黒い森と精霊の棲む川
ハイディさまの家を出て、薄暗い森の中を歩く。
「シャンテル、怖くないぞ。私がついている。魔物が出たら一撃必殺で仕留めてやる」
すぐ前を歩くウィルフさまが意気揚々と言った。
しかし歩けど歩けど魔物は現れなかった。森の魔物たちは夜行性が多い。
それにこの辺りの魔物はハイディさまを常々恐れている。
そのハイディさまの匂いがついているわたしのことも警戒しているのだ。
「あれ、不思議だな。来るときは百歩ごとに魔物に襲われたんだが、全然いないな。私の強さを思い知って、逃げ出したようだな」
ウィルフさまがそう言って、得意げな顔をした。
違います、わたしが魔物よけになっているのですとわざわざ言うのも無粋なので、ウィルフさまにはそのまま良い気分でいてもらった。
道中、ウィルフさまと話をして、ウィルフさまが昔と変わっていないところを発見しては、嬉しくなった。
見た目はかなり変わったけれど、素直で前向きなところや優しいところ、わたしを好きでいてくれるところ、それを前面に押し出しているところは変わらない。
「ずっと走って来たんだ。一秒でも早く、シャンテルに会いたくて。走り通して、限界が来たら野宿して、飲み食いして、また走って。でも再会したときに臭くて嫌われたら嫌だから、森の中の小川で水浴びしたよ。どう、臭くない? あ、あそこの川だ。水がすごく綺麗で冷たくて……」
ウィルフさまが指さした川を見て眉をひそめた。
「大丈夫でしたか? あそこには……川の精霊が棲みついているのですが」
そう、たちの悪いのが。
人のものではない美しさで、巧みに人間を誘惑して、川から出させないようにするのだ。
川の精霊に魅せられた人間は、川で体力を消耗して、死に至ることさえある。
「そんなのいたかなあ……あっ、アレか。溺れたふりしてたやつ。もちろんガン無視したよ。絶対泳げるタイプのアレだったし」
「でも、すんごく美しかったでしょう? 放っておけない感じを出すのが、得意なタイプのアレですし」
「いやほら、私はシャンテル以外のことは放って置けるタイプの男だから。ここへ来るときも何もかも放り置いて来たんだ」
「え! 何もかもとは…」
「公務とか縁談話とか。そもそも私には永遠の想い人シャンテルがいるというのに、他の者との縁談など受けるはずがないだろ。そうビシッと言い放って、そこからダッシュで来た」
ピッと親指を立てて、キラリと白い歯を見せてウィルフさまが言った。
「バカ息子、お前なんか勘当だーって親父が城のバルコニーから怒鳴ってたな。清々したよ。ハズレ王子なんて言って、私を馬鹿にしてた奴らだからな。縁が切れてスッキリだ」
さっぱりした顔で笑うウィルフさまを、思わずまじまじと見た。
「ん? あ、もしかして……王子じゃなくなった私は嫌か? そ、そうだよな、私には生まれついた身分くらいしか、取り柄がないもんな。でもほら、病気治って丈夫になったからな、肉体労働系なら何でも働けるぞ」
急に慌てて、子犬のような目でわたしを見たウィルフさまは、
「任せておけ。苦労はさせない」と言った。
はいと答え、わたしも決意を新たにした。
ウィルフさま、そっくりそのままお返ししますわ。このシャンテル、命に換えてでもウィルフさまをお守りします。
それにしても、どうしたものか。
王家から勘当されて清々している様子のウィルフさまだが、はたして本当にそれでいいのか。
ウィルフさまが言うように、ウィルフさまの価値は身分だけではないけれど、王族ゆえの優雅な暮らしや、特権がある。
そういうものを全部手放しても、ウィルフさまは幸せと言えるのか。
しかし今あれこれ言ったところで、ウィルフさまが話を聞かないことは分かっているので、とりあえず前を向いて突き進むのみだ。
その先が行き止まりでも、たとえ断崖絶壁でも、わたしは必ずウィルフさまをお助けする。
ハズレ王子と呼ばれたウィルフさまと同様、ハズレ聖女と呼ばれていたわたしが。




