13.恋の終わり
胸が痛い。息ができないほど、ズキズキする。
植物園から何とか屋敷に戻ってきて、現在部屋に引き籠り中。
涙が止まらない。目が壊れてしまいそうなほど、溢れている。ぐすぐすと鼻をすすり、ベッドキルトを頭からすっぽりとかぶっていた。
「お嬢さま、モリーです。入ってもいいでしょうか?」
扉をノックする音と、モリーの心配そうな声が聞こえた。
「一人?」
「はい、一人です」
「じゃあ、入って」
許可をすれば、静かにモリーがワゴンを押して入ってきた。ベッドキルトから少しだけ顔を出す。モリーが痛ましい顔をしたので、ちょっとおどけて見せた。涙がボロボロと溢れているから、変な顔だと思う。
「酷い顔でしょう?」
「無理に笑わなくてもいいのです」
モリーはお茶を入れると、サイドテーブルに置く。のそのそと体を動かし、ベッドの上に膝を抱えて座った。
「自分でもね、びっくりしている」
スティーブ様が新しい相手を見つける。
当たり前のことだ。だって、わたしは結婚してしまったんだから。当たり前だと認識していたのに、実際にその姿を見ると衝撃を受けた。そして自分が考えていたことも、はっきりと認識した。
「婚約していた時、男女の愛がなくても、家族の愛があればいいと思っていたはずなのに」
驚くほど、好きだった。自覚がなかった分、気持ちは大きく揺さぶられる。
モリーは何も言わずに、鏡台から櫛を持ってくると、くしゃくしゃになったわたしの髪をブラッシングし始めた。ゆっくりとしたその動きがとても普段過ぎて、高ぶっていた気持ちが落ち着いてくる。
「はあ、恥ずかしい。動揺しすぎだわ」
「誰も見ていませんよ」
「エドモンド様が見ていたじゃない」
エドモンド様には悪いことをしたけれども、泣いている理由を説明することも、今の気持ちを言葉にすることもできず、送り届けてもらった。
すごく優しい人だ。わたしの変な様子に驚いた顔をしたけれども、目についた反応はそれだけで、あとはわたしが苦しくないか、気を遣ってくれた。
「とてもよくできた方ですね。普通、何があったか気になって聞いてしまうものですが。少しもそんな素振りも見せず」
モリーは何やら感心している。
「色々な国でお仕事をしているからなのか、如才ない方ね」
「落ち着いたら、お礼にいかなければなりませんね」
「うー。顔を合わせるなんて、恥ずかしいわ」
ばっちり泣き顔を見られてしまった。結婚しているのに、人前で泣いてしまうなんて恥以外何でもない。
「早いうちにお礼はした方がいいですよ。なんせ、上着も借りてしまっていますし」
「はっ! そうだったわ!」
もしかしたら、涙とか化粧とか諸々がくっついてしまったかも。
泣き顔を隠したくて、上着に顔をくっつけていたから。
「ふふ、少し元気になってきましたね」
「いつまでも泣いていられないから。そうだ、大きめの箱を持ってきてくれる?」
「箱ですか?」
「ええ。片付けてしまおうと思って」
部屋の中をくるりと見回した。それだけで、モリーは納得したように頷く。
「わかりました。大きめの箱をいくつか用意しましょう。ですが、今日でなくても」
「ううん。今日やってしまいたいの」
ベッドから降りた。モリーは仕方がないと言った様子だったが、箱を取りに行ってくれる。
「さてと。スティーブ様にもらったものはすべて片付けてしまいましょう」
そう、わたしは婚約が白紙になった時も、違う相手と婚約した時も、さらに結婚した時も、部屋を片付けなかった。
今日まで気が付かなかったが、それなりの時間、婚約していたのだ。部屋の中には彼から貰ったものが溢れている。
一緒に出かけた時には思い出の品を、彼がどこかに行った時にはお土産を、そして茶会や夜会がある度に、ドレスや宝飾品を贈ってくれた。もちろん誕生日プレゼントもある。
ライティングデスクに置いてあるお気に入りのペーパーウェイト。楕円形の真鍮のもので、美しい彫刻が施されている。これは一緒に出かけていて、見入っていたら買ってくれたのだ。そして、同じく万年筆。これはお返しを兼ねて、お揃いでわたしが買ったもの。彼とわたしのを合わせると一つの絵柄になるのだ。
一つ一つ手に取り、そしてその時を思い出して涙して、モリーの持ってきた箱に入れていく。
誰かに譲る物、しまっておくもの、それから処分するもの。
「そうだ、スティーブ様の好みで選んだものも入れてしまいましょう」
彼の好きな本や色、それから一緒に選んだものなど。
どれもこれも箱行きになってしまい、途方に暮れる。
「お嬢さま、どれを手元に残しておきますか?」
「どれって……選べないわ」
「選んでください。そして、それ以外はすべて処分です」
はっきりと言われて、涙がにじんだ。
「ううう、つらい」
思い出しては箱に入れていく。どんどんと減っていく部屋の中の物。彼からどれだけ贈られていたのか、理解していなかった。
その中で一つだけ選ぶなんてできない。
どれもこれも手元に残したくて、でも残せなくて。
後回しにしているうちに、宝石箱が出てきた。プレゼント用に用意されたそれは、スティーブ様と結婚した時に渡そうと、わたしが用意していたもの。
「……吐きそう」
「お気持ちはわかりますが、お嬢さまが新しい一歩を踏み出すための儀式です」
「そうよね、スティーブ様には幸せになってもらいたいから」
わたしは抵抗することもできずに結婚してしまった。もう二人の道が一つになることはない。強く言い聞かせて、もう一度集められた物を見た。思い出がたっぷり入った、楽しい時間と明るい未来しか持っていなかった自分が持っていたもの。
これからは新しい未来に向けて進まなくてはいけない。
じっくりと目に焼き付けて、そして。
「モリー、全部、片づけて」
「……いいんですか?」
「ええ。わたしはこれからもっと強くならないと」
あの夫がいる限り、自分で未来は勝ち取らないと幸せになれない。わたしに手を差し出してくれる人はスティーブ様ではない。
そう改めて認識した。
「本当にいいんですか?」
「いいのよ!」
「ですが……部屋のものがほとんどなくなってしまいましたが」
「え?」
言われて改めて部屋を見回せば。
思い出があるからと、彼を思って買った便せんも箱に入れてしまったし、彼の色を使ったものをということで用意したカーテンやベッドキルトなど。すべてがなくなってしまった。
「……ごめんなさい、モリー。カーテンとベッドキルトは戻してほしいわ」
「承知しました」
とりあえず、人間らしい生活に必要な物だけを残すことになった。
 




