25.泣きたいのはわたしの方
苦しそうな表情、熱い吐息。
上気して潤んだ瞳は色っぽく。
「息が苦しそうだわ。シャツを緩めましょう」
「触らない方がいい」
手を伸ばしたが、すぐにそれは払われた。オベット公爵はぎゅっと自分の胸元を掴む。何かを耐えるようなその仕草はひどく色気のあるものだった。色気への耐性のないわたしは恥ずかしくて直視できないほど。
「でも」
「ついでにあまり近寄らないでくれ。匂いが」
「え、臭い?」
匂いと言われて、思わず自分の腕を鼻にあてた。使っている香水の香りがほのかにするが、臭いわけではない。
「そういう意味じゃない。君が近くにいると、甘い香りがしてきて、その。色々、まずい熱が」
「……本当に?」
「ああ」
俯きながら、オベット公爵は肯定した。
沈黙。
どうしていいかわからず、ちらりと彼を見る。随分と我慢しているのか、苦しそうな表情だ。媚薬ってこんなにも効果が高いのか、と明後日な方向の感想を持っていた。
「どうしたらいいのかしら?」
閉じ込められてしまった部屋。
もう何もないと言えども、奇麗な寝台はある。もう使うことはないというのにわざわざシーツがかかっている。それを考えれば、突発的なことではなくて予定されていたことだったのだろう。しかも主であるオベット公爵が知らない間に。
考えても仕方がないが、他にやることがない。
媚薬の効果を減らすための何かを知らないかと聞こうと再び彼を見れば。
ぽろぽろと涙を流していた。
「ええ!? どうしたの? どこか苦しいの?」
驚きに声を上げれば、彼は首を振った。
「僕は愛されていなかったんだろうか」
「ちょっと、何の話?」
なんだかわからないが、オベット公爵の泣き言を聞くことになった。
◆
「つまり、この媚薬はあなたの愛人が盛ったということでいいのね?」
「間違いない。実際に入れたのは侍女だろうが、出かける前に随分とお茶の心配をしていた」
「曖昧ね。違うかもしれないじゃない」
「……」
彼の疑惑を否定して見せたが、まためそめそと泣き始めた。いい年の男が、しかも公爵家の当主が愛人からの仕打ちがつらくて泣いている。呆れ半分、気の毒さが半分。
「お二人の関係は随分と長いと聞いているわ」
とにかく気を紛らわせるために会話を続ける。オベット公爵は涙をぬぐい、頷いた。
「そうだ。父が亡くなった後、どうしていいかわからなかった時に支えてくれたんだ」
「そうなのね」
「彼女も両親を失っていたから、私のつらさを理解してくれた」
両親とも健在で、現在も甘やかされているわたしでは理解できない気持ちなんだろう。
「そんな彼女がどうしてこんなことを?」
「……」
息も荒く頬はバラ色に色づいているが、それでも気が紛れているのか先ほどまでの切羽詰まった様子は見られない。このまま時間がたって、効果が薄くなればいい。
モリーが気がついてくれたらいいのだけど、多分無理だろう。きっとこの状態にした使用人たちが気がつかないようにしているに違いない。
「もしかして、わたしがお飾りの妻でいた方が都合がいいのかしら?」
「都合がいいとは?」
「離婚するでしょう? そうすると、あなたは誰かとまた結婚する必要がでてくるわ」
「そうだな。だが、家が持ち直した後なら、レベッカを妻にするつもりだ」
オベット公爵の目標はレベッカを妻にして、日陰者にしないこと。
「彼女も同じ気持ちなの?」
「それは……」
オベット公爵は視線を落とした。そのつもりであったのに、こうして媚薬を盛られている。その理由がわかってしまったのだろう。
要するに、レベッカは怖気づいたのだ。公爵夫人になる気概はなく、かといって新しい夫人では今と同じような態度でいられるわけがない。
そうなれば、わたしが妻としていてくれた方が彼女としてもありがたいわけだ。
ちらりとオベット公爵を見れば、呼吸が先ほどより荒くなっている。それに目も充血し始めていた。
もう少し距離を置いた方がいいかもしれない。そう思って、立ち上がろうと腰を浮かせた。だが立ち上がれなかった。オベット公爵が強い力でわたしの腕を掴んでいる。
向けられた目がギラギラしていて少し怖い。恐ろしさを押し殺し、距離を取ろうと後ろに下がった。
「ねえ、腕を放して。痛いわ」
「レベッカの望みを叶えたい」
「ちょっと待って、どういうこと?」
「レベッカが現状維持を望んでいるんだ。私たちが夫婦であることを」
なんて最低な理由なんだ。まだ薬の影響で、とか、女性が好きだからとかなら最低でも理解はできる。
なのに、レベッカの望み?
何を言っているのこの男は!
腹が立って力いっぱい突き飛ばした。だけど案外力が強く、びくともしない。ひょろりとした優男だと思っていたのに。
彼はそのままわたしを引き寄せた。力強い腕に抱きしめられ、熱い吐息が耳にかかる。
男のあまりにも近い距離に、鳥肌が立った。
「私たちは夫婦だ」
「離婚前提のね」
「だから、こうしたところで誰も咎めない」
「いやいやいや、わたしが咎めるわっ! 離婚するんだから、後悔するような真似はしないで!」
何でそんな風に思考が振り切ってしまったのか。このままではマズいと、彼の腕から逃れようと無茶苦茶暴れた。だが男の力にかなうわけもなく。
「いい加減にして! 迷惑よ!」
「君は私と本当の夫婦になる覚悟をしていたんだろう?」
「それは結婚した当時の話だわ。今はこれっぽっちも思っていない!」
全身で押さえつけるように床に転がされた。覆いかぶさってくる男に恐怖がこみ上げてくる。
必死にどうするべきかを考える。何かいい方法がないかと。
そして思い出した。ハンナから貰った本。「不能にするえげつない百の方法」の中に、確か男を撃退する方法があったはず。
必死に思い出し、イラストに描かれていたように足をそろりと折り曲げた。
そして加減することなく――。
「うっ……」
急所にためらいのない一撃を喰らったオベット公爵はそのまま意識を落として崩れた。上に覆いかぶさってきたが、力いっぱい床に転がす。
「はあ、助かった」
横になっているのも嫌で、起き上がる。手がどうしようもなく震えていた。よく見れば、手だけでなく体も震えている。心臓はバクバクと大きな音を立てていて。何度も何度も息を吸い、吐き出す。
落ち着いた頃。
そっと床に転がるオベット公爵を見た。媚薬の効果も物理的な痛みにはかなわなかったようだ。
「……人を呼ばないと」
恐らく医師が必要だろう。力の入らない体に気合を入れて、立ち上がる。
扉は閉ざされていて、開けることはできない。わたしでも持ち上げられる物を探して――花瓶を手に取った。
それを思いっきり、窓に向かって投げつける。
がしゃーん、と甲高いガラスの割れる音がした。だが、こちらに来る足音が聞こえなかったので、投げられる次の物を手に取る。そして、二枚目の窓ガラスを割った。
「何事ですか!」
ようやくバタバタと駆けつけてくる音がする。家令が気がついてくれたようだ。
「はあ、これでどうにかなるわね」
窓ガラスに映る自分の姿が乱れていることに気がついて、ささっと整えた。わたしは襲われていない。ただ、媚薬を盛られたオベット公爵の意識を刈り取っただけ。
そう自分に強く言い聞かせて、扉が開くのを待った。
 




