31.何を言っているの
オベット公爵は微笑むと、ゆっくりとした足取りでわたしの所まで降りてきた。風が吹けば倒れてしまいそうなほど儚げな様子であったが、感じるのは得体のしれない何か。
彼の異様な雰囲気に、逃げてしまいたくなる。思わずエドモンド様にすがった。
「ご、ごきげんよう。随分と体調が悪いように見えますわ。また後日、改めて訪問します」
「訪問だなんて、他人行儀な。ここは君の家である。ただいまと言ってほしいな」
何を言っているの。
唖然として、彼の顔を凝視した。目が合うと、甘やかに表情が緩む。今まで一度も向けられたことのない微笑みに、ぞわぞわとした恐ろしさが全身を襲った。
思わず後ずさると、オベット公爵は悲しそうな顔をした。
「警戒されても仕方がないが、少し話をしたい」
「どんなお話でしょう?」
「僕たちの未来について」
いちいち表現が気持ち悪い。これが例えば、婚約状態にあったスティーブ様、もしくは仕事の付き合いとしてエドモンド様との会話なら、こんな不快な感情は生まれないだろう。
それに未来という言葉をどう解釈していいか、困惑しかない。
「きちんとした夫婦としてやり直したい」
「は?」
恐ろしい言葉が聞こえた。
彼の言う「きちんとした夫婦」が理解できなくて、オベット公爵を凝視する。彼も視線を逸らさず、わたしを見返していた。そして、ゆっくりと、確実に聞こえるように声を出した。
「これから先、君とごく普通の夫婦としてやっていきたい。考えてもらえないだろうか?」
わたしが反応する前に、レベッカが悲鳴のような声を上げた。
「ケイン、どういうつもりなの? この女を愛しているというの!」
甲高い耳障りな声に、思わず顔をしかめた。オベット公爵は鬱陶しそうにレベッカへと目を向ける。あれほど愛おしそうに見つめていたのに、今はとても冷ややかだ。
「彼女と僕が夫婦として関係を深める。君が望んだことだろう?」
「違う!」
突き放した言い方に、レベッカが激しく首を振って否定する。
「レベッカが媚薬を盛ったのは、私とローズマリアが夫婦としてうまくいってほしいからだろう?」
「そうじゃないわ。わたしは、ただ」
「ずっと考えていたんだ。どうして君は私に媚薬なんて飲ませることができたのだろうかと。愛されていなかったんじゃないかと」
オベット公爵とレベッカの言い合いが始まりそうになった時、ぱんと大きな音が鳴った。はっとして顔を上げた。エドモンド様が手を叩いたようだ。
いつものように暴走し始めていた二人も驚いた顔でエドモンド様を見る。
「そこまで。少し冷静になろうか」
「……あなたは」
「正式にははじめまして、かな? エドモンド・フォスターだ」
「何故、ローズマリアとここに?」
エドモンド様がわたしと一緒にいる理由が思い当たらないのだろう。オベット公爵から戸惑いを感じた。
「ワーリントン侯爵夫人に付き添いを頼まれてね。オベット公爵と対等に話せる人間が必要だと。なので僕のことはワーリントン侯爵家の代理人とでも思ってくれていい」
そう言われてしまえば、オベット公爵も黙るしかない。
「ワーリントン侯爵家からの条件を言おう。まずはオベット公爵とローズマリア夫人との離婚。離婚に同意してもらえたら、援助額を元に戻す」
エドモンド様は余計なことを言わずに、さっさとオベット公爵家への援助条件を話し始めた。それは多岐にわたり、よどみなくエドモンド様は説明していく。主に援助の話と、今後のオベット公爵の教育の話。お母さまはわたしの離婚を本気で後押ししてくれていたようだ。
条件を聞くうちに、レベッカは徐々に顔を輝かせた。わたしとの離婚、そして変わらぬ援助額。離婚による不都合は目をつぶることにしたようだ。
彼女の気持ちはわからなくもないが、彼女のメリットが大きい気がして嫌な気分しかない。
「ちょっと待ってくれ」
渋い顔で待ったをかけたのはオベット公爵だった。
「何か?」
「もちろんある。私はオベット公爵家の当主として相応しい妻が必要だ。彼女との離縁はしたくない」
「ケイン!?」
レベッカがぎょっとしたように彼の名を呼んだ。オベット公爵は騒ぐレベッカには目をくれず、わたしを熱い目で見つめる。その熱が気持ち悪くて仕方がない。そっとエドモンド様を盾にした。
「お断りします。やり直すつもりはありません」
「だが、私と離婚したら君の醜聞になる。それに再婚も難しい。出来たとしても条件がかなり悪いはずだ」
結婚継続よりも再婚の方が悪い条件になるのはこの国では当たり前だ。どんな理由があるにしろ、すべては女性の責任とみなされる。夫がいくら悪くても、支えられない妻は価値がないのだ。社交界では、オベット公爵よりもわたしに同情的だ。だけど、離婚したらこの評価はくるっと引っくり返る。わたしが悪妻だと噂されるだろう。
でも、わたしは離婚したい。すべてを理解したうえで、そう考えている。
「――離婚は十分に考えた結果です」
「それを考え直してほしいと。もし一緒にいるのが難しいようなら、少しずつ関係改善するところから」
これでは堂々巡りだ。エドモンド様も同じように考えたのか、わたしが何かを言う前に口を挟んだ。
「離婚した後の条件をこちらにまとめてある。内容を確認してほしい」
エドモンド様は上着の内ポケットから書類を取り出した。それを家令へと預ける。
「協議は後日改めて」
それだけ告げると、エドモンド様はわたしの手を取って歩きはじめた。
「待ってくれ!」
オベット公爵はすがるように声を上げた。わたしの足が止まらないのを見ると、弱った体でこちらに寄ろうとして。
「うっ」
崩れ落ちた。
「オベット公爵?」
エドモンド様が変化に気がついて、振り返った。オベット公爵が床にうずくまり、呻いている。その背後には、短剣を持ったレベッカが立ち尽くしていた。手が小刻みに震えている。
エドモンド様は瞬時に判断すると、オベット公爵の側に駆け寄った。自分の上着を脱ぎ、刺された背中に押しつける。
「彼女を捕らえろ! そこの使用人! すぐに医師を呼べ!」
「は、はい!」
強い言葉で指示されて、皆が一斉に動き出した。茫然としていたレベッカは反抗せず、短剣を手放した。念のため、家令に拘束させる。
「どうして……」
思わずつぶやいた言葉に、レベッカが涙を流した。
「あなたがいるから悪いのよ。わたしにはケインしかいないのに奪っていくから」
理解できない言葉しか返ってこなかった。




