衣は、ピアノの前にいるナオの隣りに座った。
「少し、離れた所で見ようか。」
ナオはそう言って、優衣を連れて坂を登っていく。
旅館街から少し離れた場所まで来ると、蝉の声が高く聞こえる。
「ここから見るの、いつ以来だろう。花火の日は人が多いから、いつも部屋の中にいた。」
花火が上がる。
音と光りが少しずつずれていく。
「花火って何も残らないね。種でも残してくれたら、いいのに。」
優衣はそう言った。
「残らないから、一生懸命に見ようとするんだろう。」
「ムラマサって、どんなにアンコールしても、絶対出てこなかった。」
「本番で全てが終わるんだ。最初からアンコールを用意されたライブなんて、俺は嫌だったからね。」
「なんか、花火が終わったあとに似てる。」
ナオは優衣の髪をなでた。
夜空には花火が残した白い煙の跡が、静かに町の光に引き寄せられていくのがわかる。
「戻ろうか。」
「うん。また、ギター教えて。」
「優衣。」
「何?」
ナオは優衣の手を掴んだ。静かに優衣を抱きしめる。
優衣は一瞬ためらったが、ナオの腕に黙って包まれた。
「私、けっこうしつこいよ。こんな事したら、ずっとナオを追いかけるからね。」
優衣はナオの顔を見上げた。
ナオは何も言わず静かに微笑むと、優衣の唇に自分の唇を重ねる。
8章 叶わない約束
9月。
新しい生活を始めてから2ヶ月。
診療所の休憩室でお昼を食べていた優衣は、テレビでムラマサが解散する事を知った。
「青田さん、知ってる? この人達。」
「はい。」
「うちの娘が好きでさ。ほら、この前、なんかの映画に使われていたじゃない? 私にはさっぱりわからないけど。」
時々くるパートの看護師の塩見は、優衣にそう言った。
「青田さん、ここにいたら退屈でしょう。元々大きな所にいたんだから、やり方だって、古く感じるだろうし。」
「ここは、院長先生が大丈夫って言えば、みんな魔法にかかったみたいに帰っていきますよね。こんな経験は初めてです。」
「医者って本当に神様なんだよね。あんな適当でも。」
「塩見さん、適当って。」
優衣は笑った。
「適当よ。湿布と風邪薬出しておけばいいんだもの。」
口は悪いけど、頼りになる塩見と、時間がゆっくり流れていくこの環境が、優衣はとても気に入っていた。
「青田さーん、ちょっと、」
「ほら、院長先生が呼んでるよ。」
夕食を食べていると、ナオは、珍しくテレビをつけた。
歌番組をかけたナオは、何も言わずテレビを見つめている。
ムラマサは今夜が最後のステージになる。
そう紹介された。
静かにそれを見ているナオは、心の中で、やっぱりダメだったのかと笑っているのだろうか。それとも、自分が作ってきた歌が消えようとしている事を、悲しんでいるのだろうか。
いつもなら、話し声がする夕食が、何かを飲み込む音さえ聞こえるくらいに静まり返っている。
部屋に戻る前に、ピアノを弾こうとナオがロビーへ向かった。
「なんの曲を弾くの?」
優衣が聞くと
「なんにも決めてないよ。」
ナオはそう言った。
ピアノの前に座ったナオは、鍵盤に手をおいて、少し考えていた。
優衣は、突然降り出した土砂降りの雨を、窓の近くで眺めていた。
ガラス1枚を隔て、叩きつけるような雨が降っている。
雷がなり、優衣は窓から離れた。
肩をすぼめた優衣の隣りに、ナオが立っている。
「すごい雷だね。」
優衣がそう言うと、稲光が走る。
地面が揺れるくらいの音がなると、窓ガラスが少し揺れた。
「部屋に戻ろうか。」
ナオはそう言って、優衣の手をとり歩き始めた。
部屋の前につくと、隼斗が待っていた。
「なんだ、雷が怖いのか。」
ナオはそう言うと、隼斗を部屋に入れた。
「この近くに落ちるのか?」
隼斗が聞く。
「落ちたらどうする?」
ナオは隼斗をからかった。
「やめてよ、怖いから。」
隼斗は優衣の背中に隠れた。
「隼斗、男なら女の人を守らないとダメなんだぞ。」
「大人になったら守ってやるよ。」
また、稲光が走る。
音がなると共に、隼斗は布団に潜り込んだ。
「今日はピアノ弾けないね。」
「仕方ないか。」
ナオは隼斗が潜っている布団の山をなでた。
「ちょっと前に、レイから電話があってね。」
「そうだったの。」
「本当に何もなくなってしまうんだよな。」
ナオは視線を落とした。
隼斗が布団の中から出てきて、優衣の手を掴んだ。
「もう、雷は遠くに行ったよ。」
優衣は隼斗に言った。
「助かったあ。」
「隼斗、もう部屋に帰れよ。お母さんが探しにくるだろう。」
「今日はここで寝る。また雷がなったら怖いし。」
「ダメだよ、早く帰れよ。」
ナオが布団から隼斗を出そうとすると、
「いいだろう、おやすみ。」
隼斗はまた布団に潜り込んだ。
隼斗を真ん中に優衣とナオが横になる。
「なんだよ、これ。」
「隼斗くんに救われた。」
優衣はそう言った。
「寝よう。ピアノは明日弾けばいいし。」
優衣は目を閉じた。
真夜中、ナオはギターを抱えていた。
泣いているのだろうか。
優衣は見ないふりをしているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
ムラマサが解散してから、数日たった日曜の昼。
隼斗と水鉄砲で遊んでいた優衣の所へ、
「ナオ、いますか?」
ケンとレイが訪ねてきた。
部屋で頼まれていた楽譜を書いていたナオを、びしょ濡れになった優衣が呼びにきた。
「ナオ、ケンさんとレイさんがきたよ。」
優衣は息を切らしてナオの前にやってきた。
「優衣、また姉ちゃんに怒られるぞ。」
びしょ濡れの優衣を見て、ナオは笑った。
「いい大人なのに、何ムキになってんだよ。」
「ロビーなら目立つだろう。」
ナオは薄暗いレストランへ、ケンとレイ案内した。
3人のいる所だけ、ひとつ電気をつけた。
「ナオ、笑ってるだろう?」
ケンがそう言った。
「笑ってなんかいないよ。」
ナオは2人にコーヒーを出す。
「2年前、おまえを裏切るような形でデビューする事になって、本当にすまなかった。」
レイは頭を下げた。
「曲は使ってくれてたじゃないか、それだけで充分だよ。」
「ナオが作った曲は、ナオにしか演奏する事ができないんだよ。デビューしてから歌ってきた曲は、どれもなんか違うんだよ。ナオ、お前みたいないろんな音を出すやつなんか、どこにもいないよ。」
大きなケンの目は、ナオの目をまっすぐ見つめている。
「ケンの声も、誰にも出せない声だろう。」
「やっぱり、俺達、4人揃ってムラマサだったんだよ。目先のいい話に乗って、本当に大事な物を失った。人も時間も音楽も。」
ケンはそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。
「今日は泊まっていけよ。話したい事、たくさんあるし。」
「いいのか。」
レイが言った。
「いいよ。泊まっていけよ。そう言えばヒサシは?」
「あいつ、実家に帰ったよ。あいつの家は建設会社で、元々30になったら戻ってくるよう言われてたんだ。」
「そうか。ケンとレイはどうするんだ?」
「俺は普通の会社に就職するつもりだ。ケンはあいつと組んでくれって言われてるんだろう。」
「あいつとは組まないよ。俺も地元で会社員でもなるかなって思ってる。」
「もったいないねえーな。歌えばいいのに。」
「ナオは今、何してるんだよ。ここを継いだのか?」
ケンはナオに言った。
「俺は楽器メーカーに勤めてる。ピアノの調律の仕事をしてるよ。ここは姉ちゃんが継いでる。」
「そう言えば、ナオはピアノが弾けたんだよな。」
レイがナオの方を向く。
「俺はピアノから音楽を始めたんだ。」
「ナオが複雑な曲にしたから、大変だったよ。一緒にやってた時は何も感じなかったけど、ナオがいなくなって、別のやつがそれを弾くと、違うんだよ。なんか俺、ぜんぜん歌えなくなってさ。」
「新しいやつは、どうなるんだよ?」
「一人でデビューするみたいだな。初めからそういう筋書きだったのさ。」
ケンはそう言った。
「なんか、みんなバラバラだな。結局、音楽を続けるのは、ナオだけって事か。」
レイはコーヒーを飲み干した。
「なあ、なんか飲むか。まだ少し早いけど。ここで騒ぐのはまずいから、家の方で飲もうぜ。」
3人はお酒を買いに店まで歩こうと玄関を出た。
待ち構えていた隼斗が、ナオに水風船をぶつけた。
「おい!」
服が塗れたナオは、隼斗を追いかけようとしたが、あっという間に逃げられた。
両手を拡げたくらいの桶に水風船を入れていた優衣の顔は、水の光が反射してキラキラしていた。
「隼斗くんにぶつけられたの?」
そう言うと、優衣は水風船のひとつをケンにぶつけようとした。
「やめろよ、優衣。」
優衣は手に持っていた水風船を桶に戻すと、
「ぶつけてほしそうな顔してたから。」
そう言って笑った。
優衣は赤い水風船を手に取ると、それをレイの足元に落として割った。
ケラケラ笑う優衣を見て、
「やめろって言っただろう。」
ナオは水をすくって優衣の顔にかけた。
「もう、ちょっと、やめてよ。」
「いい加減、着替えろよ。これ以上やってたら、本当に姉ちゃんに怒られるぞ。」
隠れていた隼斗が、ナオの背中に水鉄砲で水をかけた。
「優衣、仕返ししてやったぞ。」
「おい! お前達、いい加減にしろ!」
優衣は隼斗とガッツポーズをした。
3人は歩き出した。
「ナオの彼女かよ。」
レイがそう言った。
「そうだよ。」
「変わってる子だな。」
「そうか?」
「ナオが元気で、ホッとしたわ。」
遅くまで飲んでいた3人は、もう一度4人で集まる約束をしているようだった。
守る事のできない約束を、楽しそうに話す3人を見ていた優衣は、4人が作り上げてきたムラマサという刀が、縛り付けていたものを、やっと斬り捨ててくれたんだと感じた。
何かが存在しなくても、この人達は繋がっていける。
同じリズムを刻む4人。
本当はこんな結果になることを、ナオはなんとなくわかっていたのかもしれない。
「寝てるのか。」
お酒の匂いがするナオが、寝ている優衣の隣りに並ぶ。
「とっくに寝てるよ。」
「ごめん、起こしたな。」
目を閉じながら答える優衣を゙、ナオは抱きしめた。
「隼斗くんが起きるよ。」
「そっか。」
ナオは優衣から離れた。
5時。
ナオはまだ眠っている。
目が覚めた優衣は、カーテンを明け、少し薄暗い空を見上げた。
外は雨のにおいがする。
もうすぐ本格的に降ってくるかも。
窓の下を見ると、低い雲が立ち込める中を、ケンが一人で歩いていた。
「雨が降るよ。」
優衣が窓からそう言うと、
ケンは優衣の声に気がついて手を振った。
優衣は傘を持ってケンを追いかけた。
気づかないくらいの雨の雫は、やがてポツポツとアスファルトに落ちているのがわかるくらいになる。
「濡れちゃうよ。」
優衣はケンに傘を渡した。
「ナオとどうやって知り合ったの?」
「ピアノを弾いてたナオに声を掛けたの。」
「ロビーにあったあのピアノ?」
「そう。」
「ナオに楽器を使って話すなんて、卑怯なやり方だね。」
「どうして?」
「楽器はナオにとって刀だからね。お互いに刀を突き合わせたら、どちらか斬られるか、刀をしまうか。」
「ナオのピアノは、人を傷つけるものじゃないよ。」
「そうだよ、傷つけたりはしない。刀をしまったのは、ナオの方だよ。」
2人はロビーの隅に座る。
「ケンの声、すごく好きだった。」
優衣はそう言ってケンを見つめると、ケンは一つため息をついた。
「昔はなんとも思わなかったのに、今は真ん中に立つと、自分を見ている視線が、刃物の様に感じるんだ。歌い始めると、一斉に自分を目掛けて、斬りつけてくるようで。俺の刀はとっくに錆ついて、何も斬ることはできないのに。」
そう言って、視線を落とした。
「あの水風船、ぶつけてくれたら良かったのに。」
「本当にぶつけたら、きっと怒るでしょう?」
「そりゃ怒るよ。」
「じゃあ、ぶつけなくてよかった。」
「俺にぶつけてこようとした時、一瞬、君がナオと同じ目をしたからさ、ちょっとびっくりした。」
「同じ目なんでしてないよ。ねえ、また歌ったら? ケンの刀は、錆びてはいないよ。」
「優衣。隼斗が探してたぞ。」
ナオとレイがやってきた。
「ナオ、おはよう。」
「おはよう。」
「ケン、2人で何話してたんだ?」
ナオがケンの隣りに座ると、優衣は隼斗の所へ向かった。
「あの子、雨が降るって追いかけてきたんだ。」
「そっか。」
ケンは笑っていた。
「気まぐれな通り雨みたいだよ。水風船をぶつけようとしてたと思ったら、雨に濡れないように傘を持ってくるなんて。」
あれから。
レイは実家の美容室を継いだ。ムラマサのベースだった事を隠さずに仕事をするレイは、遠くからもずいぶんと客が来ているようだ。
地元へ帰ると言っていたケンは、結局東京へ残り、今でも音楽を続けているようだ。自分を縛り付けるものがなくなったケンの声は、昔のように心を揺らす。
時々ナオに連絡がくるらしく、ケンと電話で話すナオは、今でも時々鋭い顔を見せる。
9章 追いかけてきたもの
10月。
緑色の町が、少しずつ色を変え始めた頃、優衣と外で遊ぶ事ができなくなった隼斗は、ナオと一緒にゲームをする事が増えた。
「生意気だぞ、隼斗。」
ナオはなかなか隼斗に勝てなかった。
「アヤカ先生が、ナオは昔から弱いやつだって言ってたよ。」
「そんな話し嘘に決まってるだろう。」
少し前、ナオは小学校の時からずっと好きだったアヤカと話す機会があった。
ピアノの調律を頼まれて、隼斗の通う保育園に向かうと、
園長が案内したピアノの前に、アヤカがいた。
「佐原先生、ピアノの練習なら、お遊戯室でしてね。」
「今日、調律の日でした?」
「そうですよ。」
教室を出ていこうとしたアヤカは、ナオの方を振り向いた。
「直斗くんでしょう? 柊子ちゃんの子供がここにきてるから、いつか会えるかもしれないって思ってた。」
アヤカはナオにそう言った。
「隼斗の先生なの?」
「そうだよ。」
ずっと好きだったアヤカと、大人になった自分が、初めてこうして話しをする。
「直斗くん、ピアノの調律やってるんだ。東京で、音楽をやってるって聞いたけど、こっちに戻ってきてたんだね。」
「もう、3年になるかな。」
「小学校からずっと一緒だったのに、こんなふうに話したのって初めてだね。」
「そうだね。」
「直斗くんは、結婚してるの?」
「一人だよ。アヤカちゃんは小田と結婚したって聞いたよ。小田と同じバドミントン部で、ずっと仲が良かったもんね。」
「私達、先月別れたの。だからまた佐原に戻った。」
「そうだったんだ。ごめん、余計な事言って。」
「大人になるといろいろあるね。いろんなものが手に入る様になると、何が欲しかったか、わからなくなる。」
「仕方ないよ。」
ナオはそう言うのが精一杯だった。
「ごめん、邪魔したね。」
アヤカは教室を出ていった。
小さな彼女の背中を見ていたナオ。
自分がずっと好きだった人は、こんなに淋しそうに話すんだ。
昨日から続いている雨は、色づいた葉っぱをアスファルトに貼り付ける。
最初からついている模様の様な、赤い紅葉の葉。
優衣の帰りがやけに遅かった。
診療所はとっくに終わっているはずなのに。
胸騒ぎがしたナオは、玄関を出て国道まで歩いてきた。
優衣の車が停まっている。
後ろには、もう一台の車が後をつけるように停まっていた。
車の中で優衣は誰かとモメているようだった。
ナオが車の窓を叩くと、優衣はドアを開けようとするが、隣りにいた男性が、優衣の手を掴んで離そうとしない。
ナオはドアを゙開けて、優衣の手を掴んでいる手をはがすと、外に出た優衣の体は、アスファルトにできた水溜まりにストンっと落ちた。
「あんた達のせいで、めちゃくちゃだよ。」
車から降りた男性はそう言った。
優衣とモメていたのは朝川だった。
「その気にさせておいて、突然いなくなるなんて最低だ。」
朝川が自分を罵るのを黙って聞いていた優衣は、
「もう、大嫌いになったでしょう?」
朝川を見て静かに微笑んだ。
さっきまで声を荒げていた朝川が、
「許してやるから、戻ってこいよ。結婚するって、みんなに言ってしまったし。」
そう言ったが、優衣は首を振った。
「ナオ、帰ろう。」
そう言って車の鍵をナオを渡した。
「そんなやつのどこがいいんだよ!」
「朝川くんは、私のどこが良かったの?」
「ふざけるなよ。」
「病院もひどい辞め方をしたし、私はもう、あの町で笑って暮らす事なんかできないから。」
また、雨が降り出す。
車から出た時に落ちた水溜まりのせいで、優衣の服は濡れていた。
「私は歩いて帰るから、車、お願い。」
夜の雨の中を走っていく優衣の背中は、雨の中でも走っていても、はっきりとした輪郭を、ナオの目に映した。
「優衣は嫌がるかもしれないけど、雨が止むまで休んでいってください。」
ナオは朝川にそう言った。
朝川は怪訝そうな顔をしたが、
「俺もあんたと話がしたい。」
そう言って、ナオの運転する車の後をつけてきた。
「今日は部屋が空いてないんで、こっちを使ってください。」
ナオは従業員用の部屋を、朝川に案内した。
「あんた、彼女の元彼に、一体何をやってるんですか?」
「本当ですね。」
「連れて帰るかもしれませんよ。」
「優衣が本当にそうしたいなら、俺は止めません。」
ナオは朝川に着換えとタオルを渡し、部屋を出ていった。
少しすると、多岐が食事を持ってきた。
「優衣はどこにいるんですか?」
朝川は多岐に聞いた。
「もう寝たと思いますよ。直斗くんの甥っ子が、よく優衣さんと一緒に寝るみたいですから。」
「甥っ子って?」
「6歳の子ですよ。お母さんは遅くまで、旅館の仕事があるから、雨の日は淋しくなるんでしょうね。」
「あの人は、まだ起きてますか?」
「直斗さんですか? たぶん、まだ起きてますよ。」
「あの、起きてたら、少し話しをしたいと伝えてもらえませんか?」
ナオが缶ビールを持って、朝川の所へやってきた。
もらった缶ビールを開けると、朝川はそれを音を立てて飲んだ。
「優衣はもう寝たんですか?」
「寝てますよ。俺の甥っ子と一緒に寝てます。」
「あんなに言い合ったのに、すぐに眠るなんて、けっこう図太い神経の女ですよね。」
「そうですね。」
ナオは、さっきまで隼斗と楽しそうに話していた優衣を思い浮かべて、少し笑った。
「高校の頃のあいつは、控えめで印象に残らないやつでしたから、こっちの言う事はなんでも聞く、いい子のままだと思っていたのに。大学病院から来たっていうし、そんな子は田舎じゃ珍しいですからね。結婚にも泊がつくし、優衣なら理想の奥さんになってくれると思いました。」
「そうだったんですか。」
「弱い女でいるほうが、楽なのに、あいつはバカですね。」
「はっきり、物を言う事がありますよね。意地っ張りな所もあるし。」
「優衣をここに連れてきた事、後悔してますよ。ずっとピアノの前から動かなかったの時に、嫌な予感がしたんです。」
「音を1回聞いたら、忘れないん子なんです。ここへきた日、俺が適当に弾いたメロディを、同じように弾いた。それだけの事なんですけどね。」
「言ってる事がぜんぜんわかりません。」
「優衣の事、大嫌いになれますか?」
「なれないから、苦しんでるんです。」
「きっと、優衣も同じですよ。」
「優衣に触った事あるでしょう?」
「えっ?」
ナオは優衣がここへ来た最初の夜、眠っている優衣の背中を抱きしめた時の事を思い出した。
「どんなにこっちが求めても、影を抱いているみたいなんです。腕の中にいたはずなのに、あいつはどこにもいない。またぼんやり見えてきたと思えば、消えていってしまう。何なんでしょうね、本当に。」
朝川はいくら優衣を追いかけても、自分の元へ来ない事はわかっていた。それでも、初めて自分から離れていった女の優衣を、なかなか許すことができない。
「優衣、明日は早いんですか?」
「勤め先がここから30分掛かるから、7時過ぎには出ていきますよ。」
「何がいいんですかね、本当に。優衣が出掛ける前に、ここを出ます。楽譜を破った事、謝っていたと伝えてください。」
10章 明日の後悔
止まない雨はないと開き直るくせに、少し長い雨が降ると、本当は太陽なんてないのかもしれないと、不安になる。
晴れている日が少し長く続くと、今度は雨の涼しさが恋しくなる。
11月。
もうすぐ、冬がくる。
雪が降れば、何もかも白く埋め尽くして、静寂に包まれる。
静かな白い景色が広がった時、ナオはどんなピアノを弾くのだろう。
「隼斗、1年生になったら1人で寝ろよ。」
隼斗はナオに背中を向ける。
「優衣、雪が降ったら、また戦おうぜ。」
「私は手を抜かないからね。」
優衣は隼斗とがっちり手を組んだ。
「大人のくせにそんなにムキになるなよ。」
ナオは優衣の頬をつねった。
隼斗が寝たあと、ナオは優衣の手を握った。
「起きてたの?」
優衣はそう言った。
「ちょっとこっちに来ないか。」
「行かない、行けるわけないでしょう。」
真ん中に眠る隼斗の髪を、優衣は撫でた。
「ナオ、お母さんがいなくって淋しかった?」
「淋しかったよ。多岐さんがいつも来てくれたけど、やっぱり友達からかわれた事もあったし。」
「そうなんだ。」
「なあ、次の休み、優衣の家に行こうよ。」
「嫌だ、行きたくない。」
「ピアノ、あるんだろう。小さい時からずっと弾いてきたやつ。」
「あるけど、それはお母さんの物だから。」
「優衣には、嫌な思い出しかないんだろう。」
「そうだね。私より、お姉ちゃんはあのピアノのせいで、毎日大喧嘩してた。」
「ちゃんと話してこようよ。」
「ナオの気持ちもわかるんだけど……。」
優衣はナオの手を離した。
「私はいかないよ。おやすみ。」
休みの日。
結局、ナオに押し通されて、優衣の実家にやってきた。
突然出ていった娘が、知らない男性を連れてきた事に、母は玄関先から憤慨していた。
「母さん、こうして元気だったんだから、もういいだろう。」
優衣の父はそう言ったが
「朝川さんにもすごく迷惑掛けて、知らない人なんか連れてきて、もう、どこまで勝手なの!」
母の怒りは収まらなかった。
「お母さん、ピアノ触っていい?」
優衣はピアノの前に向かう。
「何言ってるの、今、大事な話しをしてるのに。」
「話しはちゃんとするから。ナオ、こっち。」
優衣はナオをピアノの前に案内した。
「調律をしてくれるって。このピアノ、ずっと前に調律をしたっきりじゃない。」
母はナオを怪訝そうに見た。
「丁寧に扱ってよ。大切なものなんだから。」
母は時々、どうして自分が言う通りにピアノが弾けないのか、優衣を責める事があった。
姉はとっくにピアノの前に座ることはなくたった。
自分が普通にできることは、みんなができるわけではないのに、母にはそれが伝わらない、
温厚な父は、こんな母のどういう所を好きになったのだろう。
ナオがピアノの調律をしている間、優衣は母の向いに座った。
「病院を辞めた事も、朝川くんの事も、何も相談しなくて、ごめんなさい。」
優衣は初めて両親に謝った。
「どれだけ、心配したと思ってるの。」
母はそう言って立ち上がると、調律をしているナオの様子が気になったらしく、ピアノを見に行った。
「優衣。」
父が優衣に話しかける。
「母さんにそっくりだな。」
「お父さん、何言ってるの、ぜんぜん似てないよ。」
優衣は父にそう言った。
「学生だった母さんは、結婚を約束してた人がいたのに、父さんを追いかけてきてな。」
「嘘。作り話しなんかしなくても。」
「本当の事だよ。父さんが勤めていた学校に、母さんが教育実習でやってきて、それで。」
「初めて聞いた。」
「母さんの両親を説得するのは大変でな。優衣が連れてきたあの人も、昔の父さんと同じ気持ちなんだろうな。」
「お母さんから、昔からあんなにきつい人だったの?」
「真面目な学生さんだったよ。穏やかな、やさしい人だ。」
「いつから、あんなに風になったの?」
「優香が生まれた頃からだ。子育てが思うようにいかなくなると、少しずつ、きつくなっていった。父さんは仕事でなかなか話しを聞いてやれなかったから、母さんは特に優香には、きつくあたっていたんだろう。優衣はいつも、優香が怒られているのを見て、要領良くやっていたけど、優香は何をしても母さんと言い合いになっていたからな。」
「お姉ちゃん、ピアノも大嫌いで、小3の時、急にバレーボールやりたいって言い出して、お母さんとものすごくケンカになったよね。」
「母さんは、突き指するのを心配してたんだろう。なんだかんだ言っても、試合があれば応援に行ったし、優香も今は母さんと同じ教師になって、楽しくやってるいるらしいぞ。」
「お姉ちゃん、体育の先生だっけ?」
「そう。子供達にバレーボールを教えるのが夢で、教師になったんだ。母さんとも、最近はうまくやってる。」
「それなのに、今度は私が反抗したってわけか。」
「母さんは、知ってるよ。子供達は自分の思い通りに育たないって。だけど、躓いてほしくないから、安全な道を歩くように口を出してしまうんだよ。」
「優衣、調律終わったって。」
母が優衣を呼んだ。
ピアノの前にきた優衣と父。
笑顔のナオがいる。
「お母さん、弾いてみたら?」
優衣はそう言った。
「優衣が弾きなよ。」
「だって、お母さんのピアノでしょう。お母さんが弾いて。」
母は鍵盤に手を乗せる。
いくつかの鍵盤の感触を確かめると、曲を弾き始めた。
いつもきつい顔で楽譜を見ている母は、今日は楽譜を見ないで穏やかに弾いている。
曲を弾き終え、ナオの顔を見た母は、
「あなたのお母さんは?」
そう聞いた。
「母は小学2の時に亡くなりました。」
「そう。優衣も弾いてみたら?」
「うん。」
優衣は破れた楽譜を曲を弾いた。新しい楽譜はナオからもらっていたが、最初にくれた楽譜とは少し違った。
耳だけが覚えているあの破れた楽譜の曲は、結局まだ弾ききれていない。
優衣が途中で躓くと、ナオが続きを弾き始めた。最後まで弾き終えた優衣は、ナオの顔を見て微笑んだ。
「本当、変わった2人ね。」
母はそう言った。
「やっぱりお母さんが弾くから、優衣、そっちへ行ってよ。」
母は優衣を椅子から、動くように言った。
「ずいぶん、穏やかになったのね、このピアノ。」
母はそう言った。
「お母さん、ピアノ教えてくれて、ありがとう。」
優衣の言葉は、母に届いていたけれど、聞こえないように母はピアノを弾き続けた。
「直斗くん、こっちでなんか飲もうよ。」
父はそう言って、ナオを呼んだ。
「優衣、なんでも許してくれるからって甘えたらダメよ。彼は少し優しすぎるから。」
母はそう言った。
2人は、優衣の部屋に行った。
「ナオ、ごめんね。」
「何が?」
「うちの親、めんどくさいでしょう?」
「優衣はお母さんに期待されていたんだね。」
「お姉ちゃんが、ずっと反抗してたからね。ナオのお母さんは、優しかった?」
「優しかったよ。」
ナオは優衣の手を握った。
「いつも隼斗がいるから、こうしてると変な感じがするよ。」
「ねえ、やっぱり帰ろうか。隼斗くん、待ってるし。」
「今日はここに泊まってもいいだろう。お母さん、なんか作ってるみたいだし。」
「それなら、私も手伝ってくるか。」
ナオは立ち上がろうとした優衣の手をなかなか離さない。
「どうしたの?」
優衣はナオを見た。
父がナオを呼んでいる。
「ほら、一緒に飲もうだって。」
そう言って、優衣はナオの手を引っ張った。
立ち上がったナオは、優衣の後をついて行った。
居間にきた優衣は、冷蔵庫から瓶ビールを出すと、ナオと父の前にグラスと一緒に置いた。
自分は冷蔵庫から出した缶ビールを、立ったまま飲んでいた。
「ちょっと、優衣、やめてよ。」
「なんで? ナオは知ってるよ。」
「これからはダメ。」
母はそう言った。
「何作るの?」
優衣はビールを持って母の隣りへやってきた。
「優衣、品がないわよ。それじゃあ、お嫁さんになれないって。」
ナオは少し緊張していたせいなのか、ベッドに入るとすぐに目を閉じていた。
優衣は隣りに並ぶと、自分も疲れていたのか瞼が重くなる。
「優衣。」
ナオは優衣の体を自分の体に寄せた。
「起きてたの?」
「朝川さんが、楽譜を破った事、謝っていたよ。」
「朝川くんと話したの?」
「あの日、話したんだ。」
「そう。」
「俺も、ずっと好きだった人と、初めて話す事があってさ。」
「保育園にいるって言ってた人?」
「そうだよ。」
「……。」
ナオは優衣の頬を触った。
「後悔して、前に進むことができた。」
「難しい事、言うね。」
優衣がナオの顔を覗く。
「優衣。こっちにきてよ。」
ナオは優衣の体に自分の体を重ねる。
ゆっくり優衣にキスをすると、初めて優衣の体に触れた。
優衣の鼓動がだんだんと速くなる。
ナオと暮らし始めてからは、何度かキスはしたけれど、それ以上の関係になる事はなかった。
優衣は体のどこかで、何もしないナオの事を安心していた。
今でも時々、朝川が楽譜を破った日の顔が、浮かんできて、もう痛むはずのない肘が疼いた。
優衣はナオの胸に顔を埋めた。
「顔、上げたら?」
「明日になったらね。」
ナオは微笑んで、優衣の抱きしめる。
「ナオが好きだった人が、一緒に暮らしたいっていうんなら、私は出ていくから。」
優衣の少し冷たい手を、ナオは大切に握る。
「優衣が好きだよ。」
そう言って少し微笑み、ナオは優衣に長いキスをした。
ナオの温かい体が優衣を包む。
優衣はナオの髪に触れながら、昔、ナオに憧れて金髪にしたんだよ。黒い髪も似合ってる、そんな事を思っていた。
「優衣。目、閉じなよ。」
ナオは優衣にそう言った。
後悔なんて、明日すればいいのか。
違う。
ナオの優しさが、後悔なんてどこかへ連れて行ってくれる。
優衣は目を閉じているのを待っているナオを見つめると、ゆっくりと目を閉じた。
11章 雨の音
あじさいは、どれくらい雨が近づいたら、色を変えるんだろう?
いつも見ているはずなのに、昨日のあじさいの色を思い出そうとしても、なかなか思い出す事ができない。
本当に移り気な花だね。
もしかしたら、たった今見ていた花なのに、振り返ったら違う色に変わっているのかもしれない。
「優衣のアパートって、まだそのままなの?」
朝食を食べていると母が言った。
「ごめんなさい、ちゃんと引き払うよ。」
「それなら、そのままにしておいてくれない?」
「どうして?」
「優香がこっちに学校の勤務になるかもしれないのよ。母校でバレーを教えたいって、ずっと言っててね。」
「先生の異動なんか、希望通りにならない事が多いでしょう。」
「そうだけど、優衣が住んでた所は、どこへ行くにも都合がいいみたいなの。」
「わかった、荷物は少しずつ整理するから、家賃はお姉ちゃんが払ってね。」
優衣と久しぶりに自分のアパートのドアを開ける。
朝川が窓から楽譜を捨てたあの日のまま。
優衣は少し荷物をまとめると、昔のムラマサのCDを見つける。
「ナオ、かっこよかったなあ。」
優衣がそう言うと、ナオは照れて台所へ行った。
「冷蔵庫の中は捨ててしまわないとね。」
ナオはそう言った。
「出てくる前に、キレイにしたよ。」
空っぽになった冷蔵庫をナオが開ける。
「本当だ。」
「これ、持っていく。」
「好きにしなよ。」
「それとね、」
「何?」
「ナオが投げてくれたピック、ひとつだけ、手に入れたことがあるの。」
優衣は昔、ナオがライブの時に客に向かって投げたピックを見せた。
「懐かしいなぁ。」
ナオはそれを手にすると、
「よく捨てないで持ってたね。」
そう、優衣に言った。
「私、本当にしつこいから。」
優衣はそう言って笑った。
帰り道、あんなに花をつけていたあじさいは、葉っぱだけになっていた。
「ここにね、いつもたくさんのあじさいが咲いててね。雨が近くなったら、赤くなって、遠くなったら青くなって、通るたびに、いつも見ていたの。」
「あじさいの色は、気まぐれな優衣と同じだね。」
「気まぐれ?」
「ケンが言ってた。」
「私、ケンとそんな話しなんかしてないよ。」
「ケンはそう思ったんだろう。晴れてるのに突然降る、通り雨みたいだって言ってた。」
「ナオ、ムラマサのメンバーはどうやって集まったの?」
「俺とレイが大学で知り合って、レイが他のバンドでやってたヒサシに声を掛けて、ボーカルを募集してたら、ケンがやってきた。」
「ケンが最後だったんだ。」
「あいつの声って独特だろう。なかなか他のバンドでは合わなくてね。それにすごい我の強いやつだから、なかなか落ち着く場所がなかったみたいだよ。」
優衣は、デビューしてから、みんなの視線が自分を斬りつける様だと言ったケンを思い出していた。
ナオの部屋の前に着くと隼斗が待っていた。
「どこ行ってたんだよ。」
「昨日は一人で寝たんだろう。もう、ここへこなくても大丈夫だろう。」
「ゲームで勝ったら、優衣と結婚していいって言ったくせに。」
「隼斗が結婚できる年になったら、優衣はおばあちゃんになってるよ。」
「ナオが守ってやれって言っただろう。」
「それは隼斗があんまり雷を怖がって優衣から離れないからだろう。」
2人の話しを聞いて、優衣は笑っていた。
「あっ、優衣さん帰ってた? 多岐さんが風邪を引いて、ちょっと手伝ってくれない?」
柊子が優衣に言った。
「直斗も布団くらい敷けるでしょう?」
仕事を終えて、遅い夕食を食べていると、
「優衣さん、これ、多岐さんの所に持って行って。」
柊子はそう言った。
「多岐さん、ご飯食べれそうですか?」
「優衣さん、すみません。」
「まだ、熱ありますか?」
「少し下がりました。」
「明日、院長先生に診てもらいましょうよ。」
「ただの風邪ですから、すぐに治ります。」
「風邪だってこわいんですよ。それに院長先生の大丈夫は一番よく効く薬ですから、明日、一緒に行きましょう。」
「多岐さん、具合どう?」
柊子がやってきた。
「女将さん、すみません。」
「多岐さんがいないと、淋しいですよ。」
「ありがとうございます。」
「明日は、優衣さんと一緒に診療所で薬をもらってきてくださいね。」
「いいえ、すぐに治りますから。」
多岐の部屋から出てきた優衣に、柊子が言った。
「多岐さんはね、診療所の院長先生の事を、追いかけてきたのよ。」
「そうだったんですか。」
「先生には奥さんがいてね、こんな田舎に住むのは嫌だって一度もここには来たことはないけど。多岐さんは、別に家庭を壊そうとかそんなつもりじゃなくて、ただ近くで暮らしたかっただけみたいなの。先生も、多岐さんがここにいる事は知ってたけど、お互いに同じ空気を吸って生きているだけで、幸せだって思っているみたい。多岐さんは、優衣さんが直斗を追いかけてきた気持ちを、自分の事のように感じたのね。」
「一人の人をずっと純粋に想い続けるなんて、素敵ですね。」
「隼斗、こっちで寝せるようにするから。このままなら、2人でゆっくり話す事もできないでしょう。」
「いいですよ。隼斗くんが来る日は、私はいつの間にか眠ってしまいますから。」
「直斗も隼斗も、神経質で、雨の音が気になるみたいでね。一人で寝てると淋しくなるんだって。」
「お姉さんは気になります?」
「私はぜんぜん平気なんだけど。」
「私もです。」
2人は顔を合わせて笑った。
「優衣さん、お風呂行こうよ。私もたまには、大きなお風呂に入りたい。」
いつも底を磨いているお風呂に湯が入ると、なんだか違う場所にいる気持ちになる。体を思いっきり伸ばすと、溜まってた疲れがお湯の中に逃げていくようだ。
「直斗と私はすごく仲が悪くてね。お母さんは直斗ばっかり可愛がっているようで、許せなかった。」
「お母さんが病気になった時、お姉さんが、すごく力になったって聞きました。」
「本当は勢いで結婚した夫から逃げたくってね。お母さんの病気を理由にして、とっとと出てきたの。そのうち、夫は浮気して、自分の思った通りに離婚できて良かったわよ。隼斗を授かった事は、すごく感謝してるけど。」
「隼斗くんは来年1年生ですね。」
「そう。入学式は私、お休みもらうから。」
「優衣、遅いぞ!」
ナオとゲームをしていた隼斗が言った。
「隼斗、今日はお母さんと寝るよ。雨の音が気にならないように、布団の位置を変えたから。」
ちょうどナオが勝負に負けたので、隼斗はさっさと柊子の所へ行った。
「ナオ、さっき部屋で何をやっていたの?」
「ギターの弦、張り替えてた。誰かがいるとダメなんだ。その人の空気で音が変わってしまうから。」
ナオはケースからギターを出した。
「弦が新しいから、押さえると指が痛くなるよ。」
優衣がギターを抱えると、ナオは後ろから優衣が押さえたコードに指を添えた。
「違うよ、もうひとつ下を押さえるんだって。ほら。」
「さっき、押さえた所と、今は押さえた所は、ぜんぜん音が違うの?」
「弾いてみたら?」
優衣は弾いてみる。
「よくわかんない。」
「耳だけはいいって言ってたのに。」
優衣はまた弾いてみる。
「もう、本当に勝ち気だね。貸して。」
ナオが弾くと、違う音がした。
「やっぱり違う。」
「優衣は指の押さえが甘いんだ。」
「そう? もう一度やるから、ギターを貸して。」
「ダメ。もう今日は終わり。ギターを寝せてやろうよ。」
「えーっ。もう少し。」
「ダメだよ。」
ナオはギターをケースにしまった。
「いつも楽器には優しいよね。」
「優衣にも優しくしてるだろう。ほら、こっちにおいでよ。」
ナオは優衣を隣りに呼んだ。
ナオの腕の中で目を閉じると、心地よい風に吹かれている気分になる。
「優衣。寝たの?」
「ううん。」
ナオは優衣の手を握った。
「ナオは雨の音が、気になるんでしょう?」
「そう。」
「母さんが亡くなった日も雨だった。隼斗はここに来た日が、雨だったんだよ。」
「雨は何も悪くないよ。」
「そうだね。」
「ナオ、今年最後の雨だよ。朝にはきっと雪になる。」
「どおりで寒いと思ったよ。」
ナオは優衣の体を引き寄せた。
「あったかいね。」
「優衣、そのまま寝るなよ。」
「わかってる。」
ナオは優衣にゆっくりキスをした。
気まぐれな優衣は、いつの間にか本当に眠ってしまいそうだ。
「優衣。」
「大丈夫だって。」
優衣はナオの背中に手を回した。
次の日。
嫌がる多岐を、優衣は診療所へ連れていった。
渋々多岐が診察室に入ると、
「いくつになりました?」
院長が多岐に聞いた。
「62です。」
「私はもう、70になりました。あなたは風邪も引かない丈夫な人だと思ったのに、やっぱり歳を取りましたね、お互いに。」
「青田さん、ちょっと。」
パートの塩見が呼びにくる。
「青田さん、気が利かないわね。」
「あっ、ごめんなさい。」
優衣は塩見の言っている事がわかると、急に恥ずかしくなった。
昼休み。
優衣は多岐を車に乗せ、帰りを急いでいた。
「ごめんなさい。昼からまた仕事なんでしょう?」
多岐はそう言った。
「今日は塩見さんがいるから、少し遅れても大丈夫です。多岐さんは、先生から大丈夫たくさんもらいましたか?」
「もらいましたよ。」
「先生の大丈夫は魔法でしょう?」
「優衣さんにも分けてあげますよ。直斗さんと幸せになってください。」
「やだ、多岐さん。」
柊子が玄関で待っていた。
「多岐さん、大丈夫?」
「はい。大丈夫です。」
「優衣さん、お昼用意してあるから、食べていって。」
「ありがとうございます。」
「悪いけど、仕事が終ったら隼斗を迎えに行ける?」
「大丈夫です。」
多岐がクスッと笑った。
「みんな、大丈夫大丈夫って、本当に魔法にかかったみたいですね。」
夕方、隼斗を保育園に迎えに行くと、優衣の前に、担任の先生が隼斗とやってきた。
「優衣。帰ったら雪だるま作ろうよ。」
「隼斗くん、雪だるま作るだけの雪はないよ。」
「ゲームの雪だるまだよ。」
「そっち。」
「ナオは弱いから、今度は優衣とやるよ。」
「あの、直斗くんの?」
隼斗の担任は、優衣に声を掛けた。
その人はナオの初恋の相手だと、すぐにわかった。
優衣は何も答えずに、彼女の目を見て微笑む。
「隼斗くん、いいね。遊んでくれる人がたくさんいて。」
その人がそう言うと、優衣は小さくお辞儀をした。
「それじゃあ。」
優衣は隼斗と手を繋いで車へ向かった。
「隼斗くん、私、ゲームなんてやったことないの。」
「大人なのに?」
「そう。大人なのに。今日は多岐さんが休んでるから、帰っても仕事がまだあるの。ナオと一緒にゲームしてよ。」
「仕方ないな。でも、今日は一緒に寝るからな。」
「今日は雪が降ってるもんね。」
「雨が降ると、お母さんは時々、泣いてるんだ。」
「それなら、隼斗くんが守ってあげなきゃ。」
「今日は優衣と寝る。」
多岐の代わりに仕事をすると、体中のあちこちが痛くなった。
「多岐さんってすごいわ。」
優衣は床に横になった。
「隼斗、今日はここで寝るのか?」
「優衣と約束したから。」
ナオは優衣の頬をつねった。
「隼斗、もう寝るよ。」
柊子が隼斗を迎えにくる。
床に横になっている優衣を見て、
「優衣さん、これくらいで音を上げた?」
そう言って笑った。
優衣は起き上がると、
「大丈夫です。少し眠かっただけですから。隼斗くん、おいで。」
隼斗は優衣の隣りに座った。
「優衣さん、あんまり勝ち気だと、直斗がそのうち、怒り出すよ。」
柊子はそう言って笑った。
「隼斗、これが最後だよ。もうすぐ、隼斗の部屋を用意するから、1人で寝るんだよ。」
優衣は疲れてとっくに寝てしまっていた。
「良かったな、一人部屋だってよ。」
「ナオと優衣は大人なのに、2人で寝てずるいよ。」
「大人になれば、いろいろあるんだよ。」
「ナオは優衣の事好きなのか?」
「本当、お前は生意気だな。」
「アヤカ先生より好きなのか?」
「好きだから、一緒にいるだろう。」
「そっか。」
隼斗が寝たあと、ナオは眠れずに降り続く雪を見ていた。
雪の空は、いつもより明るい。少しカーテンを開けていたせいか、優衣が目を覚ます。
「眠れないの?」
「うん。」
ナオは優衣の手を握った。
「雪は音なんてしないのに。」
優衣が眠ろうとすると、
ナオは優衣の頬を撫でた。
「ナオも早く寝よう。」
「そうする。」
ナオはカーテンを閉める。
「優衣、おやすみ。」
「おやすみ。」
ナオは優衣にキスすると、布団にもぐった。
悲しみがやってくると、涙の雨が降る。
いつ止むのかもわからなかった雨も、少しずつ光が見え始めて、雨が降っていた日の事も、だんだんと忘れていく。
ナオ、あなたは今、どんな色をしているの?
雨が降る前の赤い色?
晴れている日の青い色?
大きな花をつけたあじさいは、少しの風では揺れないよ。
あなたに吹きつける風があったら、私の後ろで通り過ぎるのを待っていればいいよ。
雨が降っても、晴れている日も、私は私の好きな色で、あなたが来るのを待っているから。
終