8.オベット公爵の憂い
オベット公爵家は物心ついた頃にはもう没落の一途をたどっていた。
原因は祖父の手腕のなさ。新しいものに飛びつき、金を出し、そして失敗する。それを繰り返していた。ただし、祖父の時代はまだ財産があった。さすがオベット公爵家と言われるほどで、徐々に財産を減らしていったことなど周囲に気が付かれていなかった。
ところが、父の時代。父は祖父の新しいもの好きに加えて、冒険に憧れていた。突然、すべてを投げて旅に出て、そして散財してくる。他国の、変な人間たちもやってきて、領地は荒れに荒れた。
母はすでに亡く、大きな屋敷に一人残される。
家令や侍女長、それから使用人たちによって育てられてきた。寂しくはなかった。
貴族学校にも通い、そこで生涯に一度だけの出会いを果たす。
レベッカ・モロイ。
モロイ子爵家の令嬢なのに、騎士科に所属する。
背が高く、すっとした立ち姿はとても美しい。
柔らかそうな栗色の髪はきっちりと結われているが、それでも色香を感じた。
モロイ子爵家とオベット公爵家では格が違う。付き合うこともなく、名前と顔を知っているだけの存在。
そんな彼女と深く付き合うようになったのは、彼女が夕暮れ時に街をさまよっていた時だった。たまたま王都の店から出たところで、出くわした。
いつもの彼女の様子なら、声をかけなかっただろう。だが、茫然と歩いている彼女を放っておけなかった。馬車を止め、声をかける。
「もう遅い。帰った方がいい。馬車がないのなら、送っていこう」
「いえ、叔父に家から追い出されてしまったので結構です」
「追い出された?」
ただならぬ言葉に、思わず眉を寄せる。レベッカは困ったように曖昧に笑った。
「両親が亡くなった時から、この時は来るだろうと思っていました。少し考えていたよりも早いですが」
「行き場がないのか?」
「……」
「では、馬車に乗るといい」
ここから親しくなっていく。
レベッカの隣は心地よく、とても温かい気分になる。家族と言えるのは家令と使用人たちしかいなかった。彼らは尽くしてくれるが、使用人として一線を引いていた。
彼女が加わったことで、ずっと抱えていた寂しさが消えてなくなった。
穏やかな日々を送っていたある日、父が死んだ。平民にとっては高級な、貴族にとってはそこそこな宿で女に刺されたのだ。聞けばくだらない痴情の縺れの末だったそうだ。あっけない最期だった。
だけど、唯一の肉親がいなくなったことでオベット公爵家を継ぐことになる。卒業まであと少しというところで、重責がのしかかってきた。そんな中、慰めてくれたのがレベッカだ。彼女は心細さに震える体を抱きしめて、温めてくれた。
「こんな時に言うのは卑怯かもしれないけど」
レベッカがキスの合間に囁いた。
「大好きよ、愛している」
「レベッカ……!」
こうして、レベッカと恋人になった。
◆
「ケイン」
ぼんやりと長椅子に座り、グラスを傾けていればレベッカが声をかけてきた。まだ乾かしていないのか、髪が濡れている。
「ちゃんと髪を乾かさないと。明日大変なことになるんじゃないのか?」
「ふふ。そうね」
隣に腰を下ろしたレベッカからタオルを受け取り、彼女の髪を優しく拭く。もう何度もやっているから、柔らかい髪を痛めることはしない。
「……今日、奥様に見られてしまったけど、よかったの?」
窺うようにしてレベッカが切り出す。思わず手を止めた。
「いずれ、離婚することになるんだ。早まっただけだ」
「でも、離婚すると……その、公爵家が大変じゃない?」
レベッカの心配はその通りで。
つい先日、妻の父であるワーリントン侯爵から、娘が心地よく暮らせるように改善するようにとの手紙をもらった。
ワーリントン侯爵の言うことはわかる。だけども、それはこの屋敷から私にとって心地よいものがすべて失われることに等しい。
「――わたし、ケインの邪魔になっているから、屋敷を出ようかと思っている」
「は?」
「ケインはわたしを恋人だと扱ってくれるけれども、ケインが結婚する前も他の貴族はそう扱ってくれていなかった」
元貴族だけども、今は平民だからね、とレベッカは笑う。
「屋敷を出ると言っても、どうするつもりなんだ?」
「うん。知り合いに、護衛の仕事があるからどうだと言われて」
「護衛の仕事?」
レベッカは嬉しそうに言うが、怪しすぎる。今までもレベッカは外で働こうと、職を探していた。だけど、元令嬢であることがネックで、商家の夫人の護衛の仕事すら受けることができなかった。
それなのに、このタイミングで?
「ケインの心配も分かるよ。ずっと守られていたからね」
「妻が気になるのはわかるが、いずれ離婚するんだ。このまま屋敷に留まればいい」
レベッカは笑みを消した。そして憂いを含んだ顔になる。
「わたしもケインと結婚して、子供を産みたいとずっと思っていた。だけど、貴族ですらなくなったわたしがケインの側にいるだけで、評判が悪くなっている。事業だって、わたしが側にいなかったら、融資をしてくれた人もいたんじゃないの?」
レベッカの的を射た問いに、息を呑んだ。
気が付かれていないと思っていた。だけど、レベッカはこちらが思っていた以上に理解していた。
レベッカは笑みを浮かべた。だがその目には涙が滲んでいる。
「奥様とやり直してほしいとは思わないけど、もし、この屋敷に戻ってきてくれるだけで公爵家が立て直せるなら、わたしは」
健気な言葉に、思わず強く抱きしめた。
「私はレベッカに側にいてほしい。だから、出て行くなんて言わないでくれ」
「でも」
「何とかする。公爵家が立て直せればいいだけなんだから。離縁しても問題ない」
レベッカが大きく息を吸う。少し腕を緩めれば、ぽろぽろと奇麗な涙を落としていた。
「どんなことになっても、側にいてくれるか?」
「もちろんよ」
「もし失敗して、すべてを失っても?」
「ええ。愛しているわ。ずっと、あなたの側にいる」
レベッカの甘やかな囁きに、歓喜がこみ上げる。
「本当に?」
「ええ。だからケインも」
わたしをずっと愛してね、と願う。
「私が愛する女性は君だけだ」
そう囁き返して、キスで応えた。