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残り ■-5 日 手のひらの蝶

「ただいま」

バスケ部の練習を終えてまだ日が高いうちに帰宅した修吾を迎えたのは、真っ赤な目をしてキッチンに立つ奏多と胃袋をくすぐる醤油の香りだった。

「おかえ」

彼女の顔を見て目をまん丸くする修吾に気づくと、奏多は悔しそうな顔で前髪を抑えて顔を隠そうとする。

「…り…」

ローテーブルに奏多が昨日読んでいた本が置かれているのを確かめた修吾は、隠すこともできずに破顔する。

「だから最後やばいって言ったろ」

「うっさいな」

小ぶりのフライパンでジューと音を立てて肉を焼いているらしい彼女は、修吾に背を向けてにべもなく告げた。


「もう飯の準備してくれてんの?」

「…角煮、美味しそうなレシピ見つけたから作りたくて。でもまだまだ時間かかる」

「角煮いいな。俺、先に風呂行ってきていい?」

「いてら。まだ手伝ってもらうまでに色々しなきゃだから」

奏多は真剣そのものといった顔でフライパンの中にある肉の一つ一つを丁寧にひっくり返していく。

「暇があったら目冷やしとけよ」

苦笑して彼女の頭をぽんぽんと撫でると修吾は風呂場に足を運んだ。


体にこびりつく汗を熱いシャワーで流しながら、修吾は長谷川たちとの会話を思い返す。なにか喉の奥に刺さったトゲのような感覚が増したような気がしていた。

―長谷川が。相良をねえ。

健全な高校生ならば自然なことかと思う。

長谷川のことは彼が大人になったら一緒に酒を飲めたらいいなと思うくらいには修吾も親しく思っていたし、相良もこの五日過ごして─良い奴だということがよく分かった。

修吾は先ほど無意識に彼女の頭を撫でた自分の手のひらを見てしばらく悩んだ後に、それを握りしめると「…長谷川、頑張れよ」と口に出した。


修吾がリビングに戻ると、キッチンには大きな鍋が蓋された状態で置かれていて、なぜか奏多は部屋の端っこに膝を抱えて座っている。

「ああ、圧力鍋出したの」

「うん、この前見つけたから。料理しないんじゃなかったの?」

「なんだったっけ。母親が送ってきたか、なんかの景品で貰ったかだよ」

「通りで使った形跡がないと思った。…それ、火、つけてくれない?」

まだ目が腫れたままの奏多がどこか拗ねるように言った。

「え?いいけど…このまま着ければいいのか?火力は?」

「はじめは全開で」

修吾が言われたとおりコンロをひねる。奏多はそれをじっと見ていた。


「…これでいいの?」

「うん。ありがと」

修吾は首をひねるとコップに水を注ぎ、ローテーブルについて後ろに控える奏多を振り返る。

「お前何でそんな隅っこにいんの」

「…いいから」

「いいからって何だよ」

「…いいから。教師って大変なんだね。夏の間も仕事して、部活もして」

「ああ、分かってくれたならちょっとは敬え。…そういえば、……お前好きなやつとかいんの?」

修吾は部活という言葉に先ほどのやり取りを思い出してふいにそう聞いた。

「…急にナニ。っていうかいたらナニ。っていうか、いたとしても先生に言わないよ」

奏多がこれでもかというほど顔をしかめた。

「いや、別に」


「陽斗でしょ」奏多は千切って捨てるように言った。

「いや…」修吾は思いもよらない奏多の正確なツッコミにぎくりと身を震わせる。

「…先生も陽斗も下手くそすぎん?あたし、陽斗のことそーゆー目で見れないから。あいつ、前からあからさまでウザい」

「…あいつ、いいやつだぞ」

「あっそ。で」

奏多が言ったところで、圧力鍋がふつふつと音を立て始める。

それを聞いた奏多がびくりと体を震わせた。

一方の修吾は彼女が部屋の端にいる理由を理解すると、奏多を天からカエルが降ってきたかのような顔で見る。

「…」

「ナニ」

「お前、圧力鍋…怖いの?」

「…だったら、ナニ」

そこで、蒸気穴がシューと音を立て始めた。奏多は一層鍋から離れようとするように体を縮こませた。

何を言うべきか戸惑う修吾と、蒸気音に体を固くする奏多。

しばらくシューーーーという音が場を制したあとで、カチッと圧力がかかったことを知らせる音が鳴った。


「…中火にしてくれる?」

「中火って…」

「だいたい真ん中くらいでいいから」

テーブルを立った修吾がコックを調節するのを確認して、奏多はやっと少し息をついたようだった。

しかし、未だに部屋の端にうずくまったままだ。その姿に、修吾はちょっと意地悪をしたい気持ちになって奏多の隣にしゃがみこむと手を差し伸べる。

「別に大丈夫だって、ほら。来てみろよ」

「絶対にヤダ」

「何が怖いの。爆発しそう?」

奏多は少しだけ顎を引くので修吾は破顔する。

「そんなわけ無いだろ、ちゃんとした会社が作ってるんだから」

「そんなこと言われても、嫌なものは嫌」


「そんなに怖いなら、角煮なんて作んなきゃ良かったのに」

「部活の後だったらガッツリ系のごはん食べたくなるかなぁと思って。…―あー…ていうか…、ほら、ホントは、作ってみたかったって言ったじゃん。家だとあんまり食べる人いないっていうか、女二人だと角煮とかほら、あんまりっていうか。お肉も使っちゃわないとだし」

奏多は顔を隠すように前髪を抑えると早口で言った。その仕草を見た修吾は立ちあがり奏多に背を向けて口を引き結ぶ。

彼女の言葉よりも、慌てて付け加えた時のその表情の方が彼女の心情をよく表しているような気がした。


所在なくなった修吾が助けを求めて部屋に目を向けると、ローテーブルに置かれた本に目を止める。ほっとしたように息をついた。

「本、どうだった?」

「すごいよかった。記憶消してもう一回読み直したいくらいよかった」

「大げさだな。なにが一番よかった?やっぱり仕掛け?」

修吾は座椅子に腰掛け、本を手に取りながら言う。帯に書かれた『あなたもきっと騙される』『もう一度読み返したくなる』というアオリ文。

そうなんだけどさ。確かにすごい仕掛けなんだけど、この本の一番はそこじゃないだろ。

そう思いながら自分が気に入っている部分を探そうと三百ページほどのその本の後半を開いてパラパラとめくっていく。

「仕掛けもびっくりしたけど」

修吾が意外そうな顔を奏多に向けると、彼女はキッチンの方を気にしつつも修吾ににじり寄ってくる。

修吾が本を開いたまま奏多に手渡すと、そうそうこのへん、と少しだけページをめくった奏多が「私、ここがめっちゃ感動した」と指す。


綺麗に切り揃えられた爪で奏多が指した一文は物語終盤、真犯人がとある少女だと明らかになり取り調べが始まるシーンだった。

―彼女の瞳は既に乾いていた。そして、何も見ていない。ただ力なく広げた自らの両手の中に目を向けている。彼はその手のなかの虚空に、今にも息絶えそうなか弱い蝶のいくつもの羽ばたきを聴いた気がした。

握りつぶさないでくれ。それを外に出してやってくれ。そう彼は強く祈った。―


「…」

奏多が手にした本をのぞき込むようにしてその部分を呼んだ修吾は声を呑んで彼女の顔を見つめる。

「…なに?」

修吾は奏多から本を受け取ると「俺、こっち」とその少し先、取り調べがほぼ終わろうかという部分を指して彼女に示す。

―彼女はとうとう、この事件の幕は閉じたとでもいうようにそっとその手を握った。しかしそこに、握りつぶされるものはもう残っていなかった。初め命脈が尽きかけていた蝶たちは、彼女の言葉の一つ一つによって存在を肯定されるにつき、息を吹き返して次々と舞い上がった。この部屋にはすでにその蝶たちが、彼女の心の断片が満ちていた。―


「…」

奏多も息を呑んだ。二人の間に、何を言うべきか手探りするような静寂が満ちる。

この沈黙が特別な意味を持ち始めてしまう前に、何かを言いたかった。

でも、軽々しく口を開くことは危なすぎて出来そうにない。


修吾は、パタン、と音を立てて本を閉じた。その音に、この部屋にも存在した小さな蝶たちが驚いたようにふわりと舞い上がり、一匹が修吾の頬を誘うように撫でる。

修吾はその誘いには乗らず、本をテーブルに戻して換気扇の下に逃げた。

「…いい本だよな」

修吾はタバコに火を付けながら素知らぬふりでかろうじてそう言った。

「…うん、いい本だった。読ませてくれてありがとう。これ、今度買う」

奏多が明るく返したことにほっとして大きく息をついた。


「…いいよ、やるから持ってきな」

「じゃあ先生に新しい方あげるよ」

「いいよ自分で買うから。あ、その流れさ、実はここにフックがあるの気づいたか?」

修吾はタバコを灰皿に置くと、奏多から本を受け取り数ページ前に戻った部分を指した。

しばらくして修吾がテーブルに戻ると、そのまま最後まで読み直しているらしき奏多は、あのときのように静かな涙をこぼしていた。

また一匹、新たな蝶が宙を舞う。


「…お前は本当に、綺麗に泣くな」

「…何ソレ」

「そのままの意味だよ」

修吾は彼女の頭をぽんぽんと撫でた。「本、置いてかないでくれよ」

この生活の終わりを見据えた修吾はそう言った。奏多の頬はまだ紫色の部分が残るものの、あざはかなり小さくなっていた。もうすぐ彼女は家に帰れるはずだ。

彼女が来る前の、彼の日常を思い出したくて、修吾は自分の部屋を眺めた。

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