16.気になる彼女
その日は、予定がキャンセルされたため、時間を持て余していた。元々、時間は取れないかもしれないと言われていた約束だ。
とはいえ、何もすることなく屋敷にいるのも落ち着かない。だらしなく長椅子に寄りかかっていれば、初老の従者が植物園を勧めてきた。ちょうど、薔薇が満開でとても美しいのだという。
「本当ならば恋人を連れて訪れた方がいいのでしょうが……エディ坊ちゃまにはそういう浮いたお話がありませんので」
「失礼だな。その気になれば、恋人を作ることなんて」
「では、ぜひその気になって恋人を作ってほしいものです」
すぐに言い返されて、言葉に詰まる。十六歳の時に留学してから、あまりこの国には帰ってこない。この国は良くも悪くも貴族主義で、すぐさま婚約だと騒ぐからだ。ずっと一人でいたいわけではないが、一緒にいたいと思う女性に巡り合っていない。
「はあ、僕が結婚すると面倒なことになるのはわかっているだろう?」
「もちろんです。ですけどね、知られたところで、この国は揺らぎません。エディ坊ちゃまが幸せになっていけない理由もないのです」
従者は僕が幼い頃から面倒を見ているから、そういう感想が出てくるのだ。だが、貴族のほとんどは僕の血筋を知ったら、目の色を変えることだろう。
「フォスター公爵夫妻も同じように考えていると思いますよ」
「……義父母はいい人だからな」
面倒な血筋、つまり、前国王の庶子である僕を引き取ったフォスター公爵夫妻は人がいい。貴族らしい顔は持っているが、家族に対しては情が厚い。二人の兄たちにしても同じだ。彼らは俯きがちになる僕を常に心配し、周囲から守ってくれていた。
だからこそ、こうして今、自由にしていられる。
「エディ坊ちゃま、お仕度してください」
「植物園、興味がないんだが」
「いずれ出会う恋人のために情報収集しておくのです」
どうしても植物園に行かせたいらしい。
「何かあるのか?」
「いいえ。できれば、植物園にしか売っていない菓子を買ってきていただきたく」
老従者の目的がわかれば、体から力が抜けた。
「それぐらい、誰か人をやったらいいだろうに」
「エディ坊ちゃまから貰うからいいんですよ。それに、いつかのために役立つかもしれないでしょう?」
「そうかもしれないね」
適当に相槌を打てば、ため息をつかれた。
「エディ坊ちゃま、本当に気になる女性はいないんですか?」
「気になる女性、ねぇ」
ふと頭に過ぎったのはローズマリア夫人。
とても明るく前向きで、話す内容は多岐にわたる。好奇心の塊で、目がキラキラしていた。
この国にも、ああいう貴族女性がいたのかと驚くほど。
「おや、今誰を思い浮かべました?」
目敏く察知した老従者を睨みつける。
「そういうんじゃない。ただ、とても話が合うだけだ」
「話が合うだけですか?」
他に含みを持たせたような言い方に、立ち上がった。これ以上、詮索されてはたまらない。
「出かけてくる」
「いっていらっしゃいませ。植物園にある薔薇の砂糖菓子をお忘れなく」
「わかった」
薔薇の砂糖菓子など老従者には似合わないなと思いつつも、話が再び始まってしまうことを恐れ、上着を持つと部屋を出た。
◆
勧められただけあって、植物園はとても心地のいい場所だった。広い敷地には手入れされた花たちが咲き誇り、ただ歩くだけでも楽しい。気候は穏やかで、過ごしやすく、毎日の忙しさにせかせかしていた気持ちがほぐれていく。
ここは貴族たちにも人気のようで、あちらこちらに連れと一緒に歩く姿があった。連れもおらず、一人で歩いているのは僕ぐらいだろう。緩やかな風が吹き抜け、ともすれば沈みがちになる気分を上向きにしてくれる。
こうしてゆっくりとした時間を取ったのは久しぶりだ。
仕事が楽しくて、ついつい予定を詰めてしまうがこうした時間を取るのも気分転換にいいかもしれない。すぐに忘れてしまいそうな感想を持ちながら、ゆっくりと歩く。
舗装された道は歩きやすく、所々、道順を示す印がある。看板を見つけるたびに、売店の印を探すがどこにもない。
「薔薇の砂糖漬けはどこに売っているんだ?」
しばらく歩いてみたが、どこにも店がなかった。植物園のどこかで売っているのだろうが、一体どこなのか。誰かに聞くべきなのだろうが、声をかけることが面倒くさい。
見つからなかったことにして、このまま散策しようと思っていたところ。
見知った姿を見つけてしまった。
後ろ姿であったが、見間違えるわけもなく。
「彼女に聞いてみるか。これもまた縁だ」
声をかけるのも、と躊躇ったが、一緒にいるのは侍女のモリーだ。先日も、一緒にカフェでお茶をしたのだからいいだろうと勝手に決める。
急ぎ足で、ローズマリア夫人の側に行けば、様子がおかしい。
「ローズマリア夫人、具合が悪いのか」
声をかければ、非常に苦しそうな、今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。
「ええ、少し。あの、ごめんなさい。屋敷に戻りたくて」
言いたいことがまとまらないローズマリア夫人にいつもの快活さは見られない。ここから離れたいということだけを理解すると、上着を脱いだ。その上着を、頭から彼女に被せる。すっぽりと被せたことで、誰であるかわからなくなる。
「失礼」
そう言って彼女を抱き上げた。とても軽い。そして、自分の使っている香水とは違う、女性らしい甘やかな香りがした。驚きの声が上がったが、しばらくすると小さな嗚咽が聞こえてきた。顔は見ることはできないが、全身から溢れる悲しさにこちらまで胸が苦しくなる。
気の利いた言葉など思いつかず、ただ安心させるようにしっかりと抱きしめる。
心配そうに顔を曇らせるモリーに馬車はないのかと聞けば、返してしまっているという。待たせてある馬車で、侯爵家まで送っていった。
「ありがとうございました」
ローズマリア夫人は涙が止まらないようで、モリーが代わりに対応する。
「いや、すぐに休ませてほしい」
挨拶もそこそこに引き上げた。
馬車に戻ると、屋敷に戻るように御者に告げた。一人になった馬車はとても静かだ。だけど、先ほどのローズマリア夫人の泣き声が耳から離れない。
どうしてあんなにも悲しい思いをしているのか。
女性が泣いている、それだけでこれほど何があったか知りたいと思ったことは今までなかった。自分の心の動きも不思議で、大きく息を吐いた。
「随分と早いお帰りで」
「ああ、ちょっとな」
屋敷に戻ると、老従者が不思議そうな顔をしている。そして、僕が上着を着ていないことに右眉を上げた。
「何も聞くなよ」
「まだ何も言っていませんよ」
「僕だってよくわからないんだ」
先に牽制すれば、老従者が目を細めて笑った。その顔にむっとしたが、特に何も言わなかった。下手に言って、情報を引き出されてはたまらない。
自分の中に分類できない何かがあることが、とてつもなく不満だったが、それでも不快な気分ではなかった。




