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26.疲れた

 扉が開いて、真っ先に踏み込んできたのは家令だった。

 窓ガラスが割られ、床には割れたガラスが散乱している。それ以外には荒れたところはないが、何があったかわからなかったのだろう。

 彼は床に転がるオベット公爵とソファに座ってぼうっとしているわたしを交互に見る。


「一体、何が……」


 困惑気味な呟きに、わたしは気合を入れた。長く話すつもりはないが、オベット公爵をこのままにしておけない。不可抗力とはいえ、意識を失わせた原因はわたしだ。


「気がついてくれてよかったわ。扉が開けば、窓を割る必要がなかったのだけど。どう頑張っても開かなかったのよね」

「……扉は紐で結ばれていました」


 目的がわかってしまったのか、家令の顔色が悪くなる。この家令はいつも詰めが甘くて、自分を窮地に追い込んでいる。どうでもいい感想を持ちながら、ため息をついた。


「彼の愛人に薬を盛られたと言っていたけど、そのあたりはそっちで調べてちょうだい」

「分かりました。それで旦那さまは」

「襲ってきたから、反撃したのよ。医師に診せてあげてね」


 反撃の様子までは話さなかったが、医師が必要なことは告げた。

 あと何をしなくてはいけないのか。

 考えがまとまらないうちに、モリーが飛び込んできた。彼女を止めようとしている侍女がいるが、それを振り切って入ってくる。


「お嬢さま! 何があったのですか!?」

「モリー」


 モリーは床に転がるオベット公爵と、やや乱れた格好をしているわたしを見て、すぐに察したようだ。目を大きく見開き、怒りで体を震わせる。

 彼女が大騒ぎをする前に、なんとか立ち上がった。モリーの側に行くと、震える手で彼女の腕を掴む。


「もうここには用はないわ。今すぐ帰りましょう」


 いつもよりも硬い声になってしまったのは仕方がない。モリーは探るような眼差しを向けてきた。


「ですが」

「いいの。オベット公爵の責任とは言えないから」

「わかりました」


 モリーはそれ以上言うことはなく、わたしを支えて部屋の外へと向かう。家令が慌ててわたしたちの前に立ちふさがった。


「お待ちください。せめて旦那様の意識が戻られるまで付き添いを」

「付き添いがいるのなら、レベッカ嬢にさせなさい。彼はわたしの顔なんて見たくないでしょうから」


 泣いた顔を見たし、暴走してわたしに蹴られたし。

 攻撃力の強い蹴りだったはずで、恐らく男性人生の黒歴史になること、間違いなしだ。そんな状態なのに、気がついたら目の前にわたしがいて、事情を説明しろと言われたら、きっと立ち直れないに違いない。


「しかし」

「それではごきげんよう。事情はオベット公爵から聞いてちょうだい」


 気合を入れて微笑み、困惑する家令を置いてモリーと屋敷を出た。

 馬車に乗り込むと、一気に疲れが出てくる。ぐったりと背もたれに体を預ける。体の震えを抑え込むように、自分自身を抱きしめた。

 モリーは隣に座ると、わたしの背中をゆっくりと撫でる。馴染みのある温かな手が少しずつ気持ちを落ち着かせた。


「お嬢さま、何があったのですか? 言えるようであれば、教えていただきたいのですが」

「どうやら媚薬を飲まされていたようね。わたしとの既成事実を作りたかったみたい、愛人が」

「既成事実!? こんな昼間に? しかも愛人が? え?」


 モリーは想像していなかったのか、素っ頓狂な声を出した。そしてその内容に混乱して、あり得ないほど、口が開いている。


「愛人が保身を図ったみたい」

「ああ、それならば理解できます」


 保身と聞いたモリーが納得したように頷いた。


「今さら保身を図るなら、最初から弁えていたらよかったのに」

「今だからですよ」


 わたしのボヤキに、モリーが訂正した。よくわからなくて、首をかしげる。


「どういうこと?」

「要するに、何もなくなる生活が大変だったのです」

「……彼女、元貴族だけど、叔父家族に虐げられていたはずだけど」


 調査結果に目を通したけれども、レベッカの生育環境は気の毒になるほどだった。つまり、一度は大変な生活を経験している。何もない生活を経験しているからこそ、わたしを排除して起こる現実を理解していたはずだ。


「経験していても、生活水準は簡単に下げられないものです。そして、働くつもりもないから、悲観しながらも一番都合の良い未来を欲しがったのでしょう」


 そういうものなのか、と頷いた。



 侯爵家の自室に入ると、今度こそ力が抜けた。外出着を脱いで、部屋着に着替える。ぐったりと長椅子に体を預け、大きく息を吐いた。

 モリーがいてくれたおかげで、体の震えは止まったが、どうしようもない感情が渦巻いていて、落ち着かない。


「飲み物をお持ちしましょうか?」

「今は何もいらないわ。疲れたから、休むわね」

「わかりました。では、御用のある時はベルを鳴らしてください」


 モリーはそう言って、静かに部屋を出て行く。一人きりになった部屋で、ぼんやりと天井を見上げる。見慣れた天井は、高ぶる気持ちを落ち着かせてくれた。


「はあ、疲れた」


 今日は一体何しに行ったのか。

 オベット公爵の様子から、彼には責任はないだろう。レベッカが勝手に暴走しただけだ。だけど、それで許される話ではない。


「……違う。許されてしまうわね」


 媚薬を飲まされていようと、わたしとオベット公爵は夫婦だ。そういうことに発展したところで、誰も困らない。政略結婚がゆえに、拗れてしまっていたが、夫婦関係になるのは咎められることではない。手段は褒められたものではないが、ここから関係を改めて構築すればいいと誰もが思うだろう。


 熱い吐息に、押さえつけられた体。

 男の体があれほど重いとは思っていなかった。押しのけようとしても、ぴくりともしない。

 レベッカの行為に傷つきながらも、彼女の望みを叶えようとした。


「怖いわね」


 覚悟も何もないまま、夫婦関係になってしまう恐ろしさ。

 嫌だと思っている夫が愛人の望みの通りに抱こうとする非道さ。

 恋に浮かれた心もなく、愛に包まれることもなく。


 前はそれほど感じたことはなかったが、このままでは駄目だと強く意識した。


「……早めに離婚しなくては」


 既成事実を作られてはたまらない。

 その前に。


 ハンナからもらった教本「不能にするえげつない百の方法」の中から、いくつか見繕ってマスターしておかなくては。

 二度と手を出そうと思わなくなるような、えげつないものを。


 そう決めると、本を取りに立ち上がった。

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